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【藤沢数希】「反原発」の不都合な真実を読み、よく考えてみよう原発のこと

 

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

 

 「感情論だけの否定はやめにしていきたい」というのが2011年以降、日本の中で活発になっている原子力発電に関する即廃止論を見てきて思う正直な気持ちだ。

それを2011年の段階で警鐘を鳴らしていた書籍を紹介したいと思う。

まず、著者である藤沢数希をご存知ない方のために表紙裏の著者紹介を引用しよう。

欧米研究機関にて、計算科学、理論物理学の分野で博士号取得。その後、外資投資銀行で市場予測、リスク管理、経済分析に従事しながら、言論サイト「アゴラ」に定期寄稿する。著書に『なぜ投資のプロはサルに負けるのか?― あるいは、お金持ちになれるたったひとつのクールなやり方』『日本人がグローバル資本主義を生き抜くための経済学入門

ちなみに、先日、TVドラマとしても制作・放送された『ぼくは愛を証明しようと思う。 (幻冬舎単行本)』の原作者でもある。

 

本書は3.11以降で蔓延した原発を絶対悪と決めつけ、その廃絶こそが『正義』だと決めつけた論調を行うマスコミや我々のような市井の市民に向けた『反原発』に対する一石を投じようとする内容である。

ネット界隈では『放射脳』と呼ばれる反原発を称し、過激な発言や行動を繰り返す人たちを揶揄したり*1、一般の人たちに対しては放射線恐怖症が当てはまるとされる言葉がある。 

ネットの普及により、市井の人たちもあらゆる知識を身に付けることができるようになった。そのおかげなのか、せいなのかは分からないが、振り回される人たちも増えたといえる。

 反原発と“単純に否定する人”は、技術的な話、つまり身近ではない難しい話、もしくはリスクがひたすらに強調されてきた途端に語気を強め、その技術自体を否定し始める。これは原発に限らず、他の要因に対しても似たような態度をとることがあるだろう。

(貯金vs投資などは分かりやすいかもしれない)

 

そんな“考えたり、調べたりするのが面倒”な人に対し、数字と事実と論理を持って「反原発の風潮」に対して一石を投じるのが本書の目的だ。

 

上でも述べたが、自分がわからない分野、領域は危ないという認識を改めるには、自らの知識階層を増やしていく他に対処方法はない。その知識階層の増やし方は、伝聞や読書、など収集の方法は多岐にわたるため、方法については各人のやりやすい方法で、時間を作ってやっていってもらいたい。

しかし、それを怠ってしまった時、つまり「考える」のではなく「信じる」ことに身を任せた瞬間から感情に支配されていく

「信じる」ことに舵を切ってしまうと裏切られた(信じていたこととは違うことが起きた)場合、感情が高まり、冷静な判断や物言いができなくなる。「考える」ことは客観的な評価はもちろんだが、常に何が起こっているのかを把握することに努める必要性があるため、対象から必然的に距離をとることになる。

つまり「信じる」という行為は「考える」ことと全く真逆の概念ということになる。思考することをやめる行為が信じるということであり、信じることを始めた瞬間から考えることをやめたということだ。だから「裏切られた」という感情が浮かび上がってくる。

だからこそ、何か問題や課題が眼前に広がっているのであれば、考えなければならないし、考え続けなければならない。誰かが言ったことを参考にするのはまだしも、妄信的になってはいけないのだ。信じると決めた瞬間から、思考が停止してしまうから。

だから、原子力発電が危ないのか危なくないのか、という点についても、客観性を持って「判断」しなければならないはず。それがいつの間にか、絶対的に悪と決めつけ、破棄することが正義であるかのような態度を振るう人たちも出てきた。

では、原子力発電においては、何が危険なのかを説明できる必要があり、その危険性がどのぐらいの確率で発生しうるのか、どのぐらいの規模で被害が出ているのか、と言ったことを客観的な数値や実情を持って説明できることが原子力を破棄するという意見を表明する上での前提条件だ。

これは子どもを持つ親になって、僕は初めて痛感していることでもある。4歳になった長男と2歳になる次男。彼らに対して説明するとしたら、どう説明するだろう。いや、どう説明しなければならないのだろうと考えたときに思い浮かぶのは、あくまでも中立的に客観的に上記の事柄を丁寧に説明したい、というのが僕の気持ちであり、正しい物の見方であろうと考える。

 

ここで問いたい。例えば、チェルノブイリ原発事故に対する見解はいかがだろう。

1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発事故は、僕は生まれて1年ほどしか経っていない時期でもあり、記憶にはない。しかし、事あるごとにメディアでも取り上げられていたし、どんな事故だったのかというリアルタイムでの進行具合はわからないが、検証記事等の活字を目にする機会を2011年以降は増やすようにした。

もし、これを読んでくださっているあなたの認識が「多くの人が放射性物質の摂取により亡くなり、いまだに近隣の放射線被曝量が多く、とても人の住める地域ではなくなってしまった」と考えている人があれば、それはメディアのセンセーショナルな報道に踊らされているだけなのかもしれない。

もちろん、無害であったとは言えない。本書が刊行された2011年までに甲状腺癌の患者が4,000人ほど見つかっており、それまでに15人ほどが死亡してしまっていたとある。また、事故の緊急作業に従事し、急性放射線症やその後の癌などで50人ほどが死亡してしまっている、とあるが、それ以外の放射線による健康被害は確認されていない。

むしろ、放射線の影響を厳しく管理しすぎた結果、強制移住などによる精神的な健康被害が多かったという事を国連科学委員会がレポートで述べている、ともあり、これらの科学的な見地から藤澤は経済的な復興に力を入れるべきだ、としている。

 チェルノブイリ原発事故の健康被害は、いっぺんに被曝するような原爆のデータをもとに当初考えていたよりも、はるかに軽微だったようです。よって、放射能の恐怖を煽ったり、避難生活を無理強いするよりも、なるべくコミュニティを維持させ、経済的な復興に力を入れるべきだというのが、長年の研究結果から示唆されます。

また、一般的に人は死亡する際、軽微の癌を抱えていることはそれなりに周知されていることだが、それにも触れながらチェルノブイリ原発事故以後の甲状腺癌の増加についての研究結果を紹介するとともに、事故発生後の対応の遅さを指摘するとともに、放射能を正しく恐れることが必要だとする。

一般的に、死亡した人を解剖すると、実際には考えられていたよりも多くの人から甲状腺癌が見つかることから(軽度の癌は生涯見つからずにそのまま放置される)、チェルノブイリ原発事故により甲状腺癌が増えたのは、入念な検診プロジェクトによって報告が増え、見かけ上増えただけだという研究結果もあります。しかし、チェルノブイリ原発事故では、すぐには住民は避難させられず、高濃度の放射性ヨウ素を含む食べ物が周辺住民に流通したこと、また放射性ヨウ素は成長期の子供の甲状腺に溜まることが生理学的にも明らかなことなどから考えて、多少は報告が増えたことによるバイアスもあるかと思いますが、やはり健康被害を及ぼしたと考えるべきでしょう。

 甲状腺癌は稀な癌で、通常1年の間に100万人に数人程度の発生頻度です。これが放射性ヨウ素の汚染により10万人に数人程度まで増えたのです。放射能による健康被害が科学的に証明されたのです。しかし、依然として、高濃度に放射能汚染されたミルクなどを摂取しても99.9%以上の人に何の被害もなかったことも、放射能を正しく恐れるために理解しておく必要があるでしょう。極めて頻度の低い癌の発生確率が、数倍から数十倍に上がったのは事実ですが、それでも癌の発生確率そのものは依然として非常に低いままなのです。

数十倍や数百倍になった、ということがメディアではセンセーショナルな報道のされ方をするため、目や耳につきやすいことは認めるが、相対的なものであることを認識する必要があるということと、その裏付けを探す、ということを報道を受け取る側は身につける必要があるだろう。

そして、過去の歴史(チェルノブイリ原発事故)から学び、福島で起こった原発事故での対応はどうなったのかを冷静に見る必要があるということも合わせて考える必要がある。

日本の中でも非常にセンセーショナルな事故であったことは否定しない。だが、無知であるがゆえにひたすらに怖がることは、正しい態度ではないのではないか。

本エントリを読み、原発事故について少し思索を巡らせてみたいと思った方は是非、本書を手に取り読んで見ることをオススメする。

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

  

*1:全ての反原発派や放射能ノイローゼを指す言葉ではない