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dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

年金が心配なので人生100年時代の老後資金について考える

LIFE SHIFTがベストセラーになったのをご存知の方もいるかもしれないが、日本は他国に類を見ない長寿化を果たした特異国といえ、内閣府『高齢社会白書』によれば、平均寿命は軒並み右肩上がりで推移しており、2015年で男女ともに80歳を超える寿命であり、推計値では2050年には女性で90歳を超え、男性でも84歳を超えると試算されている。

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1 高齢化の現状と将来像|平成29年版高齢社会白書(全体版) - 内閣府

今後、技術的な進化(医療や介護などの生命維持面における技術進化)を遂げていくことを前提とすれば、寿命が延伸されていくであろうと予想できる。そして、人生が100年とは言わずとも、現在の平均寿命よりも長くなることを前提に設計していくことが求められることにもなるだろう。しかし、そうなったとして、金融資産が年金だけで賄えるのか。今回はそれを考えてみようと思うが、結論として、いわゆる老後の金融資産を年金だけで賄うことは不可能だ。


100年間生きるとして考えた場合、いわゆる「老後」が長くなる。100年間生きるとしたら、20歳から60歳まで働き、年金を納めたとして、支給年齢65歳から100歳までの35年間が老後だ。現役世代と言われる生産年齢人口*1は、15歳から64歳までで構成されており、その数は年々減少していくことはご存知の通りだと思うし、改めて説明することもないだろう。

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1 高齢化の現状と将来像|平成29年版高齢社会白書(全体版) - 内閣府

就業者は、それぞれの人的資本*2を市場*3へ投入し、その対価として金銭を授受する。

つまり、サラリーマンとして企業や団体に所属し、組織内で与えられた役割に対し、給与という形で所得を得ることで生活をしているケースや、個人で業務委託を授受したり、企業間で取引を行ったり、とそれぞれの人的資本を投入する場所を選んでいる。

しかし、老後の資産形成における本質的な課題は上でも述べたが、その長期間にわたる老後期間を現役期間の間の蓄えで賄えるのかどうかだが、そんなものは不可能だと言わざるを得ない。あまりにも長すぎるのだ。人的資本を何歳まで投入し続けるのか、または何歳まで投入し続けられるのか、を考え出すと気が遠くなる。

だが一点明白な答えとして、人的資本は投入する期間が長ければ長いほど老後が短くなるといえ、気が付いている人はすでに行動しているだろうが、自らの人生を謳歌するため、基本的にはそれを目指すべきだ、というのがぼくの考えだ。

しかし、そうはいっても「リタイアはしたい」という人も中に入ることも重々承知であるし、2018年2月時点における日本の制度設計的には、60歳定年(望めば再雇用)、65歳から年金受給というのが標準設定であることを踏まえると65歳以降の資産運用を各々が準備しなければならない。

年金は、1959年第二次岸内閣において定められた国民年金法の成立を背景に国民年金が導入されたのが始まりだが、言ってしまえば年齢による強制解雇によって労働市場からの退場を余儀なくされるサラリーマンという日本独自の職業に属する人たちの救済する手段として制定されたものだ。なお、ねんきんネット|日本年金機構では、自分が納めた金額や受給金額のシミュレーションが可能なので、リンクを貼っておく。

日本年金機構

65歳以降、我々はどれほどの金融資産を用意する必要があるのだろうか。総務省が公表した2017年12月の家計調査報告(二人以上の世帯)において、60歳以上の消費実数は273,454円となっている。

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家計調査報告〔二人以上世帯の場合〕-総務省

この金額が12ヶ月として、3,281,448円/年が相場だとして考える。つまり、一般的な家庭が普通に生活を試みようとした場合、65歳以降は1年間に300万円を超える金額が必要で、さらに65歳-100歳という35年間で計算すると114,850,680円、つまり1億円を超える資産が必要ということになる。

果たして、これを年金でまかなうことは可能なのだろうか。日本における公的年金国民年金と厚生年金の2種類だ。

国民全員に加入が求めらる公的年金があり、その上に厚生年金などが上乗せされることから、日本の年金制度は2階建と表現される。さらに、確定拠出年金厚生年金基金国民年金基金などが上乗せできることになっており、最大で3階建とすることが可能になる仕組みだ。対象者や体系図は下記のように厚生労働省はマンガで年金を検証する形で公表しているので、参照いただきたい。(内容については個々人で判断していただきたい。)

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日本の公的年金は「2階建て」 | いっしょに検証! 公的年金 | 厚生労働省

さて、ここからは支払う金額と受給金額について見ていくが、国民年金の保険料は月額16,900円に引き上げられ、これ以降は固定されることになっている。年額で202,800円であり、20歳から定年を迎える60歳までの40年間支払い続けると8,112,000円。

それに対して満額の総支給額は2017年4月で779,800円/年となっており、月額で64,983円ほどだ。無論、この段階で生活をすることは困難であろう。夫婦ともに国民年金のみへの加入だった場合、月額129,966円になるが、上で見た一般生活者における2人以上の生活における消費実数は273,454円のため、143,488円の赤字となるため、国民年金のみでの生活は困難というよりも現実的ではないだろう。

老齢基礎年金の受給要件・支給開始時期・計算方法|日本年金機構

しかし、仮に100歳まで生きるとした場合、現行制度のまま移行し多として、支給金額の総額は27,293,000円(779,800×35)となるため、3.36倍の利回りということになり、金融商品として見た場合、雑な計算であるとはいえ、非常に有利な金融商品といえる。

また、厚生年金の支給金額は平均148,000円ということだが、共働きか否か、独身か夫婦かによって金額が変わるうえ、夫だけが働いていて、奥さんが専業主婦だった場合にも金額が少なくなる。

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厚生年金保険・国民年金事業の概況 |厚生労働省

だが、ちょっと待ってほしい。世界中でも類を見ることができない少子高齢化の日本において、国民年金の運用はそれほど余裕があるのか。バカみたいな高利回りの配当を国が排出できる仕組みはどこにあるのかを冷静に考えると、それは厚生年金や社会保険料の上乗せ徴収というサラリーマンにとって不都合な事実が浮かび上がってくる。

公的年金への加入は国民の義務として課せられていながらも、国民年金の場合、加入手続きも保険料の納付も個人の自主性に任されている。つまり、支払わない人間がいたとしても、それは個人の年金受給額や期間が減少するのみであり、基本的に罰則は存在しない

毎月、国民年金に加入し、毎月保険料を納めている人間は、徴収される金額が少ないとしても支払われる(受給できる)金額に変更はなく、その期間が100年生きるとして受給期間が延伸されるのであれば、得をする。

それでは、その尻拭いを誰がするのかといえば、すでに触れた通り、サラリーマンだ。徴収される厚生年金を含む社会保険料介護保険料は企業との折半によって支払われているが、これは強制的に徴収できる仕組みを作っていることで、その実質的な負担額を目くらましをしていることに相違ない。

組合健康保険と国民健康保険での違いは、当初、組合健保に加入する人たちは本人が1割負担、家族が2割、世帯主の保険料で扶養家族の保険がカバーできたことにあるが、現在では見る影もなく、本人家族ともに一律3割負担(扶養家族の保険料免除は維持)に及んでいる。結局、組合健保も公的保険の一部であることを考えれば、高齢者の医療費を分担する義務が生じていることは仕方のないことなのだが、その仕組みはサラリーマンにとって相当にいびつなものだ。

下図は厚生労働省が29年度の予算ベースに医療保険の意義について説明するページからの引用だが、これを見る限り、高齢者の医療負担を現役世代が支えることは従前通りだが、本来的には組合員であるサラリーマンが厚遇されるべき組合健保も、世帯に対する保険料の減免はなくなった末に、高齢者への支援金が増加するという恐るべき結果になっており、サラリーマンは望む望まないに限らず、多くの負担を強制的に徴収される仕組みになっている

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我が国の医療保険について |厚生労働省

これらの負担をきちんと認識しているサラリーマンはどれほどいるだろう。国民年金の負担も厚生年金で尻拭いさせられ、健康保険も高齢者への負担を強いられているが、それに関してはこうやって改まって仕組みを見て見なければわからないのは仕方ないとしても、社会保険料を含めた納付額を把握することに馴染みがないのは自らが納税作業を行なっていないことが最も大きい。

しかし、これは会社が源泉徴収と年末調整、つまり、納税作業を代替して取り組んでいるため、納付額を知ったところでサラリーマンが取れる手段はなく、関心がなくなってしまうのは致し方がない。すると余計に手取り金額のみが中心になるため、益々、関心が湧かなくなり、納付額について考えることをやめてしまう。

ここで言いたいことは、現役で働いている人たちは多くの負担を強いられるのに、受給に関しては損をする可能性が高い、ということだ。公的年金や健康保険の財政は悪化の一途をたどっていることは否定できない事実であり、今後も既定路線であることは揺るがない。

制度的に解決策が残されていないわけではない(社会保障を全面廃止、消費税のみで徴収など)が、政治的に不可能だ。そんなことはできるわけがないから、制度が破綻するまで継続せざるを得ない。

しかし、国も現状に対して無為無策かといえばそんなことはない。昨今、NISAやiDecoなどを税制的な優遇を与えることで『年金に変わる老後資金』を準備を『個人』へ『実質的に依頼』している。なお、本エントリでは、年金の代替的な位置付けとして『NISA』ではなく、『つみたてNISA』と『iDeco』について扱いたい。

NISAとは? : 金融庁

iDeCo(イデコ)/個人型確定拠出年金 |厚生労働省

そもそもNISAとは、イギリスのISA(Individual Savings Account=個人貯蓄口座)をモデルにした日本版ISAとして、NISA(ニーサ・Nippon Individual Savings Account)と呼称され、「NISA口座(非課税口座)」内で、毎年一定金額の範囲内で購入したこれらの金融商品から得られる利益が非課税になる、つまり、税金がかからなくなる制度です。なお、イギリスのISAを模倣して作られた制度ではあるものの、異なる部分もある。イギリスISAには期間制限がなかったり、対象商品内容や数にも違いがある。

つみたてNISAは、年間40万円まで20年間非課税での投資運用が可能ということになる制度だ。最大で800万円の非課税投資が可能ということだ。

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iDeco確定拠出年金法で定められている私的年金公的年金との違いは、個人が掛金を拠出し、その運用方法を選べることにあり、その掛金と運用益との合計額をもとに給付を受けることが可能となる。2016年までは自営業者やサラリーマンに限定されていたが、2017年1月より企業年金を実施している企業への勤めるサラリーマンや専業主婦、公務員など、基本的に公的年金制度に加入している60歳未満の全ての人間が加入できる。

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では、これらの制度を使うことでどれほどの余裕を作り出すことが可能だろうか。厚生労働省の賃金行動基本統計調査における一般労働者の賃金を参考に計算してみる。厚労省のデータによると2016年度の平均年収は男女ともに304万円ということだが、わかりをよくするために300万円で計算する。

平成28年賃金構造基本統計調査 結果の概況|厚生労働省

 

投資の前提として、生活資金の中から余裕資金を生み出した上で資金を回すことを考慮すると、年収の中で1割程度、頑張って2割程度を拠出することが限度だろう。すると、年間で30万~60万円、月額で2.5万~5万円が毎月の掛金となる。ここでは年収1割をもとに計算してみる。

合計掛金2.5万(内訳: つみたてNISA 1.5万, iDeco 1万円)※内訳比率はぼくの好み

つみたてNISAの場合、合計投資額が3,600,000円(月額15,000×12ヶ月×20年)だが、そこに年間利率8%で運用した場合、最終資産は8,595,862円となる。差引利益が4,995,862円だ。

なぜ、ここまで利益が膨れ上がるのかといえば複利効用だ。例えば1年目、年間で180,000円の投資額に対して、利率が8%であれば、年間で14,400円の運用益が生じ、次年には投資元本が194,000円の状態で投資を開始する形となる。

つまり、毎月の投資額は同じだとしても翌年末には投資額の合計が360,000円で変わりないはずが、毎月平均8%の利率が上乗せされた状態で運用益が発生し、最終資産が390,715円で投資元本に対する利益は30,715円だ。

投資ではこの複利運用をいかに膨らませられるのかが鍵となる。つみたてNISAでもiDecoでも運用利益に対する課税が免除されているため、投資に対する運用益も含めて全てが再投資できるのが大きな魅力であり、最大の利点だ。

 

iDecoは基本的には課税控除については同様なので、この控除額について触れてみたい。ちなみに、税制優遇のシミュレーションもしてくれるので、興味がある人はしてみてほしい。

かんたん税制優遇シミュレーション|イデコガイド|老後のためにいまできること、iDeCo|国民年金基金連合会

今回のシミュレーションでは、30歳から毎月1万円を積み立てた場合で計算してみると、税制控除額は30年間で54万円が控除額となる計算だ。仮に30年間8%で運用ができた場合には、最終資産は14,185,648円で、運用利益は10,585,648円。

毎月の掛金がスタート時には少なかったとしても、複利を利用して資産運用ができるのであれば、期間が長ければ長いほどに我々の資産は増大していく

本エントリの結びとして、ぼくが最もいいたいのは、人生が長くなることが目に見えている中で、老後というこれまでの既成概念を前提にするのは勿体ない。そもそも老後は自らが仕事というやりがいを放棄した瞬間から発生する生き地獄であり、定年という制度を前提にしているものだ。

 

ぼくたちは『制度の奴隷』として生きるのではなく、『制度を従属』させること、つまり、法制度や税制というゲームに対し、いかにして立ち向かうのかを問われるし、立ち向かうことが人生を楽しむための方策だと考える。

本エントリを読んだ結果、今後100年生きる上で自身の金融資産を作っていくことを考えるきっかけになれば幸いだ。

【関連書籍】

 

*1:生産年齢人口(せいさんねんれいじんこう)とは、経済学用語の一つで、国内で行われている生産活動に就いている中核の労働力となるような年齢人口のことをいう。(wikipediaより

*2:ヒューマン・キャピタル(英: Human Capital)は、人間が持つ能力(知識や技能)を資本として捉えた経済学(特に教育経済学)の概念。 人的資本と表現されることもある。 具体的には、資格や学歴として測定される。 初期の経済学では単に労働力や労働として捉えられていた。(wikipediaより) 

*3:市場とは、定期的に人が集まり商いを行う場所、あるいは、この市場における取引機構に類似した社会機構の概念を指す。(wikipediaより

【橘玲】金融リテラシーの重要性は『臆病者のための億万長者入門』を読むことで認識される

「愚か者の税金」という言葉を耳にしたことがある人はいるだろうか。これにピンときたあなたは経済学を学んだことのある人か、ファイナンシャルリテラシー*1が高い人かもしれない。もし、聞き覚えのない言葉だった人は注意が必要だ。

次の文章を読んでいただき、ここがどこなのかをあててみてもらえるだろうか。

“いま、あなたは行列のできているある店舗をたまたま見つめている。

その行列の先には『ここから出ました』という文字列が並び、行列をなす人たちの手には財布が握り締められている。

無表情ながらも、みなが奥底で「自分こそ」と意気込み、力んでいるかのような緊迫感が少し離れたこの場所からも感じ取ることができる。”

どうだろう。

もしかしたら、この行列に並んだことのある人も中にはいるのかもしれない。

 

そう、ここは宝くじ売り場だ。

そして、冒頭で記載した「愚か者の税金」とは、宝くじを買い求める人が日本宝くじ財団に支払うハズレ権の購入代金のことだ。(詳しい説明は後ほど)宝くじを買い求める人は「夢」を買うという言い方をするが、2017年末に発売されたジャンボ宝くじは、一等前後賞あわせて6億円という破格の当選金額であり、たしかに夢を買うという表現も心なしか的を得ているようにも感じる。

しかし、結論から言えば、宝くじが当たるのは「誰かではあるが、あなたではない」

その確率が自分になるかもしれない、ということを期待し、そこに金銭を投じることはハッキリ言って無駄になる、ということから「愚か者の税金」という言い方がされている。

理由は至極シンプルで、割が悪いのだ。

競馬や競艇、自転車など公営ギャンブルなどと比較して、当選の確率がどれぐらいなのかを比較してみると明らかになる。本書内の引用から宝くじがどれだけ射幸心を煽ることだけを目的に設定されているものなのかを説明する。

日本の交通事故死亡者数は年々減少して、2013年は4373人だった。これを人口比で見ると、1年間に交通事故で死亡するのは3万人に1人だ。

宝くじで1等が当たる確率は交通事故死の300分の1以下。ということは、宝くじを10万円分買って、ようやく1年以内に交通事故で死ぬ確率と同じになる。

それでは宝くじの手数料はどうなっているだろう。

100円の購入代金のうち平均していくらが賞金として払い戻されるかが宝くじの期待値(還元率)で、ジャンボ宝くじでは49.66円しかない。賞金分は半分だけで、残りの半分は販売経費を差し引いた上で地方自治体に分配される。

金融庁金融商品取引法(金商法)で、株式やファンドなどを販売する事業者に対して、顧客保護の原則に立って厳しい義務を課している。

金融商品を販売する際は、過度に射幸心を煽らず、顧客に正確な情報を提供し、冷静で客観的な判断ができるようにしなければならない。とりわけ投資のリスクを説明することと、顧客にとって不利な情報、すなわち金融商品のコストを明示することが強調されている。

宝くじの商品特性を金商法の理念に照らすと、券面にはリスクとコストを次のような文面ではっきりと書く必要がある。

「宝くじにの購入にはリスクがあります。1等の当選確率は1000万分の1で、宝くじを毎回3万円分、0歳から100年間購入したとしても、99.9%の購入者は生涯当せんすることはありません」

「宝くじには、購入代金に対して50%の手数料がかかります。宝くじの購入者は、平均して購入代金の半額を失うことになります」

ラスベガスのルーレットの期待値は95%、パチンコは97%、カジノで最も人気のあるバカラの期待値は99%だ。競馬などの公営競技でも期待値は75%ある。期待値が50%を下回る宝くじやサッカーくじは、世界でもっとも割の悪いギャンブルだ。

さて、改めて問おう。それでもあなたは宝くじを買うや否や。

引用部分にもあるように宝くじの期待値は半分であり、それ以外は販売経費を差し引いた上で、地方自治体に分配される、とある。

つまり、税金のように徴収された上で国民に再分配されるのだ。

「愚か者の税金」と呼ぶ理由は、消費税や所得税のように国民全員に課せられるものではなく、あくまでも購入した者だけに課せられることが理由であり、宝くじを買い求める行為は、不幸にも交通事故で死んでしまうよりも低い確率で割の悪いギャンブルに幸福を求めるということを指して「愚か者」とされている。

 

本書の中で一貫して述べているのはたった一つだ。“経済的に成功するためには経済的合理的でなければならない”ということであり、そのためにはお金にまつわるルール(会計知識や税法など)を把握すること、そして、実践することに他ならない。

宝くじであろうと、保険であろうと、自らの金銭を投げうち、その対価を得ようとするという意味では、それらに違いはない。(本書内では保険を「不幸の宝くじ」と呼んでいる)それを求めるのであれば、計算しなければならないし、できなければならない。

そして、それを計算する理由については、本書の「はじめに」に記載されいてる文章で、その解を得ることになる。

資産運用は金儲けの手段ではなく、人生における経済的リスクを管理するためにある

さて、本書のタイトルに「臆病者」と付いているのはなぜだろう。

ファイナンシャルリテラシーの高い人間は自分にとって利益が出る(儲かる可能性)話が出てきたときに何をするのかといえば、その利益に関わるコストについて考える。つまり、その儲け話を提供する側の人間がどのように考え、その仕組みを作り、どうも受けようとしているのかを考え、調べるのだ。この姿勢が「臆病者」ということになる。

逆にリテラシーの低い人間はどう行動するのか。宝くじを買う人間の行動を考えれば決して難しくない。簡単にいえば無謀なのだ。

「自分は特別であり、世界の中心。」

「自分の判断が間違っているわけがない。」

「今回は外してしまったが、次回は大丈夫。」

つまり、対戦相手のことを全く考えない。相手のことを調べようともしない。コストについて考えるなんて面倒なことはしたくない。学ぶことは時間の無駄であり、それをするぐらいならば他の儲け話を探し、そこへ私財を投じた方がいいと考え、一極集中的に資産を集中投下する。結果、リターンではなく、コストを引き上げることに繋がる。

未来は誰にも予測し得ないが、その予測し得ない状況の中で、世界の中心に自分がいると考えること(ファイナンシャルリテラシーを低く保つこと)は、自らの経済的なリスクを高めているだけに他ならない。

億万長者になることは、たやすいことではないかもしれない。しかし、手に入れることが出来るかどうかは、ファイナンシャルリテラシーを身につけられるかどうかであり、これは文字の読み書きと同様、後天的に誰もが身につけることが出来るものだ。

つまり、これを書いてるぼくにも、読んでいるあなたにも身につけられるものということだ。

臆病者のための億万長者入門 (文春新書)

臆病者のための億万長者入門 (文春新書)

 

 

*1:文章の読み書き能力ができることを指すことから

家族を他人だと思えない人へ

先日、こんな内容から始まる連投Tweetをしてみました。

理由としては、僕の友人(女性)がパートナーとの関係についてひたすら思い悩んでいたのが理由です。

ぼくの結論は「家族であろうと他人は他人」ということです。

一見すると冷たい人間のように思われるかもしれませんが、ぼくの立場からすれば、「家族なんだから」という人たちほど、家族に対して残酷で冷酷な人たちはいません。

これは「核家族化が進んだことにより家族の関係が希薄化した」なんていう類の小難しい話でもなんでもなくて、血が繋がっていようが繋がっていまいが、人間は別の固体であり、人格であり、存在ですよね、という話です。

たとえば、ぼくは両親から遺伝子を受け継ぎ、身体組成遺伝を受け、その知能の70%を遺伝され(アーサー・ジェンセン;1969)、性格は周りの子どもたち、つまり集団生活において形成されてきました。

しかし、血が繋がっているということで、意思疎通が図れているかといえば図れていない。いま、この瞬間、ぼくは父親の考えていること、感じていることを認知することはできていない。

もしかしたら、今後、技術の発展により、それが可能になるのかもしれませんが、だからといってぼくが父親になれるわけでもなく、ぼくの父親がぼくになれるわけでもありません

以心伝心という現象を意図的に引き起こすことは不可能なのです。

つまり別の固体であり、人格であり、存在ということです。

当然といえば当然の帰結だし、「なにをいまさら」といわれてもおかしくないと思うんですけど、家族関係を構築する、もしくは共有する時間が長ければ長い関係の人ほど、これを受け入れることが難しくなります。

なぜかといえば、共有する時間が長いということは、共感する時間が長いということを意味するからで、ここがくせもの。共感するということは同じことを考えているわけではない(共感している≠同じことを考えている)んですよ。

ぼくは現在時点で子ども2人に恵まれており、春には3人目が出てくる予定ですが、子どものことはかわいいし、見ていて楽しいし、うれしくもなります。

たとえば、次男が最近、語彙が増えてきたので話しかけてくることだったり、呼びかけてくることが増えてきたので、その様子を見ているとすごくかわいくて仕方ない。

それをぼくと奥さんは同時に見ていたりすると「かわいいね」とか「すごいね」とか共感してます。だからといって、同じことを考えているかといえばまったく異なるはずです。

奥さんは長男との比較から「長男は同じ時期にこんな風にいえてたか」と過去を考えているかもしれないし、ぼくは「次男は次にどんな言葉をこちらに発してくれるんだろう」と未来を考えているかもしれません。

奥さんとぼくとの関係でいっても、同じ風景描写を共有したところで、同じ思考をしているとはまったくいえないわけなんですよ。これ、大人同士だと理解が難しいかもしれませんが「大人対子ども」で考えてみれば分かりがいいと思います。

我が家ではご他聞にもれず、仮面ライダーが大好きな子どもたちです。仮面ライダーRXがパワーループにて放映されております。視聴している中でぼくと子どもでRXがリボルケインで敵を倒すシーンには常に興奮!

ぼくと長男で「きたー!!!!」といえば、次男もおぼえたての言葉で「ちぃたー!!」と興奮し、相手の爆破を背にするシーンでハイタッチをする。ぼくと子どもとの間で間違いなく共感が発生している瞬間です。

しかし、ぼくはリボルケインが出された瞬間に勝利が確定するというダチョウ倶楽部的なフローについて考えますし、長男はリボルケインを出さなければならないところまで追い詰められているところが興奮するみたい。次男はよくわかんないけど、興奮してます。

このシーンを思い浮かべるだけで、それぞれ共感するステージには同時に上がっているにもかかわらず、それぞれ考えていることが異なることを理解してもらえるんじゃないかな、と。

しかし、ここが今回の問題における肝で、家族という集団は自然と共感する場面が多くなりますので、感情が揺れ動く場面を同時に過ごす時間が長くなります。

長くなる/その場が多くなるけど、同じことを考えるわけがないんです。正確にいえば、考えられるわけがない。それを押し付けることは”自分の思考に追いついていない、考えられない”と相手を突き放すことであり、残酷で冷酷な対応をしていることになります。

そして、もっと厄介なことに、この対応をしている人の大半が「家族なんだから」「夫婦なんだから」「パートナーなんだから」という耳障りのいい呪文を唱えることで相手を拘束しようとしますが、うまくいきません

それは当然で、自分が考えていることは相手も考えられるという前提が間違っていることに気づいていないからです。なので、ドンドンと相手に対して絶望し「なんでわかってもらえないんだ...」と気分がさらに悪くなります。

これは完全にポジションの取り方を間違ってしまった結果であり、その結果を受け止めきれないという不幸な循環に入っていることの証左です。

信じる、というのは考えることをやめることと同義で、つまり、口では「信じる」という耳障りのいいことをいい、根本的には相手のことを考えていない、という地獄みたいな結果を招き、思い悩むことになります。

だから、そもそも自分以外の人間が他人であり、自分の考えていることなどわかるわけがない、という前提に立つことは、一見すると冷たいようですが、根本的には常に相手のことを考えているので、どちらが優しいのかは一目瞭然です。

冷静になって考えれば、生活をともにしている中でパートナーにサプライズをしようと考えるということは、相手は自分の考えていることを共有していない、ということを理解しているということです。

しかし、それが感情が込み入ってくると難しくなるのは理解できますし、共感しますが、「他人である」ということを前提に立たないと、それまで感じてきた幸福感は音を立てて崩れていきます。

ぼくは「家族とはいえ他人は他人である」と考えはじめたことで、相手がしてくれることに対して自然と感謝の気持ちが沸いてきましたし、すごく感謝できるようになりました

相手に対して求めることが多くなってきたとき、それは自分の中にバイアスとして「一緒に時間を共有してるのに...」という強制的な圧力をかけ始めているというサインだとぼくは思います。

そうなってきたとき、ふと「他人」であるという、根本的な前提を思い出すことで、相手との距離感も適切に構築できていくのではないでしょうか。

【橘玲】『80’s(エイティーズ) ある80年代の物語』は当事者性の重要さを認識できる稀有な自叙伝

橘玲にとって最初で最後になる自叙伝だ。 

他人の物語を追体験することは決して楽な作業ではない。なぜなら、自叙伝は本人の物語を追従したくなると感じなければ魅力が大幅に下落してしまうものだが、そこにこそ魅力がある。しかし、書く人間の能力によって抑揚がつきすぎてたり、逆に物足りなかったりすることでその魅力を引き出せるかどうかが大きく分かれる。

 

ぼくは1985年生まれのため、彼の半生を同時期に過ごせていたわけではない。が、本書内に登場する日本史的な事柄については、記憶にありながら読み聞きしたことで理解したことがあるのと、異国の物語ではなかったことが大きいのだと思うが、非常に当事者性を感じながら読むことができた。

ぼくが彼の作品を読んだのは、マネーロンダリング (幻冬舎文庫)がはじめだが、その内容に驚嘆したのは今でも鮮明に覚えている。というのもぼくは今でこそ本を読むことが大好きで積読書は常に数冊置いてあるような状態だが、元来、本を読むことは得意ではなかった。

そのことについては、自己紹介記事内にあるので、興味があれば読んでいただきたい。

dolog.hatenablog.com

しかし、興味本位ながら、ぼくは聞いたことのある言葉でマネーロンダリングという“辛辣な言葉”に好奇心を刺激されたことから手にとって読むことにした。彼の著作の特徴は常に一般的な尺度からすると“辛辣な言葉”を多用することが多い。

その理由は、本書内で彼の物語を追体験することで理解できる。物語である彼の大学在学中から2008年までに、多くの大人に囲まれ、廃れる様を見てきた。その人たちに届けるために辛辣な表現でなければならない。つまり、刺さらない。刺すべきなだからこそ、あえてそういう表現を選ぶべきなのだ。

 

中でもぼくが彼の物語の中におけるハイライトだと感じたのは、彼自身が物語における“80年代の終結”と位置付けているオウム真理教事件に当事者として関わっていたことだ。

唯一の取材可能なメディアとしてサティアンへの出入りすることが可能だったという立場と、大学時代の隣人が15年ぶりに再会したらテロリストになっていた、という当事者性だ。

正直、ぼくはオウム真理教について、何も知らない。

事件当時、小学校4年生だったぼくはTVから「サリン」という聞いたこともないクスリが入った袋をビニール傘で破り、電車内に充満させた結果『死傷者』が出たという報道を耳目にした。同時に、年齢を重ねるにつれ、ぼくの記憶には大して残らなくなっていった。

ぼくの住む地方都市(新潟)では東京で起こったテロ事件に対し、被害にあった家族も知り合いもいないのだから、当事者性を抱くことなどできない。ただ、TVからは定期的に重大事件として懐古されていたので、それとなく事件が補完されていくのを毎年実感するのみだ。

ある日、本当にある日、気になってWikipediaとか関連記事をネットで読み漁った時がある。それはどうしても腑に落ちなかったことがあるのが理由で、それはいわゆる“有名大学を出たエリートたちが、なぜ狂信的な集団に取り込まれていったのか”だ。

調べるだけであり、関連書籍を読むまでに至らなかったのは了見の狭さゆえだが、TVで言われることを補完する以上のことは、簡単に見つかることもなかった。それでも、補完されている情報に対してイレギュラーな情報に当たった時にはオウム真理教に対する認識がアップデートされていくような実感があった。

 

だが、当事者性は一切生まれて来なかった。真に迫る危機感にも似た「感情」が芽生えることはなかったわけだが、本書を読むことで気づいたことがある。それは当事者性をどうすれば持てるのかということだ。それは体験を追従することだ。体験をトレースし、自らへ反映させることで、当事者性を引き寄せることができる。

ぼくがどこでそれを感じたのかといえば、(長くなってしまうが...)下記の引用部分だ。オウム真理教が「カルト教団」だとか「怪しい新興宗教」だとか、ネットを見たところで出てくる文言は、否定的な意見や見方しか出てこなかった。

ぼくは別に肯定したいわけではない。ただ、否定も肯定もしない中立な見方が知りたかった。しかし、テロを犯した“おかしな集団としてのバイアス”を超えてくる人の文章に出会えなかっただけだが、ぼく自身もそこにたどり着くまでの根気を持つには至らなかった。

釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が悟りを開いたのは二五〇〇年ほど前のことだ。仏教ではユダヤ教キリスト教イスラームのような晴天を定めなかったために、構成の解釈によって仏典は膨大に膨れ上がっていく。そのなかでオリジナルに最も近いのは釈迦の言葉をパーリ語に翻訳したもので、上座部仏教小乗仏教)としてスリランカ屋台、ミャンマーなどに伝わった(南伝仏教)。それに対してサンスクリット語大乗仏教は、釈迦の入滅から五〜六百年後の紀元前後に成立し、三蔵法師などによって感じへと翻訳されたものが六世紀に日本に伝えられる(北伝仏教)。

ここまでは仏教史の常識だが、実は日本の仏教では、こうした歴史は見事に「隠蔽」されたきた。日蓮親鸞など大教団を創始した仏教者が学んだのは漢語の仏典だから、それとは異なる「ほんものの仏教」があるというのはきわめて都合が悪かったのだ。

しかし、サンスクリット語パーリ語に精通する宗教哲学者の中村元などが「原始仏教」を積極的に紹介するようになると、「ほんとうの釈迦の教え」を学びたいと考える者が現れる。こうした流れのなかで、中沢新一さんが大学院在学中にチベット密教を学ぶためにネパールに赴いたことはよく知られている。

オウム真理教に集まった「精神世界系」の若者たちも、パーリ語上座部仏教の経典を学び、密教の修行によって解脱と悟りに至ろうとした。そして彼らは“仏教理解の最先端”にいる覚醒者として、日本の「葬式仏教」を徹底的にバカにした。出家した僧侶が妻帯・肉食・飲酒し、寺を子供に世襲させるなどということは、小乗仏教はもちろん大乗仏教でもあり得ないのだから、日本の仏教そのものが「破戒」なのだ。

これはオウム真理教「仏教原理主義」で、釈迦の言葉を「ほんとう」とする限り、論理的には完全に正しい。オウム真理教に対し既存の仏教教団は「あんなものが仏教であるはずはない」と頑なに対話を拒んだが、その理由はパーリ語上座部仏教もまったく知らないからで、「原理主義的に正しい仏教」と比較されることを恐れたのだ。

この文章群は、当事者性を持つ人間であるから感じ得る部分と客観的な視点を持つメディアとしての立場を踏まえた人間だから見える視点から書かれている冷静な分析だ。この視点を持つ人だからこそ他の著書を読んでいても、同じような内容を書かれていたとしても新鮮な気持ちで改めて受け止めることができるのだと実感した。

繰り返すが、自叙伝という類は当人の物語に没入できるのかが凄くむずかしいジャンルであり、だからこそ、著者の当事者性をいかに読者に担わせるのかが重要だ。ましてや、ぼくのような当時を丸ごとシンクロできていない世代の琴線に触れるかどうかは、当事者意識を植えつけられるか否かに大きく左右される。

その点、牧歌的な雰囲気を醸し出していながら、鋭い論理性を持った文章で客観的な視点から物語を追随しようと思える所に、喫茶店の情景を思い起こさせる優れた情景描写。

彼が優秀な編集者であったということと、優秀な物書きであるということがギュッと詰まった集大成的な一冊だと断言でき、読み応えがある中で、すっきりと読み終えられる。しかし、もっと浸っていたいと思える。そんな本だった。

彼の著書を読んだことがない人でもすんなりと読めるだろうし、読んだことがあるのであれば、これまで彼が書いた書籍における謎が解ける場面が多々出てくるので、そういう面でも楽しめる本だ。

ぜひ、手にとって読んでもらいたいと思う。

80's エイティーズ ある80年代の物語

80's エイティーズ ある80年代の物語

 

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【藤沢数希】「反原発」の不都合な真実を読み、よく考えてみよう原発のこと

 

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

 

 「感情論だけの否定はやめにしていきたい」というのが2011年以降、日本の中で活発になっている原子力発電に関する即廃止論を見てきて思う正直な気持ちだ。

それを2011年の段階で警鐘を鳴らしていた書籍を紹介したいと思う。

まず、著者である藤沢数希をご存知ない方のために表紙裏の著者紹介を引用しよう。

欧米研究機関にて、計算科学、理論物理学の分野で博士号取得。その後、外資投資銀行で市場予測、リスク管理、経済分析に従事しながら、言論サイト「アゴラ」に定期寄稿する。著書に『なぜ投資のプロはサルに負けるのか?― あるいは、お金持ちになれるたったひとつのクールなやり方』『日本人がグローバル資本主義を生き抜くための経済学入門

ちなみに、先日、TVドラマとしても制作・放送された『ぼくは愛を証明しようと思う。 (幻冬舎単行本)』の原作者でもある。

 

本書は3.11以降で蔓延した原発を絶対悪と決めつけ、その廃絶こそが『正義』だと決めつけた論調を行うマスコミや我々のような市井の市民に向けた『反原発』に対する一石を投じようとする内容である。

ネット界隈では『放射脳』と呼ばれる反原発を称し、過激な発言や行動を繰り返す人たちを揶揄したり*1、一般の人たちに対しては放射線恐怖症が当てはまるとされる言葉がある。 

ネットの普及により、市井の人たちもあらゆる知識を身に付けることができるようになった。そのおかげなのか、せいなのかは分からないが、振り回される人たちも増えたといえる。

 反原発と“単純に否定する人”は、技術的な話、つまり身近ではない難しい話、もしくはリスクがひたすらに強調されてきた途端に語気を強め、その技術自体を否定し始める。これは原発に限らず、他の要因に対しても似たような態度をとることがあるだろう。

(貯金vs投資などは分かりやすいかもしれない)

 

そんな“考えたり、調べたりするのが面倒”な人に対し、数字と事実と論理を持って「反原発の風潮」に対して一石を投じるのが本書の目的だ。

 

上でも述べたが、自分がわからない分野、領域は危ないという認識を改めるには、自らの知識階層を増やしていく他に対処方法はない。その知識階層の増やし方は、伝聞や読書、など収集の方法は多岐にわたるため、方法については各人のやりやすい方法で、時間を作ってやっていってもらいたい。

しかし、それを怠ってしまった時、つまり「考える」のではなく「信じる」ことに身を任せた瞬間から感情に支配されていく

「信じる」ことに舵を切ってしまうと裏切られた(信じていたこととは違うことが起きた)場合、感情が高まり、冷静な判断や物言いができなくなる。「考える」ことは客観的な評価はもちろんだが、常に何が起こっているのかを把握することに努める必要性があるため、対象から必然的に距離をとることになる。

つまり「信じる」という行為は「考える」ことと全く真逆の概念ということになる。思考することをやめる行為が信じるということであり、信じることを始めた瞬間から考えることをやめたということだ。だから「裏切られた」という感情が浮かび上がってくる。

だからこそ、何か問題や課題が眼前に広がっているのであれば、考えなければならないし、考え続けなければならない。誰かが言ったことを参考にするのはまだしも、妄信的になってはいけないのだ。信じると決めた瞬間から、思考が停止してしまうから。

だから、原子力発電が危ないのか危なくないのか、という点についても、客観性を持って「判断」しなければならないはず。それがいつの間にか、絶対的に悪と決めつけ、破棄することが正義であるかのような態度を振るう人たちも出てきた。

では、原子力発電においては、何が危険なのかを説明できる必要があり、その危険性がどのぐらいの確率で発生しうるのか、どのぐらいの規模で被害が出ているのか、と言ったことを客観的な数値や実情を持って説明できることが原子力を破棄するという意見を表明する上での前提条件だ。

これは子どもを持つ親になって、僕は初めて痛感していることでもある。4歳になった長男と2歳になる次男。彼らに対して説明するとしたら、どう説明するだろう。いや、どう説明しなければならないのだろうと考えたときに思い浮かぶのは、あくまでも中立的に客観的に上記の事柄を丁寧に説明したい、というのが僕の気持ちであり、正しい物の見方であろうと考える。

 

ここで問いたい。例えば、チェルノブイリ原発事故に対する見解はいかがだろう。

1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発事故は、僕は生まれて1年ほどしか経っていない時期でもあり、記憶にはない。しかし、事あるごとにメディアでも取り上げられていたし、どんな事故だったのかというリアルタイムでの進行具合はわからないが、検証記事等の活字を目にする機会を2011年以降は増やすようにした。

もし、これを読んでくださっているあなたの認識が「多くの人が放射性物質の摂取により亡くなり、いまだに近隣の放射線被曝量が多く、とても人の住める地域ではなくなってしまった」と考えている人があれば、それはメディアのセンセーショナルな報道に踊らされているだけなのかもしれない。

もちろん、無害であったとは言えない。本書が刊行された2011年までに甲状腺癌の患者が4,000人ほど見つかっており、それまでに15人ほどが死亡してしまっていたとある。また、事故の緊急作業に従事し、急性放射線症やその後の癌などで50人ほどが死亡してしまっている、とあるが、それ以外の放射線による健康被害は確認されていない。

むしろ、放射線の影響を厳しく管理しすぎた結果、強制移住などによる精神的な健康被害が多かったという事を国連科学委員会がレポートで述べている、ともあり、これらの科学的な見地から藤澤は経済的な復興に力を入れるべきだ、としている。

 チェルノブイリ原発事故の健康被害は、いっぺんに被曝するような原爆のデータをもとに当初考えていたよりも、はるかに軽微だったようです。よって、放射能の恐怖を煽ったり、避難生活を無理強いするよりも、なるべくコミュニティを維持させ、経済的な復興に力を入れるべきだというのが、長年の研究結果から示唆されます。

また、一般的に人は死亡する際、軽微の癌を抱えていることはそれなりに周知されていることだが、それにも触れながらチェルノブイリ原発事故以後の甲状腺癌の増加についての研究結果を紹介するとともに、事故発生後の対応の遅さを指摘するとともに、放射能を正しく恐れることが必要だとする。

一般的に、死亡した人を解剖すると、実際には考えられていたよりも多くの人から甲状腺癌が見つかることから(軽度の癌は生涯見つからずにそのまま放置される)、チェルノブイリ原発事故により甲状腺癌が増えたのは、入念な検診プロジェクトによって報告が増え、見かけ上増えただけだという研究結果もあります。しかし、チェルノブイリ原発事故では、すぐには住民は避難させられず、高濃度の放射性ヨウ素を含む食べ物が周辺住民に流通したこと、また放射性ヨウ素は成長期の子供の甲状腺に溜まることが生理学的にも明らかなことなどから考えて、多少は報告が増えたことによるバイアスもあるかと思いますが、やはり健康被害を及ぼしたと考えるべきでしょう。

 甲状腺癌は稀な癌で、通常1年の間に100万人に数人程度の発生頻度です。これが放射性ヨウ素の汚染により10万人に数人程度まで増えたのです。放射能による健康被害が科学的に証明されたのです。しかし、依然として、高濃度に放射能汚染されたミルクなどを摂取しても99.9%以上の人に何の被害もなかったことも、放射能を正しく恐れるために理解しておく必要があるでしょう。極めて頻度の低い癌の発生確率が、数倍から数十倍に上がったのは事実ですが、それでも癌の発生確率そのものは依然として非常に低いままなのです。

数十倍や数百倍になった、ということがメディアではセンセーショナルな報道のされ方をするため、目や耳につきやすいことは認めるが、相対的なものであることを認識する必要があるということと、その裏付けを探す、ということを報道を受け取る側は身につける必要があるだろう。

そして、過去の歴史(チェルノブイリ原発事故)から学び、福島で起こった原発事故での対応はどうなったのかを冷静に見る必要があるということも合わせて考える必要がある。

日本の中でも非常にセンセーショナルな事故であったことは否定しない。だが、無知であるがゆえにひたすらに怖がることは、正しい態度ではないのではないか。

本エントリを読み、原発事故について少し思索を巡らせてみたいと思った方は是非、本書を手に取り読んで見ることをオススメする。

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

  

*1:全ての反原発派や放射能ノイローゼを指す言葉ではない

僕の名前は遠藤涼介

いまさら感が満載だが、当ブログ{DE}Dologの管理人である僕のことをエントリとして残しておく。僕がブログを書く理由は大きく分けて3つ。

  1. 中学生である自分に対して伝えられるレベルで物事を考え、発信していきたい
  2. 過去にブログを通して得た情報に対してすごく興奮したのを覚えていて、それをほかの「誰か」に届けたいと考えているから
  3. タイトルの通り、いろんな情報の取得行動履歴

継続してエントリを書いていくことを考えたのには、僕の実体験を人に伝える行為をしてみたいという承認欲求が動機であり、理由だ。僕は過去にドイツへ超短期留学をしたことがある。当時の僕はスポーツトレーナーとして名を馳せていきたいと真剣に考えていて、行く2,3年前から本当にいきたくて仕方なかったのをよく覚えている。いくことになった前年の8月に結婚したばかりの僕を、我が家の嫁はブーブー文句を言いながらも最終的には応援する形で向かわせてくれた。

そのドイツでの学んだことを自分なりにまとめて、対外的に発信することが、日本のスポーツにとって少しでも影響を与えてくれるんではないかと思ったし、そうすることで属していたコミュニティでも貢献できるんじゃないかと考えたことから、書き出したのを覚えている。

そして、実際にエントリを読んでくれた人たちから「わかりやすかった」とか「まとめてくれて助かった」とか、自分のしたことを評価してくれた上に感謝までされたことを本当にうれしく思ったし、やりがいを感じたことが何より大きい経験だった。

...のだけれど、今ではブログサービスを乗り換えまくったせいで、文体が壊れているぐらいに読みづらくて、非常に心苦しいのだが、ブログを書き始めた原点ともいえるエントリだ。
dolog.hatenablog.com

そこからもチョコチョコと気づいた時に書き連ねるようにしていたものの、なかなかエントリを増やすようなことをしてこなかったし、できてなかった。しかし、2017.11月頃から自分の生活ペースの中で確実に更新できる頻度でエントリーを増やしていこうと考え、現時点では継続できている。

そんな中で、僕は新たに読んでくださる人たちに向け、自己紹介をしたい。

 

僕は幼少時代、新潟県の燕市という街で育った。『燕三条』といえば洋食器産業が盛んな地域ということで、小学校の教科書でも紹介されているから、なんとなく知っている人もいるかも知れない。そんないわゆる職人の町とされている燕市で育った。そして、そんな燕市内にある上州屋というそば屋で多くの年月を過ごしてきた。そう、ボクの実家はそば屋だ。

店主である僕の親父は、高校卒業とともに東京へ修行に出て、銀座の名店といわれる店に腕一本で職人として働いた末、地元に帰ってきて開業した。今っぽくいえば、東京からのUターン創業者ということになる。

創業当初、地元では燕三条という地域的に麺といえばラーメンが主体であり、そばを好む人間などいないということから「絶対に潰れる」ということをひたすらに言われたらしい。創業者本人と僕の母親が揃いも揃って述べていたので、相当な言われようだったのだろう。

 

子供時代、ボクは活発な少年だったように思うし、空回りの得意な少年だったのは覚えている。ほんと、どこにでもいる真面目な小学生。

下校時、友人との帰り道で目をつむりながら走り、田んぼの用水路へ落ちたこともあれば、お腹が痛くて我慢して夕方遅くまで遊んでいたところ、自転車に乗った途端に股間を刺激されたことからゆるいヤツが出てしまったこともある。つまり、普通の小学生ということだ。

そして、本が大して好きではなかった。

いまでこそ、年間に年収の●割程度を消費し、本を読み漁った末に奥さんから目玉を食らってしまった経歴を持つ僕だが、いわゆる学校という場所へ通学している時には全くもって本が好きではなく、苦手だと感じていた。

小学生の時に読んでいた本といえば、『ズッコケ三人組』か『はれときどきぶた』か『週刊少年ジャンプ』ぐらいなものだ。特に週刊少年ジャンプについては、いわゆる黄金期と呼ばれる時代に読むことができたことは光栄だった。

それいけズッコケ三人組 (ポプラ社文庫―ズッコケ文庫)

それいけズッコケ三人組 (ポプラ社文庫―ズッコケ文庫)

 
はれときどきぶた (あたらしい創作童話 13)

はれときどきぶた (あたらしい創作童話 13)

 
Slam dunk―完全版 (#1) (ジャンプ・コミックスデラックス)

Slam dunk―完全版 (#1) (ジャンプ・コミックスデラックス)

 

スラムダンクにおける桜木花道の成長っぷりに興奮したし、ドラゴンボール孫悟空が放つ救いようのない強さに憧れたし、こち亀における両津勘吉はダメな男と思いながらも共感したし、I'sの伊織ちゃんの可愛さにほとほと惚れ抜いたし、るろうに剣心の作者が新潟出身だからってのだけで凄くそそられた...。いや、本当だ。

とにかく、本といえば簡単な文字の大きいものしか読めないし、漫画しか内容が入って来なかった。そんな僕でも今となっては活字が大好きになるのだ。人生とはわからないものだ。

 

そう、なんの脈絡もないが、僕のスポーツにおけるヒーローはカズであり、ヒデであり、ゾノなのだ...。いや、野茂やイチロー、松坂にも憧れ、ひいてはマイケルジョーダンや田臥勇太にも憧れたものだ。 

おはぎ

おはぎ

 
中田英寿 誇り (幻冬舎文庫)

中田英寿 誇り (幻冬舎文庫)

 
イチロー 262のメッセージ

イチロー 262のメッセージ

 
僕のトルネード戦記 (集英社文庫)

僕のトルネード戦記 (集英社文庫)

 

つまり、サッカーもバスケも野球も大好きだった。小学校5年生の時、地元のサッカースポーツ少年団に入った。練習試合に出してもらえなかった。1ヶ月でやめた。

中学校に上がってから野球部に入った。仮入部期間から本入部に際し、校舎周りを10周走った後、上級生のノックの玉拾いをさせられた。1日でやめた。

その後、すぐにバスケ部へ移った。割と頑張って秋には上級生に混じってベンチメンバーに入った。冬になり気管支炎から肺炎にかかった。部活に顔を出せない期間が長くなった。同級生や上級生からいびられた。学校行くのが嫌になった。引きこもった。

朝、起きると腹痛が起こる。トイレに入ると凄く安心した。誰も僕に干渉できない空間に入ることで僕以外の不可侵空間を得ることができたと実感する。親から「学校、休もうか」と言われることで精神的な安堵を得られたのをよく覚えているし、当時の僕にとって大きな救いになったことはいうまでもない。

ほどなくして、バスケ部の顧問へをやめたいと申し出た。すると、顧問からこう言われた。

「ここで逃げていいのか?ここで逃げたら一生このままなんじゃねーか?」

こう言われ、僕は奮起した...のではなく絶望した。担任はそんな僕に何もしなかった。自宅まで来たが、大したことはしなかった。どちらも部活動に力を入れている教員だったが、そこから漏れ出てしまう人間は容赦なく冷たくあしらう。

その後の僕もそうだったのだが、部活動という組織から漏れた人間に、得てして内部の人間はえらく冷たい。それは“辛酸を舐めながらも頑張っている自分たちの場所から逃げた人間許すまじ”という空気が確実に存在する。それを顧問たる立場にいる彼らは平気でやってのけたのだ。そして、その後、そんな状態にいる僕に対してフォローを行うことは卒業するまで一切なかった。

バスケ部の顧問に至っては、親が営むそば屋へ教員でまとまって訪れた際に、店内で僕の母親に対し「期待してるから勿体無いと思うんですよね〜。」なんて軽口を叩き、僕の存在が部活の中では大きな存在であるかのようにした。僕が欲しかったのはそんな言葉ではない。

逃げることを非としか受け取れないのが教員なのであれば、教員になんて死んでもなるものか、と心に決めた。

のらりくらりと中学生活を送っていた僕は最終学園への進級時に陸上部への入部を決意する。理由は卒業アルバムでの掲載を気にして。僕は2年次にコンピューター部に所属しており、その面々と卒業アルバムに映ることはどうしても避けたかった、という青春期における青少年の心持ちというものだ。

 

高校生になり、僕は後ほど新潟県内で強豪校となるサッカー部に所属することを決めていた。そう、サッカー少年団を1ヶ月で退団し、野球部を1日で退部し、バスケ部を体調不良と引きこもりから9ヶ月ほどで退部した、言ってしまえば“ダメなやつ”である僕が、だ。

男子サッカー部 - 帝京長岡高等学校

僕が1年生の時に全国高校サッカー選手権大会の本大会へ初めて駒を進めたが、これは新潟県で新潟地区以外から初めての優勝ということで、新潟県のサッカー史においては歴史的な転換点となった、みたいだ。

僕はというと、3年生の時にGKで試合に出れた。運が良かった。そして、今となっては全国的に有名になった帝京長岡高校サッカー部のOBだ。 プロ選手も後輩だ。これから全国大会で優秀な結果を残すことができる後輩たちも、総じて僕の後輩になるのだ。

すごくカッコ悪いので、もう言わない。ただ、仕事やらでそれが話題になることで若干進めやすいことがあるので、そこぐらいでは話題にする。

 

そんなこんなで僕はスポーツを大好きな僕は初めて、その大好きなスポーツで自分史における自信となる結果を残すことができた。そのことによって、キャリアをスポーツで進めていこうと考え、スポーツトレーナーの道を志すことにした。

専門学校への進学し、無事に卒業を迎えた僕は私学の高校野球チームをはじめとした数カ所と契約を結び、活動を開始。まぁ、あまりうまく行かなかったから2年ほどで畳み、接骨院とフィットネススタジオが併設されている施設へお世話になることを決めた。

ちなみにドイツへ行ったのはこの時期であり、スポーツで副業的に色々と仕事を取り組めたのも当該施設に籍を置いていた時期だ。施設の詳細は、当時僕が書いた下記エントリに記してある。三条市近辺にお住いの方は是非、足を運んでもらいたい。

dolog.hatenablog.com

同時に、僕はインターネットが大好きだったし、クラウドファンディングサイトで募金を募って未来を描いた製品がローンチされる様を見るのが未来を見ているようで大好きだった。結果、出来上がってきた製品がクソみたいなものだったり、プロジェクト自体が消し飛び、出資金が飛んだなんてことは懐かしい思い出だ。

当時はKickstarterも日本語対応しておらず、訳のわからないまま支払いにはペイパルの登録が必要ということで無理やり登録したり、とにかく日本の中ではなく、海外で有望なサービスが色々とローンチされ、日本の中でサービス開始されるという瞬間を目の当たりにしていた時期でもあった。

その後、僕は新潟県内に存在するスポーツの専門学校へ籍を移すことになる。この時になると、トレーナーとしての名を馳せたいとか、実力を高めたいという気持ちよりも経営や管理に目が向いていた。

過去に自分が個人事業を行っていた際に躓いた部分がそこだった自覚があり、それを職務として担える場所がないかを考えていて、大きな組織に入り込んで行くことで賄えるのではないかと勝手に期待し、特別講師などを経て声をかけてもらった専門学校へと足を向けた。

dolog.hatenablog.com

しかし、ちょうど経営管理や運営について学べば学ぶほど、与えられた職務を担えば担うほどに箱の中だけ、スポーツの中だけで物事を考えることに限界を感じた。

インターネットの世界は話題の宝庫だ。この世界では個々人がすべての情報を個人の認識のもと、自由に発信することが認められている。スポーツはその話題の一つに過ぎない。ちょっと瞬間的なバズり方をするから、スポーツには広告として価値がある。しかし、持続的・継続的に事業を跳ね上げ続けられるかといえば、現状はできてない。

だったら、スポーツの世界にだけ依存して生きていることは、将来の僕に対して僕自身が恐怖感と焦燥感を感じていたのが確かだった。サラリーマンになりたかったのではなく、ビジネスマンになりたかったのだ。つまり、人的資本を高めることをしたかった。

組織に所属することが前提になるのではなく、所属することを所望される存在にならなければならないのだと自分に対して強く感じていた。しかし、現実の自分はそうなれていない。自分の親父が30年以上も自らのスキルで「稼いできた」ことは客観的な事実であり、揺るがない。そこを羨ましくも思うし、自らができていないことを情けなく思ってもいた。

スポーツトレーナーをしていた時、よく父親に「遊びだろ」と言われ、憤慨したのを覚えているが、今となってはよく理解できる言葉だ。

果たして、スポーツはあくまでも広告費と集客収入がメインとなる。広告を扱うことなんてことをしたことがない僕は、逆にできようになるのであれば、スポーツを選択肢として保つ上でも絶対的に不可欠なのではないかと考えたこと、新潟の中でベンチャー企業で働ける機会がそう多くはないだろうと考えていたことが重なり、県内大手グループを辞め、新潟市内のべんチャーへ籍を移した。

正直、受かると思っていなかったが、非常に勢いがあり、魅力があり、夢を感じた。このワクワクする感じがベンチャーの良さであり、最大の利点だろう。地方発のメガベンチャーを標榜していたこともあり、その一員になりたい気持ちと、自分自身もスケールして行きたいと考えていた。

メンバーはとにかく精鋭揃い。彼らは新潟は愚か、他府県で同様の企業があっても中枢を担えるであろうと思える力を、日々、自分たちを頼ってくれる顧客からの仕事に注ぎ込み、取り組んでいた。

あのレベルで仕事を取り組んでいる人たちには出会ったことがなかったというのが正直な感想。そんな圧倒的なスキルを持つ精鋭揃いの中で、とにかく僕には圧倒的にスキルが足りていないことを実感することばかりだった。勉強をすればすんなり入ってはくるし、自分なりに考えを持って取り組んでいたが、それ以上のスピードと質を求められ、僕は挫けた

加入から7ヶ月を過ぎたところで会社の諸事情もあり、それまでの企画営業や自社媒体の編集要員兼営業に付け加える形で管理部門での仕事を任せてもらえるようになった。自らの力を過大評価していたのかもしれない。高望みをしすぎたのかもしれない。結果として僕はその仕事をこなすことができず、精神的な疾患により2ヶ月ほど休職した末、退職した。

この精神的な疾患については、きちんとエントリを書きたいと思う。ひとつ言えるのは、家族がいてくれたことが何よりも救いだった。そして、その経験があるからこそ、僕はひとつ階段を登れたのではないか、と思う。現状全く問題ない。全治したということで医師からも診断を受けてもいる。

僕は自分に絶望したくないし、諦めたくない。悪あがきとも取れるだろうし、何ができるんだ、という風にも捉えられるかもしれないが、何か大きなことをしたいのではない。ただ、自分が納得した人生を送りたいと考えているだけで、あらゆることを子どもに説明できる人物でいたいとも思う。

子どもに対して、あらゆることを説明するためには、自分自身の色々なリテラシーを高める必要があるし、多岐にわたる関心を持っておく必要がある。そのため、現時点では書評が主な内容となっていて、その時点での自分の感じたこと、考えたことを他者の目に触れるように書く必要があると思い、エントリを継続的に書くようにしている。

 今後も、仕事上必要なこと、生活上必要なこと、子育て上必要なこと、ありとあらゆる僕に関わることに関して、アウトプット・共有の場としてエントリを更新し続けていこうと思う。

あらゆる面でど素人の僕が中学生当時の僕に引きこもりという選択をしたことに対して、それ以外にも楽しいことや面白いことはたくさん存在していて、それらを解説していきたい

そんな思いで今後も更新していきたいと思う次第だ。

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【大塚明夫】『声優魂』は崇高なプライドと不退転の覚悟をした人間の本音

役者ではなく、一人の戦士が書いている

声優魂 (星海社新書)

声優魂 (星海社新書)

 

 

ソリッド・スネークアナベル・ガトー、バトー、ライダー...

 これらのキャラクターは日本のゲーム史、アニメ史に残る作品のキャラクターたちであると同時にボクの好きなキャラクターたちでもある。本エントリーをお読みいただいている方々は、それを演じている人物の名をご存知だろうか。

 「知らない」という人でも、その声は聞いたことがあるはず。声優であり、役者である(本来的には逆であることは存じ上げている)大塚明夫だ。

 本書は、大塚明夫がいくら努力をしようが報われない役者の世界で、実感として得ていることをそのまま素直に書き連ねていると同時に、そんな世界で“仕事”を得ている人間としての心構え/ 態度を伝える内容だ。

 その声を聞いたことがある人ならば共感してもらえると思うが、大塚の声は(いい意味での)鈍重さを持ち、腹に強く響いてくる。また、少し不器用ながらも真っ直ぐで男くさい人物を演じさせると無二の存在であるとも個人的には感じている。

 自己啓発本とかそんなものではなく、一人の男が演劇界という特異な世界で無二の存在になり得ることができた戦士が書いた声優/ 俳優論であり、人生論であり、生存戦略論だ。そして、本書を読むことで彼の声を追いかけるようになるかもしれない。そんな魅力に溢れた読み物であった。

 

「声優だけはやめておけ」から始まる

冒頭、大塚明夫が書く一言だ。

 これは、俳優という仕事が他の業種・職種に当てはまらない、特異な仕事であると共に、そのイスをかけてベテラン・新人関係なく血みどろのレースが繰り広げられていること、“一般の生活”を望む人間がおいそれを追いかけて良い世界ではないから、というのが理由なのだが、業界的にはトップランナーである大塚が夢を語るのではなく、現実を語る点に本書の価値がある。

 夢なんてものは見ているだけで十分であり、それを追いかけるものではない、ということを業界で成功している人間が語るのは、捉え方によってはライバルを減らしたいとも受け取れるが、逆に優しさを感じる。

 本書内、特に冒頭から声優を志望する人への“逆すすめ”は多く登場するが、それは目次を見れば一目瞭然なので、それをご覧いただきたい。なお、引用部分は各章のみにしておく。目次を全て引用することが主題ではない。

第一章 「声優になりたい」奴はバカである
第二章 「演じ続ける」しか私に生きる道はなかった
第三章 「声づくり」なんかに励むボンクラどもへ
第四章 「惚れられる役者」だけが知っている世界
第五章 「ゴール」よりも先に君が知るべきもの

 声優という「職業」というよりも「スキル」を発揮するために辛酸を嘗めてきたのか、といえば、大塚本人は「運が良かった」とし、大して苦ではなかったと述べている。しかし、ここは勘違いすべきではなく、あくまでも大塚の場合は基準が総じて高かった、ということだ。

彼は俳優であり声優の大塚周夫の息子であり、演劇界に住まう家族がどう生活しているのかを身を以て体験している。その上、自身はそこから外れようと考え、全く別の道を歩んだことが本書内では記述されている。

つまり、父親の背中を追って、憧れと羨望を抱き、希望に満ちた心で演劇の世界に足を踏み入れたわけではない、ということだ。ここが大塚明夫の魅力でもあるとボクは思っていて、それでも彼は声の仕事をしているし、その演技で(少なくともボクに)感動を与えてくれる。

 

人的資本を高めることと、つながりを維持すること

 彼が本書内で一貫して述べているのは「とにかく声優なんてろくな仕事じゃない。真人間の選ぶ職種でもない。社会の歯車から外れたような人間でなければできない。」と、一貫して声優を志そうとする人間の気持ちを挫こうとする。その畳み掛け方から、おそらく本気であろうことが読者にも伝わってくる。

しかし、その中ではもちろん、声優をやってきた中で、大塚自身が「よかった」と思えること、仕事をする中で声をあてたキャラクターたちや、その生みの親である脚本家やプロデューサーたちとの出会いについて触れており、強く感謝しているとともに、誇りに思っていることもつづっている。

上下動が激しく、思いっきり下げた後に引き上げるような内容のため、こちら側も大きく揺さぶられる。だからこそ、読み飽きることなく、グイグイと大塚の綴る言葉に引き寄せられ、一気に読了までいけてしまう。

その中で、大塚は常に自分を磨くこと、つまり人的資本を高めることの必要性は説いている。声優は自らが仕事を生み出すことのできない職種であるがため、「声をかけてもらう」ことが必須となる。そのため、常に準備をしていることが求められるというよりも必然だというわけだ。

ただ、専門的人的資本でいえば、声の幅や音域、声のあて方やほかのキャラクターとの間合いなどがあるが、それらを行うことは「仕事を行う以上当然」だとしている。それ以上に大塚が重要視しているのは、見識や見聞を広め、人とつながりをつくり維持することが声優に足りていない部分であり、それをすることが声優の専門性を高めるという趣旨で述べている。

これは声優に限らず、一般的なビジネスマンにも言えることだ。

サラリーマンではなくビジネスマンであろうとするならば、自らの人的資本を「一般的」「専門的」それぞれの分野で高める必要があるだろうし、それが結果的に年功序列型の「雇われ」ではなく、「労使関係の対等性」を生みだす。

声優界というのは、個人事業主として自らの人的資本をもって商取引を行うが、近い将来、世の中のビジネスマンにとっても個人事業主として活動、もしくはそれに近い形で働くことが求められるのではないか。

本書内で大塚も希望的な意見として述べているのが、ハリウッド映画のようにプロジェクト単位で専門家が集まり、プロジェクトが終われば解散するという技能をつなぎ合わせて作品を創作するのみという仕事のあり方を提唱している。

現状、雇用主と被雇用者との関係も終身雇用・年功序列型雇用制度の破綻は目に見えて起こっていることだ。労働人口の中で若年層が多いことで成立していた制度であり、現在の日本をみれば年金問題のように破綻していることはわかりきっている。

つまり、近い将来、人の働き方が雇用主・被雇用者との相互依存的な関係ではなく、仕事のみという緩い繋がりの元に技能・スキルを持ち寄り、仕事を行うことが広がっていくのではないか。

それは今後、徐々に人の仕事がAIや機械に代替されていく中で、人の趣味や娯楽が仕事として重宝される時代が訪れるだろう。結果的に残るのはクリエイティブクラスといわれる仕事ができる人であり、人の余暇時間を埋めることに自らの(好きなことが前提だが)技能やスキルをもって、創作活動を行い貢献するひとたちだろう。

そうなったときに、先駆けてそうなりえる可能性があるのは、余暇時間を過ごす上での有益なツールとなる映画やアニメ、スポーツや演劇、音楽など創造性を存分に発揮した上で、人の情動に訴えかけることができる人たちの働き方(仕事の仕方といったほうが適切か)が変わっていくことになる。

 アニメが好きな人向け、声優を目指す人向けでもあるが、きっとビジネスに真剣に向き合っている人にも響くないようであることは間違いないだろう。

 

声優魂 (星海社新書)

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アナベル・ガトーの最期


Fate/Zero 11 聖杯問答 段落

【本多静六】『私の財産告白』を読んだことは財産を成すための一歩だ

誰でも金融資産を増やせる

本多静六という人物をご存知だろうか。もし、ご存知ないのであれば、ぜひ本書を手に取ってもらいたい。

 

著者である本多静六は、子ども時代から学生時代にかけてひどい貧乏生活を髄液に染み渡るほどに感じていた。「貧乏でいることによって、深刻な苦痛と耐え難い屈辱を舐めさせられてきた」と語るほどに。

 

また、「貧乏生活からの脱却は、精神の独立も生活の独立もおぼつかないと考えた」とも述べており、これが彼の貧乏征伐の決意とされている。

 

貧乏が精神的に苦痛であり、その貧困的な精神性を退治すること。これは、身近なところで考えれば、ダイエットという名の自己規制をかけられるかどうか、という精神性にも似ている。

 

もちろん、貧乏というのは本人の意思では成し得なかった部分もあるため、一概にダイエットと比較できるのかという批判もあるかもしれないが、「本人の意思のもと」という条件付きで比較する。

 

どちらにも共通しているのは「無駄を省くこと」だ。

 

太ってしまう大きく、そして簡単な要因は、無駄な嗜好品をバクバクと音を立てて食べてしまうことだ。同じく、自らの意思で無駄な購買行動を取ってしまうという点で、貧乏にも同様のことがいえるのではないか。

 

つまり、やむを得ず生活を詰めるような状況は、貧乏の連鎖を生み出し、結局は貧乏のままだ。なぜかといえば、そこには貧乏精神の脱却が図れていないことが明確だからだ。

 

そこで、本多は貧乏を圧倒するために勤倹貯蓄をつくることを決意『四分の一天引き貯金法』を考案・実践し、結果的に何千万円もの資産を積む形になったわけだが、これを行うには断固たる決意が必要であり、容赦のない行動規律が求められることはいうまでもない。すなわち、寸分の妥協も許されないのだ。

 

本多はこれを“大いなる決心と勇気が必要である”とし、貯金の問題は、方法の如何ではなく、実行の如何である、と方法論に縛られるのではなく、決めることの重要性を論じているのだ。

 

また、本多はそれに飽き足らず、臨時収入を全て貯蓄に回してしまう、という荒技をことも無げにやりきったところに、飽くなき精神性の強さが見られる。その生活は、時として子供達の悲しみを買うこととなり、さすがに断腸の思いだと述べている。

 

しかし、同時に「しっかりとした理性の上からきており、気の毒だとか、かわいそうだなどということは、単に一時的なことで、しかもツマラヌ感情の問題だ。」とも。

 

自分だけではなく、自らの家族にも同様の辛酸を舐める生活を求めながらも、強い意志を持って貯蓄を成し遂げることを優先しており、今の苦しさは苦しさを逃れるための苦しさである、と自らの奥さんを説いた。

 

自らの収入の四分の一を貯蓄に回すというのは、例えば月の手取りが20万円だった場合、5万円を貯蓄に回すということだ。決して少なくない金額ではあるが、それを不退転の決意を持って実行することで、金融資産を増やすことが叶う。

 

この方法の意味するところは、実施するひとに須(すべから)く、金融資産を構築することを約束することを意味しているのであり、年間で間違いなく一定金額が資産として計上できるのだ。

 

資産をさらに増やすために運用へ 

金融資産を増やすためには、不退転の決意を持って、しっかりと履行することで、増やすことができることがわかった。しかし、本多はドイツ留学時の師であるブレンタノ教授より財産を増やせ、といわれている。

そのブレンタノ博士が、私の卒業帰国に際して、

「お前もよく勉強するが、今後、今までのような貧乏生活を続けていては仕方がない。いかに学者でもまずゆうに独立生活ができるだけの財産をこしらえなければ駄目だ。そうしなければ常に金のために自由を制せられ、心にもない屈従を強いられることになる。学者の権威も何もあったものでない。帰朝したらその辺のことからぜひしっかり努力してかかることだよ」

と戒められた。

つまり、自ら望んで貧乏生活を行い、貯蓄を行うだけにとどまらず、一定額を貯めることができたのであれば、他の有利な事業に投資をすることで、財産を作るのだ、と説かれたのだ。

 

ちなみに、当時の銀行の法廷歩合は年率で5〜9%の間で推移していて、年間で60万に5%の利率だとしたら3万円が含み益になる。もちろん、これを3年、5年、10年と継続することで、一定の金額になることが期待できる。

(参考)歴史統計:日本銀行金融研究所

 

しかし、それだけではなく、当時の日本は国家社会の発展前夜であり、その時勢を利用するため、幹線鉄道と山林への投資を行うことで、財を成すための投資先として有望なことがわかった。ましてや、本多はその専門家として、大学で助教授を務めている。

 

結論をいえば、本多は勤倹貯蓄と投資を行なった結果、40代にして現在の価値で100億以上の財産を形成したと言われている。

 

現代に生きる我々が本多の資産貯蓄・運用方法について学ぶべき点として、2点だ。

  • 勤倹貯蓄
  • 資産運用

なんでもない、ただ、これだけであり、誰でもできる。しかし、何といっても大切なのは、貯蓄にしても、資産運用にしても“ルールを決め、それを守り通す意志”ということになる。

 

確かに、誰でもできる、というのには語弊がある。意志を持った行動を取れる人間であれば、誰でもできる。

 

本書を読み進めていくと、本多静六という人は、決して株式投資で先見の明があったわけでもなさそうだ。しかし、自分の中で運用ルールを定め、それを遵守していたからこそ、莫大な資産を獲得するに至ったことを見ると、ボクのような市井の人間でも一定程度の財産を築けることがわかる。

 

そして、現状、誰でも多かれ少なかれ、投資家として一歩を踏み出すことは何ら難しいことでも何でもない。自らの資産を運用することになった途端、各種銘柄や世の中の流れについて勉強せざるを得なくなる。

 

そのスタートとして、本書を読んでみるのもいいのではないだろうか。

 

私の財産告白

私の財産告白

 
インベスターZ(1)

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スポーツをすることには意義があるのか

僕は元々スポーツが大好きだ。自身のキャリアもスポーツ好きが高じて(全然うまくいかなかったけど)個人事業主のトレーナーとして活動開始したのが最初だ。そんなスポーツに対して、今でも好きなことに変わりはない(と、自分では思ってる)。

だけど、そこまで熱烈な感じはなく、あくまでも趣味レベルで「いいよね」という程度。

 

今回のエントリで考えたいのは『スポーツをすることの意義』。スポーツが好きで好きでたまらない、その世界にどっぷり浸かっている人たちに対して異議を唱えるのと、全くスポーツに対して期待していない人に向けて書いてみたい。それは『スポーツに投じる時間とお金というコストは支払うだけの意義があるのか』という点において。

 

結論として、なぜ僕がこんなことを考えるのかといえば、子どもが生まれ一緒に生活する中で、スポーツを“させたい”と強く思ってないからだ。もっといえば、別にやらなくていいとすら思ってる。本人が望むのであれば別だが、親の立場としてはどうしてもやって欲しいとは思っていない。

 

そうはいっても、僕はスポーツに意義があるとは考えていて、スポーツをすることによって得ることがあるだろうとは経験則・実感値としてある。ただ、全面的に意義があると考えているわけではなく、あくまでも一部分においては...という条件付きだ。

 

まず考えなければならないのはスポーツに対して期待する効果は何か、ということ。スポーツとは果たして、何を消費し、どんなものを得ることができるのか

 

スポーツは自らの時間と活動を交換し、身体的・精神的な・向上・改善・快復を試みる手段であり、その過程にある上達過程・意思の疎通過程において、達成感や満足感を得ることできるうえ、集団的なスポーツになれば団結力やコミュニケーション能力の醸成にも影響を与えることができるであろうと仮定すると、スポーツの目的は『自己実現』であり『自己表現』であり『自己満足』を得ること、つまり『自尊心の獲得』と僕は考えている。つまり、スポーツの価値はそれらの目的を達成することで、それを生活の中で獲得することに意義があるのではないか。

 

また、スポーツは映画や演劇など他分野でいうエンターテイメント的な面を備えており、地域ごとに創設されているプロスポーツは興行として行われ、おらが街の誇りとして地域住民の自尊心や一体感、連帯感に火を焚きつけてくれる。

 

おそらく、スポーツが好きで、現段階においてなんらかのスポーツを実践している人、スポーツを観戦し、応援している人にとって上記内容はそう遠くない実感として受け入れてもらえるのではないか。

 

それでは、スポーツの価値について日本の中における指針はどこにあるのか。日本の中では文部科学省が管轄していたし、今ではスポーツ庁が管轄下にスポーツを置いていることから、それらが定めるスポーツ基本計画を見ていくことが適当だろう。

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スポーツ基本計画:文部科学省

スポーツ基本計画:スポーツ庁

文部科学省がスポーツ基本計画の中で書いている一文を参照するのが良さそうだ。スポーツ基本計画(第二期)の中で文部科学省は以下のように書いている(が、これはスポーツの価値について『人生』『社会』『世界』『未来』という4つの中の『スポーツで人生を変える』という部分での内容である)。

スポーツ基本法において,スポーツは「心身の健全な発達,健康及び体力の保持増進,精神的な充足感の獲得,自律心その他の精神の涵養等のために個人又は 集団で行われる運動競技その他の身体活動」と広く捉えられており,「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは,全ての人々の権利」であるとされている。

人生の中でスポーツに対し『する、みる、ささえる』ことは『スポーツを日常生活に位置付けることで,スポーツの力により人生を楽しく健康で生き生きとしたものにすることができる。』としていることから、スポーツにいずれかの形で関わりを持つことで、その効用を享受できるということだ。

 

スポーツをすることは、人生の中においてどれほどの確率で投資に対するリターンを享受できるのだろうか。冒頭でも述べたように『時間とお金』を投ずる以上は、それに対しての効果や効用を見るべきだ。それを見ずに効果の検証を行うということは、そもそもスポーツに『お金や時間を使う』ということを考えるな、という感情的な話になってしまうし、それは『体育』だ。

 

今回、僕が一貫して述べているのは『スポーツをすること』へ投資した時間とお金はどのぐらいの利率でリターンを得ることができるのか。そのためにはゴール設定が必要だ。ゴールとしては、国の代表としてオリンピックに出場することを一つのゴールとした場合について考えてみることにする。

 

各競技ごとに本格的に競技として取り組んでいくであろう年齢は異なるだろうし、生物学的年齢や暦年齢でいう早熟や遅熟を考慮する必要も出てくるのだが、高校サッカーや甲子園など、メディアとしても扱われる機会が増える高校生年代の競技人口からオリンピック代表に選ばれることを率として概算で単純に計算してみると以下のようになる。

 

まず、全国高等学校体育連盟に属する競技団体への登録者数(2018年1月訂正)は1,246,713名、高等学校野球連盟へ所属する登録者数(2017年5月)は161,573名となっており、高校生段階で1,408,286名の競技スポーツへの参加している学生たちがいるということになる。

 

余談ではあるが、2017年日本の中にいる15~19歳の人口数*1は2,920,000人となっているが、概算的に引用させてもらえば、およそ48%が競技スポーツに関わっている計算となる。(あくまでも概算であることを重ねておく)つまり、高校生の半数はレベルの高低はあれど、スポーツに関わっていることになる。


高校生年代における競技スポーツ登録者数が1,408,286名がそのまま競技を続けるわけでもなければ、オリンピックに正式競技として採用されていない競技を取り組んでいることもある。その中でオリンピック代表に選ばれるとしたら、そもそも競技を選別しなければならないし、長く競技を継続できるレベルに達している必要がある。

 

リオデジャネイロ(ブラジル)で開催されたオリンピックでの日本選手団人数(元データはこちら*2が338名だったため、もし、何かしらの競技を続けていたとして、日本のトップレベルに到達する場合、リターン率は0.00024%となった。 一万人に二人だ。

 

もちろん、各種競技ごとにこの倍率は異なるだろうし、何かしらの変数があることも否定しないが、上記したように、概算で単純計算をしてスポーツをすることからオリンピック代表になることをゴール設定したことを想定している。

 

狭い門である、ということを言いたいのではない。そんなことはわかりきっている。本題はここから先だ。スポーツに特化した生活を送り、スポーツで日本代表として活動するために相応の時間とお金をかけたところで、代表としてオリンピックに出れるかどうかは全くわからない

 

競技者としての技能や実力は確かに向上しているであろうが、それをなくした際に何が残るのだろうか、ということが僕が考えたスポーツをする意義に対する疑問だ。

 

スポーツに特化した生活を行うことによって、会社経営ができるわけでも、経営に関わる技能が身につくわけでも、もっといえば、生活する中で役に立つ知恵が身につくわけでもない。

 

これが僕の子どもにスポーツを絶対にやってもらいたいと思えない大きな理由だ。

 

もちろん、全否定をするつもりは一切ないし、冒頭でも述べたように、僕はスポーツが好きだし、自分が成長することを実感した時は本当に楽しかったし、うまくいかない時に工夫することの大切さを身を以て体験できたことには感謝すらしている。

 

ただ、それは上での触れたが『自己満足』だ。もちろん、それでいいのだ。僕がスポーツに期待する部分はここであり、自らがやりたいと思う動きや体勢、道具を扱う、そして相手との駆け引きなど、自分のことを認めること、つまり自尊心や成功体験を味わうことの重要性は僕自身味わっているし、大切な部分だ。

 

ただ、根本的にスポーツは遊びだ。遊びを徹底的に攻略したところで、それを楽しむ方法や見方を増やすことはできても、会社の会計を担当することはできないし、Webサイトを構築することもできないし、人を感動させる文章を書くこともできない。

 

プロで活動するスポーツ選手も多くの選手が10年も20年も続けられるわけではない。プロ野球選手の球団との選手契約を打ち切られる選手に関する情報は日本プロ野球機構のサイト内にページを設けて公表されている。

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(出典: 日本プロ野球機構『セカンドキャリア>2016年度』

大卒選手や社会人野球経験者がドラフトされる制度的なこともあるが、30歳手前で、在籍年数は8.5年となっている。これはJリーグでは契約を打ち切られる平均年齢は25,6歳となっている。しかし、何もビジネスをしてこなかった人材が、企業側も採用に関していえば簡単ではない。

 

ここまでスポーツに関して、することの意義を考えてきた。もちろん、それぞれに満足する形で関わればいい、というのはよくわかるし、それでいいのかもしれない。夢のある世界であるというのはその通りだと思う。しかし、厳しい言葉を使えば、夢を搾取することで成り立っている側面も正面切って否定できるだろうか...。

 

あくまでも遊びであり、遊びに対して本気になることは、むしろ歓迎だ。しかし、そんな本気の子ども達に対し、スポーツをするということをメリットとデメリットを説明できることは大人として不可欠な態度なのではないかという思いから本エントリを書いた。

 

僕の結論としては、スポーツをすることは意義があるとはいい難い。しかし、スポーツの自己満足(自己実現・表現・肯定感・成功体験)を満たす効用については大いに期待できるし、実体験としてもオススメはできる、と考えているということでエントリを締めたい。

*1:総務省統計局 統計データ > 人口推計 > 人口推計の概要,推計結果等 >人口推計の結果の概要 より

*2:リオデジャネイロオリンピック2016 日本代表選手団 - JOC