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dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

【伊藤穰一】教養としてのテクノロジー

僕たちは何を楽しみを感じ、何に喜びを感じ、何になりたいのかをということを考えられているでしょうか。

MITといえば、僕でも聞いたことのある有名な工科大学であり、イノベーションが常に創発されていることを想起してしまう場所です。

そのラボで所長を務めるのが日本人だということに誇りを感じているのは僕だけではないでしょう。(まぁ、勝手に感じているのですが...笑)

本書内で強く強く強くメッセージとして込められているのは"いまを生きる大切さ"です。

 

僕たちはどれだけ日々の生活にこだわりを持って生きているでしょう。

冒頭の文書を書いた理由は、そんな事を考えたからでした。

生活の中にこだわりがあるということは、常に良い方向にしていこうという思いを抱きながら生活していることを意味します。

例えば、仕事に行く、学校に行く、遊びに行くという何か行動を起こす際に、自分の中で大切にしていることが何かを考えることをしているでしょうか。

洋服にこだわりを持つことや靴にこだわりを持つのでもいいかもしれませんし、目的地へ辿り着くための手段についてこだわるのでも構いません。

何にしても、もっと良い方法やもっと素敵になる方法を考えているでしょうか。何かをこだわることが、いまに対するこだわりになり、そのこだわりはすべて満足を得るために必要なことです。

 

子どもたちは周りが見えなくなるぐらいにギュッとのめり込んでしまう瞬間があります。

僕と生活をともにする4歳の長男もなにかに食らいつくと、そこから意識を引き剥がすのに大変苦労していますが、それぐらいにのめり込んでしまうことが多々あります。

それを大人は自らの生活時間を守るために遮ろうとしてしまうことがありますが、果たしてそれは本当に子どものためになっているのでしょうか。

人生はおとなになってから始まると一般的な教育では考えられていますが、果たしてそれは真実であり、真理なのかは考えるべきでしょうし、親は子どものいましていることは将来に向けての準備でないと意味がないと考えるけど、それは本当でしょうか。

子どもの将来は誰のためであるかといえば、子どものものです。共に生活する大人のものではありません。

大人が子どもに成功してほしい、幸せになってもらいたいと願うことは否定しませんが、自らの願望を押し付けることは子どものためではありません。

自らの願望を押し付けることは、子どもに自分の人生を代替してほしいと依頼する行為であり、子どもの人生に対する冒涜になります。人は他人の人生を生きるために生まれてきたのではありません。

"いま"を必死に生きること、"いま"にこだわりをもつことは子どもであろうが大人であろうが関係なく、誰に対しても必要な考え方でしょう。

子どもが取り組むことが大人になったときに必要だというのであれば、おとなになってから何かを始めることは無いのでしょうか。

子どもの時が”おとなになるための準備”だというのであれば、いつまでも準備が終わらないことになります。恐らく、「自分は〇〇の準備をしたから大人になった」という人は皆無ではないでしょうか。

なぜなら、大人がすべて準備が整った完璧な存在ではない、というところに答えがあるのではないかということにありそうです。

なぜなら、もっと良くなりたい、もっと良くなっていたいと願う気持ちは常に抱いているはずで、それがなくなったときには人生に何の張り合いもなくなっているでしょう。

だからこそ、いまを大切にしようと著者は述べています。

 

本書では、技術の革新が進むに連れ、身体的多様性の高い人達がいわゆる健常者と呼ばれる身体的多様性の低い人達の運動能力を凌駕することも予想しています。

つまり、オリンピックよりもパラリンピックのほうがよりダイナミズムに溢れた楽しくなる可能性が見えてきたということです。これをどうみるでしょう。

僕はそんなパラリンピックを見てみたいと思います。近い将来にはオリンピックとパラリンピックの境目がなくなり、同一開催というのも十分にありえるでしょう。

現実、オスカー・ピストリウスという両足義足のスプリンターは世界陸上はもちろん、ロンドンオリンピックにも出場し、決勝には進めませんでしたが、どちらも準決勝まで進んで見せました。
(彼の起こした事件について、本記事では一切考慮せず、競技者としての彼に焦点を当てています。)

すでに身体的な(パフォーマンス発現)能力に恵まれたパラリンピアンがオリンピアンと同等以上に競技を行えることを我々は目にしています。

それが当然の世界になったとき、健常者と呼ばれる人たちは純粋な気持ちで応援することが出来るのでしょうか。それとも"ずるい"と文句を言い、せっかく一緒になった大会を別物に戻すのでしょうか。

それを想像するときにワクワクするのは、その高い運動能力を発揮するために開発された技術は、一般生活にも落とし込まれていくということです。

むしろ、より性能の高いものが出来上がる可能性があります。

それは多様性に富んだ社会の中で差別をなくすことにつながるでしょうし、どちらがあこがれの対象となるのかは現段階に置いて誰にもわかりません。

わかりませんが、"健常者"というある意味での蔑称に無理が生じてくるのではないか、というのは想像に難くない状況容易に想像できます。

いま、僕には一緒に生活をする子どもがいますが、彼らに伝えているのは、"おかしい人"なんてのは存在しないし、自分と違うこと、それは個性だということです。

おかしい、変わってる、という言い方をするのは"自分が正しい"という態度は傲慢であり、人を馬鹿にしているともいえます。

それはいまに必死になっているのではなく、過去にあったことからなんとか自分の中での正解にすがろうとする不勉強者の態度であり、そんな態度を取る隙があるのであれば、いま、夢中になることに必死になるべきです。

"いま"を大切にすることは、年齢や性別、人種も関係なく、誰にでも与えられている権利であり、それを邪魔することは誰にもできないんです。できるとしたらブレーキをかける自分だけ。

そんなことを感じさせてくれる本でした。 

 

【エリック・バーカー】『残酷すぎる成功法則』は自己啓発本の限界を超える本だ

平成に入り、昭和バブルがはじけたことに対する恒常的な不安から自己啓発本が売れるようになったという。

自己啓発本、平成に急増 「将来に不安」背景 :日本経済新聞

その内容の多くは著者の経歴を振り返りながら思考体験をなぞり、そのロードマップを追体験することに主眼が置かれるもので、ぼくも読書体験の初期はそういう本に目が行き、読書体験を積んだ

しかし、読めば読むほどに気づいていくことがある。

その物語はあくまで著者その人にとっての手段と方法を記した物だったのであって、その対象が自分ではないことに。そして、その成功体験がそもそも自分のものではないことを何度も認識し、失望していく。

成功に夢を見て、希望を持つことは決して無駄なことではないが、それ以上に大切なのは事実を知ることだ。多くの自己啓発本に欠けているのは、客観的・数値的な事実を語ることであり、現在の自己啓発本は自己中心的で無責任だ。

また、特に気にしなければならないのは、自己啓発は全能の民を生み出す魔法の仕掛けではないのに、まるで全ての人が努力によってなんでもできるようになってしまうかのような風潮である。

全ての人がすべからく、何でもできるようになるとは思わない。というよりも、なるわけがない。しかし、成功法則を知り、ルールを知り、対策を練ることはできる。この世は、ぼくのような気づかない人にとって厳しく、そして残酷だ。

自己啓発本は読者にその壁を乗り越えることを許さない。壁を超えることを教えるのではなく、著者が超えた体験という、客観的・数値的な根拠ではなく体験的事実を語り、共感することでエクスタシーを与えることで読者の目を曇らせる。

つまり、そこには再現性が乏しく、他の人間に対しての適応する可能性を等しく制限する。

本書は、そんな「自己啓発本界隈の限界」を優雅に飛び越えていくことを目指している。本書では巷間いわれるジンクスやまやかしのような成功法則を全てエビデンスベースで語ることを前提にしているからだ。

 

エビデンスベースという言葉は、巷間使われるようになって久しいが、何も難しいことではなく「根拠を示す」という意味であり「裏付け」ということだ。

これは1990年代にアメリカで提唱され、医療分野で発展を遂げてきた。EBM(Evidenced-Base Medicine)というものであり、それまでの“医師の個人的な経験や慣習などに依存した治療法を排除し、科学的に検証された最新の研究結果に基づいて医療を実践すること”を指す。

つまり、効果測定から術式選定や投薬内容を統計学的に判断し、失敗を減らし、成功を増やしていこうとする取り組みであり、繰り返すこと(症例数を増やすこと)によって精度を高めることができ、多くの命や怪我・病気を改善することに寄与してきたわけだ。

 

ここで一つ考えたい。僕たちは科学的に死ぬことと、非科学的に死ぬことのどちらを受け入れるべきなのだろうか。

 

自然というものが生物の営みを含めた諸行無常のなりゆく形であるのならば、人間が科学的な力を身につけることができるのは自然であり、大局的な見方をした際に道徳や倫理という言葉もまた、自然の一部である人間の一つの事象となる。

つまり、望む望まないに関わらず、僕たちは科学的見地という考え方を否定できない。むしろそれがどんなに人間という生物の営みを外れるような結果だったとしても、結果、どちらを選択しようが自然ということになる。

エビデンスベース という言葉を意識して使おうが使わまいが、根底にあるのは自然という大局的なものの中にある一つの事象であり現象だ。

それであるならば、最終的には生物である、また、意識の主体である人間が、人格そのものが自由に選ぶことができるし、選んでいいということになるのではないか。

 

医療の世界においてエビデンスベース というのは、後ろ盾であり根幹的な判断基準だ。

選択における判断基準を持っているのかいないのかで何が変わるのといえば、成功と失敗の可能性を知ることだ。エビデンス、つまり根拠となるのは臨床であり、実験であり、検証だ。

それが示すものは成功と失敗の可能性を見出すことにある。なぜなら、科学において重要なのは失敗の数の上に成り立つ成功だからだ。

成功を得るために先人たちのして来た失敗を知ることこそ、成功への法則を生み出すことにつながる。そして可能性を知ることが重要なのは、できるだけ効率的に生きて生きたいと考える場合、可能性を知っていた方がより良い道に進む指標を持つことができる。

著者であるエリック・バーカーは「調整すること(アライメント)だ」としている。

成功者となるために、覚えておくべき最も重要なことは何だろう?

ひと言でいえば、それは「調整すること(アライメント)」だ。

成功とは、一つだけの特性の成果ではない。それは、「自分はどんな人間か」と「どんな人間を目指したいか」の二つを加味しつつ、そのバランスを調整することだ。

成功をのぞむ僕たちにとって必要なのは、人の成功話の根拠を知ることであり、そこに法則性があるのであれば、そこにまずは乗ってみる”勇気”を持つことだ。

 

成功という言葉がなんとも虚しく聞こえる人というのは、きっと勇気を持つことを諦めた人、そして、夢という言葉と職業という言葉が混同してしまった結果、それができなかったことに絶望している人なのではないか。

しかし、成功や夢というのは一つであるはずがない。ましてや一つの事象から成立しているわけがない。なぜなら、それらは動的なものであり、常に変化し続けるから。そもそも「夢=職業」となってしまっていることは危惧しなければならない。

職業というのは一つの手段でしかないはずだ。

それが夢、つまり目的ということは、壁に釘を打つという目的に対して必要な手段、トンカチを使用することが夢ということと一緒だ。なんとも訳のわからない話だが、残念ながらこれを勘違いしている人は少なくないだろう。

成功というのは複雑なものであり、複合的なものだ。捉えようがないともいえるかもしれない。

しかし、僕たちはそれを目指す。成功したいという気持ちの裏には幸福になりたいと願う気持ちが内在しているはずであり、幸福を目指すことは誰にも与えられている権利であり、目指すべきだとも思う。

そして、人生は「時間」という有限制約がある。

その有限制約は科学の発展により、徐々に延長されているが、それでも現代における平均寿命は100年まで届いていない。今後、100年に届いたとしても、有限であることに変わりはない。

有限である人生の中で、必死に成功を目指すこと、ひいては幸福になりたいともがくことは人間であるからこその悩みであり、本質的な欲求だと僕は思う。

そして、本書はその手助けをしてくれることは間違いない。

なぜなら、個人の経験則を科学的なエビデンスに落し込むことに成功している本だからだ。

残酷すぎる成功法則  9割まちがえる「その常識」を科学する

残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する

 

 

【大村大次郎】『お金の流れでわかる世界の歴史』読むことで経済の大切さを実感する

ぼくたちは日本史や世界史を学校教育の中で学ぶ場合、政治力や戦力、時勢を味方につけた国が覇権を握り、他国を支配する力を所持してきたという内容が多い。

少なくとも、ぼくの認識ではそうだ。

しかし、本書のタイトルにもなっているように、世界の覇権を握る国は得てしてお金を握っている。つまり、経済の覇権を握っている国となっていることがわかる。

 

ぼくはここで「日本史」だけを学ぶことへ疑問を抱く。

もちろん、日本の過去を学ぶことは、過去を生きた先人たちの行動や行為履歴を辿ることであり、そこから学ぶことが日本自体をアップデートをする上で不可欠な取り組みなはずだ。

しかし、それを日本の中だけの話として完結していいものなのかどうか。

 

聖徳太子が当時の中国、隋へ特使を派遣した遣隋使や、その後に続く遣唐使を派遣した流れも、日本史の中だけで論ずることには不可能なことはすぐにわかる。

というのも、当時の中国である隋の状況も踏まえなければ、日本が当時の中国へ派遣した遣隋使の役割など到底理解できるものではない。

しかし、ぼくが学んだ日本史では、ただただ、暗記をするだけで「文脈」が全くわかっていない。覚えているのは、その遣隋使や遣唐使、という名前ぐらいなもので、あとは年代が異なることぐらいなもの。

大切なことは、「どんな文脈で歴史的な事実が発生しているのか」という点であり、現代の北朝鮮をめぐる世界情勢も、北朝鮮と日本の関係だけを見ていてもさっぱりだ。

アメリカや中国、ロシア、そして韓国などに目を見張らせるからこそ、北朝鮮を観察することができるのであって、それは日本の中だけの話をしても全く理解できないのは当然だ。

つまり、世界史を学ぶ中に日本史があるのであって、日本史が前提とはならないのだ。無論、掘り下げてみていく際に、その対象国の内側のイデオロギーや、政治の流れを追うことにかけて、それぞれの国の歴史を見ることは必要だろう。

それだけを見たところで、地球の中にある日本のポジションは永遠に見ることはできないうえに、どのような力学は働いた結果の判断や決断であったのかを知る由もなくなってしまう。

 

ある国が栄華を極めることも、その国が栄華を失い、新たな栄華を手にする国が現れるのも、軍事的な力量にものを言わせ、強圧的に支配地域を広げたいという名誉欲だけから、ということはない。

そもそも名誉というのは、他者から与えられるものであり、他者が認めなければ、認めることを成さなければ得ることができないものだ。

人の数が多くなればなるほどに、自らの思考に近い人材だけを束ねる能力だけではなく、誰とも知れない誰かの幸福を助けることができる能力と、施策が求められ、その成果によって豊さを実現しなければならない。

だからこその経済。世界の中で経済的な覇権を握ることを、国の指導者は強く求めるし、実現しようと躍起になる。その繰り返しが世界の歴史だということが本書の主旨であり、ぼくたち読者が知るべきことだ。

 

さて、国が隆盛する際に最も必要なものは何か、そして、隆盛を極めた国が衰退する理由は何か。少なくとも、ぼくはこれまでの歴史を学ぶ過程で考えたことはない。

著者である大村は、「統一国家」と「役人の腐敗」がそのキーワードだとする。

古今東西、国家を維持していくためには、「徴税システムの整備」と「国民生活の安定」が絶対条件なのである。

(中略) 

徴税がうまくいっている間は富み栄えるが、やがて役人たちが腐敗していくと国家財政が傾く。それを立て直すために重税を課し、領民の不満が渦巻くようになる。

そして国内に生まれた対抗勢力や、外国からの侵略者によって、その国の政権(王)は滅んでいくのだ。

 言ってしまえば「型」だが、国の栄枯盛衰にも型があり、その型を知ることは歴史を学ぶ上でも非常に重要ということだ。

特に世界大戦の前後を見てみると、そのパワーバランスの奪い合いは、経済的なイニシアティブの取り合いであり、経済的な主権を握る新旧交代がなされる瞬間に発生している。

第1次、第2次大戦のどちらを見ても、欧州地域におけるドイツの台頭が引き金になっているのは疑いようのない事実だ。

しかし、ドイツがすべて悪いのかというと、それまで覇権を握っていた国々(イギリスを代表格にフランスなど)が台頭してきた国(このケースでいえばドイツ)に対し、怒りの拳を振り上げたという大人げない対応だとも見える。

日本の経済成長は明治政府時代から培われたものだという著者の主張には数字が伴っており、説得力があるが、長い年月を費やし、どこの国でも手にした経済成長を維持をしようと思えば、輸出を受け入れる対象となる国が必要だ。

日本は幕末以降、「生糸」を中心に輸出大国としての狼煙を上げつつあり、その影響力は徐々に強くなり、イギリスの植民地であった「インド」はイギリスにとって重要な市場だったにも関わらず、日本が価格と品質で優れていた。

ここをイギリスは植民地政策の優位性を活かし「ブロック経済」(ブロック圏外の国からの輸入品には高い関税をかける政策)を敷くことで日本を追い出し、なんとか優位性を保とうと躍起になっていたことがわかる。

欧州内でもドイツに経済大国としての地位を奪われながら、極東に位置する小さな島国にまで自国の重要な市場を抑えられたとあっては面子が立たないどころではない。

そして、満州は欧米各国にとって、植民地支配を受けていない上に広大な土地を持った非常に魅力的で貴重な地域だったが、それを日本が抑え、東アジアの支配権を主張したことから第2次世界大戦へと流れていく...。

 

このように、経済的な覇権を握ることは、世界の中でも主導権を握るために不可欠な要素であり、それを維持したいと思うのが各国の思惑だ。

そのタガが、何かのタイミングで爆発し、怒りの赴くままに走り出してしまった結果が戦争という悲しい物語へとつながっていくのだと実感する。

本書を読むことで、ぼくはこれまでの歴史というものの見方を変えることができた。そして、それを感じたことから、改めて多面的なものの見方が重要なのだと実感している。

ぜひ、本書を手に取り、歴史に目を向ける機会になれば、と思う次第だ。

 

【高井浩章】『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』でお金について考えるべきだ

『おカネの本質について、自分の子どもに対して説明したい』

これは、ぼくのささやかな願望でもあり、希望であり、やるべきタスクだと考えている。

このブログにて扱う書籍を読んだことのある方々ならば、きっと、お金、経済、金融など、おカネにまつわる事案について、一過言ある人もいれば、勉強中という人もいるだろう。

しかし、それを自分ではない他人に対して伝えるというのは容易ではない。

学校での勉強に始まり、自らが興味や関心を持った事柄であったとしても、学んだことを理解し、実践できるようになるためには、インプットのみでは足りず、必ずしもアウトプットが不可欠だ。

もっといえば、アウトプットを踏まえたインプットをすることで学習効率が上がるが、単純に詰め込み型のインプットのみでは、それこそ自己満足で終結してしまう恐れがあるのは、各々で体験したこともあるのではないか。

かくいう、ぼくも、その体験者たるのはいうまでもない。

 

本書は経済や金融を専門とした新聞記者である著者が自らの娘たちに向けたお金の教科書として連載を行っていたもの。Kindle版が個人出版され、1万ダウンロードされた後、書籍化された。

ストーリーとしては、主人公である男子中学生サッチョウさん(木戸くん)、同じく女子中学生のビャッコさん(福島さん)、そして、先生として登場するカイシュウ(江守先生)の3名が「そろばん勘定クラブ」にて「お金とはなにか」について議論し、理解を深める様を描く。

この「お金とはなにか」という議題は、ぼくを含めた大人は子どもたちに対してどう説明できるかを、深く考える必要に迫られる。

上でも書いたが、その本質について子どもに対して理路整然と説明すること、説明できることは、ぼくにとって大きな課題であり、解決すべきものだ。

また、それは子どもを持つ養育者たちの責務なのだとも思う。

なぜなら、国の教育におけるロードマップを描く立場にいる文部科学省が定める学習指導要領の中に「お金について」教えてくれる教科は存在しないからだ。

新学習指導要領(平成29年3月公示):文部科学省

 

義務教育課程の中で教えてくれないのであれば、高等教育に頼る他ないが、大学に通う段階では奨学金を借りるのか借りないのか。その返済について、否が応でも本人と親が「お金」について面と向かって考えなければならないことを意味する。

しかし、そうなってからでいいのだろうか。

今の日本の中における、いわゆる「奨学金の返済問題」は「お金について」考えていない、もしくは考えることを避けてきたことのツケなのではないか。

しかし、それを取り返す機会は十分に与えられている。

いまでは本書のような本質について深く考察した上で、読みやすく解説してくれる本があるからだ。

カイシュウ先生こと、「そろばん勘定クラブ」の主宰たる江守は元々、銀行家として働いており、リーマンショック以後、足を洗った。「お金のこと」について、実務者としての経験値は非常に高いのだが、いまでは銀行家を忌み嫌っている。

その理由は本書に譲るとして、その江守がお金の本質について語る場面があり、その中で「お金の本質は信用であり、その根底にあるのは共同幻想である」と結論付けている。

お金=信用(約束・信頼)

「お金にはなぜ価値があるのか。それはみんながそれをお金として扱うからです。ただの繰り返しじゃないかと思うでしょう。でも、本質はそうとしか言いようがない。小難しい言葉を使うと、お金とは共同幻想なのです。みんながお金に価値があると幻想をいだいている。だからお金がお金たり得る。幻想ではあるけれど、それこそが現実です。」

あくまでも個人の信用を可視化したもの、もっといえば、代替的に可視化したものがお金だ。

代替的に、とした理由は「信用」も多岐にわたるといえるからだ。銀行からお金を借りる上での銀行取引の信用や、SNSでのフォロー・フォロワーの数も指標となることは社会的な発言における信用と考えることができる。

お金を手にすることを目的にすることは、そのお金の本質を見誤ることを誘引する。なぜなら、あくまでも信用を可視化するツールであり、手段である「お金」を手に入れることを目的化することは、本末転倒といえる。

例えば、奨学金を得ることは高等教育を学ぶという目的があるからだ。しかし、奨学金を得ることが目的になるということは、別に学ぶ先はどうでもよく、とりあえず学ぶためには原資がいるから、ということになる。

もっといえば、家を建てたいと考えたときに、住宅ローンを組むことを目的にする人はいないだろう。「とにかく家を建てたいからローンを組みたい」なんていうのは、本末転倒という他にない。

どちらにしても、第三者から金銭を借り受けることには変わりはないが、そこに必要なのは「信用」であり、その人が抱える信用の歴史(信用履歴)だ。

 

本書もそうだが、お金について述べている書籍は多い。特に、ここ数年は仮想通貨の台頭もあり、法定通貨をはじめとした「お金」について考える機会が増えてきた。

増えてきた今だからこそ、ぼくたち大人は考えなければならないし、子どもたちに伝えなければならない。いや、伝えるために学ばなければならない

その入り口として、本書は中学生の主人公たちとともにお金について考えることができる格好の内容となっている。

少しでもお金について考える必要があると思っているのであれば、本書を手にすることをオススメしたい。

旧Kindle版 おカネの教室 統合版

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旧Kindle版 おカネの教室(前編)

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旧Kindle版 おカネの教室(後編)

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【宇野常寛】『母性のディストピア』現実を語るために虚構を語る

いまこの国の現実のどこに、本当に語る価値があるものが存在するというのだろうか。

難民を締め出し、移民に門を閉ざし、過ぎ去りし過去の成功の思い出に引きずられてグローバル化からも情報化からも置き去りにされたこの国のどこの誰に、世界の、イギリスの、アメリカの情況について述べる資格があるというのだろうか。

(中略)

この国のあまりに貧しい現実に凡庸な常識論で対抗することと、宮崎駿富野由悠季押井守といった固有名詞について考えることと、どちらが長期的に、本当の意味で、人類にとって生産的だろうか。想像力の必要な仕事だろうか。

安倍晋三とかSEALDsとかいった諸々について語ることと、ナウシカについて、シャアについて語ることのどちらが有意義か。答えは明白ではないだろうか。

何もかもが茶番と化し、世界の、時代の全てに置いていかれるこの国で、現実について語る価値がどこにあるというのだろうか。いま、この国にアニメ以上の語る価値のあるものがどこにあるのだろうか。

これは『序にかえて』で著者である宇野常寛が書いた文章を引用したものだ。

現在の虚構じみた現実に嫌気がさしていることはもちろんだが、それ以上に虚構に対しての圧倒的なまでのリスペクトを持っていることもうかがい知れる。

本書は、語るべきものとして虚構(アニメ)を扱うわけだが、虚構を題材にする理由として述べているのが上記引用であり、本書の趣旨だ。

 

媒介物であり、中間物として、本質を伝えようとし、その役割を担ってきた新聞やラジオ、TVや映像といったメディアを、ぼくたちはある意味で妄信的に、信仰的に捉えてきた。

しかし、その結果、失われたのは当事者性ともいえる。

メディアという媒介・中間物を経て伝わってくる国の現状や、政策の方向、それを伝える報道の内容は、真実を語るというよりも、その中に存在する人間が書き、発信することで"真実”とされた。

その実、責任の所在がうやむやとなり、誰がこうしてきたと語るよりも、結果的にこうなった、と述べることが正しい社会になっているのではないか。

そうであるならば、新聞や雑誌、TVや映画といった「文字から映像、そして現代のネットの世紀」に移る変遷の中で勃興・隆盛し、サブカルチャーというカテゴライズながらも、世界に発信できるクオリティを作り上げることができた虚構(アニメ)から時代を読み解くことができるのではないか。

むしろ、その方が過去から学ぶという点で言うと正しいのかもしれない。ぼくは本書を読み進める中で、そのように感じ、むしろ、主体性があることにうらやましさすら覚えた。

 

特にぼくはガンダムにおけるシャアの趨勢を追いかける宇野の姿勢に感嘆の息を漏らすとともに、慧眼たる視座に膝を打つ場面が多くあった。

宇野が語るシャア像というのは、虚構だからこその強みである主体性、当事者性を見出すのに最も適した題材なのではないかと感じている。

なぜなら、虚構の中で扱われる事象には当事者がいる。それを成し遂げようとする立場にも、それを止めようとする立場の側にも必ず主体性を持った当事者が存在する

そして、現実と同様、その当事者に対し、ぼくたち視聴者は対外的なポジションからではあるものの、同意の立場をとることもできれば、否定する立場に立つことも可能だ。

しかし、ぼくたちが住まう、現実の世界では政治における政局報道が数多く流され、いまいち当事者たちの思惑が見え隠れするものの、その本質をつかみきれない中でモヤモヤしてしまう。

そこに嫌気がさしているからこそ、政治に対する不信であったり、国の対応に対する不満を抱く。

なぜなら、そこに当事者性が欠落しているように感じているからであり、どこか他人行儀な対応の仕方をしている人間たちに対し、怒りとも似た感情が沸き起こっているからではないか。

そういった不満感や焦燥感、苛立ちを体現しているのは、虚構の中に存在する、立場としては主人公たちに敵対する組織や個人だ。虚構内での立場は敵対する立場だが、本質的には、その姿勢こそ、日本に住む国民の求める偶像なのかもしれない。

 

そう考えると、虚構・アニメを通して、本書では扱われているアニメーターたちが批評されているが、それはぼくたち読者たる国民(視聴者)が批評されているのだと気づく。

ぼくたちは、彼らの作る虚構に対し、少なからずとも同調し、否定する。それに対し、善し悪しを感情的に吐露した(感想を抱いた)瞬間、それは同意を意味し、受け入れたといえる

宮崎駿富野由悠季押井守という日本のアニメ界を牽引してきたアニメーターに対し、また、彼らが製作してきたアニメに対し、それぞれの立場と心情を慮りながらもクリティカルに、深淵を抉り出すように批評を繰り返す。

その姿勢は真剣そのものであり、ドンドンと没入させてくれる。それは、宇野の虚構という真実に対する同意と否定をしてきたことの証左であり、ぼくたちに対する姿勢そのものなのだ。

そして、読者たるぼくたちは、宇野の論調に対し、同調をしながらも否定する。そう、ぼくたちは、ぼくたちが同意し、否定してきたものに対し、否定と同意をする宇野に対し、同じ態度をとる。いや、とらざるをえない。

なぜなら、ぼくたちは虚構を好きだからであり、その可能性を信じたいと考えているからだ。決して諦めたくはないと考えているからこそ、本書を読み進めることができる。

 

そして、この国の姿を虚構という映像の中で表現し続けてきたアニメーターたちへの批評を、文字ではありながらも、彼らがなぶられる様を目にすることは、それを信奉してきたぼくたちに対して多くの気づきを与えてくれる。

虚構に没頭し、その可能性を信じているのであれば、この国の可能性を信じているのであれば、一読の価値は間違いなくある本だ。 

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

 
宮崎駿の雑想ノート

宮崎駿の雑想ノート

 

 

【橘玲】『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』をまずは受け入れることだ

あなたは自らの出自を呪わずに人生を送れているだろうか。

血脈主義というのは現代の価値観において許されるものではない、というのは一般的な認識だろう。

我々は、法の下の平等における加護の下、血筋や社会的立場によって差別を生むことは許されておらず、許すべきではないというのは標準的な思考だ。

では、誰もが出自に関係なく、欲しいと願うあらゆる能力を補填し、身に付けることができるだろうか。

勉強ができる人と、スポーツができる人と、音楽ができる人と、美術ができる人との差を努力することによって埋めることができるのだろうか。

恐らく多くの人の答えは「No」だろうし、そう回答せざるを得ないというのを知っている。

「やればできる」というのはできた人だからこその発言であり、できない人間からすれば詭弁だということをぼくたちの多くは知っている。

 

なぜか。

その影響は「遺伝」にあると言葉にせずとも“なんとなく”知っているからだ。

 

しかし、それを声高にいうことはできない。する人もいない。

身長も、体重も、顔も、「身体的特徴」は親からの遺伝であると、皆が知っているはずなのに、「知能」や「性格」、「こころ」はそう思われていない。というより、そう考えることが“よくないこと”かのように捉われているのはなぜか。

その理由を橘は遺伝の問題は政治問題だとする。

「遺伝」が科学ではなく「政治問題」だからだ。

僕たちの社会では、スポーツが得意なら羨ましがられるけれど、運動能力が劣っているからといって不利益を被ることはない。音楽や芸術などの才能も同じで、ピアノで弾けたり絵がうまかったりすることは生きていく上で必須の条件ではない。

それに対して知能の差は、就職の機会や収入を通じて全ての人に大きな影響を与える。誰もが身にしみて知っているように、知識社会では、学歴や資格で知能を証明しなければ高い評価は得られないのだ。

もしそうなら、知能が遺伝で決まるというのは不平等を容認するのと同じことになる。政治家が国会で、行動遺伝学の統計を示しながら、「バカな親からはバカな子どもが生まれる可能性が高く、彼らの多くはニートやフリーターになる」と発言したら大騒動になる。すなわち、知能は「政治的に」遺伝してはならないのだ。

橘は上記引用のように述べるが、無根拠にいうわけではない。

知能の70%は遺伝で決まるとするアメリカの教育心理学者アーサー・ジェンセンや、子どもの成長に子育ては影響しないと結論づけた心理学研究者ジュディス・リッチ・ハリスを紹介し、エビデンス、つまり根拠を持って主張をしている。

特に、ハリスの研究は子育てに勤(いそ)しむ親にとって福音なのか残酷な悪魔の囁きなのかは受け取る側の状況にもよるのかもしれない。

標準的な発達心理学では、知能や性格の違いは遺伝が50%、環境が50%とされており、その環境というのは親の関与などの家庭環境だと思われている。思われているというよりも信じられている。

しかし、それは大きな誤解であり、そう思うことは親のエゴであるとハリスは結論づけた。子どもの性格は自らが所属するコミュニティで使用される言語や風習のなかで醸成されるものであり、その中で役割を得ようとすることから育まれる、と。

 

さて、これを読んだあなたはどう感じただろう。

この結果を受けると、さしあたって親の関与が子供の生活に大きな影響を与える、ということを信じることはいささか怖いような気もする。

そもそも、信じるという行為は、考えることをやめたものがすることであり、残念ながら、そこから先には希望も何もない。

ここに関するぼくの考え方は以下のエントリに書いているので、ご一読いただければと思う。

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子供というと、親と過ごす時間が重要だという主張も感情的には理解できるが、世界の中で親とだけの関係を築いているのであれば、そう理解せざるを得ない

しかし、現実はどうか。そんなことはありえない。

必ず、他の人間と接する機会と時間が設けられる。そうなると、子どもの周辺環境が動的に変化することになるわけであり、静的な状態で常に維持されているということはありえない。

個体としての、子どもに変化はなくとも、それを取り巻く環境が変化し続けるのであれば、それに伴った適応を繰り返すのは必然だろう。

その影響因子が親だけということがあり得ないのはいうまでもないが、影響の割合が大きいというのも、よく考えれば疑いたくなるし、現実、ハリスの研究ではその疑いが結果として出た。

親の課題はそこからだ。

だからこそ、何ができるのかを考え行動すべきであり、子どもの幸福を願うという便宜上の言い訳を周辺に振りまき、子どもに呪いをかけることはやめるべきだ。

自分の影響が決して大きくないということを認識することで、そういう環境の中で、自らの幸福について着々と行動することが大切なのだ。

 

本書では、世間一般的に言えば、耳が痛い情報や現実を読者に訴えかけてくる。

それを受けて、読者であるぼくたちはどう行動すべきなのか。どんな知識を身につけ、生きていけばいいのかを考える機会を与えてくれる。 

 

【山口揚平】『なぜゴッホは貧乏で、ピカソはお金持ちだったのか』で消費と投資の違いを考える

本書は、著者である山口揚平の『新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)』の前身だ。

冒頭、ピカソゴッホという著名な画家について、双方が同様に高名を得ているにもかかわらず、一方は金銭に恵まれ、一方は貧困にあえぐことを引き合いに出し、その差を考察することから始まる。

結論としては、ピカソはお金の正体を知っていた。知っていたというよりも、その本質的な使い方を覚えたということで落ち着く。

生い立ちを含め、ゴッホは凄惨な人生を送っており、耳を切り落とすというまったくもって理解できない行動を起こすぐらい追い詰められていたのに、片や、同じような名声を獲得したピカソはまったくもって悲壮な印象、それを想起させることはない。

ここで述べた「お金の正体」を知っているかどうかというのは、高名な画家であろうとなかろうと関係なく、我々が生活している中で「お金」を扱う上では不可欠な知識であり知識であり見識だ。

これまでのエントリでも、お金のことについて書かれた書籍をいくつか紹介してきた。

しかし、大変申し訳ないが、どれを読んだところであなたが豊かになるなどという保証は一切ない。その知識や見識から行為変容、つまり、行動を変化させられるかどうかにかかっているということはあえて書かせてもらいたい。

 

「お金とは信用である」というのは当ブログで扱ってきた書籍をお読みの方であれば当然の認識かと思われることを考えることから始める。それは「信用とはなにか」を考えなければならないということだ。

本書内に掲載されているが、デービット・マイスターがプロフェッショナル・アドバイザー―信頼を勝ちとる方程式の中で導き出す公式を紹介している。

信用度=専門性+確実度+親密度/ 利己心

 ちなみに、著者である山口は後々、これを信用度ではなく、価値に変換している。

 

では、お金を「信用」だとし、信用度というのは、専門性を高く保ち、仕事ぶりが確実で、親密な関係を構築したことに対し、自らの利益を優先する気持ちをあてて割り引くものだと理解した。

ここまでの理解でいえば、他者への貢献できる専門性を持ち、確実な仕事をし、親密な関係を築くことで、信用が高まり、それがお金に変換された際には大きな金額になることができるということがわかった。

では、消費と投資の違いについてはどうか。

ぼくは以前、『子育て・教育はコストか投資か』というエントリ内で、子どもに対し、教育の義務を課せられるのは養育者であり、その養育者の自己満足にお金を使うことは浪費であり、子どもの人的資本に影響を与えることにお金を使うことは投資であるとした。

dolog.hatenablog.com

本書内で述べられている山口の見解としても同様だ。

消費は「今の感情」に向けられるお金の使い方であり、投資は「将来」のためにお金を使うこととし、あくまでも今の感情に支配され、お金を使うという行為は投資ではなく、消費となる。

山口はその判断を財務諸表でするべきだと述べ、企業だけではなく、一般家庭においても財務諸表的な考え方を持ってお金を扱うべきだとしている。

この点は落合陽一(@ochyai )も同様の意見であり、金融的投資能力として今後の日本において、会計能力が必須能力であることに触れている。

 

財務諸表*1から得られる情報は、消費か投資かの判断を行う上で不可欠だとし、それがお金の使い方を導き出すともしている。

財務諸表とは、P/L(Profit and Losis Statement):損益計算書というものと、B/S(Balance Sheet):貸借対照表というものから構成される企業のお金の記録表だ。

想像できない人は、家計簿だと思えばいい。家計簿もピンと来ない人は、お金の出し入れを記録する用紙だと思えばいい。

それぞれについて簡単に説明をしてみる。

損益計算書というのは、会社の一定期間における経営成績を示す決算書。桃鉄でも出てくる。絶対評価(利益)と相対評価(対比:前年、前期など)が混合された通知表みたいなもので、会社にいくら入ってきて、いくら出て行ったのかを計算し、余り、つまり利益を示すものだ。

貸借対照表は、決算日時において、たとえば3月末日を決算としている会社が、その時点で持っている資産(現金、不動産、など)と負債(借りている現金や不動産など)から余り(差額)をだし、純資産として計算する会社の財政状態を明らかにするものだ。

 

これらを合わせて複式簿記と呼び、全世界で共通のフォーマットの上で運用されている。つまり、日本語で財務諸表(P/LやB/S)が読めれば、海外の企業がどんな経営状態になるのかも把握することが可能ということだ。

逆を返せば、財務諸表が読めないということは、資産状況が把握できないということになる。

つまり、だ。

自分がお金を持っているのかいないのか、有利な状況になるのかならないのか、その時点でのお金のあるなしに左右される。つまり、明日、食事ができるかどうかしか判断できないという状況に陥ってしまうということになり、それでは生活が困窮するだろう。

なぜなら、お金は信用だとするのであれば、その信用が貯めれているのか、そもそもマイナスでしかないのか、ということを判断する指標がわからないということだ。

これは消費だとか投資だとかいっている場合ではない。

自転車操業の状態で、入ってくるものをそのまま消費に回さなければならない状態というのは、余剰分がなくなってしまうため、投資だとかなんとかいっている場合ではない。

個人や家族、会社だろうが、投資を行うためには原資が必要なのには代わりがないため、現状の状態を改善できる部分については改善を図る必要がある。

 

では、自らの資産状況が把握できたとして、「信用を高める」ことは何がいいのだろうか。別に信用を高めることは資産状況となんら関係がなさそうなものだが、そうはいかない。

たとえば、あなたが1万円を貸せる人の顔を思い浮かべられるだろうか。

別に金額は5千円だろうが、千円だろうが関係ない。自分が簡単に貸すことのできる金額で考えてもらえばいいのだが、その金額を貸せる人は誰だろうか。

顔が思い浮かぶ人と、そうではない人の違いは何だろう。その違いが信用だ。

今後は人生の中で、仕事の延長で趣味になるのか、趣味の延長が仕事になるのか分からない人たちが増えていきそうだ。“増えていきそう”というのは、常識が変容するまでに一定期間(10年や20年という単位)を要することからだ。

その辺りについてはnoteで記事にしているので、お時間があればご覧いただきたい。

「普通」という異常|Ryosuke Endo|note

現在、「普通」だとか「常識」だとしている認識はメインストリームとなる年代が変わることで、簡単に変わるものだ。人の認識なんてものは時代によって変容すると誰もが知っているように、世間常識なんてものも変容することを前提にするべきだろう。

となれば、2018年時点でも、ぼくたちの親世代からすると「そんなのは仕事じゃない」*2と思われることが仕事として成立することを考えると、それがメインストリームになっていく可能性は否定できない。

ただ、急激に変わるには、技術的・時代的な前提条件が揃うことが必要になる。

それを考えると、急激にというよりも、今のようにポッと出てきた上で「なんかいいよね、この流れ」という雰囲気から徐々に醸成されていくのではないか。

そうなった時に、誰が求められるのかといえば、すでに一定数の人たちに対して実績を作っている「存在」にお金という名の信用が流れるのは必然だろう。

そうなった際に、あなたは信用を駆使することができるだろうかを考えるべきだ。お金というのはあくまでも信用を可視化するために便利な媒体・仲介でしかない。

相互に信用が高い状態を保てているのであれば、別にお金を介して売買を行う必要なんて全くない。

お金を使うというのは「=相手を完全には信用しきれていない」とも捉えることができる。

なぜなら、相手に完全に信用する価値があるのであれば、別にお金を介して取引を行わなくても良い。

 

本書は、信用を消費としてしまうのか、投資をするのかということを考えるのに打って付けの内容となっているため、ぜひ、手に取って読んでもらいたい。

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

 

 

*1:財務諸表は、企業が利害関係者に対して一定期間の経営成績や財務状態等を明らかにするために複式簿記に基づき作成される書類である。日常用語としては、決算書と呼ばれている。 ウィキペディア

*2:そもそも仕事=苦役だと思っている世代には現在のサービス業の大半は納得できるものではないだろう

【落合陽一】『日本再興戦略』は日本について考える良い機会だ

「ポジションを取れ。批評家になるな。フェアに向き合え。手を動かせ。金を稼げ。画一的な基準を持つな。複雑なものや時間をかけないと成し得ないことに自分ありの価値を見出して愛でろ。あらゆることにトキメキながら、あらゆるものに絶望して期待せずに生きろ。明日と明後日で考える基準を変え続けろ。」

一つの人格に複数のポジションを持ち合わせた人物。

アーティストであり、研究者であり、経営者であり、学長補佐であり、准教授で、なおかつ夫であり、親である。それが落合陽一だ。

冒頭の引用は本書で紹介されている落合自身がTwitterで呟いた内容。

本書はそもそも日本がとる現在のポジションが適正ではないということの指摘から、日本が取るべきポジション・目指すべき姿についてを落合の視点から考察されている。

 

ぼくは彼を魔法の世紀という本を読んだ時からなんとなく追いかけていて、とにかくきれいな本だったのだが、当初Kindle版でのみ配信されていた*1が、ここまできれいにする必要があるのか、というぐらいにきれい。

魔法の世紀

魔法の世紀

 

脱線するが、これは宇野常寛 (@wakusei2nd)が編集を手がけたことによることからで、宇野の本に装丁に対するこだわりは、見事なものだと思っている。本に対する宇野のリスペクトが現れているといえるが、PLANETSが手がける他の本についても同様で、非常に装丁にこだわりがある。ぜひ、手に取って確かめてもらいたい。

 

話をもどして…

上記本以降、各種メディアに出てくる彼の発言を追ってみると、人・制度・仕組み・技術をワンセットで見ている姿勢からくる発言にsympathy(賛成や同意の意)を抱くようになった。

 

本書は多くの注釈が入れられており、語句に対しての定義づけや意味づけをきちんと行っている

非常に丁寧に作られており、人によって解釈が異なるものや、曖昧になってしまうものに対し、著者として立場を決めていることで、微妙な言葉尻や揚げ足を取った批判をねじ伏せる意図を感じる。

まるで論文を読んでいるかのような気持ちにもなるが、それは彼が常々いっているように、“考えをまとめ、発信する”上で適切なフォーマットが論文という形式であるということを体現しており、こちらに発信する姿勢を求められているような気もした。

発信を手がけるのであれば、自らの立場を踏まえ、裏付けはもちろんのこと、定義づけをきちんと行い、中途半端な揚げ足取りに屈することのない姿勢が健全な論議の場になるのだ、と落合は本書を読むすべての人に求めているのではないかと感じる。

 

そもそも日本のとるべきポジション、すなわち立場や姿勢として、西洋的な近代的個人を目指したことは日本にあっていなかったとしている。なぜか。

それは現状、日本の中では、個人から成り立つ国民国家という意識は醸成されておらず、むしろ孤独感が強調された結果であると落合はいう。

続けて、自然的な“誰が中心でないコミュニティ”こそ、日本が本来的に醸成してきた姿勢であり、目指すべきポジションであると結論づけている。

また、その中では階層性、つまりカースト*2は求めるべきだし、求められるべきだとも指摘しており、過去に日本の中でカーストが存在した事実を踏まえ、現代のコンピューター時代にも適応しうるとしている。そして、これを現在の職種や業態を当ててみると納得ができる。

大きく分類すると、士は政策決定者・産業創造者・官僚で、農は一般生産・一般業務従事者で、工がアーティストや専門家で、商が金融商品や会計を扱うビジネスパーソンです。

この後、詳細に見ていく流れになるのだが、ぼくが大切だと感じたのは、それら詳細を見てきた最後に書かれている次の部分だ。

ですから、士農工商の中で、「商」は一番序列が低いというのは正しいのです。現代風にいうと、職人の息子のほうが、金融畑のトレーダーよりも優遇されるということです。職人のほうが価値を生み出しているのですから、それは当時の政策としては理に適っているように見えます

これは現代において、メガバンクへの就職を希望する学生が多い事実と照らし合わせても納得できるものだ。(ただし、メガバンクのリストラ発表などを経て、19年卒予定の学生たちからは不評のようだ)

2019年卒学生の志望業界、「銀行」が4位にまで転落! メガバンクのリストラ発表が影響か | キャリコネニュース

日本の現状を支えているのは就業人口の多数を占めるサラリーマンだ。明治以降、日本が近代化を推し進める上で欧州や米国を参考に社会構築を図った結果、なぜかどの国にも存在しない職業「サラリーマン」が誕生した。

終身雇用や年功序列というHierarchie*3を強固なものとし、それを担保に住宅を30〜35年という長期ローンで購入させ、収入から強制的に社会保険料を徴収する国としては貴重な存在。

当初、国の政策を担う官僚エリートをサラリーマンと読んだとも考えられているが、それでいうと『士』、つまりクリエイティブな人たちを指す言葉だが、現代日本においてはホワイトカラーと呼ばれるバックオフィス、つまり「商」であり、一般事務などを指す言葉として定着している。

しかし、そんな「商」の人間がたくさんいたところで売るモノがなければ始まらない。仕組みやモノを生み出す存在である「士」や「工」がいなければモノが生まれないし、その先のマーケット(モノを売る場)も生まれようがない。

しかし、現代の日本においてモノづくりに対するリスペクトが低い、もしくはないことを落合は否定する。否定するというよりも、そういう状況になっていることを嘆く。

現在の仕事を回すための「商」であるホワイトカラーの仕事だけが多くなれば、創造性が欠如し、新しい仕組みや制度、モノといったイノベーティブな価値の高い仕事をできる人材がいなくなってしまう。

それは失われた20年とか30年といわれ、先進国でいることに違いはないが、経済の成長が鈍化し、その成長を全く実感できず、経済格差や少子高齢社会といったことが社会の課題ばかりが散見するような社会が醸成された。

正直、書いていてこれほど寂しいと思う事はない。

画一的な教育で横一列に並ぶことを良しとされ、他との違いが認められずに“同じであるべき”だという“正解”を提示された挙句に、大人になったら『なにができる?』『なにをしたい?』と聞く人たちに囲まれ夢もなく“仕事”という名の牢獄に囚われる。

人生という有限のものに対する向き合い方として、これは正しいのだろうか。有限だからこそ、人生においては仕事と生活のバランスを整えるワークライフバランスが叫ばれるが、落合はその考えに異を唱える。

そもそもワークライフバランス』とは、ワークとライフが対比される状況にあることを指し、それ自体に問題があるとし、そもそもワークとライフは切り離され、対比される対象なのではなく、人の有限的な時間の中では同一のものだ。

日本が再興するために今後、百姓を目指すべきだというのは本書内で一貫していわれることだが、その真意はここにある。

百姓とは100の生業を持ちうる職業のことです。

 これは本書の引用だが、士農工商でいう「農」は百姓を指し、多くの人は多能工*4な存在を目指すこと、つまり百姓を目指すべきだと説く。

西洋的な近代的現代人を目指した結果、教育では横一列での評価をされながらも超越した個人を目差さざるを得なかった日本人は一つのことを極めることで天職を得、定年という年齢による強制解雇を受け入れるまでを目指すことが(最低限の)成功だとされた。

しかし、皆が気づいているように、天職なんてものは存在しない。色々なことをあまねく関心を持ち、実際に取り組むことで繋がりを理解しながら対価を得ることを目指す『ワークアズライフ』の世界こそ、求めるべきなのではないか。

そこでは生きることで知識と経験を高め、個人としての価値を高めていくことが必然となり、ワーク(仕事)とライフ(生活)は切り離せなくなる。というよりも切り離して考えることなどできるはずがないのが現代であり、そもそも切り離すことが無理だということに気づくべきだった。

 

同時に、ワークアズライフの生活を送るために必要な能力として、落合は教育の中でポートフォリオマネジメントと金融的投資能力を挙げているが、ワークアズライフの世界では当然だといえ、不可欠だということは理解した上で納得できる。

そもそもこの二つは切っても切り離せない能力であり、“時代を読む”という点においては絶対的に不可欠な能力だ。

どちらも自らの保有する能力や資産について、テーブルの上に平らに並べた上で評価し、次にはどんな行動が必要で、そのための前提となる条件がなにかを考えなければならない。

だからこそ、落合はいう。現代の日本にある本当の格差は経済格差ではなく、モチベーション格差であると。これは一重に、自分のしたいことを見定められる人はそこに向けて自然とやり続けられるが、そうではない人にとっては酷な状態だ。

しかし、そうであるのかないのかを見定められるかどうかは、上記ポートフォリオマネジメントや金融適投資能力が必要で、だからこそ落合は大人であろうが、子どもであろうが全員をどうにかしたいと考えているし、ぼくたちもそう考えていいはずだ。

そんなことを考えられるようになっている事こそが、日本が先進国であることの利点であり、魅力だといえる。そんな、日本のよさに気づいていて、ぼくたちに気づかせてくれたのが落合だ。

 

ぼくにできることは、これまでの固まった思考を疑い、見つめ直し、はじめること。

「日本のためにできること」なんて大層なことはわからない。

 

だけど、ぼくがぼくのためにできること。

ぼくの属するコミュニティのためにできること。

それぞれに対してやりたいと思えることは確かにわかる。

 

本書は、そんなことを考えるきっかけを与えてくれる。

ぜひ手に取り読んだうえで、存分に感化されてみてはどうだろう。

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

 

 

*1:現在では単行本も扱われている

*2:インドなどヒンドゥー社会の身分制度; 司祭, 王族・武士, 庶民, 隷民の四階級が基本

*3:ピラミッド型に上下に序列化された位階性の組織や秩序

*4:多様な方向に才能を持っている、もしくは多様な仕事をこなすことができること

【山田真哉】『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?身近な疑問からはじめる会計学』で会計の知識へ入ってみる

『会計知識』と聞いて「なにやら面倒だな」と思う人は少なくないのではないか。正直、ぼくも避けていたし、数字が苦手だ、ということから逃げている人もいるだろう。

ただ、会計に数字は不可欠だが、数字に強くなる必要はないというのが著者の言い分だ。以前のエントリでも触れているが、一番分かりがいいのは宝くじを買うか買わないかという判断をどこでするのか、というところだろう。

宝くじの場合、その仕組みまでを考えれば考えるほど、買うこと自体が馬鹿らしくなる。少し古いが総務省』が公表している宝くじに受託業務についての資料と報告書を見てもらえれば、宝くじを夢を見るためだけに買うのは馬鹿らしくなるのは明らかだ。

【宝くじの受託業務】:総務省

【宝くじ活性化検討会報告書】:総務省

この内訳を見ると、当選金割合が50%を超えないという現実がハッキリと記載されている。ひどい言い方をすれば、宝くじは射幸心を煽るだけ煽っておきながら、そのリスクについて説明される機会を設けられていない金融商品だ。

たとえば、銀行で金融商品としての宝くじを勧められた場合に購入するのかどうかといえば、買うと決める人はほぼいなくなってしまうのではないか。(詳細は前エントリ『金融リテラシーの重要性は『臆病者のための億万長者入門』を読むことで認識される』を参照いただきたい)

 

さて、本題に戻そう。宝くじの仕組みを知ってまで「買う判断をする人」はよほどのリスクをとる人であり、ギャンブルが大好きな人ということで間違いないのではないか...と、ぼくは思う。

宝くじは1枚300円から買うことができるが、本来的な価値で300円分宝くじを買うためには2枚購入する必要があるのは上記した理由から明らかだ。

数字に強いかどうかというのは、それを自然と嗅ぎ分けられるか、そういう異変に気づくことができるかどうかというのが会計を学ぶことの利点だ。

 

ちなみに、以下エントリも会計知識でいうキャッシュフロー*1 の話だ。

支出を全てクレジットカードで払うようにした結果wwwwwwwwwwww - 思考ちゃんねる

どういうことかといえば、クレジットカードの場合、買掛金となるため【購入⇒支払い】までに期間が生じる。この間の手数料や利率などは店舗側が負担してくれるから、購入者にとって最も有利な買い方となる。

クレジットカードで支払う場合、月末締めの翌月払いがベースで、買掛金の考え方は「お金を実質的に払ってない(未払い金だ)けど、商品を受け取れる」ということで、この実質的に支払ってない、というところがポイントになる

現金で購入する場合、現金を持ち合わせていることが必要な上、確実に支払うことが前提なので、確実にこちらの資産が減ることが決定する支払い方だ。

この考え方を知っている人は、クレジットカードでの支払いが購入者側に有利なのを知っているため、実質的に支払っていなくても商品や製品を手にすることができることを知っているということだ。

だからといって、クレジットカードでの支払いを推奨するのが本旨ではない。今回、僕が本書を読んだうえでいいたいことは、日常生活の中で(お金について)損をしないように生きるには、会計の知識や数字に対するセンス(嗅覚)は必要だ、ということだ。

本書内で著者がメンター、つまり師匠と呼べる人物出会い、そこで諭されたエピソードが記載されている。

あるとき、院長は私に一枚のチラシを見せながらこういった。

「ライバルの○○ゼミナールのチラシだが、これを見てどう思う?」

そこには《公立トップ高校に120人合格!市内6教室にて展開!》と大きく書かれていた。

そこで私は、

「3桁の合格者数はインパクトがありますね。教室数の多さも保護者に『大手だから安心』という幹事を植えつけられますし、やはり大手は強いですね」

ともっともらしく答えた。

ところが、院長は首を横に振った。

「違うな、山田くん。120人合格はたしかに多いが、1教室あたりに直すと20人だ。うちは1教室しかないが、40人の合格者を出しているのだから、うちの合格者ははるかに多い」

「.......大手なのにたいしたことなかったんですね」

「それに、去年この塾は5教室で、今年1教室増えて6教室になったが、合格者数はほとんど増えていない。ということは、力が落ちてきているということだ----」

何のことはないような会話だが、冷静な分析を塾の経営者である「院長」はしていることになるのがよくわかる。

数字のセンスというのは、意味のある数字を見つけること、そして、その数字の意味することは自分にとってどんな影響があるのかを感情を乗り越えて考えられるようになるかどうかにかかっている。

買い物に行ったとして、目当ての商品はいくらなのか、昨日と比較して高いのか安いのか、その金額で買うことは自分にとってどれだけの幸福を与えてくれるのか。

それを自然とかぎ分けられるようになるのが会計の知識を学ぶ利点であり、本質だ。

本書は、可能な限り専門用語を用いずに書かれていることとあわせて、著者の身近で起こっていること(いいかえれば、ぼくたちの周りでも起きていること)を例に各章をまとめてくれているため、すごく読みやすい。

サラリーマンであろうが、技術者であろうが、主婦であろうが会計の知識が無駄になることは絶対にないと断言できる。

いくらAIが全盛になり、会計情報を機械化されたところで、それを読み取り、行動をする人間がいなくなることはない。企業会計であれば、AIが傾向を経営者や財務担当者に判断を仰ぐためにまとめることはあるだろうが、決めるのは人だ。

それは個人に置き換えてもまったく同じことであり、それを読めるのか読めないのかによって、お金の使い方にはじまり、生活の送り方が大きく変わる。

本書を読むことによって、少しでも会計の知識を身につけようと思ってもらえれば幸いだ。

 

 

*1:キャッシュ・フローとは、現金の流れを意味し、主に、企業活動や財務活動によって実際に得られた収入から、外部への支出を差し引いて手元に残る資金の流れのことをいう。 損益計算書と異なり、現金収支を原則として把握するため、将来的に入る予定の利益に関してはキャッシュフロー計算書には含まれない。 ウィキペディア