【橘玲】『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』をまずは受け入れることだ
あなたは自らの出自を呪わずに人生を送れているだろうか。
血脈主義というのは現代の価値観において許されるものではない、というのは一般的な認識だろう。
我々は、法の下の平等における加護の下、血筋や社会的立場によって差別を生むことは許されておらず、許すべきではないというのは標準的な思考だ。
では、誰もが出自に関係なく、欲しいと願うあらゆる能力を補填し、身に付けることができるだろうか。
勉強ができる人と、スポーツができる人と、音楽ができる人と、美術ができる人との差を努力することによって埋めることができるのだろうか。
恐らく多くの人の答えは「No」だろうし、そう回答せざるを得ないというのを知っている。
「やればできる」というのはできた人だからこその発言であり、できない人間からすれば詭弁だということをぼくたちの多くは知っている。
なぜか。
その影響は「遺伝」にあると言葉にせずとも“なんとなく”知っているからだ。
しかし、それを声高にいうことはできない。する人もいない。
身長も、体重も、顔も、「身体的特徴」は親からの遺伝であると、皆が知っているはずなのに、「知能」や「性格」、「こころ」はそう思われていない。というより、そう考えることが“よくないこと”かのように捉われているのはなぜか。
その理由を橘は遺伝の問題は政治問題だとする。
「遺伝」が科学ではなく「政治問題」だからだ。
僕たちの社会では、スポーツが得意なら羨ましがられるけれど、運動能力が劣っているからといって不利益を被ることはない。音楽や芸術などの才能も同じで、ピアノで弾けたり絵がうまかったりすることは生きていく上で必須の条件ではない。
それに対して知能の差は、就職の機会や収入を通じて全ての人に大きな影響を与える。誰もが身にしみて知っているように、知識社会では、学歴や資格で知能を証明しなければ高い評価は得られないのだ。
もしそうなら、知能が遺伝で決まるというのは不平等を容認するのと同じことになる。政治家が国会で、行動遺伝学の統計を示しながら、「バカな親からはバカな子どもが生まれる可能性が高く、彼らの多くはニートやフリーターになる」と発言したら大騒動になる。すなわち、知能は「政治的に」遺伝してはならないのだ。
橘は上記引用のように述べるが、無根拠にいうわけではない。
知能の70%は遺伝で決まるとするアメリカの教育心理学者アーサー・ジェンセンや、子どもの成長に子育ては影響しないと結論づけた心理学研究者ジュディス・リッチ・ハリスを紹介し、エビデンス、つまり根拠を持って主張をしている。
特に、ハリスの研究は子育てに勤(いそ)しむ親にとって福音なのか残酷な悪魔の囁きなのかは受け取る側の状況にもよるのかもしれない。
標準的な発達心理学では、知能や性格の違いは遺伝が50%、環境が50%とされており、その環境というのは親の関与などの家庭環境だと思われている。思われているというよりも信じられている。
しかし、それは大きな誤解であり、そう思うことは親のエゴであるとハリスは結論づけた。子どもの性格は自らが所属するコミュニティで使用される言語や風習のなかで醸成されるものであり、その中で役割を得ようとすることから育まれる、と。
さて、これを読んだあなたはどう感じただろう。
この結果を受けると、さしあたって親の関与が子供の生活に大きな影響を与える、ということを信じることはいささか怖いような気もする。
そもそも、信じるという行為は、考えることをやめたものがすることであり、残念ながら、そこから先には希望も何もない。
ここに関するぼくの考え方は以下のエントリに書いているので、ご一読いただければと思う。
子供というと、親と過ごす時間が重要だという主張も感情的には理解できるが、世界の中で親とだけの関係を築いているのであれば、そう理解せざるを得ない。
しかし、現実はどうか。そんなことはありえない。
必ず、他の人間と接する機会と時間が設けられる。そうなると、子どもの周辺環境が動的に変化することになるわけであり、静的な状態で常に維持されているということはありえない。
個体としての、子どもに変化はなくとも、それを取り巻く環境が変化し続けるのであれば、それに伴った適応を繰り返すのは必然だろう。
その影響因子が親だけということがあり得ないのはいうまでもないが、影響の割合が大きいというのも、よく考えれば疑いたくなるし、現実、ハリスの研究ではその疑いが結果として出た。
親の課題はそこからだ。
だからこそ、何ができるのかを考え行動すべきであり、子どもの幸福を願うという便宜上の言い訳を周辺に振りまき、子どもに呪いをかけることはやめるべきだ。
自分の影響が決して大きくないということを認識することで、そういう環境の中で、自らの幸福について着々と行動することが大切なのだ。
本書では、世間一般的に言えば、耳が痛い情報や現実を読者に訴えかけてくる。
それを受けて、読者であるぼくたちはどう行動すべきなのか。どんな知識を身につけ、生きていけばいいのかを考える機会を与えてくれる。