{DE}dolog

dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

「副業をしたい」の前に「仕事ができるように」なる

これはnoteからの転載です。

 

枕にかえて

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

20代専門の転職サイトなるものが存在していることを最近まで知らなかった30代も後半になってしまったおじさんである。

その中であるアンケートが行われたことが丁寧にPR TIMESへ掲載されていたので、ついつい見入ってしまった。特に『勤務する会社で副業が認められていたら、副業したい』と回答した20代が約9割にものぼったことが目を引いたのはいうまでもない。

「副業」を希望する20代が9割に迫る。「コロナ禍でボーナスが支給されず、収入を増やしたい」「終身雇用が当たり前でなくなりつつあるので、収入を得る手段を複数持ちた...

これまで僕は企業側も副業を前提にした雇用体系を構築し、個人の賃金は個人である程度は賄ってもらう方向で人材獲得を進めていかなければ雇用契約を結べるものも結べなくなるのではないかと書いてきた。(『あなたが入った会社は、誰かが入れなかった会社。

その考え自体に変わったわけではないものの、あまりにもこの考えが前提になると損をするのはむしろ20代の若き労働戦士たちであることは付け加えておきたい。

▶︎ 複業時代とはいえ主たるスキルが必要なことに変わりない

時代は副業ではなく、資産運用におけるポートフォリオ同様、分散させることが徐々に注目どころか前提として身銭を稼ごうとする人たちが増えてきている。

分散投資とは、どこか一つにだけ金融資産を全額ぶち込んで大きなリターンを期待するといった見事なまでの博打的な投資を行うのではなく、どこか一つが投資リターンが返ってこないような損をこいたとしても別口で資産を保持して保有資産の確保を狙った投資である。

それを労働市場でも適応させ、どこか一つだけから身銭をもらうのではなく、分散させておくことでどこかがダメになった場合にも食い扶持に困らないようにすることを指して「複業」と表現する。

この考えからいけば、上記したアンケートの回答内容も極めて道理の通ったものであると言える。あくまでも食い扶持を分散させておくことで、破滅的な状況を避けようとするのだから非常に賢い姿勢であると言わざるを得ない。

しかし、考えなければならないことが一点。この話はあくまでも「売れるだけのスキルや経験、実績」があってこその話だという点である。

▷ 主業と副業で複業

複業を成立させるため、自身の労働市場における価値を分散的に使用することは大いに賛成であることに変わりはない。むしろ、そうやって生活すること自体が基軸的になっていくことこそ、沈みゆく屋形船である日本で生きていくサバイバル術であると僕は考えている。

ただ、上記している通り「売れるだけの労働価値」が提供できる人材にだけ実践できるものであることも書き添えておく。

売れる、とは買ってもらえると同義だ。

つまり、お金を出してでも自分に助けてもらいたいと思ってくれる人や会社が存在しなければならない。それもないのに「副業だ!」と意気込んだところで何も発生しない。何も生まれない。

メインとなる業務とサブとなる業務をこなすことで達成される成果や結果を踏まえて対価となる賃金や料金の支払いを受けることができるわけだが、何がメインとなるのか。何をもってサブとするのかは当人次第だ。

そこで当人が自信をもって「これがメイン業務として対価を得たいもの(スキル、経験、実績)です!」といえない時点で誰からも頼まれるわけがないのである。

これまでに明確な実績や経験もないのであれば、そもそもスキルなど保持しているわけがない。何もない状態からスキルや経験を誇張し、他人を|嘯《うそぶ》くことは虚偽であり詐欺となってしまう。

そんなこと、継続的にできるものではない。火のないところに煙は立たないのと一緒で、何も身につけたスキルがない場合、他人に向けて提示できる経験や実績もないものだ。

▷ 市場の中で明確に売り出せるスキルは何か

では他人に提示できる、他人から依頼を受けることができるスキルは自分のどこにあるのか。おそらく現在の所属先で見つけ出すことができるはずだ。

転職相談やキャリアメンターとして活動する中で実感するのだが、「自分にスキルなんてない」とか「実績と呼べるものはない」と思い込んでる人たちがあまりにも多い。自分のことをメタ認知できないこともそうだし、自己肯定感が低いことも影響しているのだろう。(この点は以前書いたnote『転職や就職に必要な強みは、あなたにも必ずある。』で触れている。)

しかし、僕のような明らかな第三者からすると、これまで担ってきた業務を丁寧に棚卸することで確実にその人の強みは浮き彫りにすることができる。強みがある、とは言い換えるならばスキルがあることだと断言できる。

自分では決して誇れるようなことではないと考えていたとしても、他人からすると大きな価値があるものである。

例えば、あなたが経理担当者として行っている日常業務や会計知識は、営業担当からすると意味不明でチンプンカンプンなもので、決して理解できないものである。

なぜ、営業活動を行う際に使用した会社経費の科目が何になるのか。仮に使用することを制限するように経営者から発信があったとして、それがなぜダメだと言われるのかを営業担当は説明できないが、経理を担当しているあなたなら理解が可能だ。

逆の立場でも同様のことがいえる。

潜在顧客相手に微妙な駆け引きから手にした受注について、営業担当者であれば顧客との折衝をこなす中で「いける」タイミングがわかるものだが、経理担当者は会計上の「売上」としか見ることができない。その先にある大きな受注の前にある小さな受注だとしても、そのロードマップを説明できるのは営業担当だからこそだ。

それぞれ担っている業務の中で、あなたの前に立ちはだかった壁は何か。その壁を越えるためにあなたがとった行動は何か。その結果がどうだったのか。いま、振り返ってみてその行動は何を与えてくれたのかを丁寧に分析してみると、明らかに武器として誇れるものであるはずだ。

そうやってあなたのスキルは見出せるのである。

▷ 強かな20代労働戦士たち

話を冒頭のアンケートに戻る。おそらく、ここまで読んできた人でアンケートの詳細を見てきた人は多くはないだろう。ここまでの内容を踏まえれば「また若い人が夢見てんな」ぐらいにしか思ってない老害もいるのではないだろうか。

実はアンケート内には「転職前に、副業で仕事内容や相性を確かめる機会があったら活用したいか?」という質問項目があり、9割が「そうしたい」と答えている箇所もある。

これが何を意味するのかは言わなくてもわかるだろう。

若い労働戦士たちは自らの適性を見極めるために副業を利用しようといるのだ。

20代の彼・彼女らが生きてゆく人生は30代の僕なんかよりも長い。順調に生きながらえることができれば60年以上は生きていくはずだ。定年なんて制度は崩壊するだろうし、年金制度は既に崩壊しているのだから、自分で稼ぎながら生きてゆく他にない。

そんな就業人生で、転職をしないなんてことはあり得ないだろう。

おそらく、一人が少なくとも2、3回は転職を繰り返すことになるはずだが、転職活動をできる限り効率的に効果的にしていくために副業を通してインターンシップ的な関わり方をすることを考えているというのだ。

非常に強かであると言えるし、頼もしいとも感じることができるのではないか。

常々思うのだが、20代の若者たちは基本的に優秀な人が多い。僕は、そんな彼らが偉くなった際に態度を変えないよう、常に敬語を使用している。

優秀な彼らに取り入れることができれば、僕の人生にもほのかな明かりが灯るかもしれない。些細な期待を胸に、僕は今日も若者を応援することとする。がんばれ、若者!

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

自己肯定感が低い若者が多いのは、間違いなく彼らのせいではない。彼らが社会に絶望してしまうのは、それを形作っている大人たちが冷たいというだけである。同時に、家庭的な空洞が生じていることも国立青少年教育振興機構が2015年8月に出した調査結果で明らかになっている。

https://note.com/sumomodane/n/n5222e1639a60

若者を否定するのは老害の特権だ。もちろん、嫌な意味で。彼らは自らの生態を脅かすような存在を否定しなければ存続が難しいため出る杭を叩くことに必死なのである。ああはなりたくないものだと思うが、同時に自分がそうならないためにどうしたらいいのかを常に考える必要がある。

https://note.com/sensei_toha/n/ndc087f6d9f0c

フリーミアムモデルに触れて楽しむことが前提となっている点には逞しさすら覚える。僕もソシャゲなどは無課金ユーザーであり、お金を払って楽しみを享受しようとすることはしない。いかに貧困状態でも楽しめるかを突き詰めることが今後の未来を豊かにするのではないかとすら...

https://note.com/hayakawagomi/n/nfcf509bdd5f4

▷ 本noteに関連する紹介したい書籍

僕は意識ひくい系を標榜しているが、その理由は「目標を高く持ちたくないから」である。あまりにも高い目標は自分の足元を見えなくする。転んだ際にダメージが大きい。そんなことは可能ならば避けるべきだ。痛いのはゴメンである。

https://amzn.to/3BiM8rV

▷ 著者のTwitterアカウント

僕の主な生息SNSTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。

https://twitter.com/ryosuke_endo

若者が残念なキャリア選択をしてしまうのでなく日本が残念な横ばいな国なのだ

若者が残念なキャリア選択をしてしまうのでなく日本が残念な横ばいな国なのだ

noteからの転載です

枕にかえて

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

キャリアや職務経歴に不安を抱えている人は多くなっているのではないか。故あって、転職相談やキャリアメンターのような表立ってすることになったこともあり、遠慮せずに書かせてもらうことにしよう。(とはいえ、これまでも決して遠慮していたわけではない)

昨年の記事ではあるものの、1年熟成されて余計にパンチの効いた内容になってきた感があるのが以下だ。

https://woman-type.jp/wt/feature/20017/

https://woman-type.jp/wt/feature/20017/

キャリアカウンセリングサービスを運営するポジウィルの金井芽依さんがWoman typeのインタビューを受けたものから2022年のキャリアに対する向き合い方を考えてみる。

▶︎ 残念なキャリア選択とは生き方の損失である

冒頭でも記載したが、キャリアや職務経歴に不安を抱えている人は増えているだろうし、今後も増加していく傾向になるのは間違いないだろう。仮に「現状のキャリア形成に満足している」と応えられる人がいるならば、非常に幸福な状態だと言えるのかもしれない。

上記の記事内で「残念なキャリア選択」と表現されているが、端的にいえば学習面や部活動などで成績や結果を出してきた優等生が「正解がわからない」とキャリア迷子になるのだとしている。

正直なところ、この点に理解はできるものの納得ができるかというとスッキリした腹落ちするところまではいけない。

わかっているのはキャリア選択とは一社だけを選択しただけではまったくわからないものであり、複数社もの経験がなければ自身に適しているのかどうかの判断すらできないことであり、そもそも終身雇用は幻想であることが1990年代には明らかになっていたため、大多数の労働者は転職を前提とした労働時間を過ごさなければならないのだ。

以前、その点に触れた内容を書いたnote『****キャリアメンターとして転職相談を受けた際に「転職を考えることが怖いです」と述べた彼女に伝えたこと』**

いま、労働者の定年退職ができる年齢が何歳なのかが予想すらできない。少なくとも60歳で労働者人生に終止符を打ち、「老後」を過ごせる人材など希少であり、むしろ、それは資産家でしかあり得ない話だろう。

多数派である労働者は常にキャリア選択を迫られ続けるが、その選択が仮に間違っていた場合、それは生き方を損失することにもなりかねない大きな問題となる。

▷ 若者が不安なのは日本の横ばい力が原因

我々はどうしてキャリアに不安を感じるのか。自分の実力が通用しないから。自分の望んでいた通りに仕事が運ばないから。自分の考えている理想と現実の自分に乖離があるから。

そうやって自分のことにばかり目が行きがちだが、そんなに自分を責めていても仕方がない。僕を見てほしい。まったく持って無能ぶりを晒すばかりで恥ずかしくはないのかと妻さんから虐げられているものの、しっかりと生きている。

こちらを見てほしい。天下のNHKでもしっかりと報道されてしまった日本の世界に類を見ない『横ばい力』を示すもので、1991年から2020年に至るまでの30年間、日本の平均年間賃金に大きな変化はない。世界経済や情勢が変わる中でまったく変わらないのだ。恐ろしいほど横ばい。

NHK おはよう日本『“年収” なぜ上がらない?専門家に聞きました』 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211020/k10013314271000.html

NHK おはよう日本『“年収” なぜ上がらない?専門家に聞きました』 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211020/k10013314271000.html

純粋にこれをみて「日本はすごいんだ!」となる人物がいたとするならば、非常にお気楽で呑気な性格なのかもしれない。「いや、落ちてないんだからすごいじゃないか!」と称賛する人も中にはいるだろうが、少し待ってほしい。

日本は世界に名だたる先進国であったはず。GDPではアメリカに次ぐ2位にまで躍り出たこともある。しかし、現状は先進国の中で最下位の労働生産性を誇る。そして、OECD加盟国の中でも労働者の平均賃金は低い方であることは明らかだ。

OECD主要統計>平均賃金
https://www.oecd.org/tokyo/statistics/average-wages-japanese-version.htm

OECD主要統計>平均賃金 https://www.oecd.org/tokyo/statistics/average-wages-japanese-version.htm

これを持ってして、若者たちに「希望を持て」などといえる大人は嘘つきか詐欺師かのどちらかではないだろうか。これらの数値的な事実のどこに希望を見出す隙があるのか。

「世界の中には貧困に喘ぐ国があり、それから見れば恵まれている」という人もいるだろう。僕が子どもの頃にも食事を残そうとすると大人たちはこぞって「アフリカの貧しい国が..」といった話をしてきたが、その話をしたところで貧しい国が豊かになるわけではない。

そうやって訳のわからない励ましを送っている時点で、数字を見ないようにしているか、貧しい点を押し隠そうとしている卑怯な人物である。こんな凄まじいほどの横ばい力を発揮している国で希望を持ちつつ、キャリア選択に自信を持てと言う方が無理だ。

▷ 有能な若者は日本から逃げる準備を

ハッキリいってしまえば日本は泥舟のようなものだとみることができる。しっかりとした基盤のある豪華客船ではない。いや、泥舟は言い過ぎか。少人数が乗ることが許されている屋形船といったところだろう。

金融資産を多く保有する金持ちにとって日本ほど過ごしやすい国はないのではないか。治安はよく、食事はおいしいうえに安い。徹底した効率を無視したサービス待遇は過剰だと思えるほどだ。生活に困ることのない金融資産を保有する人間であれば、これほど安心して過ごせる国はないだろう。

一方、一般労働者レベルでいうと、明らかに昭和の時代に平均賃金をもらっていた人間よりも20代や30代は生活が苦しい。消費税は10%であるため、実質的に賃金が10%なくなることを意味する。おまけに給与税ともいえる保険料として15%以上、厚生年金として会社と折半ではあるものの18%もの金額が天引きされる。

この点だけをみても、昭和時代の労働者よりも現代の若者労働者たちは明らかに生活が苦しい。

事実、20代の43.2%、30代も31.1%が貯蓄ゼロなのだ。

家計の金融行動に関する世論調査(金融広報中央委員会)

どこに余裕を持つ要素があるのだろうか。このまま年齢を重ねたとしても日本で就業する以上、平均賃金は引き上がらず、維持する状態が保たれることは歴史が物語っている通り、30年間も維持できていたことが世界的にもみても不思議なほどだ。

この均衡が崩れてしまった際には一斉に金が失われる状態になることは誰にでもわかる状態なわけだが、全体でそうであるからといって個人でもそうであるとは一概にはいえない。

英語が話せれば日本で請け負っている仕事を英語圏の海外で請け負うことができれば賃金を引き上げることは可能だ。上記したUECD加盟国の平均賃金を見ればアメリカは日本の2倍とはいわないものの、それに近しい賃金を支払える余力がある。

他にも英語圏で仕事を探すことができれば、今の賃金よりははるかに待遇がマシになるのは事実だろう。有能な若手は日本から飛び出す準備をした方がいいかもしれない。

▷ 中途半端な中年や高齢者は邪魔をしない

上で、こんな悲惨な状態にある若者に向けて「希望を持て」と説教を垂れるような大人な嘘つきや詐欺師である旨を書いた。ハッキリいって、そのように余剰分に授かることができた人たちの言い分は、いまの若者にとって何にも響かない。

事業を成功していたり、キラキラしているようなキャリアを重ねている人たちのいうことは効いてしまうだろうが、少なくともそれを聞くことが若者にとっていいことなのかどうかは正直わからない。

経営的な視点で物事を伝えるつもりでいたとしても、ビジネスモデル自体が異なれば助言ではなく妄言となってしまうことも懸念すべきで、その平衡性を失って飲んだくれてしまっている中年や高齢者は若者の邪魔をしないよう強く意識すべきだろう。

僕はいま、まだ10代にもならない子どもたちと共に過ごす機会に恵まれているが、彼らが10年後に絶望していないのかが不安で仕方ない。僕みたいな瑣末な人間にどうにかできるほどのものでもないが、このような社会構造をつくってしまう一員として非常に情けなく、また申し訳なく思う。

しかし、現状は結婚をしようと考える若者たちはお金がない。お金がないから結婚に踏み切れない。結婚に踏み切れないから子どもを産むことにも躊躇が生じる。長期的に見れば子どもが増えることこそ日本にとっての有益なことである事実は変わりないはず。

それにもかかわらず、日本は若者や子どもたちよりも高齢者優遇な社会構造となっている。こうなってしまっている以上、個人でどうにかできる問題ではないのだから、おじさんやオバさん、爺さんや婆さんは若者の邪魔をしないことだ。それ以外にない。

邪魔をするような言動もすべきではないし、行動を制限すべきでもない。なぜなら、彼らの自由にできるだけの経済的な余剰を奪ったのは紛れもなく自分たちなのだから。彼らからキャリア不安などを引き出しているのは自分たちであることを自覚するのだ。

僕自身もそうならないよう、気をつけることを強く意識する。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

こんな風に個人でキャリア形成をしっかりできるようになれば全体の中で埋もれることもないだろう。そうなるためには青田さんのような人物に客観的な視点から助言をしてもらうようにしたらいい。若い人たちは人材紹介エージェントやキャリアメンターを積極的に使って市場価値を測るべきだ。

https://note.com/aotatsutomu/n/n3d783f60403e

冒頭で紹介した金井さんのnoteである。やりたいこともなければ目標もない人のキャリア設計。そんな人だらけの国は希望があるのか。いや、むしろ余白があると捉えれば希望があるのかもしれない。ただ、だいたいは自覚できていないだけのケースが多い。壁打ちをドンドンやっていこう。

https://note.com/posiwill_mei/n/n438299b2cbe7

将来のキャリアという漠然とした抽象的な問題が自分の問題であると勘違いしていたという体験から書かれているnote。とくさんのエントリーは常にこういう具体を体験から引き出してくれる短さがあるため非常に読み進めやすい。オススメである。

https://note.com/noritoku/n/n7ac0fbcf5ed9

▷ 本noteに関連する紹介したい書籍

客観的なデータから転職に関する気づきを多く埋め込んでくれている書籍だ。マッチング、というよりもラーニング。とする考え方には納得感が高いもので、これが全てだとは思わないが、参考になる点も見出せるものであるため、転職を考えている人にはオススメしたい。

https://amzn.to/3J5dGDU

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SNSで疲れた人はどこへ向かうのか

SNSで疲れた人はどこへ向かうのか

枕にかえて

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

これをお読みの方の中には過去にSNSで辛い体験をされた方もいるだろう。僕も自身、どうしても精神的にツラかった時期はSNSを見たくないというよりも見れなくなった経験がある。自発的にSNSからの情報を遮断したというより不可逆的に見ることさえできなかったのだ。

ドイツの調査会社・Statistaが発表した「Digital Economy Compass 2021」によると、ネットユーザーが1日にSNSを利用する時間の世界平均は、2020年の145分が2021年には142分に低下した(2021年は第1四半期:1〜3月の数値)。

ソーシャルメディアに触れる人間であれば注意が必要な点はメンタルヘルスに影響がある点をFacebook(現meta)社が社内調査により把握していたことを2021年9月に「Wall Street Journal」が明らかにしているように、生活に侵食していることは確かだ。

では、SNSに疲れた人たちはどこに向かうのか。そもそも何に疲れるのか。完全に遮断することだけでなく、それ以外に場所があるのか。そんなことを考えてみたい。

▶︎ 僕たちはSNSのどこに疲れるのか

そもそも僕たちはSNSやブログなどを含めたソーシャルメディアの何に疲れるのか。

「覗きたくもないのに、ついアプリを開いてしまう」経験がある人は少なくないはずだ。それもそのはずで、ソーシャルメディア関連企業はそうなるようにアプリのアイコン表示や開いたタイミングで表示される通知の仕方、タイムラインの表示などをすべて計算している。

当然だろう。彼らも慈善事業でやっているのではなく営利目的にサービス提供しているのだから、社会的な意義などを創業時に立てていたものの、自分たちのサービスを他のサービスよりも長く利用してもらいたいと考えているし、それが自分たちの顧客に向けてのプレゼンテーション材料になる。

自分がそんな組織の一員だとしたら、ユーザーがどのように動くのかを逐一データ化し、最適な傾向を見出せたなら、全力でその方向へ舵を切る。ほんの些細な違いかもしれなかったとしても、その些細な違いの母数が何億、何十億ものデータが積み重なったものだとすれば大きな価値になる。

そのデータの一端を担っているのは各種デバイスSNSにログインしているあなたであり、僕だ。

このあまりにもデータ然としたサービスは僕たちに最適な情報を届けてくれるが、この最適化されすぎた情報に僕たちは疲れているのではないか。

▷ 最適化されすぎるアルゴリズム

上記した通り、僕たちが何時にアプリを開き、その開いた瞬間から何秒ほどアプリを開きっぱなしにした上でどんな指の動きをしたのか、はたまたどんな内容の投稿に「いいね」や「拡散」したり、コメントを残したのかといった事実としての行動記録がデータとして吸い上げられる。

さらにはフォローしたりフォローされたりといったユーザー間同士の関係を前提にしつつ、出される情報にどんな行動を取っているのか。詳細を開いたけれど一切の反応をしなかったのか。特に詳細を開かずとも「いいね」や「スキ」などの反応をしたのか。

1日の間に何回、何秒アプリを開いていたのか。アプリを閉じてから次に開くまではどのぐらい空くのか。投稿する内容の文字数は...利用するハッシュタグやタグ付するユーザーは一投稿あたりどれほどか...このようにデータ化できるものは全てデータ化され、ユーザー行動は傾向化される。

その傾向化されたデータの中から、少しでもアプリを開いて自社サービスを利用する時間が延長するための「カイゼン」が、もしくはその兆候が見出せるようなポイントがあれば、必死にカイゼンし、サービス利用者にとっての最適化を目指し続ける。

結果として、オススメとして表示される投稿やタイムラインやフィードに立ち並ぶ投稿やアカウントアイコンが各々にとって最適だと思われる「解」をアプリ上やWebブラウザ上で提示し、ユーザー行動がサービスに適応すれば維持し、適応しなければ修正する。

そんなことを繰り返しすのが米国テック企業の日々であり、あらゆるサービスやアプリにおける最適化戦争の実情だ。彼らはビジネスで常にデータに向き合い、データを参照し、データをカイゼンし、常に最適だと思われる解を見出してはガムシャラに走り続ける。

▷ 最適化されるのは自分かSNS

そんなデータの藻屑になっている僕みたいなユーザーも、最適化されるユーザーの一人であり、あなたもその一人だ。

そして、あらゆるサービス変更やアプリ内の表示変更が行われるたびに各種サービス上で「アルゴリズムの変更について」や「最適な表示方法」などを競うユーザーが現れる。

いわゆるインフルエンサーと呼ばれる人の中には、投稿内容やアイコンが注目を集めた結果としてフォロワーが増えたユーザーもいるだろうが、同時にアプリやサービス、ひいてはフォロワーに最適な形で誕生したインフルエンサーも登場している。

政治家でいえば|populism《ポピュリズム》(大衆迎合する政治思想)であるが、自分を自分以外の何かに最適化させて人気者を作り出そうとする行為だが、それを表立って否定することはできない。

それが嫌なのであればサービスを利用しなければいいし、そのユーザーをミュートするなりブロックするなりすればいいだけの話だからだ。

しかし、そんな行動も含めて我々はSNSに最適化されてしまっていると言わざるを得ない。

サービスの提供初期段階ではSNS側がユーザーに最適な形を模索していたのだろうが、今となっては主従逆転し、我々の方がSNSに最適化させられている。開くつもりはなくても開いている状態は、まさに最適化されてしまっていることを示すものだ。

SNSの最適化を目指しているつもりが、実際には最適化させられているだなんて誰が考えるだろうか。あまり疑問に思わないのかもしれないが、インストールしアカウント登録をしたその瞬間から最適化させられ出す。

そこで人気者になり、自分の承認欲求を満たせていると自覚できるのであればいいのかもしれない。しかし、それによって幸福を得られるかどうかは別問題だ。

我々は生活の中でSNSを利用することによって充足感を得ているように感じるかもしれないが、本来は日常を何の不安もなく過ごせる「生活」があるからこそSNSなどの余剰を利用する時間が設けられる。

つまり、本当に大事なのはSNS上で承認を得られるかどうかではなく、実生活が充実するか、その補助的な役割をSNSが担ってくれるかどうかが重要なはず。主役はあくまでも自分自身の体験や体感にあるべきだ。

アルゴリズムから外れるのかどうか

では、そんなアルゴリズムだらけの状態から僕たちはどうやって生活したらいいのか。仮に、いま、あなたがSNSに疲れを感じているのであれば、いっそのことアカウントを削除してしまうことが最も手っ取り早いうえに簡便で永続的な解決手段だといえる。

「いや、それだと困ることも...」なんて感想を抱く人もいるだろうが、根本的にはSNSなんてなくても生きていける。ネットでさえもそうだが、僕たちの生活にネットは十分に普及してしまっていることもあり、ネット接続を断絶することは決して実利的ではない。

その延長にあるSNSでも仕事や交友関係を支える意味では不可欠なほどに存在感を持っているのは紛れもない事実だろう。そうなると、我々はアルゴリズムの呪縛から解放されることはないのか。いつまでもアルゴリズムの奴隷であるべきなのか。

物理的にアプリやサービスを開ける端末自体を避けることを試してほしいと思うのと同時に、これまでの自分とは異なる行動をアプリやサービス上でやってみることも試してほしい。

つまり、これまでの自分とは異なる行動をとることでアプリやサービス側のアルゴリズムから逸脱するようなことをするのだ。

いままでいいねをしていたような投稿には一切の反応も見せず、反対にいいねとは全く思っていない投稿にいいねをする。また、これまでに投稿する内容が自分の愚痴だったのであれば、誰かのためになったり役に立つ投稿を目指して投稿する。

そんな風にアプリやサービス内での行動を変容させると、明らかにおもしろくないことが判明する。そのおもしろくないことを自覚できるということは、それまでに蓄積させてきた自分のアルゴリズムから逸脱する行為を繰り返すのだから当たり前だ。

しかし、それをするからこそアルゴリズムの呪縛から自信を解放することが叶うのであって、もし、それもやりたくないのであればズブズブにアルゴリズムに最適化されることを覚悟するか、完全に断絶するのかのどちらかしかないだろう。

それだけ密接なものになってしまっているSNSとは、相応の付き合い方を覚悟していくべきだろう。もちろん、疲れてしまいすぎない範囲で。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

僕が考えるようなことは既に考えて言語化してくれる先人がいるもので、竹村さんの「アルゴリズムを超えていけ」はもっと簡単にゴクゴクと飲むが如くに読むことができる。はっきり言ってオススメ以外の何者でもない。

https://note.com/take/n/n857fd08aad62

アルゴリズム的葬儀って言葉が割とツボだったが、岸田さんって本当に文体が柔らかく、その場に連れ出してくれる。現実に僕はその場に居合わせていないのだが、岸田さんの文章を読み進めると確実に僕は登場人物の一挙手一投足を見れる。すばらしい。

https://note.kishidanami.com/n/n7f2db2509b4d

結局、普段の生活を定例的に動いているのであれば、それは自分のアルゴリズムに自分自身を最適化させている証拠だ。そこから更にカイゼンを重ねると、さらに先鋭化される。それを超えるのか超えないのか。人間だから超えてみたいものだ。

https://note.com/3512552hiro/n/n407d8eca9a56

▷ 本noteに関連する紹介したい書籍

佐藤さんといえばユーフラテスでありピタゴラスイッチなどの生みの親である。ピタゴラスイッチの軌跡に何度も感動させられている僕と同様に感動したことがある人には佐藤さんの『新しい分かり方』をオススメしたい。新しい自分を見出せるチャンスとなるだろう。

 

https://amzn.to/3HAgyIp

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【伊藤穰一】教養としてのテクノロジー

僕たちは何を楽しみを感じ、何に喜びを感じ、何になりたいのかをということを考えられているでしょうか。

MITといえば、僕でも聞いたことのある有名な工科大学であり、イノベーションが常に創発されていることを想起してしまう場所です。

そのラボで所長を務めるのが日本人だということに誇りを感じているのは僕だけではないでしょう。(まぁ、勝手に感じているのですが...笑)

本書内で強く強く強くメッセージとして込められているのは"いまを生きる大切さ"です。

 

僕たちはどれだけ日々の生活にこだわりを持って生きているでしょう。

冒頭の文書を書いた理由は、そんな事を考えたからでした。

生活の中にこだわりがあるということは、常に良い方向にしていこうという思いを抱きながら生活していることを意味します。

例えば、仕事に行く、学校に行く、遊びに行くという何か行動を起こす際に、自分の中で大切にしていることが何かを考えることをしているでしょうか。

洋服にこだわりを持つことや靴にこだわりを持つのでもいいかもしれませんし、目的地へ辿り着くための手段についてこだわるのでも構いません。

何にしても、もっと良い方法やもっと素敵になる方法を考えているでしょうか。何かをこだわることが、いまに対するこだわりになり、そのこだわりはすべて満足を得るために必要なことです。

 

子どもたちは周りが見えなくなるぐらいにギュッとのめり込んでしまう瞬間があります。

僕と生活をともにする4歳の長男もなにかに食らいつくと、そこから意識を引き剥がすのに大変苦労していますが、それぐらいにのめり込んでしまうことが多々あります。

それを大人は自らの生活時間を守るために遮ろうとしてしまうことがありますが、果たしてそれは本当に子どものためになっているのでしょうか。

人生はおとなになってから始まると一般的な教育では考えられていますが、果たしてそれは真実であり、真理なのかは考えるべきでしょうし、親は子どものいましていることは将来に向けての準備でないと意味がないと考えるけど、それは本当でしょうか。

子どもの将来は誰のためであるかといえば、子どものものです。共に生活する大人のものではありません。

大人が子どもに成功してほしい、幸せになってもらいたいと願うことは否定しませんが、自らの願望を押し付けることは子どものためではありません。

自らの願望を押し付けることは、子どもに自分の人生を代替してほしいと依頼する行為であり、子どもの人生に対する冒涜になります。人は他人の人生を生きるために生まれてきたのではありません。

"いま"を必死に生きること、"いま"にこだわりをもつことは子どもであろうが大人であろうが関係なく、誰に対しても必要な考え方でしょう。

子どもが取り組むことが大人になったときに必要だというのであれば、おとなになってから何かを始めることは無いのでしょうか。

子どもの時が”おとなになるための準備”だというのであれば、いつまでも準備が終わらないことになります。恐らく、「自分は〇〇の準備をしたから大人になった」という人は皆無ではないでしょうか。

なぜなら、大人がすべて準備が整った完璧な存在ではない、というところに答えがあるのではないかということにありそうです。

なぜなら、もっと良くなりたい、もっと良くなっていたいと願う気持ちは常に抱いているはずで、それがなくなったときには人生に何の張り合いもなくなっているでしょう。

だからこそ、いまを大切にしようと著者は述べています。

 

本書では、技術の革新が進むに連れ、身体的多様性の高い人達がいわゆる健常者と呼ばれる身体的多様性の低い人達の運動能力を凌駕することも予想しています。

つまり、オリンピックよりもパラリンピックのほうがよりダイナミズムに溢れた楽しくなる可能性が見えてきたということです。これをどうみるでしょう。

僕はそんなパラリンピックを見てみたいと思います。近い将来にはオリンピックとパラリンピックの境目がなくなり、同一開催というのも十分にありえるでしょう。

現実、オスカー・ピストリウスという両足義足のスプリンターは世界陸上はもちろん、ロンドンオリンピックにも出場し、決勝には進めませんでしたが、どちらも準決勝まで進んで見せました。
(彼の起こした事件について、本記事では一切考慮せず、競技者としての彼に焦点を当てています。)

すでに身体的な(パフォーマンス発現)能力に恵まれたパラリンピアンがオリンピアンと同等以上に競技を行えることを我々は目にしています。

それが当然の世界になったとき、健常者と呼ばれる人たちは純粋な気持ちで応援することが出来るのでしょうか。それとも"ずるい"と文句を言い、せっかく一緒になった大会を別物に戻すのでしょうか。

それを想像するときにワクワクするのは、その高い運動能力を発揮するために開発された技術は、一般生活にも落とし込まれていくということです。

むしろ、より性能の高いものが出来上がる可能性があります。

それは多様性に富んだ社会の中で差別をなくすことにつながるでしょうし、どちらがあこがれの対象となるのかは現段階に置いて誰にもわかりません。

わかりませんが、"健常者"というある意味での蔑称に無理が生じてくるのではないか、というのは想像に難くない状況容易に想像できます。

いま、僕には一緒に生活をする子どもがいますが、彼らに伝えているのは、"おかしい人"なんてのは存在しないし、自分と違うこと、それは個性だということです。

おかしい、変わってる、という言い方をするのは"自分が正しい"という態度は傲慢であり、人を馬鹿にしているともいえます。

それはいまに必死になっているのではなく、過去にあったことからなんとか自分の中での正解にすがろうとする不勉強者の態度であり、そんな態度を取る隙があるのであれば、いま、夢中になることに必死になるべきです。

"いま"を大切にすることは、年齢や性別、人種も関係なく、誰にでも与えられている権利であり、それを邪魔することは誰にもできないんです。できるとしたらブレーキをかける自分だけ。

そんなことを感じさせてくれる本でした。 

 

【エリック・バーカー】『残酷すぎる成功法則』は自己啓発本の限界を超える本だ

平成に入り、昭和バブルがはじけたことに対する恒常的な不安から自己啓発本が売れるようになったという。

自己啓発本、平成に急増 「将来に不安」背景 :日本経済新聞

その内容の多くは著者の経歴を振り返りながら思考体験をなぞり、そのロードマップを追体験することに主眼が置かれるもので、ぼくも読書体験の初期はそういう本に目が行き、読書体験を積んだ

しかし、読めば読むほどに気づいていくことがある。

その物語はあくまで著者その人にとっての手段と方法を記した物だったのであって、その対象が自分ではないことに。そして、その成功体験がそもそも自分のものではないことを何度も認識し、失望していく。

成功に夢を見て、希望を持つことは決して無駄なことではないが、それ以上に大切なのは事実を知ることだ。多くの自己啓発本に欠けているのは、客観的・数値的な事実を語ることであり、現在の自己啓発本は自己中心的で無責任だ。

また、特に気にしなければならないのは、自己啓発は全能の民を生み出す魔法の仕掛けではないのに、まるで全ての人が努力によってなんでもできるようになってしまうかのような風潮である。

全ての人がすべからく、何でもできるようになるとは思わない。というよりも、なるわけがない。しかし、成功法則を知り、ルールを知り、対策を練ることはできる。この世は、ぼくのような気づかない人にとって厳しく、そして残酷だ。

自己啓発本は読者にその壁を乗り越えることを許さない。壁を超えることを教えるのではなく、著者が超えた体験という、客観的・数値的な根拠ではなく体験的事実を語り、共感することでエクスタシーを与えることで読者の目を曇らせる。

つまり、そこには再現性が乏しく、他の人間に対しての適応する可能性を等しく制限する。

本書は、そんな「自己啓発本界隈の限界」を優雅に飛び越えていくことを目指している。本書では巷間いわれるジンクスやまやかしのような成功法則を全てエビデンスベースで語ることを前提にしているからだ。

 

エビデンスベースという言葉は、巷間使われるようになって久しいが、何も難しいことではなく「根拠を示す」という意味であり「裏付け」ということだ。

これは1990年代にアメリカで提唱され、医療分野で発展を遂げてきた。EBM(Evidenced-Base Medicine)というものであり、それまでの“医師の個人的な経験や慣習などに依存した治療法を排除し、科学的に検証された最新の研究結果に基づいて医療を実践すること”を指す。

つまり、効果測定から術式選定や投薬内容を統計学的に判断し、失敗を減らし、成功を増やしていこうとする取り組みであり、繰り返すこと(症例数を増やすこと)によって精度を高めることができ、多くの命や怪我・病気を改善することに寄与してきたわけだ。

 

ここで一つ考えたい。僕たちは科学的に死ぬことと、非科学的に死ぬことのどちらを受け入れるべきなのだろうか。

 

自然というものが生物の営みを含めた諸行無常のなりゆく形であるのならば、人間が科学的な力を身につけることができるのは自然であり、大局的な見方をした際に道徳や倫理という言葉もまた、自然の一部である人間の一つの事象となる。

つまり、望む望まないに関わらず、僕たちは科学的見地という考え方を否定できない。むしろそれがどんなに人間という生物の営みを外れるような結果だったとしても、結果、どちらを選択しようが自然ということになる。

エビデンスベース という言葉を意識して使おうが使わまいが、根底にあるのは自然という大局的なものの中にある一つの事象であり現象だ。

それであるならば、最終的には生物である、また、意識の主体である人間が、人格そのものが自由に選ぶことができるし、選んでいいということになるのではないか。

 

医療の世界においてエビデンスベース というのは、後ろ盾であり根幹的な判断基準だ。

選択における判断基準を持っているのかいないのかで何が変わるのといえば、成功と失敗の可能性を知ることだ。エビデンス、つまり根拠となるのは臨床であり、実験であり、検証だ。

それが示すものは成功と失敗の可能性を見出すことにある。なぜなら、科学において重要なのは失敗の数の上に成り立つ成功だからだ。

成功を得るために先人たちのして来た失敗を知ることこそ、成功への法則を生み出すことにつながる。そして可能性を知ることが重要なのは、できるだけ効率的に生きて生きたいと考える場合、可能性を知っていた方がより良い道に進む指標を持つことができる。

著者であるエリック・バーカーは「調整すること(アライメント)だ」としている。

成功者となるために、覚えておくべき最も重要なことは何だろう?

ひと言でいえば、それは「調整すること(アライメント)」だ。

成功とは、一つだけの特性の成果ではない。それは、「自分はどんな人間か」と「どんな人間を目指したいか」の二つを加味しつつ、そのバランスを調整することだ。

成功をのぞむ僕たちにとって必要なのは、人の成功話の根拠を知ることであり、そこに法則性があるのであれば、そこにまずは乗ってみる”勇気”を持つことだ。

 

成功という言葉がなんとも虚しく聞こえる人というのは、きっと勇気を持つことを諦めた人、そして、夢という言葉と職業という言葉が混同してしまった結果、それができなかったことに絶望している人なのではないか。

しかし、成功や夢というのは一つであるはずがない。ましてや一つの事象から成立しているわけがない。なぜなら、それらは動的なものであり、常に変化し続けるから。そもそも「夢=職業」となってしまっていることは危惧しなければならない。

職業というのは一つの手段でしかないはずだ。

それが夢、つまり目的ということは、壁に釘を打つという目的に対して必要な手段、トンカチを使用することが夢ということと一緒だ。なんとも訳のわからない話だが、残念ながらこれを勘違いしている人は少なくないだろう。

成功というのは複雑なものであり、複合的なものだ。捉えようがないともいえるかもしれない。

しかし、僕たちはそれを目指す。成功したいという気持ちの裏には幸福になりたいと願う気持ちが内在しているはずであり、幸福を目指すことは誰にも与えられている権利であり、目指すべきだとも思う。

そして、人生は「時間」という有限制約がある。

その有限制約は科学の発展により、徐々に延長されているが、それでも現代における平均寿命は100年まで届いていない。今後、100年に届いたとしても、有限であることに変わりはない。

有限である人生の中で、必死に成功を目指すこと、ひいては幸福になりたいともがくことは人間であるからこその悩みであり、本質的な欲求だと僕は思う。

そして、本書はその手助けをしてくれることは間違いない。

なぜなら、個人の経験則を科学的なエビデンスに落し込むことに成功している本だからだ。

残酷すぎる成功法則  9割まちがえる「その常識」を科学する

残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する

 

 

【大村大次郎】『お金の流れでわかる世界の歴史』読むことで経済の大切さを実感する

ぼくたちは日本史や世界史を学校教育の中で学ぶ場合、政治力や戦力、時勢を味方につけた国が覇権を握り、他国を支配する力を所持してきたという内容が多い。

少なくとも、ぼくの認識ではそうだ。

しかし、本書のタイトルにもなっているように、世界の覇権を握る国は得てしてお金を握っている。つまり、経済の覇権を握っている国となっていることがわかる。

 

ぼくはここで「日本史」だけを学ぶことへ疑問を抱く。

もちろん、日本の過去を学ぶことは、過去を生きた先人たちの行動や行為履歴を辿ることであり、そこから学ぶことが日本自体をアップデートをする上で不可欠な取り組みなはずだ。

しかし、それを日本の中だけの話として完結していいものなのかどうか。

 

聖徳太子が当時の中国、隋へ特使を派遣した遣隋使や、その後に続く遣唐使を派遣した流れも、日本史の中だけで論ずることには不可能なことはすぐにわかる。

というのも、当時の中国である隋の状況も踏まえなければ、日本が当時の中国へ派遣した遣隋使の役割など到底理解できるものではない。

しかし、ぼくが学んだ日本史では、ただただ、暗記をするだけで「文脈」が全くわかっていない。覚えているのは、その遣隋使や遣唐使、という名前ぐらいなもので、あとは年代が異なることぐらいなもの。

大切なことは、「どんな文脈で歴史的な事実が発生しているのか」という点であり、現代の北朝鮮をめぐる世界情勢も、北朝鮮と日本の関係だけを見ていてもさっぱりだ。

アメリカや中国、ロシア、そして韓国などに目を見張らせるからこそ、北朝鮮を観察することができるのであって、それは日本の中だけの話をしても全く理解できないのは当然だ。

つまり、世界史を学ぶ中に日本史があるのであって、日本史が前提とはならないのだ。無論、掘り下げてみていく際に、その対象国の内側のイデオロギーや、政治の流れを追うことにかけて、それぞれの国の歴史を見ることは必要だろう。

それだけを見たところで、地球の中にある日本のポジションは永遠に見ることはできないうえに、どのような力学は働いた結果の判断や決断であったのかを知る由もなくなってしまう。

 

ある国が栄華を極めることも、その国が栄華を失い、新たな栄華を手にする国が現れるのも、軍事的な力量にものを言わせ、強圧的に支配地域を広げたいという名誉欲だけから、ということはない。

そもそも名誉というのは、他者から与えられるものであり、他者が認めなければ、認めることを成さなければ得ることができないものだ。

人の数が多くなればなるほどに、自らの思考に近い人材だけを束ねる能力だけではなく、誰とも知れない誰かの幸福を助けることができる能力と、施策が求められ、その成果によって豊さを実現しなければならない。

だからこその経済。世界の中で経済的な覇権を握ることを、国の指導者は強く求めるし、実現しようと躍起になる。その繰り返しが世界の歴史だということが本書の主旨であり、ぼくたち読者が知るべきことだ。

 

さて、国が隆盛する際に最も必要なものは何か、そして、隆盛を極めた国が衰退する理由は何か。少なくとも、ぼくはこれまでの歴史を学ぶ過程で考えたことはない。

著者である大村は、「統一国家」と「役人の腐敗」がそのキーワードだとする。

古今東西、国家を維持していくためには、「徴税システムの整備」と「国民生活の安定」が絶対条件なのである。

(中略) 

徴税がうまくいっている間は富み栄えるが、やがて役人たちが腐敗していくと国家財政が傾く。それを立て直すために重税を課し、領民の不満が渦巻くようになる。

そして国内に生まれた対抗勢力や、外国からの侵略者によって、その国の政権(王)は滅んでいくのだ。

 言ってしまえば「型」だが、国の栄枯盛衰にも型があり、その型を知ることは歴史を学ぶ上でも非常に重要ということだ。

特に世界大戦の前後を見てみると、そのパワーバランスの奪い合いは、経済的なイニシアティブの取り合いであり、経済的な主権を握る新旧交代がなされる瞬間に発生している。

第1次、第2次大戦のどちらを見ても、欧州地域におけるドイツの台頭が引き金になっているのは疑いようのない事実だ。

しかし、ドイツがすべて悪いのかというと、それまで覇権を握っていた国々(イギリスを代表格にフランスなど)が台頭してきた国(このケースでいえばドイツ)に対し、怒りの拳を振り上げたという大人げない対応だとも見える。

日本の経済成長は明治政府時代から培われたものだという著者の主張には数字が伴っており、説得力があるが、長い年月を費やし、どこの国でも手にした経済成長を維持をしようと思えば、輸出を受け入れる対象となる国が必要だ。

日本は幕末以降、「生糸」を中心に輸出大国としての狼煙を上げつつあり、その影響力は徐々に強くなり、イギリスの植民地であった「インド」はイギリスにとって重要な市場だったにも関わらず、日本が価格と品質で優れていた。

ここをイギリスは植民地政策の優位性を活かし「ブロック経済」(ブロック圏外の国からの輸入品には高い関税をかける政策)を敷くことで日本を追い出し、なんとか優位性を保とうと躍起になっていたことがわかる。

欧州内でもドイツに経済大国としての地位を奪われながら、極東に位置する小さな島国にまで自国の重要な市場を抑えられたとあっては面子が立たないどころではない。

そして、満州は欧米各国にとって、植民地支配を受けていない上に広大な土地を持った非常に魅力的で貴重な地域だったが、それを日本が抑え、東アジアの支配権を主張したことから第2次世界大戦へと流れていく...。

 

このように、経済的な覇権を握ることは、世界の中でも主導権を握るために不可欠な要素であり、それを維持したいと思うのが各国の思惑だ。

そのタガが、何かのタイミングで爆発し、怒りの赴くままに走り出してしまった結果が戦争という悲しい物語へとつながっていくのだと実感する。

本書を読むことで、ぼくはこれまでの歴史というものの見方を変えることができた。そして、それを感じたことから、改めて多面的なものの見方が重要なのだと実感している。

ぜひ、本書を手に取り、歴史に目を向ける機会になれば、と思う次第だ。

 

【高井浩章】『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』でお金について考えるべきだ

『おカネの本質について、自分の子どもに対して説明したい』

これは、ぼくのささやかな願望でもあり、希望であり、やるべきタスクだと考えている。

このブログにて扱う書籍を読んだことのある方々ならば、きっと、お金、経済、金融など、おカネにまつわる事案について、一過言ある人もいれば、勉強中という人もいるだろう。

しかし、それを自分ではない他人に対して伝えるというのは容易ではない。

学校での勉強に始まり、自らが興味や関心を持った事柄であったとしても、学んだことを理解し、実践できるようになるためには、インプットのみでは足りず、必ずしもアウトプットが不可欠だ。

もっといえば、アウトプットを踏まえたインプットをすることで学習効率が上がるが、単純に詰め込み型のインプットのみでは、それこそ自己満足で終結してしまう恐れがあるのは、各々で体験したこともあるのではないか。

かくいう、ぼくも、その体験者たるのはいうまでもない。

 

本書は経済や金融を専門とした新聞記者である著者が自らの娘たちに向けたお金の教科書として連載を行っていたもの。Kindle版が個人出版され、1万ダウンロードされた後、書籍化された。

ストーリーとしては、主人公である男子中学生サッチョウさん(木戸くん)、同じく女子中学生のビャッコさん(福島さん)、そして、先生として登場するカイシュウ(江守先生)の3名が「そろばん勘定クラブ」にて「お金とはなにか」について議論し、理解を深める様を描く。

この「お金とはなにか」という議題は、ぼくを含めた大人は子どもたちに対してどう説明できるかを、深く考える必要に迫られる。

上でも書いたが、その本質について子どもに対して理路整然と説明すること、説明できることは、ぼくにとって大きな課題であり、解決すべきものだ。

また、それは子どもを持つ養育者たちの責務なのだとも思う。

なぜなら、国の教育におけるロードマップを描く立場にいる文部科学省が定める学習指導要領の中に「お金について」教えてくれる教科は存在しないからだ。

新学習指導要領(平成29年3月公示):文部科学省

 

義務教育課程の中で教えてくれないのであれば、高等教育に頼る他ないが、大学に通う段階では奨学金を借りるのか借りないのか。その返済について、否が応でも本人と親が「お金」について面と向かって考えなければならないことを意味する。

しかし、そうなってからでいいのだろうか。

今の日本の中における、いわゆる「奨学金の返済問題」は「お金について」考えていない、もしくは考えることを避けてきたことのツケなのではないか。

しかし、それを取り返す機会は十分に与えられている。

いまでは本書のような本質について深く考察した上で、読みやすく解説してくれる本があるからだ。

カイシュウ先生こと、「そろばん勘定クラブ」の主宰たる江守は元々、銀行家として働いており、リーマンショック以後、足を洗った。「お金のこと」について、実務者としての経験値は非常に高いのだが、いまでは銀行家を忌み嫌っている。

その理由は本書に譲るとして、その江守がお金の本質について語る場面があり、その中で「お金の本質は信用であり、その根底にあるのは共同幻想である」と結論付けている。

お金=信用(約束・信頼)

「お金にはなぜ価値があるのか。それはみんながそれをお金として扱うからです。ただの繰り返しじゃないかと思うでしょう。でも、本質はそうとしか言いようがない。小難しい言葉を使うと、お金とは共同幻想なのです。みんながお金に価値があると幻想をいだいている。だからお金がお金たり得る。幻想ではあるけれど、それこそが現実です。」

あくまでも個人の信用を可視化したもの、もっといえば、代替的に可視化したものがお金だ。

代替的に、とした理由は「信用」も多岐にわたるといえるからだ。銀行からお金を借りる上での銀行取引の信用や、SNSでのフォロー・フォロワーの数も指標となることは社会的な発言における信用と考えることができる。

お金を手にすることを目的にすることは、そのお金の本質を見誤ることを誘引する。なぜなら、あくまでも信用を可視化するツールであり、手段である「お金」を手に入れることを目的化することは、本末転倒といえる。

例えば、奨学金を得ることは高等教育を学ぶという目的があるからだ。しかし、奨学金を得ることが目的になるということは、別に学ぶ先はどうでもよく、とりあえず学ぶためには原資がいるから、ということになる。

もっといえば、家を建てたいと考えたときに、住宅ローンを組むことを目的にする人はいないだろう。「とにかく家を建てたいからローンを組みたい」なんていうのは、本末転倒という他にない。

どちらにしても、第三者から金銭を借り受けることには変わりはないが、そこに必要なのは「信用」であり、その人が抱える信用の歴史(信用履歴)だ。

 

本書もそうだが、お金について述べている書籍は多い。特に、ここ数年は仮想通貨の台頭もあり、法定通貨をはじめとした「お金」について考える機会が増えてきた。

増えてきた今だからこそ、ぼくたち大人は考えなければならないし、子どもたちに伝えなければならない。いや、伝えるために学ばなければならない

その入り口として、本書は中学生の主人公たちとともにお金について考えることができる格好の内容となっている。

少しでもお金について考える必要があると思っているのであれば、本書を手にすることをオススメしたい。

旧Kindle版 おカネの教室 統合版

旧Kindle版 おカネの教室 統合版

 
旧Kindle版 おカネの教室(前編)

旧Kindle版 おカネの教室(前編)

 
旧Kindle版 おカネの教室(後編)

旧Kindle版 おカネの教室(後編)

 

【宇野常寛】『母性のディストピア』現実を語るために虚構を語る

いまこの国の現実のどこに、本当に語る価値があるものが存在するというのだろうか。

難民を締め出し、移民に門を閉ざし、過ぎ去りし過去の成功の思い出に引きずられてグローバル化からも情報化からも置き去りにされたこの国のどこの誰に、世界の、イギリスの、アメリカの情況について述べる資格があるというのだろうか。

(中略)

この国のあまりに貧しい現実に凡庸な常識論で対抗することと、宮崎駿富野由悠季押井守といった固有名詞について考えることと、どちらが長期的に、本当の意味で、人類にとって生産的だろうか。想像力の必要な仕事だろうか。

安倍晋三とかSEALDsとかいった諸々について語ることと、ナウシカについて、シャアについて語ることのどちらが有意義か。答えは明白ではないだろうか。

何もかもが茶番と化し、世界の、時代の全てに置いていかれるこの国で、現実について語る価値がどこにあるというのだろうか。いま、この国にアニメ以上の語る価値のあるものがどこにあるのだろうか。

これは『序にかえて』で著者である宇野常寛が書いた文章を引用したものだ。

現在の虚構じみた現実に嫌気がさしていることはもちろんだが、それ以上に虚構に対しての圧倒的なまでのリスペクトを持っていることもうかがい知れる。

本書は、語るべきものとして虚構(アニメ)を扱うわけだが、虚構を題材にする理由として述べているのが上記引用であり、本書の趣旨だ。

 

媒介物であり、中間物として、本質を伝えようとし、その役割を担ってきた新聞やラジオ、TVや映像といったメディアを、ぼくたちはある意味で妄信的に、信仰的に捉えてきた。

しかし、その結果、失われたのは当事者性ともいえる。

メディアという媒介・中間物を経て伝わってくる国の現状や、政策の方向、それを伝える報道の内容は、真実を語るというよりも、その中に存在する人間が書き、発信することで"真実”とされた。

その実、責任の所在がうやむやとなり、誰がこうしてきたと語るよりも、結果的にこうなった、と述べることが正しい社会になっているのではないか。

そうであるならば、新聞や雑誌、TVや映画といった「文字から映像、そして現代のネットの世紀」に移る変遷の中で勃興・隆盛し、サブカルチャーというカテゴライズながらも、世界に発信できるクオリティを作り上げることができた虚構(アニメ)から時代を読み解くことができるのではないか。

むしろ、その方が過去から学ぶという点で言うと正しいのかもしれない。ぼくは本書を読み進める中で、そのように感じ、むしろ、主体性があることにうらやましさすら覚えた。

 

特にぼくはガンダムにおけるシャアの趨勢を追いかける宇野の姿勢に感嘆の息を漏らすとともに、慧眼たる視座に膝を打つ場面が多くあった。

宇野が語るシャア像というのは、虚構だからこその強みである主体性、当事者性を見出すのに最も適した題材なのではないかと感じている。

なぜなら、虚構の中で扱われる事象には当事者がいる。それを成し遂げようとする立場にも、それを止めようとする立場の側にも必ず主体性を持った当事者が存在する

そして、現実と同様、その当事者に対し、ぼくたち視聴者は対外的なポジションからではあるものの、同意の立場をとることもできれば、否定する立場に立つことも可能だ。

しかし、ぼくたちが住まう、現実の世界では政治における政局報道が数多く流され、いまいち当事者たちの思惑が見え隠れするものの、その本質をつかみきれない中でモヤモヤしてしまう。

そこに嫌気がさしているからこそ、政治に対する不信であったり、国の対応に対する不満を抱く。

なぜなら、そこに当事者性が欠落しているように感じているからであり、どこか他人行儀な対応の仕方をしている人間たちに対し、怒りとも似た感情が沸き起こっているからではないか。

そういった不満感や焦燥感、苛立ちを体現しているのは、虚構の中に存在する、立場としては主人公たちに敵対する組織や個人だ。虚構内での立場は敵対する立場だが、本質的には、その姿勢こそ、日本に住む国民の求める偶像なのかもしれない。

 

そう考えると、虚構・アニメを通して、本書では扱われているアニメーターたちが批評されているが、それはぼくたち読者たる国民(視聴者)が批評されているのだと気づく。

ぼくたちは、彼らの作る虚構に対し、少なからずとも同調し、否定する。それに対し、善し悪しを感情的に吐露した(感想を抱いた)瞬間、それは同意を意味し、受け入れたといえる

宮崎駿富野由悠季押井守という日本のアニメ界を牽引してきたアニメーターに対し、また、彼らが製作してきたアニメに対し、それぞれの立場と心情を慮りながらもクリティカルに、深淵を抉り出すように批評を繰り返す。

その姿勢は真剣そのものであり、ドンドンと没入させてくれる。それは、宇野の虚構という真実に対する同意と否定をしてきたことの証左であり、ぼくたちに対する姿勢そのものなのだ。

そして、読者たるぼくたちは、宇野の論調に対し、同調をしながらも否定する。そう、ぼくたちは、ぼくたちが同意し、否定してきたものに対し、否定と同意をする宇野に対し、同じ態度をとる。いや、とらざるをえない。

なぜなら、ぼくたちは虚構を好きだからであり、その可能性を信じたいと考えているからだ。決して諦めたくはないと考えているからこそ、本書を読み進めることができる。

 

そして、この国の姿を虚構という映像の中で表現し続けてきたアニメーターたちへの批評を、文字ではありながらも、彼らがなぶられる様を目にすることは、それを信奉してきたぼくたちに対して多くの気づきを与えてくれる。

虚構に没頭し、その可能性を信じているのであれば、この国の可能性を信じているのであれば、一読の価値は間違いなくある本だ。 

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

 
宮崎駿の雑想ノート

宮崎駿の雑想ノート

 

 

【橘玲】『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』をまずは受け入れることだ

あなたは自らの出自を呪わずに人生を送れているだろうか。

血脈主義というのは現代の価値観において許されるものではない、というのは一般的な認識だろう。

我々は、法の下の平等における加護の下、血筋や社会的立場によって差別を生むことは許されておらず、許すべきではないというのは標準的な思考だ。

では、誰もが出自に関係なく、欲しいと願うあらゆる能力を補填し、身に付けることができるだろうか。

勉強ができる人と、スポーツができる人と、音楽ができる人と、美術ができる人との差を努力することによって埋めることができるのだろうか。

恐らく多くの人の答えは「No」だろうし、そう回答せざるを得ないというのを知っている。

「やればできる」というのはできた人だからこその発言であり、できない人間からすれば詭弁だということをぼくたちの多くは知っている。

 

なぜか。

その影響は「遺伝」にあると言葉にせずとも“なんとなく”知っているからだ。

 

しかし、それを声高にいうことはできない。する人もいない。

身長も、体重も、顔も、「身体的特徴」は親からの遺伝であると、皆が知っているはずなのに、「知能」や「性格」、「こころ」はそう思われていない。というより、そう考えることが“よくないこと”かのように捉われているのはなぜか。

その理由を橘は遺伝の問題は政治問題だとする。

「遺伝」が科学ではなく「政治問題」だからだ。

僕たちの社会では、スポーツが得意なら羨ましがられるけれど、運動能力が劣っているからといって不利益を被ることはない。音楽や芸術などの才能も同じで、ピアノで弾けたり絵がうまかったりすることは生きていく上で必須の条件ではない。

それに対して知能の差は、就職の機会や収入を通じて全ての人に大きな影響を与える。誰もが身にしみて知っているように、知識社会では、学歴や資格で知能を証明しなければ高い評価は得られないのだ。

もしそうなら、知能が遺伝で決まるというのは不平等を容認するのと同じことになる。政治家が国会で、行動遺伝学の統計を示しながら、「バカな親からはバカな子どもが生まれる可能性が高く、彼らの多くはニートやフリーターになる」と発言したら大騒動になる。すなわち、知能は「政治的に」遺伝してはならないのだ。

橘は上記引用のように述べるが、無根拠にいうわけではない。

知能の70%は遺伝で決まるとするアメリカの教育心理学者アーサー・ジェンセンや、子どもの成長に子育ては影響しないと結論づけた心理学研究者ジュディス・リッチ・ハリスを紹介し、エビデンス、つまり根拠を持って主張をしている。

特に、ハリスの研究は子育てに勤(いそ)しむ親にとって福音なのか残酷な悪魔の囁きなのかは受け取る側の状況にもよるのかもしれない。

標準的な発達心理学では、知能や性格の違いは遺伝が50%、環境が50%とされており、その環境というのは親の関与などの家庭環境だと思われている。思われているというよりも信じられている。

しかし、それは大きな誤解であり、そう思うことは親のエゴであるとハリスは結論づけた。子どもの性格は自らが所属するコミュニティで使用される言語や風習のなかで醸成されるものであり、その中で役割を得ようとすることから育まれる、と。

 

さて、これを読んだあなたはどう感じただろう。

この結果を受けると、さしあたって親の関与が子供の生活に大きな影響を与える、ということを信じることはいささか怖いような気もする。

そもそも、信じるという行為は、考えることをやめたものがすることであり、残念ながら、そこから先には希望も何もない。

ここに関するぼくの考え方は以下のエントリに書いているので、ご一読いただければと思う。

goo.gl

子供というと、親と過ごす時間が重要だという主張も感情的には理解できるが、世界の中で親とだけの関係を築いているのであれば、そう理解せざるを得ない

しかし、現実はどうか。そんなことはありえない。

必ず、他の人間と接する機会と時間が設けられる。そうなると、子どもの周辺環境が動的に変化することになるわけであり、静的な状態で常に維持されているということはありえない。

個体としての、子どもに変化はなくとも、それを取り巻く環境が変化し続けるのであれば、それに伴った適応を繰り返すのは必然だろう。

その影響因子が親だけということがあり得ないのはいうまでもないが、影響の割合が大きいというのも、よく考えれば疑いたくなるし、現実、ハリスの研究ではその疑いが結果として出た。

親の課題はそこからだ。

だからこそ、何ができるのかを考え行動すべきであり、子どもの幸福を願うという便宜上の言い訳を周辺に振りまき、子どもに呪いをかけることはやめるべきだ。

自分の影響が決して大きくないということを認識することで、そういう環境の中で、自らの幸福について着々と行動することが大切なのだ。

 

本書では、世間一般的に言えば、耳が痛い情報や現実を読者に訴えかけてくる。

それを受けて、読者であるぼくたちはどう行動すべきなのか。どんな知識を身につけ、生きていけばいいのかを考える機会を与えてくれる。