{DE}dolog

dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

家族を他人だと思えない人へ

先日、こんな内容から始まる連投Tweetをしてみました。

理由としては、僕の友人(女性)がパートナーとの関係についてひたすら思い悩んでいたのが理由です。

ぼくの結論は「家族であろうと他人は他人」ということです。

一見すると冷たい人間のように思われるかもしれませんが、ぼくの立場からすれば、「家族なんだから」という人たちほど、家族に対して残酷で冷酷な人たちはいません。

これは「核家族化が進んだことにより家族の関係が希薄化した」なんていう類の小難しい話でもなんでもなくて、血が繋がっていようが繋がっていまいが、人間は別の固体であり、人格であり、存在ですよね、という話です。

たとえば、ぼくは両親から遺伝子を受け継ぎ、身体組成遺伝を受け、その知能の70%を遺伝され(アーサー・ジェンセン;1969)、性格は周りの子どもたち、つまり集団生活において形成されてきました。

しかし、血が繋がっているということで、意思疎通が図れているかといえば図れていない。いま、この瞬間、ぼくは父親の考えていること、感じていることを認知することはできていない。

もしかしたら、今後、技術の発展により、それが可能になるのかもしれませんが、だからといってぼくが父親になれるわけでもなく、ぼくの父親がぼくになれるわけでもありません

以心伝心という現象を意図的に引き起こすことは不可能なのです。

つまり別の固体であり、人格であり、存在ということです。

当然といえば当然の帰結だし、「なにをいまさら」といわれてもおかしくないと思うんですけど、家族関係を構築する、もしくは共有する時間が長ければ長い関係の人ほど、これを受け入れることが難しくなります。

なぜかといえば、共有する時間が長いということは、共感する時間が長いということを意味するからで、ここがくせもの。共感するということは同じことを考えているわけではない(共感している≠同じことを考えている)んですよ。

ぼくは現在時点で子ども2人に恵まれており、春には3人目が出てくる予定ですが、子どものことはかわいいし、見ていて楽しいし、うれしくもなります。

たとえば、次男が最近、語彙が増えてきたので話しかけてくることだったり、呼びかけてくることが増えてきたので、その様子を見ているとすごくかわいくて仕方ない。

それをぼくと奥さんは同時に見ていたりすると「かわいいね」とか「すごいね」とか共感してます。だからといって、同じことを考えているかといえばまったく異なるはずです。

奥さんは長男との比較から「長男は同じ時期にこんな風にいえてたか」と過去を考えているかもしれないし、ぼくは「次男は次にどんな言葉をこちらに発してくれるんだろう」と未来を考えているかもしれません。

奥さんとぼくとの関係でいっても、同じ風景描写を共有したところで、同じ思考をしているとはまったくいえないわけなんですよ。これ、大人同士だと理解が難しいかもしれませんが「大人対子ども」で考えてみれば分かりがいいと思います。

我が家ではご他聞にもれず、仮面ライダーが大好きな子どもたちです。仮面ライダーRXがパワーループにて放映されております。視聴している中でぼくと子どもでRXがリボルケインで敵を倒すシーンには常に興奮!

ぼくと長男で「きたー!!!!」といえば、次男もおぼえたての言葉で「ちぃたー!!」と興奮し、相手の爆破を背にするシーンでハイタッチをする。ぼくと子どもとの間で間違いなく共感が発生している瞬間です。

しかし、ぼくはリボルケインが出された瞬間に勝利が確定するというダチョウ倶楽部的なフローについて考えますし、長男はリボルケインを出さなければならないところまで追い詰められているところが興奮するみたい。次男はよくわかんないけど、興奮してます。

このシーンを思い浮かべるだけで、それぞれ共感するステージには同時に上がっているにもかかわらず、それぞれ考えていることが異なることを理解してもらえるんじゃないかな、と。

しかし、ここが今回の問題における肝で、家族という集団は自然と共感する場面が多くなりますので、感情が揺れ動く場面を同時に過ごす時間が長くなります。

長くなる/その場が多くなるけど、同じことを考えるわけがないんです。正確にいえば、考えられるわけがない。それを押し付けることは”自分の思考に追いついていない、考えられない”と相手を突き放すことであり、残酷で冷酷な対応をしていることになります。

そして、もっと厄介なことに、この対応をしている人の大半が「家族なんだから」「夫婦なんだから」「パートナーなんだから」という耳障りのいい呪文を唱えることで相手を拘束しようとしますが、うまくいきません

それは当然で、自分が考えていることは相手も考えられるという前提が間違っていることに気づいていないからです。なので、ドンドンと相手に対して絶望し「なんでわかってもらえないんだ...」と気分がさらに悪くなります。

これは完全にポジションの取り方を間違ってしまった結果であり、その結果を受け止めきれないという不幸な循環に入っていることの証左です。

信じる、というのは考えることをやめることと同義で、つまり、口では「信じる」という耳障りのいいことをいい、根本的には相手のことを考えていない、という地獄みたいな結果を招き、思い悩むことになります。

だから、そもそも自分以外の人間が他人であり、自分の考えていることなどわかるわけがない、という前提に立つことは、一見すると冷たいようですが、根本的には常に相手のことを考えているので、どちらが優しいのかは一目瞭然です。

冷静になって考えれば、生活をともにしている中でパートナーにサプライズをしようと考えるということは、相手は自分の考えていることを共有していない、ということを理解しているということです。

しかし、それが感情が込み入ってくると難しくなるのは理解できますし、共感しますが、「他人である」ということを前提に立たないと、それまで感じてきた幸福感は音を立てて崩れていきます。

ぼくは「家族とはいえ他人は他人である」と考えはじめたことで、相手がしてくれることに対して自然と感謝の気持ちが沸いてきましたし、すごく感謝できるようになりました

相手に対して求めることが多くなってきたとき、それは自分の中にバイアスとして「一緒に時間を共有してるのに...」という強制的な圧力をかけ始めているというサインだとぼくは思います。

そうなってきたとき、ふと「他人」であるという、根本的な前提を思い出すことで、相手との距離感も適切に構築できていくのではないでしょうか。