【友田明美】『子どもの脳を傷つける親たち』は自分が加害者かもしれないと認識させてくれる
虐待の悲劇的な効用は脳の萎縮
本書内で触れている最もセンセーショナルなのは「マルトリートメント(強者である大人から弱者である子どもに対する不適切な関わり方)」を受けた子供の脳へのダメージと、その影響について述べられる部分だ。
本書内では、「虐待」ではなく「マルトリートメント」と表現しており、“虐待という言葉の持つ響きが強烈で、ときにその本質を見失うおそれがあるため”という。
確かに「虐待」という言葉は非常に重く、辛い。被害者だけではなく、加害者にもその重さがのしかかる言葉ではあるし、言葉だけを追いかける形になれば、その後の対策についても“行為”だけを辞めれば良い、という理解になりかねない。
だからこそ、「かかわり」という言葉を用いたことで、あくまでも保護者の「かかわり方の問題」という認識を与えることを目指したのだろう。
しかし、本書内で触れているマルトリートメントの範囲は「かかわり方」という言葉を採用しているだけに広い。広くなることによって、ボクは自らもマルトリートメントの加害者であることを認識するに至った。
自分とは無関係だと思い込んでいた
本書を読むまで虐待が与えるダメージは短期的なもの(肉体的なもの)と長期的なもの(精神的なもの)と、その虐待期間によるダメージ箇所が変わる、という程度の認識でしかなかった。というよりも、そもそも虐待というものに対し、特に意識したことがなかった。
部活動中の教員による体罰によって当時17歳の学生が自ら命を絶った大阪桜宮高校の事件以来、ボクは“体罰”という言葉には敏感ではあったと思う。しかし、虐待という言葉には敏感な状態かといえば、決してそんなことはなく、むしろ無関係とすら思っていたようにも思う。
しかし、自分に子どもができ、向き合う中で少しずつ認識がずれていった。
小さい子どもを持つ保護者であれば経験があると思うが、生まれたての子や幼児期の子どもは我々保護者の意思とは相反した行動が日常茶飯事だ。無論、それが愛おしい要素ではあるのだが、時としてそれが憎悪に変わる瞬間もある。
3時間おき(短ければもっと短時間)に起きる乳児期などは、母親が心身ともに疲弊しており、パートナーである父親はサポートが必然的に求められるが、何をしても泣きやまない時というのは、両親にとって非常にツラく、長い時間になる。
その時間が頻繁に発生してくると、普段は愛くるしい目の前にいる赤子が異常なまでに憎く思えることもある。
厚生労働省の報告*1によれば、0-3歳までの虐待死の内、0歳が61.4%、3歳未満では72.7%と3歳未満までの死亡率が圧倒的に高い。
ボクは虐待死や、虐待を肯定したいわけではない。しかし、そこに至ってしまう親たちの気持ちは少なからず理解しているつもりだ。そして、世の保護者は少なからず経験があるはずだ。
脳の萎縮を引き起こすマルトリートメント
最もショッキングなのは、マルトリートメントが引き起こす脳へのダメージだ。少し長くなるが、引用する。
二〇〇三年、ハーバード大学において、マーチン・タイチャー氏とともに研究を始めた時も、子どもの脳においてダメージを受けやすいのは、これらの部分であろうという予測をしていました。
それを実証するために、一八〜二五歳のアメリカ人男女およそ一五〇〇人に聞き取りを行い、以下のような体罰を受けた経験のある二三人を選び出しました。
こういった調査を行うさいには、比較するグループも抽出する必要があるため、席に挙げたような体罰被害の経験がない二二人から協力を得ました。この両方のグループに対して、高解像度の核磁気共鳴画像法・MRIで脳を撮影。詳細な携帯情報を収集し、VBM法という脳皮質の容積を正確に解析する手法を用いて、両方のグループの脳皮質の容積を比較しました。
その結果、厳格な体罰を経験したグループでは、そうでないグループと比べ、前頭前野のなかで感情や思考をコントロールし、行動抑制力に関わる「(右)前頭前野(内側部)」の容積が平均一九・一%、「(左)前頭前野(背外側部)」の容積が一四・五%小さくなっていたことがわかりました。
さらに、集中力や意思決定、共感などに関係する「右前帯状回」が一六・九%減少していました。これらの部分が損なわれると、うつ病の一種である気分障害や、飛行を繰り返す素行障害につながることが明らかになっています。
これ以外にも、性的マルトリートメントや両親が子どもの目の前で喧嘩を見せられた子どもは視覚野に対して、暴言によって聴覚野に対してダメージを負うことも紹介されている上に、マルトリートメントを経験する年齢によって、影響を受ける場所が異なる、ということにも触れている。
非常にショックだった。
絶対的な強者である大人が絶対的な弱者である子どもに対しての行動一つで、人の脳にまでダメージが及ぶことは、“なんとなく”想像はできていた。しかし、その形状にまで影響を与えることになろうとは思ってもいなかった節がある。というよりも、考えないようにしていた。
よくよく考えたらわかることだ。
筋肉を鍛えれば、筋繊維がトレーニング内容に応じて適応していくように、環境に対して適応する力が人には備わっているのだから、劣悪な環境に順応していく、ということはわかったはずだ。
しかし、認めたくなかったのかもしれない。自分自身が少し声を荒げてしまうことで、彼らの脳に対して大きな影響を与えてしまっていることに。もちろん、継続的にであろうが、単発的であろうが、「不適切なかかわり」をしていることには変わりはない。
子どもとのかかわり方は回答のないゲームだ。
正解がない分、どれだけ多くの引き出しと環境を用意できるのかが保護者・養育者たる大人の務めであり、義務だと思っている。また、ボクは子どもに関わっていて、ボクはすごく驚かされているし、幸福感を与えてもらっている。
我が家の息子は現在、四歳とそろそろ二歳を迎える息子がいる。
四歳になった長男は、色々なことに敏感だ。もしかしたら、僕たち夫婦の顔を窺うようにするクセがついてしまったのかもしれない。恥ずかしながら、喧嘩する様子を見せたこともあるし、どちらからも責められてしまう状況を作ってしまったこともある。
その都度、夫婦で反省し、改善をしてきているつもりだが、もしかしたら、いや、必ず至らない部分はあると思っている。それは、ボクたち夫婦が彼と「適切な関係」で結ばれていたいと思うし、それを模索していくことが子育てになると信じているからだ。
普段の自分の態度が少しでも気になった人は、本書を手にとって読んでもらいたい。そして、自身の行動を振り返ってみる機会となることを祈念するばかりだ。