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dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

年金が心配なので人生100年時代の老後資金について考える

LIFE SHIFTがベストセラーになったのをご存知の方もいるかもしれないが、日本は他国に類を見ない長寿化を果たした特異国といえ、内閣府『高齢社会白書』によれば、平均寿命は軒並み右肩上がりで推移しており、2015年で男女ともに80歳を超える寿命であり、推計値では2050年には女性で90歳を超え、男性でも84歳を超えると試算されている。

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1 高齢化の現状と将来像|平成29年版高齢社会白書(全体版) - 内閣府

今後、技術的な進化(医療や介護などの生命維持面における技術進化)を遂げていくことを前提とすれば、寿命が延伸されていくであろうと予想できる。そして、人生が100年とは言わずとも、現在の平均寿命よりも長くなることを前提に設計していくことが求められることにもなるだろう。しかし、そうなったとして、金融資産が年金だけで賄えるのか。今回はそれを考えてみようと思うが、結論として、いわゆる老後の金融資産を年金だけで賄うことは不可能だ。


100年間生きるとして考えた場合、いわゆる「老後」が長くなる。100年間生きるとしたら、20歳から60歳まで働き、年金を納めたとして、支給年齢65歳から100歳までの35年間が老後だ。現役世代と言われる生産年齢人口*1は、15歳から64歳までで構成されており、その数は年々減少していくことはご存知の通りだと思うし、改めて説明することもないだろう。

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1 高齢化の現状と将来像|平成29年版高齢社会白書(全体版) - 内閣府

就業者は、それぞれの人的資本*2を市場*3へ投入し、その対価として金銭を授受する。

つまり、サラリーマンとして企業や団体に所属し、組織内で与えられた役割に対し、給与という形で所得を得ることで生活をしているケースや、個人で業務委託を授受したり、企業間で取引を行ったり、とそれぞれの人的資本を投入する場所を選んでいる。

しかし、老後の資産形成における本質的な課題は上でも述べたが、その長期間にわたる老後期間を現役期間の間の蓄えで賄えるのかどうかだが、そんなものは不可能だと言わざるを得ない。あまりにも長すぎるのだ。人的資本を何歳まで投入し続けるのか、または何歳まで投入し続けられるのか、を考え出すと気が遠くなる。

だが一点明白な答えとして、人的資本は投入する期間が長ければ長いほど老後が短くなるといえ、気が付いている人はすでに行動しているだろうが、自らの人生を謳歌するため、基本的にはそれを目指すべきだ、というのがぼくの考えだ。

しかし、そうはいっても「リタイアはしたい」という人も中に入ることも重々承知であるし、2018年2月時点における日本の制度設計的には、60歳定年(望めば再雇用)、65歳から年金受給というのが標準設定であることを踏まえると65歳以降の資産運用を各々が準備しなければならない。

年金は、1959年第二次岸内閣において定められた国民年金法の成立を背景に国民年金が導入されたのが始まりだが、言ってしまえば年齢による強制解雇によって労働市場からの退場を余儀なくされるサラリーマンという日本独自の職業に属する人たちの救済する手段として制定されたものだ。なお、ねんきんネット|日本年金機構では、自分が納めた金額や受給金額のシミュレーションが可能なので、リンクを貼っておく。

日本年金機構

65歳以降、我々はどれほどの金融資産を用意する必要があるのだろうか。総務省が公表した2017年12月の家計調査報告(二人以上の世帯)において、60歳以上の消費実数は273,454円となっている。

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家計調査報告〔二人以上世帯の場合〕-総務省

この金額が12ヶ月として、3,281,448円/年が相場だとして考える。つまり、一般的な家庭が普通に生活を試みようとした場合、65歳以降は1年間に300万円を超える金額が必要で、さらに65歳-100歳という35年間で計算すると114,850,680円、つまり1億円を超える資産が必要ということになる。

果たして、これを年金でまかなうことは可能なのだろうか。日本における公的年金国民年金と厚生年金の2種類だ。

国民全員に加入が求めらる公的年金があり、その上に厚生年金などが上乗せされることから、日本の年金制度は2階建と表現される。さらに、確定拠出年金厚生年金基金国民年金基金などが上乗せできることになっており、最大で3階建とすることが可能になる仕組みだ。対象者や体系図は下記のように厚生労働省はマンガで年金を検証する形で公表しているので、参照いただきたい。(内容については個々人で判断していただきたい。)

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日本の公的年金は「2階建て」 | いっしょに検証! 公的年金 | 厚生労働省

さて、ここからは支払う金額と受給金額について見ていくが、国民年金の保険料は月額16,900円に引き上げられ、これ以降は固定されることになっている。年額で202,800円であり、20歳から定年を迎える60歳までの40年間支払い続けると8,112,000円。

それに対して満額の総支給額は2017年4月で779,800円/年となっており、月額で64,983円ほどだ。無論、この段階で生活をすることは困難であろう。夫婦ともに国民年金のみへの加入だった場合、月額129,966円になるが、上で見た一般生活者における2人以上の生活における消費実数は273,454円のため、143,488円の赤字となるため、国民年金のみでの生活は困難というよりも現実的ではないだろう。

老齢基礎年金の受給要件・支給開始時期・計算方法|日本年金機構

しかし、仮に100歳まで生きるとした場合、現行制度のまま移行し多として、支給金額の総額は27,293,000円(779,800×35)となるため、3.36倍の利回りということになり、金融商品として見た場合、雑な計算であるとはいえ、非常に有利な金融商品といえる。

また、厚生年金の支給金額は平均148,000円ということだが、共働きか否か、独身か夫婦かによって金額が変わるうえ、夫だけが働いていて、奥さんが専業主婦だった場合にも金額が少なくなる。

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厚生年金保険・国民年金事業の概況 |厚生労働省

だが、ちょっと待ってほしい。世界中でも類を見ることができない少子高齢化の日本において、国民年金の運用はそれほど余裕があるのか。バカみたいな高利回りの配当を国が排出できる仕組みはどこにあるのかを冷静に考えると、それは厚生年金や社会保険料の上乗せ徴収というサラリーマンにとって不都合な事実が浮かび上がってくる。

公的年金への加入は国民の義務として課せられていながらも、国民年金の場合、加入手続きも保険料の納付も個人の自主性に任されている。つまり、支払わない人間がいたとしても、それは個人の年金受給額や期間が減少するのみであり、基本的に罰則は存在しない

毎月、国民年金に加入し、毎月保険料を納めている人間は、徴収される金額が少ないとしても支払われる(受給できる)金額に変更はなく、その期間が100年生きるとして受給期間が延伸されるのであれば、得をする。

それでは、その尻拭いを誰がするのかといえば、すでに触れた通り、サラリーマンだ。徴収される厚生年金を含む社会保険料介護保険料は企業との折半によって支払われているが、これは強制的に徴収できる仕組みを作っていることで、その実質的な負担額を目くらましをしていることに相違ない。

組合健康保険と国民健康保険での違いは、当初、組合健保に加入する人たちは本人が1割負担、家族が2割、世帯主の保険料で扶養家族の保険がカバーできたことにあるが、現在では見る影もなく、本人家族ともに一律3割負担(扶養家族の保険料免除は維持)に及んでいる。結局、組合健保も公的保険の一部であることを考えれば、高齢者の医療費を分担する義務が生じていることは仕方のないことなのだが、その仕組みはサラリーマンにとって相当にいびつなものだ。

下図は厚生労働省が29年度の予算ベースに医療保険の意義について説明するページからの引用だが、これを見る限り、高齢者の医療負担を現役世代が支えることは従前通りだが、本来的には組合員であるサラリーマンが厚遇されるべき組合健保も、世帯に対する保険料の減免はなくなった末に、高齢者への支援金が増加するという恐るべき結果になっており、サラリーマンは望む望まないに限らず、多くの負担を強制的に徴収される仕組みになっている

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我が国の医療保険について |厚生労働省

これらの負担をきちんと認識しているサラリーマンはどれほどいるだろう。国民年金の負担も厚生年金で尻拭いさせられ、健康保険も高齢者への負担を強いられているが、それに関してはこうやって改まって仕組みを見て見なければわからないのは仕方ないとしても、社会保険料を含めた納付額を把握することに馴染みがないのは自らが納税作業を行なっていないことが最も大きい。

しかし、これは会社が源泉徴収と年末調整、つまり、納税作業を代替して取り組んでいるため、納付額を知ったところでサラリーマンが取れる手段はなく、関心がなくなってしまうのは致し方がない。すると余計に手取り金額のみが中心になるため、益々、関心が湧かなくなり、納付額について考えることをやめてしまう。

ここで言いたいことは、現役で働いている人たちは多くの負担を強いられるのに、受給に関しては損をする可能性が高い、ということだ。公的年金や健康保険の財政は悪化の一途をたどっていることは否定できない事実であり、今後も既定路線であることは揺るがない。

制度的に解決策が残されていないわけではない(社会保障を全面廃止、消費税のみで徴収など)が、政治的に不可能だ。そんなことはできるわけがないから、制度が破綻するまで継続せざるを得ない。

しかし、国も現状に対して無為無策かといえばそんなことはない。昨今、NISAやiDecoなどを税制的な優遇を与えることで『年金に変わる老後資金』を準備を『個人』へ『実質的に依頼』している。なお、本エントリでは、年金の代替的な位置付けとして『NISA』ではなく、『つみたてNISA』と『iDeco』について扱いたい。

NISAとは? : 金融庁

iDeCo(イデコ)/個人型確定拠出年金 |厚生労働省

そもそもNISAとは、イギリスのISA(Individual Savings Account=個人貯蓄口座)をモデルにした日本版ISAとして、NISA(ニーサ・Nippon Individual Savings Account)と呼称され、「NISA口座(非課税口座)」内で、毎年一定金額の範囲内で購入したこれらの金融商品から得られる利益が非課税になる、つまり、税金がかからなくなる制度です。なお、イギリスのISAを模倣して作られた制度ではあるものの、異なる部分もある。イギリスISAには期間制限がなかったり、対象商品内容や数にも違いがある。

つみたてNISAは、年間40万円まで20年間非課税での投資運用が可能ということになる制度だ。最大で800万円の非課税投資が可能ということだ。

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iDeco確定拠出年金法で定められている私的年金公的年金との違いは、個人が掛金を拠出し、その運用方法を選べることにあり、その掛金と運用益との合計額をもとに給付を受けることが可能となる。2016年までは自営業者やサラリーマンに限定されていたが、2017年1月より企業年金を実施している企業への勤めるサラリーマンや専業主婦、公務員など、基本的に公的年金制度に加入している60歳未満の全ての人間が加入できる。

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では、これらの制度を使うことでどれほどの余裕を作り出すことが可能だろうか。厚生労働省の賃金行動基本統計調査における一般労働者の賃金を参考に計算してみる。厚労省のデータによると2016年度の平均年収は男女ともに304万円ということだが、わかりをよくするために300万円で計算する。

平成28年賃金構造基本統計調査 結果の概況|厚生労働省

 

投資の前提として、生活資金の中から余裕資金を生み出した上で資金を回すことを考慮すると、年収の中で1割程度、頑張って2割程度を拠出することが限度だろう。すると、年間で30万~60万円、月額で2.5万~5万円が毎月の掛金となる。ここでは年収1割をもとに計算してみる。

合計掛金2.5万(内訳: つみたてNISA 1.5万, iDeco 1万円)※内訳比率はぼくの好み

つみたてNISAの場合、合計投資額が3,600,000円(月額15,000×12ヶ月×20年)だが、そこに年間利率8%で運用した場合、最終資産は8,595,862円となる。差引利益が4,995,862円だ。

なぜ、ここまで利益が膨れ上がるのかといえば複利効用だ。例えば1年目、年間で180,000円の投資額に対して、利率が8%であれば、年間で14,400円の運用益が生じ、次年には投資元本が194,000円の状態で投資を開始する形となる。

つまり、毎月の投資額は同じだとしても翌年末には投資額の合計が360,000円で変わりないはずが、毎月平均8%の利率が上乗せされた状態で運用益が発生し、最終資産が390,715円で投資元本に対する利益は30,715円だ。

投資ではこの複利運用をいかに膨らませられるのかが鍵となる。つみたてNISAでもiDecoでも運用利益に対する課税が免除されているため、投資に対する運用益も含めて全てが再投資できるのが大きな魅力であり、最大の利点だ。

 

iDecoは基本的には課税控除については同様なので、この控除額について触れてみたい。ちなみに、税制優遇のシミュレーションもしてくれるので、興味がある人はしてみてほしい。

かんたん税制優遇シミュレーション|イデコガイド|老後のためにいまできること、iDeCo|国民年金基金連合会

今回のシミュレーションでは、30歳から毎月1万円を積み立てた場合で計算してみると、税制控除額は30年間で54万円が控除額となる計算だ。仮に30年間8%で運用ができた場合には、最終資産は14,185,648円で、運用利益は10,585,648円。

毎月の掛金がスタート時には少なかったとしても、複利を利用して資産運用ができるのであれば、期間が長ければ長いほどに我々の資産は増大していく

本エントリの結びとして、ぼくが最もいいたいのは、人生が長くなることが目に見えている中で、老後というこれまでの既成概念を前提にするのは勿体ない。そもそも老後は自らが仕事というやりがいを放棄した瞬間から発生する生き地獄であり、定年という制度を前提にしているものだ。

 

ぼくたちは『制度の奴隷』として生きるのではなく、『制度を従属』させること、つまり、法制度や税制というゲームに対し、いかにして立ち向かうのかを問われるし、立ち向かうことが人生を楽しむための方策だと考える。

本エントリを読んだ結果、今後100年生きる上で自身の金融資産を作っていくことを考えるきっかけになれば幸いだ。

【関連書籍】

 

*1:生産年齢人口(せいさんねんれいじんこう)とは、経済学用語の一つで、国内で行われている生産活動に就いている中核の労働力となるような年齢人口のことをいう。(wikipediaより

*2:ヒューマン・キャピタル(英: Human Capital)は、人間が持つ能力(知識や技能)を資本として捉えた経済学(特に教育経済学)の概念。 人的資本と表現されることもある。 具体的には、資格や学歴として測定される。 初期の経済学では単に労働力や労働として捉えられていた。(wikipediaより) 

*3:市場とは、定期的に人が集まり商いを行う場所、あるいは、この市場における取引機構に類似した社会機構の概念を指す。(wikipediaより

家族を他人だと思えない人へ

先日、こんな内容から始まる連投Tweetをしてみました。

理由としては、僕の友人(女性)がパートナーとの関係についてひたすら思い悩んでいたのが理由です。

ぼくの結論は「家族であろうと他人は他人」ということです。

一見すると冷たい人間のように思われるかもしれませんが、ぼくの立場からすれば、「家族なんだから」という人たちほど、家族に対して残酷で冷酷な人たちはいません。

これは「核家族化が進んだことにより家族の関係が希薄化した」なんていう類の小難しい話でもなんでもなくて、血が繋がっていようが繋がっていまいが、人間は別の固体であり、人格であり、存在ですよね、という話です。

たとえば、ぼくは両親から遺伝子を受け継ぎ、身体組成遺伝を受け、その知能の70%を遺伝され(アーサー・ジェンセン;1969)、性格は周りの子どもたち、つまり集団生活において形成されてきました。

しかし、血が繋がっているということで、意思疎通が図れているかといえば図れていない。いま、この瞬間、ぼくは父親の考えていること、感じていることを認知することはできていない。

もしかしたら、今後、技術の発展により、それが可能になるのかもしれませんが、だからといってぼくが父親になれるわけでもなく、ぼくの父親がぼくになれるわけでもありません

以心伝心という現象を意図的に引き起こすことは不可能なのです。

つまり別の固体であり、人格であり、存在ということです。

当然といえば当然の帰結だし、「なにをいまさら」といわれてもおかしくないと思うんですけど、家族関係を構築する、もしくは共有する時間が長ければ長い関係の人ほど、これを受け入れることが難しくなります。

なぜかといえば、共有する時間が長いということは、共感する時間が長いということを意味するからで、ここがくせもの。共感するということは同じことを考えているわけではない(共感している≠同じことを考えている)んですよ。

ぼくは現在時点で子ども2人に恵まれており、春には3人目が出てくる予定ですが、子どものことはかわいいし、見ていて楽しいし、うれしくもなります。

たとえば、次男が最近、語彙が増えてきたので話しかけてくることだったり、呼びかけてくることが増えてきたので、その様子を見ているとすごくかわいくて仕方ない。

それをぼくと奥さんは同時に見ていたりすると「かわいいね」とか「すごいね」とか共感してます。だからといって、同じことを考えているかといえばまったく異なるはずです。

奥さんは長男との比較から「長男は同じ時期にこんな風にいえてたか」と過去を考えているかもしれないし、ぼくは「次男は次にどんな言葉をこちらに発してくれるんだろう」と未来を考えているかもしれません。

奥さんとぼくとの関係でいっても、同じ風景描写を共有したところで、同じ思考をしているとはまったくいえないわけなんですよ。これ、大人同士だと理解が難しいかもしれませんが「大人対子ども」で考えてみれば分かりがいいと思います。

我が家ではご他聞にもれず、仮面ライダーが大好きな子どもたちです。仮面ライダーRXがパワーループにて放映されております。視聴している中でぼくと子どもでRXがリボルケインで敵を倒すシーンには常に興奮!

ぼくと長男で「きたー!!!!」といえば、次男もおぼえたての言葉で「ちぃたー!!」と興奮し、相手の爆破を背にするシーンでハイタッチをする。ぼくと子どもとの間で間違いなく共感が発生している瞬間です。

しかし、ぼくはリボルケインが出された瞬間に勝利が確定するというダチョウ倶楽部的なフローについて考えますし、長男はリボルケインを出さなければならないところまで追い詰められているところが興奮するみたい。次男はよくわかんないけど、興奮してます。

このシーンを思い浮かべるだけで、それぞれ共感するステージには同時に上がっているにもかかわらず、それぞれ考えていることが異なることを理解してもらえるんじゃないかな、と。

しかし、ここが今回の問題における肝で、家族という集団は自然と共感する場面が多くなりますので、感情が揺れ動く場面を同時に過ごす時間が長くなります。

長くなる/その場が多くなるけど、同じことを考えるわけがないんです。正確にいえば、考えられるわけがない。それを押し付けることは”自分の思考に追いついていない、考えられない”と相手を突き放すことであり、残酷で冷酷な対応をしていることになります。

そして、もっと厄介なことに、この対応をしている人の大半が「家族なんだから」「夫婦なんだから」「パートナーなんだから」という耳障りのいい呪文を唱えることで相手を拘束しようとしますが、うまくいきません

それは当然で、自分が考えていることは相手も考えられるという前提が間違っていることに気づいていないからです。なので、ドンドンと相手に対して絶望し「なんでわかってもらえないんだ...」と気分がさらに悪くなります。

これは完全にポジションの取り方を間違ってしまった結果であり、その結果を受け止めきれないという不幸な循環に入っていることの証左です。

信じる、というのは考えることをやめることと同義で、つまり、口では「信じる」という耳障りのいいことをいい、根本的には相手のことを考えていない、という地獄みたいな結果を招き、思い悩むことになります。

だから、そもそも自分以外の人間が他人であり、自分の考えていることなどわかるわけがない、という前提に立つことは、一見すると冷たいようですが、根本的には常に相手のことを考えているので、どちらが優しいのかは一目瞭然です。

冷静になって考えれば、生活をともにしている中でパートナーにサプライズをしようと考えるということは、相手は自分の考えていることを共有していない、ということを理解しているということです。

しかし、それが感情が込み入ってくると難しくなるのは理解できますし、共感しますが、「他人である」ということを前提に立たないと、それまで感じてきた幸福感は音を立てて崩れていきます。

ぼくは「家族とはいえ他人は他人である」と考えはじめたことで、相手がしてくれることに対して自然と感謝の気持ちが沸いてきましたし、すごく感謝できるようになりました

相手に対して求めることが多くなってきたとき、それは自分の中にバイアスとして「一緒に時間を共有してるのに...」という強制的な圧力をかけ始めているというサインだとぼくは思います。

そうなってきたとき、ふと「他人」であるという、根本的な前提を思い出すことで、相手との距離感も適切に構築できていくのではないでしょうか。

僕の名前は遠藤涼介

いまさら感が満載だが、当ブログ{DE}Dologの管理人である僕のことをエントリとして残しておく。僕がブログを書く理由は大きく分けて3つ。

  1. 中学生である自分に対して伝えられるレベルで物事を考え、発信していきたい
  2. 過去にブログを通して得た情報に対してすごく興奮したのを覚えていて、それをほかの「誰か」に届けたいと考えているから
  3. タイトルの通り、いろんな情報の取得行動履歴

継続してエントリを書いていくことを考えたのには、僕の実体験を人に伝える行為をしてみたいという承認欲求が動機であり、理由だ。僕は過去にドイツへ超短期留学をしたことがある。当時の僕はスポーツトレーナーとして名を馳せていきたいと真剣に考えていて、行く2,3年前から本当にいきたくて仕方なかったのをよく覚えている。いくことになった前年の8月に結婚したばかりの僕を、我が家の嫁はブーブー文句を言いながらも最終的には応援する形で向かわせてくれた。

そのドイツでの学んだことを自分なりにまとめて、対外的に発信することが、日本のスポーツにとって少しでも影響を与えてくれるんではないかと思ったし、そうすることで属していたコミュニティでも貢献できるんじゃないかと考えたことから、書き出したのを覚えている。

そして、実際にエントリを読んでくれた人たちから「わかりやすかった」とか「まとめてくれて助かった」とか、自分のしたことを評価してくれた上に感謝までされたことを本当にうれしく思ったし、やりがいを感じたことが何より大きい経験だった。

...のだけれど、今ではブログサービスを乗り換えまくったせいで、文体が壊れているぐらいに読みづらくて、非常に心苦しいのだが、ブログを書き始めた原点ともいえるエントリだ。
dolog.hatenablog.com

そこからもチョコチョコと気づいた時に書き連ねるようにしていたものの、なかなかエントリを増やすようなことをしてこなかったし、できてなかった。しかし、2017.11月頃から自分の生活ペースの中で確実に更新できる頻度でエントリーを増やしていこうと考え、現時点では継続できている。

そんな中で、僕は新たに読んでくださる人たちに向け、自己紹介をしたい。

 

僕は幼少時代、新潟県の燕市という街で育った。『燕三条』といえば洋食器産業が盛んな地域ということで、小学校の教科書でも紹介されているから、なんとなく知っている人もいるかも知れない。そんないわゆる職人の町とされている燕市で育った。そして、そんな燕市内にある上州屋というそば屋で多くの年月を過ごしてきた。そう、ボクの実家はそば屋だ。

店主である僕の親父は、高校卒業とともに東京へ修行に出て、銀座の名店といわれる店に腕一本で職人として働いた末、地元に帰ってきて開業した。今っぽくいえば、東京からのUターン創業者ということになる。

創業当初、地元では燕三条という地域的に麺といえばラーメンが主体であり、そばを好む人間などいないということから「絶対に潰れる」ということをひたすらに言われたらしい。創業者本人と僕の母親が揃いも揃って述べていたので、相当な言われようだったのだろう。

 

子供時代、ボクは活発な少年だったように思うし、空回りの得意な少年だったのは覚えている。ほんと、どこにでもいる真面目な小学生。

下校時、友人との帰り道で目をつむりながら走り、田んぼの用水路へ落ちたこともあれば、お腹が痛くて我慢して夕方遅くまで遊んでいたところ、自転車に乗った途端に股間を刺激されたことからゆるいヤツが出てしまったこともある。つまり、普通の小学生ということだ。

そして、本が大して好きではなかった。

いまでこそ、年間に年収の●割程度を消費し、本を読み漁った末に奥さんから目玉を食らってしまった経歴を持つ僕だが、いわゆる学校という場所へ通学している時には全くもって本が好きではなく、苦手だと感じていた。

小学生の時に読んでいた本といえば、『ズッコケ三人組』か『はれときどきぶた』か『週刊少年ジャンプ』ぐらいなものだ。特に週刊少年ジャンプについては、いわゆる黄金期と呼ばれる時代に読むことができたことは光栄だった。

それいけズッコケ三人組 (ポプラ社文庫―ズッコケ文庫)

それいけズッコケ三人組 (ポプラ社文庫―ズッコケ文庫)

 
はれときどきぶた (あたらしい創作童話 13)

はれときどきぶた (あたらしい創作童話 13)

 
Slam dunk―完全版 (#1) (ジャンプ・コミックスデラックス)

Slam dunk―完全版 (#1) (ジャンプ・コミックスデラックス)

 

スラムダンクにおける桜木花道の成長っぷりに興奮したし、ドラゴンボール孫悟空が放つ救いようのない強さに憧れたし、こち亀における両津勘吉はダメな男と思いながらも共感したし、I'sの伊織ちゃんの可愛さにほとほと惚れ抜いたし、るろうに剣心の作者が新潟出身だからってのだけで凄くそそられた...。いや、本当だ。

とにかく、本といえば簡単な文字の大きいものしか読めないし、漫画しか内容が入って来なかった。そんな僕でも今となっては活字が大好きになるのだ。人生とはわからないものだ。

 

そう、なんの脈絡もないが、僕のスポーツにおけるヒーローはカズであり、ヒデであり、ゾノなのだ...。いや、野茂やイチロー、松坂にも憧れ、ひいてはマイケルジョーダンや田臥勇太にも憧れたものだ。 

おはぎ

おはぎ

 
中田英寿 誇り (幻冬舎文庫)

中田英寿 誇り (幻冬舎文庫)

 
イチロー 262のメッセージ

イチロー 262のメッセージ

 
僕のトルネード戦記 (集英社文庫)

僕のトルネード戦記 (集英社文庫)

 

つまり、サッカーもバスケも野球も大好きだった。小学校5年生の時、地元のサッカースポーツ少年団に入った。練習試合に出してもらえなかった。1ヶ月でやめた。

中学校に上がってから野球部に入った。仮入部期間から本入部に際し、校舎周りを10周走った後、上級生のノックの玉拾いをさせられた。1日でやめた。

その後、すぐにバスケ部へ移った。割と頑張って秋には上級生に混じってベンチメンバーに入った。冬になり気管支炎から肺炎にかかった。部活に顔を出せない期間が長くなった。同級生や上級生からいびられた。学校行くのが嫌になった。引きこもった。

朝、起きると腹痛が起こる。トイレに入ると凄く安心した。誰も僕に干渉できない空間に入ることで僕以外の不可侵空間を得ることができたと実感する。親から「学校、休もうか」と言われることで精神的な安堵を得られたのをよく覚えているし、当時の僕にとって大きな救いになったことはいうまでもない。

ほどなくして、バスケ部の顧問へをやめたいと申し出た。すると、顧問からこう言われた。

「ここで逃げていいのか?ここで逃げたら一生このままなんじゃねーか?」

こう言われ、僕は奮起した...のではなく絶望した。担任はそんな僕に何もしなかった。自宅まで来たが、大したことはしなかった。どちらも部活動に力を入れている教員だったが、そこから漏れ出てしまう人間は容赦なく冷たくあしらう。

その後の僕もそうだったのだが、部活動という組織から漏れた人間に、得てして内部の人間はえらく冷たい。それは“辛酸を舐めながらも頑張っている自分たちの場所から逃げた人間許すまじ”という空気が確実に存在する。それを顧問たる立場にいる彼らは平気でやってのけたのだ。そして、その後、そんな状態にいる僕に対してフォローを行うことは卒業するまで一切なかった。

バスケ部の顧問に至っては、親が営むそば屋へ教員でまとまって訪れた際に、店内で僕の母親に対し「期待してるから勿体無いと思うんですよね〜。」なんて軽口を叩き、僕の存在が部活の中では大きな存在であるかのようにした。僕が欲しかったのはそんな言葉ではない。

逃げることを非としか受け取れないのが教員なのであれば、教員になんて死んでもなるものか、と心に決めた。

のらりくらりと中学生活を送っていた僕は最終学園への進級時に陸上部への入部を決意する。理由は卒業アルバムでの掲載を気にして。僕は2年次にコンピューター部に所属しており、その面々と卒業アルバムに映ることはどうしても避けたかった、という青春期における青少年の心持ちというものだ。

 

高校生になり、僕は後ほど新潟県内で強豪校となるサッカー部に所属することを決めていた。そう、サッカー少年団を1ヶ月で退団し、野球部を1日で退部し、バスケ部を体調不良と引きこもりから9ヶ月ほどで退部した、言ってしまえば“ダメなやつ”である僕が、だ。

男子サッカー部 - 帝京長岡高等学校

僕が1年生の時に全国高校サッカー選手権大会の本大会へ初めて駒を進めたが、これは新潟県で新潟地区以外から初めての優勝ということで、新潟県のサッカー史においては歴史的な転換点となった、みたいだ。

僕はというと、3年生の時にGKで試合に出れた。運が良かった。そして、今となっては全国的に有名になった帝京長岡高校サッカー部のOBだ。 プロ選手も後輩だ。これから全国大会で優秀な結果を残すことができる後輩たちも、総じて僕の後輩になるのだ。

すごくカッコ悪いので、もう言わない。ただ、仕事やらでそれが話題になることで若干進めやすいことがあるので、そこぐらいでは話題にする。

 

そんなこんなで僕はスポーツを大好きな僕は初めて、その大好きなスポーツで自分史における自信となる結果を残すことができた。そのことによって、キャリアをスポーツで進めていこうと考え、スポーツトレーナーの道を志すことにした。

専門学校への進学し、無事に卒業を迎えた僕は私学の高校野球チームをはじめとした数カ所と契約を結び、活動を開始。まぁ、あまりうまく行かなかったから2年ほどで畳み、接骨院とフィットネススタジオが併設されている施設へお世話になることを決めた。

ちなみにドイツへ行ったのはこの時期であり、スポーツで副業的に色々と仕事を取り組めたのも当該施設に籍を置いていた時期だ。施設の詳細は、当時僕が書いた下記エントリに記してある。三条市近辺にお住いの方は是非、足を運んでもらいたい。

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同時に、僕はインターネットが大好きだったし、クラウドファンディングサイトで募金を募って未来を描いた製品がローンチされる様を見るのが未来を見ているようで大好きだった。結果、出来上がってきた製品がクソみたいなものだったり、プロジェクト自体が消し飛び、出資金が飛んだなんてことは懐かしい思い出だ。

当時はKickstarterも日本語対応しておらず、訳のわからないまま支払いにはペイパルの登録が必要ということで無理やり登録したり、とにかく日本の中ではなく、海外で有望なサービスが色々とローンチされ、日本の中でサービス開始されるという瞬間を目の当たりにしていた時期でもあった。

その後、僕は新潟県内に存在するスポーツの専門学校へ籍を移すことになる。この時になると、トレーナーとしての名を馳せたいとか、実力を高めたいという気持ちよりも経営や管理に目が向いていた。

過去に自分が個人事業を行っていた際に躓いた部分がそこだった自覚があり、それを職務として担える場所がないかを考えていて、大きな組織に入り込んで行くことで賄えるのではないかと勝手に期待し、特別講師などを経て声をかけてもらった専門学校へと足を向けた。

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しかし、ちょうど経営管理や運営について学べば学ぶほど、与えられた職務を担えば担うほどに箱の中だけ、スポーツの中だけで物事を考えることに限界を感じた。

インターネットの世界は話題の宝庫だ。この世界では個々人がすべての情報を個人の認識のもと、自由に発信することが認められている。スポーツはその話題の一つに過ぎない。ちょっと瞬間的なバズり方をするから、スポーツには広告として価値がある。しかし、持続的・継続的に事業を跳ね上げ続けられるかといえば、現状はできてない。

だったら、スポーツの世界にだけ依存して生きていることは、将来の僕に対して僕自身が恐怖感と焦燥感を感じていたのが確かだった。サラリーマンになりたかったのではなく、ビジネスマンになりたかったのだ。つまり、人的資本を高めることをしたかった。

組織に所属することが前提になるのではなく、所属することを所望される存在にならなければならないのだと自分に対して強く感じていた。しかし、現実の自分はそうなれていない。自分の親父が30年以上も自らのスキルで「稼いできた」ことは客観的な事実であり、揺るがない。そこを羨ましくも思うし、自らができていないことを情けなく思ってもいた。

スポーツトレーナーをしていた時、よく父親に「遊びだろ」と言われ、憤慨したのを覚えているが、今となってはよく理解できる言葉だ。

果たして、スポーツはあくまでも広告費と集客収入がメインとなる。広告を扱うことなんてことをしたことがない僕は、逆にできようになるのであれば、スポーツを選択肢として保つ上でも絶対的に不可欠なのではないかと考えたこと、新潟の中でベンチャー企業で働ける機会がそう多くはないだろうと考えていたことが重なり、県内大手グループを辞め、新潟市内のべんチャーへ籍を移した。

正直、受かると思っていなかったが、非常に勢いがあり、魅力があり、夢を感じた。このワクワクする感じがベンチャーの良さであり、最大の利点だろう。地方発のメガベンチャーを標榜していたこともあり、その一員になりたい気持ちと、自分自身もスケールして行きたいと考えていた。

メンバーはとにかく精鋭揃い。彼らは新潟は愚か、他府県で同様の企業があっても中枢を担えるであろうと思える力を、日々、自分たちを頼ってくれる顧客からの仕事に注ぎ込み、取り組んでいた。

あのレベルで仕事を取り組んでいる人たちには出会ったことがなかったというのが正直な感想。そんな圧倒的なスキルを持つ精鋭揃いの中で、とにかく僕には圧倒的にスキルが足りていないことを実感することばかりだった。勉強をすればすんなり入ってはくるし、自分なりに考えを持って取り組んでいたが、それ以上のスピードと質を求められ、僕は挫けた

加入から7ヶ月を過ぎたところで会社の諸事情もあり、それまでの企画営業や自社媒体の編集要員兼営業に付け加える形で管理部門での仕事を任せてもらえるようになった。自らの力を過大評価していたのかもしれない。高望みをしすぎたのかもしれない。結果として僕はその仕事をこなすことができず、精神的な疾患により2ヶ月ほど休職した末、退職した。

この精神的な疾患については、きちんとエントリを書きたいと思う。ひとつ言えるのは、家族がいてくれたことが何よりも救いだった。そして、その経験があるからこそ、僕はひとつ階段を登れたのではないか、と思う。現状全く問題ない。全治したということで医師からも診断を受けてもいる。

僕は自分に絶望したくないし、諦めたくない。悪あがきとも取れるだろうし、何ができるんだ、という風にも捉えられるかもしれないが、何か大きなことをしたいのではない。ただ、自分が納得した人生を送りたいと考えているだけで、あらゆることを子どもに説明できる人物でいたいとも思う。

子どもに対して、あらゆることを説明するためには、自分自身の色々なリテラシーを高める必要があるし、多岐にわたる関心を持っておく必要がある。そのため、現時点では書評が主な内容となっていて、その時点での自分の感じたこと、考えたことを他者の目に触れるように書く必要があると思い、エントリを継続的に書くようにしている。

 今後も、仕事上必要なこと、生活上必要なこと、子育て上必要なこと、ありとあらゆる僕に関わることに関して、アウトプット・共有の場としてエントリを更新し続けていこうと思う。

あらゆる面でど素人の僕が中学生当時の僕に引きこもりという選択をしたことに対して、それ以外にも楽しいことや面白いことはたくさん存在していて、それらを解説していきたい

そんな思いで今後も更新していきたいと思う次第だ。

UNICORN

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スポーツをすることには意義があるのか

僕は元々スポーツが大好きだ。自身のキャリアもスポーツ好きが高じて(全然うまくいかなかったけど)個人事業主のトレーナーとして活動開始したのが最初だ。そんなスポーツに対して、今でも好きなことに変わりはない(と、自分では思ってる)。

だけど、そこまで熱烈な感じはなく、あくまでも趣味レベルで「いいよね」という程度。

 

今回のエントリで考えたいのは『スポーツをすることの意義』。スポーツが好きで好きでたまらない、その世界にどっぷり浸かっている人たちに対して異議を唱えるのと、全くスポーツに対して期待していない人に向けて書いてみたい。それは『スポーツに投じる時間とお金というコストは支払うだけの意義があるのか』という点において。

 

結論として、なぜ僕がこんなことを考えるのかといえば、子どもが生まれ一緒に生活する中で、スポーツを“させたい”と強く思ってないからだ。もっといえば、別にやらなくていいとすら思ってる。本人が望むのであれば別だが、親の立場としてはどうしてもやって欲しいとは思っていない。

 

そうはいっても、僕はスポーツに意義があるとは考えていて、スポーツをすることによって得ることがあるだろうとは経験則・実感値としてある。ただ、全面的に意義があると考えているわけではなく、あくまでも一部分においては...という条件付きだ。

 

まず考えなければならないのはスポーツに対して期待する効果は何か、ということ。スポーツとは果たして、何を消費し、どんなものを得ることができるのか

 

スポーツは自らの時間と活動を交換し、身体的・精神的な・向上・改善・快復を試みる手段であり、その過程にある上達過程・意思の疎通過程において、達成感や満足感を得ることできるうえ、集団的なスポーツになれば団結力やコミュニケーション能力の醸成にも影響を与えることができるであろうと仮定すると、スポーツの目的は『自己実現』であり『自己表現』であり『自己満足』を得ること、つまり『自尊心の獲得』と僕は考えている。つまり、スポーツの価値はそれらの目的を達成することで、それを生活の中で獲得することに意義があるのではないか。

 

また、スポーツは映画や演劇など他分野でいうエンターテイメント的な面を備えており、地域ごとに創設されているプロスポーツは興行として行われ、おらが街の誇りとして地域住民の自尊心や一体感、連帯感に火を焚きつけてくれる。

 

おそらく、スポーツが好きで、現段階においてなんらかのスポーツを実践している人、スポーツを観戦し、応援している人にとって上記内容はそう遠くない実感として受け入れてもらえるのではないか。

 

それでは、スポーツの価値について日本の中における指針はどこにあるのか。日本の中では文部科学省が管轄していたし、今ではスポーツ庁が管轄下にスポーツを置いていることから、それらが定めるスポーツ基本計画を見ていくことが適当だろう。

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スポーツ基本計画:文部科学省

スポーツ基本計画:スポーツ庁

文部科学省がスポーツ基本計画の中で書いている一文を参照するのが良さそうだ。スポーツ基本計画(第二期)の中で文部科学省は以下のように書いている(が、これはスポーツの価値について『人生』『社会』『世界』『未来』という4つの中の『スポーツで人生を変える』という部分での内容である)。

スポーツ基本法において,スポーツは「心身の健全な発達,健康及び体力の保持増進,精神的な充足感の獲得,自律心その他の精神の涵養等のために個人又は 集団で行われる運動競技その他の身体活動」と広く捉えられており,「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは,全ての人々の権利」であるとされている。

人生の中でスポーツに対し『する、みる、ささえる』ことは『スポーツを日常生活に位置付けることで,スポーツの力により人生を楽しく健康で生き生きとしたものにすることができる。』としていることから、スポーツにいずれかの形で関わりを持つことで、その効用を享受できるということだ。

 

スポーツをすることは、人生の中においてどれほどの確率で投資に対するリターンを享受できるのだろうか。冒頭でも述べたように『時間とお金』を投ずる以上は、それに対しての効果や効用を見るべきだ。それを見ずに効果の検証を行うということは、そもそもスポーツに『お金や時間を使う』ということを考えるな、という感情的な話になってしまうし、それは『体育』だ。

 

今回、僕が一貫して述べているのは『スポーツをすること』へ投資した時間とお金はどのぐらいの利率でリターンを得ることができるのか。そのためにはゴール設定が必要だ。ゴールとしては、国の代表としてオリンピックに出場することを一つのゴールとした場合について考えてみることにする。

 

各競技ごとに本格的に競技として取り組んでいくであろう年齢は異なるだろうし、生物学的年齢や暦年齢でいう早熟や遅熟を考慮する必要も出てくるのだが、高校サッカーや甲子園など、メディアとしても扱われる機会が増える高校生年代の競技人口からオリンピック代表に選ばれることを率として概算で単純に計算してみると以下のようになる。

 

まず、全国高等学校体育連盟に属する競技団体への登録者数(2018年1月訂正)は1,246,713名、高等学校野球連盟へ所属する登録者数(2017年5月)は161,573名となっており、高校生段階で1,408,286名の競技スポーツへの参加している学生たちがいるということになる。

 

余談ではあるが、2017年日本の中にいる15~19歳の人口数*1は2,920,000人となっているが、概算的に引用させてもらえば、およそ48%が競技スポーツに関わっている計算となる。(あくまでも概算であることを重ねておく)つまり、高校生の半数はレベルの高低はあれど、スポーツに関わっていることになる。


高校生年代における競技スポーツ登録者数が1,408,286名がそのまま競技を続けるわけでもなければ、オリンピックに正式競技として採用されていない競技を取り組んでいることもある。その中でオリンピック代表に選ばれるとしたら、そもそも競技を選別しなければならないし、長く競技を継続できるレベルに達している必要がある。

 

リオデジャネイロ(ブラジル)で開催されたオリンピックでの日本選手団人数(元データはこちら*2が338名だったため、もし、何かしらの競技を続けていたとして、日本のトップレベルに到達する場合、リターン率は0.00024%となった。 一万人に二人だ。

 

もちろん、各種競技ごとにこの倍率は異なるだろうし、何かしらの変数があることも否定しないが、上記したように、概算で単純計算をしてスポーツをすることからオリンピック代表になることをゴール設定したことを想定している。

 

狭い門である、ということを言いたいのではない。そんなことはわかりきっている。本題はここから先だ。スポーツに特化した生活を送り、スポーツで日本代表として活動するために相応の時間とお金をかけたところで、代表としてオリンピックに出れるかどうかは全くわからない

 

競技者としての技能や実力は確かに向上しているであろうが、それをなくした際に何が残るのだろうか、ということが僕が考えたスポーツをする意義に対する疑問だ。

 

スポーツに特化した生活を行うことによって、会社経営ができるわけでも、経営に関わる技能が身につくわけでも、もっといえば、生活する中で役に立つ知恵が身につくわけでもない。

 

これが僕の子どもにスポーツを絶対にやってもらいたいと思えない大きな理由だ。

 

もちろん、全否定をするつもりは一切ないし、冒頭でも述べたように、僕はスポーツが好きだし、自分が成長することを実感した時は本当に楽しかったし、うまくいかない時に工夫することの大切さを身を以て体験できたことには感謝すらしている。

 

ただ、それは上での触れたが『自己満足』だ。もちろん、それでいいのだ。僕がスポーツに期待する部分はここであり、自らがやりたいと思う動きや体勢、道具を扱う、そして相手との駆け引きなど、自分のことを認めること、つまり自尊心や成功体験を味わうことの重要性は僕自身味わっているし、大切な部分だ。

 

ただ、根本的にスポーツは遊びだ。遊びを徹底的に攻略したところで、それを楽しむ方法や見方を増やすことはできても、会社の会計を担当することはできないし、Webサイトを構築することもできないし、人を感動させる文章を書くこともできない。

 

プロで活動するスポーツ選手も多くの選手が10年も20年も続けられるわけではない。プロ野球選手の球団との選手契約を打ち切られる選手に関する情報は日本プロ野球機構のサイト内にページを設けて公表されている。

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(出典: 日本プロ野球機構『セカンドキャリア>2016年度』

大卒選手や社会人野球経験者がドラフトされる制度的なこともあるが、30歳手前で、在籍年数は8.5年となっている。これはJリーグでは契約を打ち切られる平均年齢は25,6歳となっている。しかし、何もビジネスをしてこなかった人材が、企業側も採用に関していえば簡単ではない。

 

ここまでスポーツに関して、することの意義を考えてきた。もちろん、それぞれに満足する形で関わればいい、というのはよくわかるし、それでいいのかもしれない。夢のある世界であるというのはその通りだと思う。しかし、厳しい言葉を使えば、夢を搾取することで成り立っている側面も正面切って否定できるだろうか...。

 

あくまでも遊びであり、遊びに対して本気になることは、むしろ歓迎だ。しかし、そんな本気の子ども達に対し、スポーツをするということをメリットとデメリットを説明できることは大人として不可欠な態度なのではないかという思いから本エントリを書いた。

 

僕の結論としては、スポーツをすることは意義があるとはいい難い。しかし、スポーツの自己満足(自己実現・表現・肯定感・成功体験)を満たす効用については大いに期待できるし、実体験としてもオススメはできる、と考えているということでエントリを締めたい。

*1:総務省統計局 統計データ > 人口推計 > 人口推計の概要,推計結果等 >人口推計の結果の概要 より

*2:リオデジャネイロオリンピック2016 日本代表選手団 - JOC

小室哲哉さん引退は僕たちのせいだ

小室哲哉さんを引退に追いやったのは誰か...。そんな誰も納得しない問いをここ数時間真剣に考えている。モヤモヤした気持ちを抱いた僕がTweetした内容は以下の通りだ。

 

 

ここで僕が述べているのは、国の政治家が愚かだと国民が罵ることは国民に主権のある民主主義国家である以上、それを選んだ国民が愚かだったという証左になるということから、出版物においても同様で、活字として出てくるものは、発行者や編集者、記者が「求めている人がいる」ということを背中に感じた上で実際に行動した結果だ。

 

つまり、新聞、雑誌、TV、ラジオをはじめとしたマスメディア然り、ネット内でもSNS、ブログ、掲示板然り、そこに書かれるものはそれを読む人がいる前提で文字となり、実際に僕たちの目に触れている。

 

ここから僕が考えたことは、週刊文春小室哲哉さんのことを記事にする、ということが引退に直接結びついたかどうかは判断できないが、間接的にその背中を押す形になっただろう、ということであり、その間接的という枠組みの中には僕やファンの人たちも含めた多くの人たちが含まれる。

 

何がいいたいのかと言えば、愚かな為政者が存在するのと同様で、愚かな記事は僕たちのなかに野次馬根性を抱き、今回の記事が掲載されている雑誌をどんな形であれ手に取り、読み、否定的な感想を抱いていることの証左だということだ。

 

Tweet内でも記載したが、僕はなんだかんだといいながら小室哲哉の音楽が好きだ。中でも『BEYOND THE TIME~メビウスの宇宙を越えて~』はトンデモない名曲だと信じている。

 

全く聞いたことのない人は是非、目を閉じ、自身の中にある宇宙をイメージしながら聞いてもらいたい。ここまで音楽で空間をイメージさせられる曲を僕は他に知らない。


TM NETWORK / BEYOND THE TIME(TM NETWORK CONCERT -Incubation Period-)

僕なんかが言わなくても、小室哲哉は紛れもなく天才だ。

だが、その天才は、プライベートで消耗し、それを少なからず妬む気持ちを抱いていた僕たち愚かな消費者たちが今回の掲載された記事を求めた結果、芸能活動からの引退という最悪の結末を迎えることとなった。

けど、それは僕たちが間接的に招いた結果であり、そんな僕たちは小室哲哉の音楽を楽しむ資格を持っているのだろうか。ただ、記事にした文春を否定するのは簡単だけど、その記事を読むのは僕たち消費者だし、騒動を報道するワイドショーを視聴するのも僕たち消費者だ。

僕たちは、希望するもしないもなく、「求めている」と思われている。思われているからこそ、活字になり、記事になり、編集され、出版される。別の媒体でも一緒だ。

そこでどうしたらいいのか、という解を得る段階に僕はまだない。ただ、今は残念な気持ちを抱いているが、いま、僕のそば小室哲哉さんが浅倉大介さんと共に作った『仮面ライダービルド』の主題歌をノリノリで聞いている長男がいる。

まだ4歳だが、「この曲はすごくかっこいい」という彼の言葉は小室哲哉という才能について、素直に評価された一言なんだなぁと切なくなった。