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【宇野常寛】『母性のディストピア』現実を語るために虚構を語る

いまこの国の現実のどこに、本当に語る価値があるものが存在するというのだろうか。

難民を締め出し、移民に門を閉ざし、過ぎ去りし過去の成功の思い出に引きずられてグローバル化からも情報化からも置き去りにされたこの国のどこの誰に、世界の、イギリスの、アメリカの情況について述べる資格があるというのだろうか。

(中略)

この国のあまりに貧しい現実に凡庸な常識論で対抗することと、宮崎駿富野由悠季押井守といった固有名詞について考えることと、どちらが長期的に、本当の意味で、人類にとって生産的だろうか。想像力の必要な仕事だろうか。

安倍晋三とかSEALDsとかいった諸々について語ることと、ナウシカについて、シャアについて語ることのどちらが有意義か。答えは明白ではないだろうか。

何もかもが茶番と化し、世界の、時代の全てに置いていかれるこの国で、現実について語る価値がどこにあるというのだろうか。いま、この国にアニメ以上の語る価値のあるものがどこにあるのだろうか。

これは『序にかえて』で著者である宇野常寛が書いた文章を引用したものだ。

現在の虚構じみた現実に嫌気がさしていることはもちろんだが、それ以上に虚構に対しての圧倒的なまでのリスペクトを持っていることもうかがい知れる。

本書は、語るべきものとして虚構(アニメ)を扱うわけだが、虚構を題材にする理由として述べているのが上記引用であり、本書の趣旨だ。

 

媒介物であり、中間物として、本質を伝えようとし、その役割を担ってきた新聞やラジオ、TVや映像といったメディアを、ぼくたちはある意味で妄信的に、信仰的に捉えてきた。

しかし、その結果、失われたのは当事者性ともいえる。

メディアという媒介・中間物を経て伝わってくる国の現状や、政策の方向、それを伝える報道の内容は、真実を語るというよりも、その中に存在する人間が書き、発信することで"真実”とされた。

その実、責任の所在がうやむやとなり、誰がこうしてきたと語るよりも、結果的にこうなった、と述べることが正しい社会になっているのではないか。

そうであるならば、新聞や雑誌、TVや映画といった「文字から映像、そして現代のネットの世紀」に移る変遷の中で勃興・隆盛し、サブカルチャーというカテゴライズながらも、世界に発信できるクオリティを作り上げることができた虚構(アニメ)から時代を読み解くことができるのではないか。

むしろ、その方が過去から学ぶという点で言うと正しいのかもしれない。ぼくは本書を読み進める中で、そのように感じ、むしろ、主体性があることにうらやましさすら覚えた。

 

特にぼくはガンダムにおけるシャアの趨勢を追いかける宇野の姿勢に感嘆の息を漏らすとともに、慧眼たる視座に膝を打つ場面が多くあった。

宇野が語るシャア像というのは、虚構だからこその強みである主体性、当事者性を見出すのに最も適した題材なのではないかと感じている。

なぜなら、虚構の中で扱われる事象には当事者がいる。それを成し遂げようとする立場にも、それを止めようとする立場の側にも必ず主体性を持った当事者が存在する

そして、現実と同様、その当事者に対し、ぼくたち視聴者は対外的なポジションからではあるものの、同意の立場をとることもできれば、否定する立場に立つことも可能だ。

しかし、ぼくたちが住まう、現実の世界では政治における政局報道が数多く流され、いまいち当事者たちの思惑が見え隠れするものの、その本質をつかみきれない中でモヤモヤしてしまう。

そこに嫌気がさしているからこそ、政治に対する不信であったり、国の対応に対する不満を抱く。

なぜなら、そこに当事者性が欠落しているように感じているからであり、どこか他人行儀な対応の仕方をしている人間たちに対し、怒りとも似た感情が沸き起こっているからではないか。

そういった不満感や焦燥感、苛立ちを体現しているのは、虚構の中に存在する、立場としては主人公たちに敵対する組織や個人だ。虚構内での立場は敵対する立場だが、本質的には、その姿勢こそ、日本に住む国民の求める偶像なのかもしれない。

 

そう考えると、虚構・アニメを通して、本書では扱われているアニメーターたちが批評されているが、それはぼくたち読者たる国民(視聴者)が批評されているのだと気づく。

ぼくたちは、彼らの作る虚構に対し、少なからずとも同調し、否定する。それに対し、善し悪しを感情的に吐露した(感想を抱いた)瞬間、それは同意を意味し、受け入れたといえる

宮崎駿富野由悠季押井守という日本のアニメ界を牽引してきたアニメーターに対し、また、彼らが製作してきたアニメに対し、それぞれの立場と心情を慮りながらもクリティカルに、深淵を抉り出すように批評を繰り返す。

その姿勢は真剣そのものであり、ドンドンと没入させてくれる。それは、宇野の虚構という真実に対する同意と否定をしてきたことの証左であり、ぼくたちに対する姿勢そのものなのだ。

そして、読者たるぼくたちは、宇野の論調に対し、同調をしながらも否定する。そう、ぼくたちは、ぼくたちが同意し、否定してきたものに対し、否定と同意をする宇野に対し、同じ態度をとる。いや、とらざるをえない。

なぜなら、ぼくたちは虚構を好きだからであり、その可能性を信じたいと考えているからだ。決して諦めたくはないと考えているからこそ、本書を読み進めることができる。

 

そして、この国の姿を虚構という映像の中で表現し続けてきたアニメーターたちへの批評を、文字ではありながらも、彼らがなぶられる様を目にすることは、それを信奉してきたぼくたちに対して多くの気づきを与えてくれる。

虚構に没頭し、その可能性を信じているのであれば、この国の可能性を信じているのであれば、一読の価値は間違いなくある本だ。 

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

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宮崎駿の雑想ノート

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