{DE}dolog

dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

僕の名前は遠藤涼介

いまさら感が満載だが、当ブログ{DE}Dologの管理人である僕のことをエントリとして残しておく。僕がブログを書く理由は大きく分けて3つ。

  1. 中学生である自分に対して伝えられるレベルで物事を考え、発信していきたい
  2. 過去にブログを通して得た情報に対してすごく興奮したのを覚えていて、それをほかの「誰か」に届けたいと考えているから
  3. タイトルの通り、いろんな情報の取得行動履歴

継続してエントリを書いていくことを考えたのには、僕の実体験を人に伝える行為をしてみたいという承認欲求が動機であり、理由だ。僕は過去にドイツへ超短期留学をしたことがある。当時の僕はスポーツトレーナーとして名を馳せていきたいと真剣に考えていて、行く2,3年前から本当にいきたくて仕方なかったのをよく覚えている。いくことになった前年の8月に結婚したばかりの僕を、我が家の嫁はブーブー文句を言いながらも最終的には応援する形で向かわせてくれた。

そのドイツでの学んだことを自分なりにまとめて、対外的に発信することが、日本のスポーツにとって少しでも影響を与えてくれるんではないかと思ったし、そうすることで属していたコミュニティでも貢献できるんじゃないかと考えたことから、書き出したのを覚えている。

そして、実際にエントリを読んでくれた人たちから「わかりやすかった」とか「まとめてくれて助かった」とか、自分のしたことを評価してくれた上に感謝までされたことを本当にうれしく思ったし、やりがいを感じたことが何より大きい経験だった。

...のだけれど、今ではブログサービスを乗り換えまくったせいで、文体が壊れているぐらいに読みづらくて、非常に心苦しいのだが、ブログを書き始めた原点ともいえるエントリだ。
dolog.hatenablog.com

そこからもチョコチョコと気づいた時に書き連ねるようにしていたものの、なかなかエントリを増やすようなことをしてこなかったし、できてなかった。しかし、2017.11月頃から自分の生活ペースの中で確実に更新できる頻度でエントリーを増やしていこうと考え、現時点では継続できている。

そんな中で、僕は新たに読んでくださる人たちに向け、自己紹介をしたい。

 

僕は幼少時代、新潟県の燕市という街で育った。『燕三条』といえば洋食器産業が盛んな地域ということで、小学校の教科書でも紹介されているから、なんとなく知っている人もいるかも知れない。そんないわゆる職人の町とされている燕市で育った。そして、そんな燕市内にある上州屋というそば屋で多くの年月を過ごしてきた。そう、ボクの実家はそば屋だ。

店主である僕の親父は、高校卒業とともに東京へ修行に出て、銀座の名店といわれる店に腕一本で職人として働いた末、地元に帰ってきて開業した。今っぽくいえば、東京からのUターン創業者ということになる。

創業当初、地元では燕三条という地域的に麺といえばラーメンが主体であり、そばを好む人間などいないということから「絶対に潰れる」ということをひたすらに言われたらしい。創業者本人と僕の母親が揃いも揃って述べていたので、相当な言われようだったのだろう。

 

子供時代、ボクは活発な少年だったように思うし、空回りの得意な少年だったのは覚えている。ほんと、どこにでもいる真面目な小学生。

下校時、友人との帰り道で目をつむりながら走り、田んぼの用水路へ落ちたこともあれば、お腹が痛くて我慢して夕方遅くまで遊んでいたところ、自転車に乗った途端に股間を刺激されたことからゆるいヤツが出てしまったこともある。つまり、普通の小学生ということだ。

そして、本が大して好きではなかった。

いまでこそ、年間に年収の●割程度を消費し、本を読み漁った末に奥さんから目玉を食らってしまった経歴を持つ僕だが、いわゆる学校という場所へ通学している時には全くもって本が好きではなく、苦手だと感じていた。

小学生の時に読んでいた本といえば、『ズッコケ三人組』か『はれときどきぶた』か『週刊少年ジャンプ』ぐらいなものだ。特に週刊少年ジャンプについては、いわゆる黄金期と呼ばれる時代に読むことができたことは光栄だった。

それいけズッコケ三人組 (ポプラ社文庫―ズッコケ文庫)

それいけズッコケ三人組 (ポプラ社文庫―ズッコケ文庫)

 
はれときどきぶた (あたらしい創作童話 13)

はれときどきぶた (あたらしい創作童話 13)

 
Slam dunk―完全版 (#1) (ジャンプ・コミックスデラックス)

Slam dunk―完全版 (#1) (ジャンプ・コミックスデラックス)

 

スラムダンクにおける桜木花道の成長っぷりに興奮したし、ドラゴンボール孫悟空が放つ救いようのない強さに憧れたし、こち亀における両津勘吉はダメな男と思いながらも共感したし、I'sの伊織ちゃんの可愛さにほとほと惚れ抜いたし、るろうに剣心の作者が新潟出身だからってのだけで凄くそそられた...。いや、本当だ。

とにかく、本といえば簡単な文字の大きいものしか読めないし、漫画しか内容が入って来なかった。そんな僕でも今となっては活字が大好きになるのだ。人生とはわからないものだ。

 

そう、なんの脈絡もないが、僕のスポーツにおけるヒーローはカズであり、ヒデであり、ゾノなのだ...。いや、野茂やイチロー、松坂にも憧れ、ひいてはマイケルジョーダンや田臥勇太にも憧れたものだ。 

おはぎ

おはぎ

 
中田英寿 誇り (幻冬舎文庫)

中田英寿 誇り (幻冬舎文庫)

 
イチロー 262のメッセージ

イチロー 262のメッセージ

 
僕のトルネード戦記 (集英社文庫)

僕のトルネード戦記 (集英社文庫)

 

つまり、サッカーもバスケも野球も大好きだった。小学校5年生の時、地元のサッカースポーツ少年団に入った。練習試合に出してもらえなかった。1ヶ月でやめた。

中学校に上がってから野球部に入った。仮入部期間から本入部に際し、校舎周りを10周走った後、上級生のノックの玉拾いをさせられた。1日でやめた。

その後、すぐにバスケ部へ移った。割と頑張って秋には上級生に混じってベンチメンバーに入った。冬になり気管支炎から肺炎にかかった。部活に顔を出せない期間が長くなった。同級生や上級生からいびられた。学校行くのが嫌になった。引きこもった。

朝、起きると腹痛が起こる。トイレに入ると凄く安心した。誰も僕に干渉できない空間に入ることで僕以外の不可侵空間を得ることができたと実感する。親から「学校、休もうか」と言われることで精神的な安堵を得られたのをよく覚えているし、当時の僕にとって大きな救いになったことはいうまでもない。

ほどなくして、バスケ部の顧問へをやめたいと申し出た。すると、顧問からこう言われた。

「ここで逃げていいのか?ここで逃げたら一生このままなんじゃねーか?」

こう言われ、僕は奮起した...のではなく絶望した。担任はそんな僕に何もしなかった。自宅まで来たが、大したことはしなかった。どちらも部活動に力を入れている教員だったが、そこから漏れ出てしまう人間は容赦なく冷たくあしらう。

その後の僕もそうだったのだが、部活動という組織から漏れた人間に、得てして内部の人間はえらく冷たい。それは“辛酸を舐めながらも頑張っている自分たちの場所から逃げた人間許すまじ”という空気が確実に存在する。それを顧問たる立場にいる彼らは平気でやってのけたのだ。そして、その後、そんな状態にいる僕に対してフォローを行うことは卒業するまで一切なかった。

バスケ部の顧問に至っては、親が営むそば屋へ教員でまとまって訪れた際に、店内で僕の母親に対し「期待してるから勿体無いと思うんですよね〜。」なんて軽口を叩き、僕の存在が部活の中では大きな存在であるかのようにした。僕が欲しかったのはそんな言葉ではない。

逃げることを非としか受け取れないのが教員なのであれば、教員になんて死んでもなるものか、と心に決めた。

のらりくらりと中学生活を送っていた僕は最終学園への進級時に陸上部への入部を決意する。理由は卒業アルバムでの掲載を気にして。僕は2年次にコンピューター部に所属しており、その面々と卒業アルバムに映ることはどうしても避けたかった、という青春期における青少年の心持ちというものだ。

 

高校生になり、僕は後ほど新潟県内で強豪校となるサッカー部に所属することを決めていた。そう、サッカー少年団を1ヶ月で退団し、野球部を1日で退部し、バスケ部を体調不良と引きこもりから9ヶ月ほどで退部した、言ってしまえば“ダメなやつ”である僕が、だ。

男子サッカー部 - 帝京長岡高等学校

僕が1年生の時に全国高校サッカー選手権大会の本大会へ初めて駒を進めたが、これは新潟県で新潟地区以外から初めての優勝ということで、新潟県のサッカー史においては歴史的な転換点となった、みたいだ。

僕はというと、3年生の時にGKで試合に出れた。運が良かった。そして、今となっては全国的に有名になった帝京長岡高校サッカー部のOBだ。 プロ選手も後輩だ。これから全国大会で優秀な結果を残すことができる後輩たちも、総じて僕の後輩になるのだ。

すごくカッコ悪いので、もう言わない。ただ、仕事やらでそれが話題になることで若干進めやすいことがあるので、そこぐらいでは話題にする。

 

そんなこんなで僕はスポーツを大好きな僕は初めて、その大好きなスポーツで自分史における自信となる結果を残すことができた。そのことによって、キャリアをスポーツで進めていこうと考え、スポーツトレーナーの道を志すことにした。

専門学校への進学し、無事に卒業を迎えた僕は私学の高校野球チームをはじめとした数カ所と契約を結び、活動を開始。まぁ、あまりうまく行かなかったから2年ほどで畳み、接骨院とフィットネススタジオが併設されている施設へお世話になることを決めた。

ちなみにドイツへ行ったのはこの時期であり、スポーツで副業的に色々と仕事を取り組めたのも当該施設に籍を置いていた時期だ。施設の詳細は、当時僕が書いた下記エントリに記してある。三条市近辺にお住いの方は是非、足を運んでもらいたい。

dolog.hatenablog.com

同時に、僕はインターネットが大好きだったし、クラウドファンディングサイトで募金を募って未来を描いた製品がローンチされる様を見るのが未来を見ているようで大好きだった。結果、出来上がってきた製品がクソみたいなものだったり、プロジェクト自体が消し飛び、出資金が飛んだなんてことは懐かしい思い出だ。

当時はKickstarterも日本語対応しておらず、訳のわからないまま支払いにはペイパルの登録が必要ということで無理やり登録したり、とにかく日本の中ではなく、海外で有望なサービスが色々とローンチされ、日本の中でサービス開始されるという瞬間を目の当たりにしていた時期でもあった。

その後、僕は新潟県内に存在するスポーツの専門学校へ籍を移すことになる。この時になると、トレーナーとしての名を馳せたいとか、実力を高めたいという気持ちよりも経営や管理に目が向いていた。

過去に自分が個人事業を行っていた際に躓いた部分がそこだった自覚があり、それを職務として担える場所がないかを考えていて、大きな組織に入り込んで行くことで賄えるのではないかと勝手に期待し、特別講師などを経て声をかけてもらった専門学校へと足を向けた。

dolog.hatenablog.com

しかし、ちょうど経営管理や運営について学べば学ぶほど、与えられた職務を担えば担うほどに箱の中だけ、スポーツの中だけで物事を考えることに限界を感じた。

インターネットの世界は話題の宝庫だ。この世界では個々人がすべての情報を個人の認識のもと、自由に発信することが認められている。スポーツはその話題の一つに過ぎない。ちょっと瞬間的なバズり方をするから、スポーツには広告として価値がある。しかし、持続的・継続的に事業を跳ね上げ続けられるかといえば、現状はできてない。

だったら、スポーツの世界にだけ依存して生きていることは、将来の僕に対して僕自身が恐怖感と焦燥感を感じていたのが確かだった。サラリーマンになりたかったのではなく、ビジネスマンになりたかったのだ。つまり、人的資本を高めることをしたかった。

組織に所属することが前提になるのではなく、所属することを所望される存在にならなければならないのだと自分に対して強く感じていた。しかし、現実の自分はそうなれていない。自分の親父が30年以上も自らのスキルで「稼いできた」ことは客観的な事実であり、揺るがない。そこを羨ましくも思うし、自らができていないことを情けなく思ってもいた。

スポーツトレーナーをしていた時、よく父親に「遊びだろ」と言われ、憤慨したのを覚えているが、今となってはよく理解できる言葉だ。

果たして、スポーツはあくまでも広告費と集客収入がメインとなる。広告を扱うことなんてことをしたことがない僕は、逆にできようになるのであれば、スポーツを選択肢として保つ上でも絶対的に不可欠なのではないかと考えたこと、新潟の中でベンチャー企業で働ける機会がそう多くはないだろうと考えていたことが重なり、県内大手グループを辞め、新潟市内のべんチャーへ籍を移した。

正直、受かると思っていなかったが、非常に勢いがあり、魅力があり、夢を感じた。このワクワクする感じがベンチャーの良さであり、最大の利点だろう。地方発のメガベンチャーを標榜していたこともあり、その一員になりたい気持ちと、自分自身もスケールして行きたいと考えていた。

メンバーはとにかく精鋭揃い。彼らは新潟は愚か、他府県で同様の企業があっても中枢を担えるであろうと思える力を、日々、自分たちを頼ってくれる顧客からの仕事に注ぎ込み、取り組んでいた。

あのレベルで仕事を取り組んでいる人たちには出会ったことがなかったというのが正直な感想。そんな圧倒的なスキルを持つ精鋭揃いの中で、とにかく僕には圧倒的にスキルが足りていないことを実感することばかりだった。勉強をすればすんなり入ってはくるし、自分なりに考えを持って取り組んでいたが、それ以上のスピードと質を求められ、僕は挫けた

加入から7ヶ月を過ぎたところで会社の諸事情もあり、それまでの企画営業や自社媒体の編集要員兼営業に付け加える形で管理部門での仕事を任せてもらえるようになった。自らの力を過大評価していたのかもしれない。高望みをしすぎたのかもしれない。結果として僕はその仕事をこなすことができず、精神的な疾患により2ヶ月ほど休職した末、退職した。

この精神的な疾患については、きちんとエントリを書きたいと思う。ひとつ言えるのは、家族がいてくれたことが何よりも救いだった。そして、その経験があるからこそ、僕はひとつ階段を登れたのではないか、と思う。現状全く問題ない。全治したということで医師からも診断を受けてもいる。

僕は自分に絶望したくないし、諦めたくない。悪あがきとも取れるだろうし、何ができるんだ、という風にも捉えられるかもしれないが、何か大きなことをしたいのではない。ただ、自分が納得した人生を送りたいと考えているだけで、あらゆることを子どもに説明できる人物でいたいとも思う。

子どもに対して、あらゆることを説明するためには、自分自身の色々なリテラシーを高める必要があるし、多岐にわたる関心を持っておく必要がある。そのため、現時点では書評が主な内容となっていて、その時点での自分の感じたこと、考えたことを他者の目に触れるように書く必要があると思い、エントリを継続的に書くようにしている。

 今後も、仕事上必要なこと、生活上必要なこと、子育て上必要なこと、ありとあらゆる僕に関わることに関して、アウトプット・共有の場としてエントリを更新し続けていこうと思う。

あらゆる面でど素人の僕が中学生当時の僕に引きこもりという選択をしたことに対して、それ以外にも楽しいことや面白いことはたくさん存在していて、それらを解説していきたい

そんな思いで今後も更新していきたいと思う次第だ。

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