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【養老孟司】『遺言。』は都市化ってどういうことなのか考える機会を与えてもらえる

遺言。 (新潮新書)

遺言。 (新潮新書)

養老孟司、25年ぶりの書き下ろし

なんだか本が書きたくなったのである。

本書を手に取ったボクはこの一言で一気に引き込まれた。
過去、養老孟司の著書を全てではないにしろ、読ませていただいている。
とっかかりとなったのは【バカの壁】であり、それまでの一面的なものの見方を見直す機会となったのをよく覚えてる。

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

本書を読んでいくと、現在の都市化が進んだ現代において、改めて、人間の感覚や認識の重要性について養老が訴えかけてくる。
ここでいう人間性とは『意識』や『感覚』といった機械での再現性が難しいとされるヒトの特性。

ボク自身もAIや井上智洋のいう純粋機械化経済*1は望んでもいるし、可能ならば早く到来してもらいたいとも考えている。

早く到来したからといって、我々人間が“ヒト”ではなくなるかといえば、そんなことはない。


もしかしたら、いまの生体よりも機械化が進み、拡張性のある状態になっていることは十二分にありえるかもしれない。
だけど、だからと言って、考えること、意識することは普遍的なものだからこそ、無くならないだろう。


著者である養老は、『考える』『感覚』といった人間的な特性について、こう述べる。

それが正しいとか、正しくないとか、そんなことは考えていない。考えというのは、そういうものである。

われわれは感覚でいったいなにをまず捉えているのだろうか。それは世界の違い、変化である。

ここは本書を読み進めていく中で、かなり重要な箇所だった。
これらを認識しているかどうかによって、あらゆる街を都市化させてきたこと、今後、人工知能や機械化の推進によって起こる人間と機械の関係を理解できるかどうかに大きな差が出てくる。


それを埋めるキーワードが、世界の違い、変化を感じることにあるのだと理解している。

均質化の代償

現代生活、とりわけ、都市の中での生活というのは、可能な限り『感覚』が働かないようになっているし、そのように作られてきた。
しかし、それを誰が意図したわけでもない。
みなが、『同じ』価値観に基づいた住居を集めたことによって、都市化が進んだことの結果だ。


風の吹き込まない、床面には凹凸もなければ、壁には防音効果がある。
周囲の環境を一切遮断する要素をいくつも用意することで、“住みやすい”環境を手に入れた。
結果、意味のあるものだけに囲まれた世界に住むことになる。


それが当然のように暮らしの中に落とし込まれていくことで、意味のないものの存在、いわゆる”自然”的な存在が許せなくなってくる。
風や音、触覚など、いわゆる五感と呼ばれる感覚器の働きを抑制しながら、我々は近代を生きている。
だから発展をする以前の世界に戻ればいいとか、そういうことを言っているのではなく、そういう状況だ、という確認である。


この感覚を遮断する、という行為で均質化を図る前提になっているのは、“言葉”の成立だ。
言葉というのは、『同じ』を共有するツールであり、言葉を使いこなしてきたからこそ、人類は共同体の生活圏としての都市を築いてきた。


当然ながら、文明の発展に必要だったのは、それを記述や口頭伝承、いづれにしても『言葉』が必要だった。
『同じ』こと、つまり再現性を求めるということであり、あらゆる物事の伝承や継承を行ううえで、最適なツールが言葉だった。
著者である養老はりんごを用いて説明する。

いうというのは、言葉を使うということであって、言葉を使うとは、要するに「同じ」を繰り返すことである。それをひたすら繰り返すことによって、都市すなわち「同じを中心とする社会」が成立する。

つまり言葉、ここでは概念が成立するために必要なことは、リンゴについてそれぞれが同じことを考えている、という前提である。

養老は、マスメディアやネット、Googleの隆盛については根本的にこれで集約されるとしている。
つまり、言葉という人間が生み出した伝達ツールは、”同じ”ということを認識・確認するためのものであり、そのツールによって人々の間には知識・意識の同質化がなされるということだ。


逆を言えば、言葉が通じないということは意識や知識の同質化を図れないということを意味し、これは我々も日々の生活の中で体験済みだ。


ボクには4歳と2歳の息子がいるが、この二人とのコミュニケーションは根本的に一緒なのだが、異なる。
意味理解的にいえば、4歳の息子は(大人と比較すると多くはないが)"言葉”を知っているために、共通しての理解が可能だ。
しかし、2歳の息子は、まだ言葉を話せないので、こちらの確認が入った上でのコミュニケーションは可能。


根本的には二人ともコミュニケーションをとることは可能だが、意味を理解し、それを共有するために言葉をつむぐという点で異なる。


日本語を話す我々は、日本語を話せない外国人との会話にほとほと苦労する。
しかし、相手が知っている言葉をこちらが発した瞬間、一気にコミュニケーションにおけるブレイクスルーが起こる。


共通認識が図れたことにより、心理的な距離感が一気に近くなる。
こういった経験をしたヒトも少なくないのではないか。


養老がいうように、我々はヒトとして”言葉"を話し、その意味を相互理解することで、認識や意識の共有を図ってきた。
そして、それを書き残すことによって、過去と未来をつなぐ"歴史”を作ったのだ。


過去の人間と現在に生きる我々では決定的に時間軸が異なるため、相互理解という点においては困難な部分もある。
だが、言葉があるからこそ、残すことができ、それを認識するという同質化が可能になったこともまた事実だ。


その言葉の壁も、人工知能やスーパーコンピュータの発展により、「考える」必要がなくなることも十二分に考えられる。
そうなってくると、我々人間は、“同じ"ことを考えることが可能になる。


しかし、ありとあらゆるものが“同じ”になったとして、現在我々が生きる文明社会の生活を彩る「違い」を何で味わえばいいのだろう。

ヒトがアートを求める理由

「同じ」に立脚する文明社会に、「違う」ものはないのだろうか。同じという機能を持った意識も、違うものがなければ具合が悪いと、暗黙のうちに知っているに違いない。だから文明とともに生じるヒトの典型的行為があって、それがアート、すなわち芸術となる。いうなればアートは「同じ」を中心とする文明世界の解毒剤ともいえる。

同じものが一つもない世界で、優れたもの、それを芸術作品という。

コンピュータは芸術を作るだろうか。本質的には作らない。それが私の意見である。なぜなら、少なくともいまのコンピュータは、芸術に前提される、唯一性を持たないからである。


機械が芸術作品、つまりアートを生み出すことは可能だろうか、という問いに対して養老は以上のように述べていた。
これにはボクも納得の上での賛成だ。


過去記事で取り扱った中で、井上智洋も述べていることだが、機械を人間の感性に近づけていく作業が必要になるだろう。
dolog.hatenablog.com
機械は数値として、つまりデータとしての認識や、その数値を基にした計算においては人間をすでに凌駕しつつある。
しかし、そこからあえて逸脱する行為においては、模倣ができないだろう。


つまり、正確性を求めることにおいて、人間が機械にかなうすべはないが、正確さの中に逸脱を計算することができるのは人間だけだ。
もっとありていに言えば、「壊すこと」を意図しておこなえるのが、人間の強みともいえる。


そう考えると、アートやスポーツなどは人間特有の個性なのだ。
そして、エンターテイメントなど、崩すことや壊すことも計算されている場の空間を演出することが機械に奪われず、今後も隆盛を誇れるものになるということは、さまざまな媒体でいわれていることだ。


本書を読み進めていくと、そんな世間では当たり前だといわんばかりの風潮や認識について、一つ一つ、人間のあり方を確認しながら、丁寧に認識していくことができる。


本文の中で紹介した養老の言葉以外にも、たくさんの言葉に出会うことができる。
それは、人間の意識や認識について、「考える機会」を与えてくれるものである。


また、意味のあることだけを扱ってきた我々は、意味のないことをどれだけ大切にできているだろう。
そんなことを読み終えたときに感じられる本だ。

遺言。 (新潮新書)

遺言。 (新潮新書)

*1:人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 (文春新書)の中で触れられている汎用人工知能の普及とともにおこる経済社会