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dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

アンパンマンの世界とは、ポスト・シンギュラリティの世界である

通貨という概念が存在しない

唐突ではある。

しかし、あまりにも合点がいかない。子ども(次男)がアンパンマンを大好きなこともあり、我が家では録画視聴(生視聴ではない!)をしているのだが、それを見ていた際に感じたことを書いて行こう。

 

まず、この世界の中に“通貨”という概念自体は存在しない。

誰かがお金を払ってサービスや物品等を購入する、というシーンを見たことがあるだろうか。少なくとも僕はない。

つまり、この世界の中では通貨という兌換性が必要なツールは存在しないことを意味しているのではないか。

それを最も決定的にしているのは、ジャムおじさんの存在である。

ただ、パンをこね、無料で配布している

マスオさんことジャムおじさんは、その優しい言説と雰囲気、何よりもパンをこねる際の魔法が魅力的な人物である。

何より、主役であるアンパンマンを生み出したことで有名な存在ではあるが、この世界の中で彼はパンを作ることにおいて、他の存在が認められないところをみると、圧倒的なまでの寡占状況を生み出している。

しかし、それにおいても、彼は一銭も得をすることはない。

何故ならば、この世界には通貨が存在しないからだ。

ビットコインなるものも、日本の円を匂わすような茶化しい紙幣も貨幣も存在しない。

 

ただ、パンをこね、無料で配布しているのだ。

そう、ただ、パンをこね、タダで配っているのだ。

 

しかし、注目すべきは、このパンを生産する際に必要な火はどうしているのか、という点。

火を起こす、もしくはそれに類似した方法でパンを焼く、というからには、何かしらのエネルギーが必要なわけであり、その生成にはエネルギーを発生させる太陽光、原子力、火力、水力、地熱...など、多々あるわけだが、ジャムおじさんのパン工房にはそれらに類似する施設等は存在しない。

しかも、送電線を引いているわけでもなさそうである。

これは何を意味するのだろうか。

 

勝手な憶測だが、これは、エネルギー問題が解決されているのではないだろうか。

一つの家庭に一つのエネルギー生成装置が設置されており、この世界において、すでにそれは一般的な知識として認知されていることが考えられる。いや、そうでなければ納得できない。

 

つまり、アンパンマンの世界では、エネルギーがフリーになっているのだ。

これで多くの点が納得がいく。

 

アンパンマンの世界は、ポスト・シンギュラリティそのものであり、すでに人類はエネルギーフリーを獲得しているのだ。エネルギーがフリー、つまりタダとなることで、あらゆる生活コストが引き下がり、結果として自給自足生活(のようなもの)が可能になる。

 

いや、むしろ、働くことが必要なくなっているのではないか。

これによって、いわゆる大人の存在がそれほど多く確認できないのにも納得できる。

 

アンパンマンの世界における大人たちは趣味に講じているのだ。

子どもたちは学校へ通い、その合間に友人たちとの交友を深める。

 

衣服等についても、手縫のものを楽しむ者もいれば、特にこだわりがなければ、各種ECサイトで購入し、配達員(のような仕事をすることが趣味な人)が運んでくれるのを待ち、それを着る。

衣食住において、特に不満が生じることのない世界で、お金を稼ぐ必要も、使う必要もない世界に住んでいている。

この人たちが次に到達した世界は人間を辞めることだったのではないだろうか。

人間をやめた人間たち

そして、アンパンマンの世界の人間たちは人間という姿に囚われる事をやめたのだ。

ありとあらゆるコストから解放された人類は、自らの行動を規定する擬態化することによって、満足感を得ているのだ。

カツ丼や天丼、パンといった姿に自らを変貌させることにより、イメージを作る事、つまり人生のアイコン化を図ったモノだと推測する。

これによって、各種のSNS等による自己承認欲求を満たす行為を全面的に、自らの人生を投げ打つことによって成立させ、『〇〇といえば、あの人』という構図を、それぞれ各個人が実践することができている。

いわゆる評価経済的なものがすでに定着しており、それが当然の世界なのである。

 

最終的には、どうでもいいのである

さて、ここまで思いつきで文章を書いてきており、内容的には浅はかながらも1,500文字を超え、2,000文字に突入しようかという状況になってきた。

わかるだろうか。

原稿用紙5枚分程度の文章を、ただ、アンパンマンの世界が我々の“先”に位置する世界なのではないか、という本当に妄想話で引きずっているのだ。

我ながら大したものである。

ここで一つ、注意しておきたいのは、ドラえもんのような近未来ではなく、アンパンマンを選んだのには理由がある。

アンパンマンの世界には、科学的なな匂いがバイキンマン以外全くしないのである。

しかし、バイキンマンの製造する機械たちは、恐ろしく高性能であるとともに、恐ろしいぐらいの剛直性、耐久性を持ち合わせている。

おそらく、あの技術は我々の世界からの名残であり、それを唯一継承しているのがバイキンマンなのである。(このバイキンマン論は別の機会に譲る)

 

つまり、バイキンマンは我々であり、我々はバイキンマンなのだ。

ドラえもんの中に出てくる、野比のび太は典型的なダメ男である。

あんな男をどうにかしようとドラえもんのような超高性能ネコ型マシンを送りつけてくるセノビの高圧的な態度に反発しているだけ、というのが大きな理由だ。

もっといえば、ドラえもんの世界は、なんだかんだと言いながら努力することによってなし得たい事を成す、というヒロイックな展開というのも、僕に絶望を与える。

その点、アンパンマンは自らの存在を投影させるべきものはいない上に、すでに発展を重ねる世界は本編内でいくつか紹介されており、そこにケチをつける事はしない。

 

長くなった。

ひとまず、ここで改めて結論を述べるとしよう。

 

アンパンマンの世界は我々の技術的特異点、つまりシンギュラリティが起こった後の世界、つまりポスト・シンギュラリティ・ワールドであり、それをいくつか証明するであろう描写を上記した。

 

だが、究極的にはどうでもいいのである。