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dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

【山口揚平】『なぜゴッホは貧乏で、ピカソはお金持ちだったのか』で消費と投資の違いを考える

本書は、著者である山口揚平の『新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)』の前身だ。

冒頭、ピカソゴッホという著名な画家について、双方が同様に高名を得ているにもかかわらず、一方は金銭に恵まれ、一方は貧困にあえぐことを引き合いに出し、その差を考察することから始まる。

結論としては、ピカソはお金の正体を知っていた。知っていたというよりも、その本質的な使い方を覚えたということで落ち着く。

生い立ちを含め、ゴッホは凄惨な人生を送っており、耳を切り落とすというまったくもって理解できない行動を起こすぐらい追い詰められていたのに、片や、同じような名声を獲得したピカソはまったくもって悲壮な印象、それを想起させることはない。

ここで述べた「お金の正体」を知っているかどうかというのは、高名な画家であろうとなかろうと関係なく、我々が生活している中で「お金」を扱う上では不可欠な知識であり知識であり見識だ。

これまでのエントリでも、お金のことについて書かれた書籍をいくつか紹介してきた。

しかし、大変申し訳ないが、どれを読んだところであなたが豊かになるなどという保証は一切ない。その知識や見識から行為変容、つまり、行動を変化させられるかどうかにかかっているということはあえて書かせてもらいたい。

 

「お金とは信用である」というのは当ブログで扱ってきた書籍をお読みの方であれば当然の認識かと思われることを考えることから始める。それは「信用とはなにか」を考えなければならないということだ。

本書内に掲載されているが、デービット・マイスターがプロフェッショナル・アドバイザー―信頼を勝ちとる方程式の中で導き出す公式を紹介している。

信用度=専門性+確実度+親密度/ 利己心

 ちなみに、著者である山口は後々、これを信用度ではなく、価値に変換している。

 

では、お金を「信用」だとし、信用度というのは、専門性を高く保ち、仕事ぶりが確実で、親密な関係を構築したことに対し、自らの利益を優先する気持ちをあてて割り引くものだと理解した。

ここまでの理解でいえば、他者への貢献できる専門性を持ち、確実な仕事をし、親密な関係を築くことで、信用が高まり、それがお金に変換された際には大きな金額になることができるということがわかった。

では、消費と投資の違いについてはどうか。

ぼくは以前、『子育て・教育はコストか投資か』というエントリ内で、子どもに対し、教育の義務を課せられるのは養育者であり、その養育者の自己満足にお金を使うことは浪費であり、子どもの人的資本に影響を与えることにお金を使うことは投資であるとした。

dolog.hatenablog.com

本書内で述べられている山口の見解としても同様だ。

消費は「今の感情」に向けられるお金の使い方であり、投資は「将来」のためにお金を使うこととし、あくまでも今の感情に支配され、お金を使うという行為は投資ではなく、消費となる。

山口はその判断を財務諸表でするべきだと述べ、企業だけではなく、一般家庭においても財務諸表的な考え方を持ってお金を扱うべきだとしている。

この点は落合陽一(@ochyai )も同様の意見であり、金融的投資能力として今後の日本において、会計能力が必須能力であることに触れている。

 

財務諸表*1から得られる情報は、消費か投資かの判断を行う上で不可欠だとし、それがお金の使い方を導き出すともしている。

財務諸表とは、P/L(Profit and Losis Statement):損益計算書というものと、B/S(Balance Sheet):貸借対照表というものから構成される企業のお金の記録表だ。

想像できない人は、家計簿だと思えばいい。家計簿もピンと来ない人は、お金の出し入れを記録する用紙だと思えばいい。

それぞれについて簡単に説明をしてみる。

損益計算書というのは、会社の一定期間における経営成績を示す決算書。桃鉄でも出てくる。絶対評価(利益)と相対評価(対比:前年、前期など)が混合された通知表みたいなもので、会社にいくら入ってきて、いくら出て行ったのかを計算し、余り、つまり利益を示すものだ。

貸借対照表は、決算日時において、たとえば3月末日を決算としている会社が、その時点で持っている資産(現金、不動産、など)と負債(借りている現金や不動産など)から余り(差額)をだし、純資産として計算する会社の財政状態を明らかにするものだ。

 

これらを合わせて複式簿記と呼び、全世界で共通のフォーマットの上で運用されている。つまり、日本語で財務諸表(P/LやB/S)が読めれば、海外の企業がどんな経営状態になるのかも把握することが可能ということだ。

逆を返せば、財務諸表が読めないということは、資産状況が把握できないということになる。

つまり、だ。

自分がお金を持っているのかいないのか、有利な状況になるのかならないのか、その時点でのお金のあるなしに左右される。つまり、明日、食事ができるかどうかしか判断できないという状況に陥ってしまうということになり、それでは生活が困窮するだろう。

なぜなら、お金は信用だとするのであれば、その信用が貯めれているのか、そもそもマイナスでしかないのか、ということを判断する指標がわからないということだ。

これは消費だとか投資だとかいっている場合ではない。

自転車操業の状態で、入ってくるものをそのまま消費に回さなければならない状態というのは、余剰分がなくなってしまうため、投資だとかなんとかいっている場合ではない。

個人や家族、会社だろうが、投資を行うためには原資が必要なのには代わりがないため、現状の状態を改善できる部分については改善を図る必要がある。

 

では、自らの資産状況が把握できたとして、「信用を高める」ことは何がいいのだろうか。別に信用を高めることは資産状況となんら関係がなさそうなものだが、そうはいかない。

たとえば、あなたが1万円を貸せる人の顔を思い浮かべられるだろうか。

別に金額は5千円だろうが、千円だろうが関係ない。自分が簡単に貸すことのできる金額で考えてもらえばいいのだが、その金額を貸せる人は誰だろうか。

顔が思い浮かぶ人と、そうではない人の違いは何だろう。その違いが信用だ。

今後は人生の中で、仕事の延長で趣味になるのか、趣味の延長が仕事になるのか分からない人たちが増えていきそうだ。“増えていきそう”というのは、常識が変容するまでに一定期間(10年や20年という単位)を要することからだ。

その辺りについてはnoteで記事にしているので、お時間があればご覧いただきたい。

「普通」という異常|Ryosuke Endo|note

現在、「普通」だとか「常識」だとしている認識はメインストリームとなる年代が変わることで、簡単に変わるものだ。人の認識なんてものは時代によって変容すると誰もが知っているように、世間常識なんてものも変容することを前提にするべきだろう。

となれば、2018年時点でも、ぼくたちの親世代からすると「そんなのは仕事じゃない」*2と思われることが仕事として成立することを考えると、それがメインストリームになっていく可能性は否定できない。

ただ、急激に変わるには、技術的・時代的な前提条件が揃うことが必要になる。

それを考えると、急激にというよりも、今のようにポッと出てきた上で「なんかいいよね、この流れ」という雰囲気から徐々に醸成されていくのではないか。

そうなった時に、誰が求められるのかといえば、すでに一定数の人たちに対して実績を作っている「存在」にお金という名の信用が流れるのは必然だろう。

そうなった際に、あなたは信用を駆使することができるだろうかを考えるべきだ。お金というのはあくまでも信用を可視化するために便利な媒体・仲介でしかない。

相互に信用が高い状態を保てているのであれば、別にお金を介して売買を行う必要なんて全くない。

お金を使うというのは「=相手を完全には信用しきれていない」とも捉えることができる。

なぜなら、相手に完全に信用する価値があるのであれば、別にお金を介して取引を行わなくても良い。

 

本書は、信用を消費としてしまうのか、投資をするのかということを考えるのに打って付けの内容となっているため、ぜひ、手に取って読んでもらいたい。

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

 

 

*1:財務諸表は、企業が利害関係者に対して一定期間の経営成績や財務状態等を明らかにするために複式簿記に基づき作成される書類である。日常用語としては、決算書と呼ばれている。 ウィキペディア

*2:そもそも仕事=苦役だと思っている世代には現在のサービス業の大半は納得できるものではないだろう

【落合陽一】『日本再興戦略』は日本について考える良い機会だ

「ポジションを取れ。批評家になるな。フェアに向き合え。手を動かせ。金を稼げ。画一的な基準を持つな。複雑なものや時間をかけないと成し得ないことに自分ありの価値を見出して愛でろ。あらゆることにトキメキながら、あらゆるものに絶望して期待せずに生きろ。明日と明後日で考える基準を変え続けろ。」

一つの人格に複数のポジションを持ち合わせた人物。

アーティストであり、研究者であり、経営者であり、学長補佐であり、准教授で、なおかつ夫であり、親である。それが落合陽一だ。

冒頭の引用は本書で紹介されている落合自身がTwitterで呟いた内容。

本書はそもそも日本がとる現在のポジションが適正ではないということの指摘から、日本が取るべきポジション・目指すべき姿についてを落合の視点から考察されている。

 

ぼくは彼を魔法の世紀という本を読んだ時からなんとなく追いかけていて、とにかくきれいな本だったのだが、当初Kindle版でのみ配信されていた*1が、ここまできれいにする必要があるのか、というぐらいにきれい。

魔法の世紀

魔法の世紀

 

脱線するが、これは宇野常寛 (@wakusei2nd)が編集を手がけたことによることからで、宇野の本に装丁に対するこだわりは、見事なものだと思っている。本に対する宇野のリスペクトが現れているといえるが、PLANETSが手がける他の本についても同様で、非常に装丁にこだわりがある。ぜひ、手に取って確かめてもらいたい。

 

話をもどして…

上記本以降、各種メディアに出てくる彼の発言を追ってみると、人・制度・仕組み・技術をワンセットで見ている姿勢からくる発言にsympathy(賛成や同意の意)を抱くようになった。

 

本書は多くの注釈が入れられており、語句に対しての定義づけや意味づけをきちんと行っている

非常に丁寧に作られており、人によって解釈が異なるものや、曖昧になってしまうものに対し、著者として立場を決めていることで、微妙な言葉尻や揚げ足を取った批判をねじ伏せる意図を感じる。

まるで論文を読んでいるかのような気持ちにもなるが、それは彼が常々いっているように、“考えをまとめ、発信する”上で適切なフォーマットが論文という形式であるということを体現しており、こちらに発信する姿勢を求められているような気もした。

発信を手がけるのであれば、自らの立場を踏まえ、裏付けはもちろんのこと、定義づけをきちんと行い、中途半端な揚げ足取りに屈することのない姿勢が健全な論議の場になるのだ、と落合は本書を読むすべての人に求めているのではないかと感じる。

 

そもそも日本のとるべきポジション、すなわち立場や姿勢として、西洋的な近代的個人を目指したことは日本にあっていなかったとしている。なぜか。

それは現状、日本の中では、個人から成り立つ国民国家という意識は醸成されておらず、むしろ孤独感が強調された結果であると落合はいう。

続けて、自然的な“誰が中心でないコミュニティ”こそ、日本が本来的に醸成してきた姿勢であり、目指すべきポジションであると結論づけている。

また、その中では階層性、つまりカースト*2は求めるべきだし、求められるべきだとも指摘しており、過去に日本の中でカーストが存在した事実を踏まえ、現代のコンピューター時代にも適応しうるとしている。そして、これを現在の職種や業態を当ててみると納得ができる。

大きく分類すると、士は政策決定者・産業創造者・官僚で、農は一般生産・一般業務従事者で、工がアーティストや専門家で、商が金融商品や会計を扱うビジネスパーソンです。

この後、詳細に見ていく流れになるのだが、ぼくが大切だと感じたのは、それら詳細を見てきた最後に書かれている次の部分だ。

ですから、士農工商の中で、「商」は一番序列が低いというのは正しいのです。現代風にいうと、職人の息子のほうが、金融畑のトレーダーよりも優遇されるということです。職人のほうが価値を生み出しているのですから、それは当時の政策としては理に適っているように見えます

これは現代において、メガバンクへの就職を希望する学生が多い事実と照らし合わせても納得できるものだ。(ただし、メガバンクのリストラ発表などを経て、19年卒予定の学生たちからは不評のようだ)

2019年卒学生の志望業界、「銀行」が4位にまで転落! メガバンクのリストラ発表が影響か | キャリコネニュース

日本の現状を支えているのは就業人口の多数を占めるサラリーマンだ。明治以降、日本が近代化を推し進める上で欧州や米国を参考に社会構築を図った結果、なぜかどの国にも存在しない職業「サラリーマン」が誕生した。

終身雇用や年功序列というHierarchie*3を強固なものとし、それを担保に住宅を30〜35年という長期ローンで購入させ、収入から強制的に社会保険料を徴収する国としては貴重な存在。

当初、国の政策を担う官僚エリートをサラリーマンと読んだとも考えられているが、それでいうと『士』、つまりクリエイティブな人たちを指す言葉だが、現代日本においてはホワイトカラーと呼ばれるバックオフィス、つまり「商」であり、一般事務などを指す言葉として定着している。

しかし、そんな「商」の人間がたくさんいたところで売るモノがなければ始まらない。仕組みやモノを生み出す存在である「士」や「工」がいなければモノが生まれないし、その先のマーケット(モノを売る場)も生まれようがない。

しかし、現代の日本においてモノづくりに対するリスペクトが低い、もしくはないことを落合は否定する。否定するというよりも、そういう状況になっていることを嘆く。

現在の仕事を回すための「商」であるホワイトカラーの仕事だけが多くなれば、創造性が欠如し、新しい仕組みや制度、モノといったイノベーティブな価値の高い仕事をできる人材がいなくなってしまう。

それは失われた20年とか30年といわれ、先進国でいることに違いはないが、経済の成長が鈍化し、その成長を全く実感できず、経済格差や少子高齢社会といったことが社会の課題ばかりが散見するような社会が醸成された。

正直、書いていてこれほど寂しいと思う事はない。

画一的な教育で横一列に並ぶことを良しとされ、他との違いが認められずに“同じであるべき”だという“正解”を提示された挙句に、大人になったら『なにができる?』『なにをしたい?』と聞く人たちに囲まれ夢もなく“仕事”という名の牢獄に囚われる。

人生という有限のものに対する向き合い方として、これは正しいのだろうか。有限だからこそ、人生においては仕事と生活のバランスを整えるワークライフバランスが叫ばれるが、落合はその考えに異を唱える。

そもそもワークライフバランス』とは、ワークとライフが対比される状況にあることを指し、それ自体に問題があるとし、そもそもワークとライフは切り離され、対比される対象なのではなく、人の有限的な時間の中では同一のものだ。

日本が再興するために今後、百姓を目指すべきだというのは本書内で一貫していわれることだが、その真意はここにある。

百姓とは100の生業を持ちうる職業のことです。

 これは本書の引用だが、士農工商でいう「農」は百姓を指し、多くの人は多能工*4な存在を目指すこと、つまり百姓を目指すべきだと説く。

西洋的な近代的現代人を目指した結果、教育では横一列での評価をされながらも超越した個人を目差さざるを得なかった日本人は一つのことを極めることで天職を得、定年という年齢による強制解雇を受け入れるまでを目指すことが(最低限の)成功だとされた。

しかし、皆が気づいているように、天職なんてものは存在しない。色々なことをあまねく関心を持ち、実際に取り組むことで繋がりを理解しながら対価を得ることを目指す『ワークアズライフ』の世界こそ、求めるべきなのではないか。

そこでは生きることで知識と経験を高め、個人としての価値を高めていくことが必然となり、ワーク(仕事)とライフ(生活)は切り離せなくなる。というよりも切り離して考えることなどできるはずがないのが現代であり、そもそも切り離すことが無理だということに気づくべきだった。

 

同時に、ワークアズライフの生活を送るために必要な能力として、落合は教育の中でポートフォリオマネジメントと金融的投資能力を挙げているが、ワークアズライフの世界では当然だといえ、不可欠だということは理解した上で納得できる。

そもそもこの二つは切っても切り離せない能力であり、“時代を読む”という点においては絶対的に不可欠な能力だ。

どちらも自らの保有する能力や資産について、テーブルの上に平らに並べた上で評価し、次にはどんな行動が必要で、そのための前提となる条件がなにかを考えなければならない。

だからこそ、落合はいう。現代の日本にある本当の格差は経済格差ではなく、モチベーション格差であると。これは一重に、自分のしたいことを見定められる人はそこに向けて自然とやり続けられるが、そうではない人にとっては酷な状態だ。

しかし、そうであるのかないのかを見定められるかどうかは、上記ポートフォリオマネジメントや金融適投資能力が必要で、だからこそ落合は大人であろうが、子どもであろうが全員をどうにかしたいと考えているし、ぼくたちもそう考えていいはずだ。

そんなことを考えられるようになっている事こそが、日本が先進国であることの利点であり、魅力だといえる。そんな、日本のよさに気づいていて、ぼくたちに気づかせてくれたのが落合だ。

 

ぼくにできることは、これまでの固まった思考を疑い、見つめ直し、はじめること。

「日本のためにできること」なんて大層なことはわからない。

 

だけど、ぼくがぼくのためにできること。

ぼくの属するコミュニティのためにできること。

それぞれに対してやりたいと思えることは確かにわかる。

 

本書は、そんなことを考えるきっかけを与えてくれる。

ぜひ手に取り読んだうえで、存分に感化されてみてはどうだろう。

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

 

 

*1:現在では単行本も扱われている

*2:インドなどヒンドゥー社会の身分制度; 司祭, 王族・武士, 庶民, 隷民の四階級が基本

*3:ピラミッド型に上下に序列化された位階性の組織や秩序

*4:多様な方向に才能を持っている、もしくは多様な仕事をこなすことができること

【山田真哉】『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?身近な疑問からはじめる会計学』で会計の知識へ入ってみる

『会計知識』と聞いて「なにやら面倒だな」と思う人は少なくないのではないか。正直、ぼくも避けていたし、数字が苦手だ、ということから逃げている人もいるだろう。

ただ、会計に数字は不可欠だが、数字に強くなる必要はないというのが著者の言い分だ。以前のエントリでも触れているが、一番分かりがいいのは宝くじを買うか買わないかという判断をどこでするのか、というところだろう。

宝くじの場合、その仕組みまでを考えれば考えるほど、買うこと自体が馬鹿らしくなる。少し古いが総務省』が公表している宝くじに受託業務についての資料と報告書を見てもらえれば、宝くじを夢を見るためだけに買うのは馬鹿らしくなるのは明らかだ。

【宝くじの受託業務】:総務省

【宝くじ活性化検討会報告書】:総務省

この内訳を見ると、当選金割合が50%を超えないという現実がハッキリと記載されている。ひどい言い方をすれば、宝くじは射幸心を煽るだけ煽っておきながら、そのリスクについて説明される機会を設けられていない金融商品だ。

たとえば、銀行で金融商品としての宝くじを勧められた場合に購入するのかどうかといえば、買うと決める人はほぼいなくなってしまうのではないか。(詳細は前エントリ『金融リテラシーの重要性は『臆病者のための億万長者入門』を読むことで認識される』を参照いただきたい)

 

さて、本題に戻そう。宝くじの仕組みを知ってまで「買う判断をする人」はよほどのリスクをとる人であり、ギャンブルが大好きな人ということで間違いないのではないか...と、ぼくは思う。

宝くじは1枚300円から買うことができるが、本来的な価値で300円分宝くじを買うためには2枚購入する必要があるのは上記した理由から明らかだ。

数字に強いかどうかというのは、それを自然と嗅ぎ分けられるか、そういう異変に気づくことができるかどうかというのが会計を学ぶことの利点だ。

 

ちなみに、以下エントリも会計知識でいうキャッシュフロー*1 の話だ。

支出を全てクレジットカードで払うようにした結果wwwwwwwwwwww - 思考ちゃんねる

どういうことかといえば、クレジットカードの場合、買掛金となるため【購入⇒支払い】までに期間が生じる。この間の手数料や利率などは店舗側が負担してくれるから、購入者にとって最も有利な買い方となる。

クレジットカードで支払う場合、月末締めの翌月払いがベースで、買掛金の考え方は「お金を実質的に払ってない(未払い金だ)けど、商品を受け取れる」ということで、この実質的に支払ってない、というところがポイントになる

現金で購入する場合、現金を持ち合わせていることが必要な上、確実に支払うことが前提なので、確実にこちらの資産が減ることが決定する支払い方だ。

この考え方を知っている人は、クレジットカードでの支払いが購入者側に有利なのを知っているため、実質的に支払っていなくても商品や製品を手にすることができることを知っているということだ。

だからといって、クレジットカードでの支払いを推奨するのが本旨ではない。今回、僕が本書を読んだうえでいいたいことは、日常生活の中で(お金について)損をしないように生きるには、会計の知識や数字に対するセンス(嗅覚)は必要だ、ということだ。

本書内で著者がメンター、つまり師匠と呼べる人物出会い、そこで諭されたエピソードが記載されている。

あるとき、院長は私に一枚のチラシを見せながらこういった。

「ライバルの○○ゼミナールのチラシだが、これを見てどう思う?」

そこには《公立トップ高校に120人合格!市内6教室にて展開!》と大きく書かれていた。

そこで私は、

「3桁の合格者数はインパクトがありますね。教室数の多さも保護者に『大手だから安心』という幹事を植えつけられますし、やはり大手は強いですね」

ともっともらしく答えた。

ところが、院長は首を横に振った。

「違うな、山田くん。120人合格はたしかに多いが、1教室あたりに直すと20人だ。うちは1教室しかないが、40人の合格者を出しているのだから、うちの合格者ははるかに多い」

「.......大手なのにたいしたことなかったんですね」

「それに、去年この塾は5教室で、今年1教室増えて6教室になったが、合格者数はほとんど増えていない。ということは、力が落ちてきているということだ----」

何のことはないような会話だが、冷静な分析を塾の経営者である「院長」はしていることになるのがよくわかる。

数字のセンスというのは、意味のある数字を見つけること、そして、その数字の意味することは自分にとってどんな影響があるのかを感情を乗り越えて考えられるようになるかどうかにかかっている。

買い物に行ったとして、目当ての商品はいくらなのか、昨日と比較して高いのか安いのか、その金額で買うことは自分にとってどれだけの幸福を与えてくれるのか。

それを自然とかぎ分けられるようになるのが会計の知識を学ぶ利点であり、本質だ。

本書は、可能な限り専門用語を用いずに書かれていることとあわせて、著者の身近で起こっていること(いいかえれば、ぼくたちの周りでも起きていること)を例に各章をまとめてくれているため、すごく読みやすい。

サラリーマンであろうが、技術者であろうが、主婦であろうが会計の知識が無駄になることは絶対にないと断言できる。

いくらAIが全盛になり、会計情報を機械化されたところで、それを読み取り、行動をする人間がいなくなることはない。企業会計であれば、AIが傾向を経営者や財務担当者に判断を仰ぐためにまとめることはあるだろうが、決めるのは人だ。

それは個人に置き換えてもまったく同じことであり、それを読めるのか読めないのかによって、お金の使い方にはじまり、生活の送り方が大きく変わる。

本書を読むことによって、少しでも会計の知識を身につけようと思ってもらえれば幸いだ。

 

 

*1:キャッシュ・フローとは、現金の流れを意味し、主に、企業活動や財務活動によって実際に得られた収入から、外部への支出を差し引いて手元に残る資金の流れのことをいう。 損益計算書と異なり、現金収支を原則として把握するため、将来的に入る予定の利益に関してはキャッシュフロー計算書には含まれない。 ウィキペディア

年金が心配なので人生100年時代の老後資金について考える

LIFE SHIFTがベストセラーになったのをご存知の方もいるかもしれないが、日本は他国に類を見ない長寿化を果たした特異国といえ、内閣府『高齢社会白書』によれば、平均寿命は軒並み右肩上がりで推移しており、2015年で男女ともに80歳を超える寿命であり、推計値では2050年には女性で90歳を超え、男性でも84歳を超えると試算されている。

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1 高齢化の現状と将来像|平成29年版高齢社会白書(全体版) - 内閣府

今後、技術的な進化(医療や介護などの生命維持面における技術進化)を遂げていくことを前提とすれば、寿命が延伸されていくであろうと予想できる。そして、人生が100年とは言わずとも、現在の平均寿命よりも長くなることを前提に設計していくことが求められることにもなるだろう。しかし、そうなったとして、金融資産が年金だけで賄えるのか。今回はそれを考えてみようと思うが、結論として、いわゆる老後の金融資産を年金だけで賄うことは不可能だ。


100年間生きるとして考えた場合、いわゆる「老後」が長くなる。100年間生きるとしたら、20歳から60歳まで働き、年金を納めたとして、支給年齢65歳から100歳までの35年間が老後だ。現役世代と言われる生産年齢人口*1は、15歳から64歳までで構成されており、その数は年々減少していくことはご存知の通りだと思うし、改めて説明することもないだろう。

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1 高齢化の現状と将来像|平成29年版高齢社会白書(全体版) - 内閣府

就業者は、それぞれの人的資本*2を市場*3へ投入し、その対価として金銭を授受する。

つまり、サラリーマンとして企業や団体に所属し、組織内で与えられた役割に対し、給与という形で所得を得ることで生活をしているケースや、個人で業務委託を授受したり、企業間で取引を行ったり、とそれぞれの人的資本を投入する場所を選んでいる。

しかし、老後の資産形成における本質的な課題は上でも述べたが、その長期間にわたる老後期間を現役期間の間の蓄えで賄えるのかどうかだが、そんなものは不可能だと言わざるを得ない。あまりにも長すぎるのだ。人的資本を何歳まで投入し続けるのか、または何歳まで投入し続けられるのか、を考え出すと気が遠くなる。

だが一点明白な答えとして、人的資本は投入する期間が長ければ長いほど老後が短くなるといえ、気が付いている人はすでに行動しているだろうが、自らの人生を謳歌するため、基本的にはそれを目指すべきだ、というのがぼくの考えだ。

しかし、そうはいっても「リタイアはしたい」という人も中に入ることも重々承知であるし、2018年2月時点における日本の制度設計的には、60歳定年(望めば再雇用)、65歳から年金受給というのが標準設定であることを踏まえると65歳以降の資産運用を各々が準備しなければならない。

年金は、1959年第二次岸内閣において定められた国民年金法の成立を背景に国民年金が導入されたのが始まりだが、言ってしまえば年齢による強制解雇によって労働市場からの退場を余儀なくされるサラリーマンという日本独自の職業に属する人たちの救済する手段として制定されたものだ。なお、ねんきんネット|日本年金機構では、自分が納めた金額や受給金額のシミュレーションが可能なので、リンクを貼っておく。

日本年金機構

65歳以降、我々はどれほどの金融資産を用意する必要があるのだろうか。総務省が公表した2017年12月の家計調査報告(二人以上の世帯)において、60歳以上の消費実数は273,454円となっている。

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家計調査報告〔二人以上世帯の場合〕-総務省

この金額が12ヶ月として、3,281,448円/年が相場だとして考える。つまり、一般的な家庭が普通に生活を試みようとした場合、65歳以降は1年間に300万円を超える金額が必要で、さらに65歳-100歳という35年間で計算すると114,850,680円、つまり1億円を超える資産が必要ということになる。

果たして、これを年金でまかなうことは可能なのだろうか。日本における公的年金国民年金と厚生年金の2種類だ。

国民全員に加入が求めらる公的年金があり、その上に厚生年金などが上乗せされることから、日本の年金制度は2階建と表現される。さらに、確定拠出年金厚生年金基金国民年金基金などが上乗せできることになっており、最大で3階建とすることが可能になる仕組みだ。対象者や体系図は下記のように厚生労働省はマンガで年金を検証する形で公表しているので、参照いただきたい。(内容については個々人で判断していただきたい。)

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日本の公的年金は「2階建て」 | いっしょに検証! 公的年金 | 厚生労働省

さて、ここからは支払う金額と受給金額について見ていくが、国民年金の保険料は月額16,900円に引き上げられ、これ以降は固定されることになっている。年額で202,800円であり、20歳から定年を迎える60歳までの40年間支払い続けると8,112,000円。

それに対して満額の総支給額は2017年4月で779,800円/年となっており、月額で64,983円ほどだ。無論、この段階で生活をすることは困難であろう。夫婦ともに国民年金のみへの加入だった場合、月額129,966円になるが、上で見た一般生活者における2人以上の生活における消費実数は273,454円のため、143,488円の赤字となるため、国民年金のみでの生活は困難というよりも現実的ではないだろう。

老齢基礎年金の受給要件・支給開始時期・計算方法|日本年金機構

しかし、仮に100歳まで生きるとした場合、現行制度のまま移行し多として、支給金額の総額は27,293,000円(779,800×35)となるため、3.36倍の利回りということになり、金融商品として見た場合、雑な計算であるとはいえ、非常に有利な金融商品といえる。

また、厚生年金の支給金額は平均148,000円ということだが、共働きか否か、独身か夫婦かによって金額が変わるうえ、夫だけが働いていて、奥さんが専業主婦だった場合にも金額が少なくなる。

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厚生年金保険・国民年金事業の概況 |厚生労働省

だが、ちょっと待ってほしい。世界中でも類を見ることができない少子高齢化の日本において、国民年金の運用はそれほど余裕があるのか。バカみたいな高利回りの配当を国が排出できる仕組みはどこにあるのかを冷静に考えると、それは厚生年金や社会保険料の上乗せ徴収というサラリーマンにとって不都合な事実が浮かび上がってくる。

公的年金への加入は国民の義務として課せられていながらも、国民年金の場合、加入手続きも保険料の納付も個人の自主性に任されている。つまり、支払わない人間がいたとしても、それは個人の年金受給額や期間が減少するのみであり、基本的に罰則は存在しない

毎月、国民年金に加入し、毎月保険料を納めている人間は、徴収される金額が少ないとしても支払われる(受給できる)金額に変更はなく、その期間が100年生きるとして受給期間が延伸されるのであれば、得をする。

それでは、その尻拭いを誰がするのかといえば、すでに触れた通り、サラリーマンだ。徴収される厚生年金を含む社会保険料介護保険料は企業との折半によって支払われているが、これは強制的に徴収できる仕組みを作っていることで、その実質的な負担額を目くらましをしていることに相違ない。

組合健康保険と国民健康保険での違いは、当初、組合健保に加入する人たちは本人が1割負担、家族が2割、世帯主の保険料で扶養家族の保険がカバーできたことにあるが、現在では見る影もなく、本人家族ともに一律3割負担(扶養家族の保険料免除は維持)に及んでいる。結局、組合健保も公的保険の一部であることを考えれば、高齢者の医療費を分担する義務が生じていることは仕方のないことなのだが、その仕組みはサラリーマンにとって相当にいびつなものだ。

下図は厚生労働省が29年度の予算ベースに医療保険の意義について説明するページからの引用だが、これを見る限り、高齢者の医療負担を現役世代が支えることは従前通りだが、本来的には組合員であるサラリーマンが厚遇されるべき組合健保も、世帯に対する保険料の減免はなくなった末に、高齢者への支援金が増加するという恐るべき結果になっており、サラリーマンは望む望まないに限らず、多くの負担を強制的に徴収される仕組みになっている

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我が国の医療保険について |厚生労働省

これらの負担をきちんと認識しているサラリーマンはどれほどいるだろう。国民年金の負担も厚生年金で尻拭いさせられ、健康保険も高齢者への負担を強いられているが、それに関してはこうやって改まって仕組みを見て見なければわからないのは仕方ないとしても、社会保険料を含めた納付額を把握することに馴染みがないのは自らが納税作業を行なっていないことが最も大きい。

しかし、これは会社が源泉徴収と年末調整、つまり、納税作業を代替して取り組んでいるため、納付額を知ったところでサラリーマンが取れる手段はなく、関心がなくなってしまうのは致し方がない。すると余計に手取り金額のみが中心になるため、益々、関心が湧かなくなり、納付額について考えることをやめてしまう。

ここで言いたいことは、現役で働いている人たちは多くの負担を強いられるのに、受給に関しては損をする可能性が高い、ということだ。公的年金や健康保険の財政は悪化の一途をたどっていることは否定できない事実であり、今後も既定路線であることは揺るがない。

制度的に解決策が残されていないわけではない(社会保障を全面廃止、消費税のみで徴収など)が、政治的に不可能だ。そんなことはできるわけがないから、制度が破綻するまで継続せざるを得ない。

しかし、国も現状に対して無為無策かといえばそんなことはない。昨今、NISAやiDecoなどを税制的な優遇を与えることで『年金に変わる老後資金』を準備を『個人』へ『実質的に依頼』している。なお、本エントリでは、年金の代替的な位置付けとして『NISA』ではなく、『つみたてNISA』と『iDeco』について扱いたい。

NISAとは? : 金融庁

iDeCo(イデコ)/個人型確定拠出年金 |厚生労働省

そもそもNISAとは、イギリスのISA(Individual Savings Account=個人貯蓄口座)をモデルにした日本版ISAとして、NISA(ニーサ・Nippon Individual Savings Account)と呼称され、「NISA口座(非課税口座)」内で、毎年一定金額の範囲内で購入したこれらの金融商品から得られる利益が非課税になる、つまり、税金がかからなくなる制度です。なお、イギリスのISAを模倣して作られた制度ではあるものの、異なる部分もある。イギリスISAには期間制限がなかったり、対象商品内容や数にも違いがある。

つみたてNISAは、年間40万円まで20年間非課税での投資運用が可能ということになる制度だ。最大で800万円の非課税投資が可能ということだ。

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iDeco確定拠出年金法で定められている私的年金公的年金との違いは、個人が掛金を拠出し、その運用方法を選べることにあり、その掛金と運用益との合計額をもとに給付を受けることが可能となる。2016年までは自営業者やサラリーマンに限定されていたが、2017年1月より企業年金を実施している企業への勤めるサラリーマンや専業主婦、公務員など、基本的に公的年金制度に加入している60歳未満の全ての人間が加入できる。

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では、これらの制度を使うことでどれほどの余裕を作り出すことが可能だろうか。厚生労働省の賃金行動基本統計調査における一般労働者の賃金を参考に計算してみる。厚労省のデータによると2016年度の平均年収は男女ともに304万円ということだが、わかりをよくするために300万円で計算する。

平成28年賃金構造基本統計調査 結果の概況|厚生労働省

 

投資の前提として、生活資金の中から余裕資金を生み出した上で資金を回すことを考慮すると、年収の中で1割程度、頑張って2割程度を拠出することが限度だろう。すると、年間で30万~60万円、月額で2.5万~5万円が毎月の掛金となる。ここでは年収1割をもとに計算してみる。

合計掛金2.5万(内訳: つみたてNISA 1.5万, iDeco 1万円)※内訳比率はぼくの好み

つみたてNISAの場合、合計投資額が3,600,000円(月額15,000×12ヶ月×20年)だが、そこに年間利率8%で運用した場合、最終資産は8,595,862円となる。差引利益が4,995,862円だ。

なぜ、ここまで利益が膨れ上がるのかといえば複利効用だ。例えば1年目、年間で180,000円の投資額に対して、利率が8%であれば、年間で14,400円の運用益が生じ、次年には投資元本が194,000円の状態で投資を開始する形となる。

つまり、毎月の投資額は同じだとしても翌年末には投資額の合計が360,000円で変わりないはずが、毎月平均8%の利率が上乗せされた状態で運用益が発生し、最終資産が390,715円で投資元本に対する利益は30,715円だ。

投資ではこの複利運用をいかに膨らませられるのかが鍵となる。つみたてNISAでもiDecoでも運用利益に対する課税が免除されているため、投資に対する運用益も含めて全てが再投資できるのが大きな魅力であり、最大の利点だ。

 

iDecoは基本的には課税控除については同様なので、この控除額について触れてみたい。ちなみに、税制優遇のシミュレーションもしてくれるので、興味がある人はしてみてほしい。

かんたん税制優遇シミュレーション|イデコガイド|老後のためにいまできること、iDeCo|国民年金基金連合会

今回のシミュレーションでは、30歳から毎月1万円を積み立てた場合で計算してみると、税制控除額は30年間で54万円が控除額となる計算だ。仮に30年間8%で運用ができた場合には、最終資産は14,185,648円で、運用利益は10,585,648円。

毎月の掛金がスタート時には少なかったとしても、複利を利用して資産運用ができるのであれば、期間が長ければ長いほどに我々の資産は増大していく

本エントリの結びとして、ぼくが最もいいたいのは、人生が長くなることが目に見えている中で、老後というこれまでの既成概念を前提にするのは勿体ない。そもそも老後は自らが仕事というやりがいを放棄した瞬間から発生する生き地獄であり、定年という制度を前提にしているものだ。

 

ぼくたちは『制度の奴隷』として生きるのではなく、『制度を従属』させること、つまり、法制度や税制というゲームに対し、いかにして立ち向かうのかを問われるし、立ち向かうことが人生を楽しむための方策だと考える。

本エントリを読んだ結果、今後100年生きる上で自身の金融資産を作っていくことを考えるきっかけになれば幸いだ。

【関連書籍】

 

*1:生産年齢人口(せいさんねんれいじんこう)とは、経済学用語の一つで、国内で行われている生産活動に就いている中核の労働力となるような年齢人口のことをいう。(wikipediaより

*2:ヒューマン・キャピタル(英: Human Capital)は、人間が持つ能力(知識や技能)を資本として捉えた経済学(特に教育経済学)の概念。 人的資本と表現されることもある。 具体的には、資格や学歴として測定される。 初期の経済学では単に労働力や労働として捉えられていた。(wikipediaより) 

*3:市場とは、定期的に人が集まり商いを行う場所、あるいは、この市場における取引機構に類似した社会機構の概念を指す。(wikipediaより

【橘玲】金融リテラシーの重要性は『臆病者のための億万長者入門』を読むことで認識される

「愚か者の税金」という言葉を耳にしたことがある人はいるだろうか。これにピンときたあなたは経済学を学んだことのある人か、ファイナンシャルリテラシー*1が高い人かもしれない。もし、聞き覚えのない言葉だった人は注意が必要だ。

次の文章を読んでいただき、ここがどこなのかをあててみてもらえるだろうか。

“いま、あなたは行列のできているある店舗をたまたま見つめている。

その行列の先には『ここから出ました』という文字列が並び、行列をなす人たちの手には財布が握り締められている。

無表情ながらも、みなが奥底で「自分こそ」と意気込み、力んでいるかのような緊迫感が少し離れたこの場所からも感じ取ることができる。”

どうだろう。

もしかしたら、この行列に並んだことのある人も中にはいるのかもしれない。

 

そう、ここは宝くじ売り場だ。

そして、冒頭で記載した「愚か者の税金」とは、宝くじを買い求める人が日本宝くじ財団に支払うハズレ権の購入代金のことだ。(詳しい説明は後ほど)宝くじを買い求める人は「夢」を買うという言い方をするが、2017年末に発売されたジャンボ宝くじは、一等前後賞あわせて6億円という破格の当選金額であり、たしかに夢を買うという表現も心なしか的を得ているようにも感じる。

しかし、結論から言えば、宝くじが当たるのは「誰かではあるが、あなたではない」

その確率が自分になるかもしれない、ということを期待し、そこに金銭を投じることはハッキリ言って無駄になる、ということから「愚か者の税金」という言い方がされている。

理由は至極シンプルで、割が悪いのだ。

競馬や競艇、自転車など公営ギャンブルなどと比較して、当選の確率がどれぐらいなのかを比較してみると明らかになる。本書内の引用から宝くじがどれだけ射幸心を煽ることだけを目的に設定されているものなのかを説明する。

日本の交通事故死亡者数は年々減少して、2013年は4373人だった。これを人口比で見ると、1年間に交通事故で死亡するのは3万人に1人だ。

宝くじで1等が当たる確率は交通事故死の300分の1以下。ということは、宝くじを10万円分買って、ようやく1年以内に交通事故で死ぬ確率と同じになる。

それでは宝くじの手数料はどうなっているだろう。

100円の購入代金のうち平均していくらが賞金として払い戻されるかが宝くじの期待値(還元率)で、ジャンボ宝くじでは49.66円しかない。賞金分は半分だけで、残りの半分は販売経費を差し引いた上で地方自治体に分配される。

金融庁金融商品取引法(金商法)で、株式やファンドなどを販売する事業者に対して、顧客保護の原則に立って厳しい義務を課している。

金融商品を販売する際は、過度に射幸心を煽らず、顧客に正確な情報を提供し、冷静で客観的な判断ができるようにしなければならない。とりわけ投資のリスクを説明することと、顧客にとって不利な情報、すなわち金融商品のコストを明示することが強調されている。

宝くじの商品特性を金商法の理念に照らすと、券面にはリスクとコストを次のような文面ではっきりと書く必要がある。

「宝くじにの購入にはリスクがあります。1等の当選確率は1000万分の1で、宝くじを毎回3万円分、0歳から100年間購入したとしても、99.9%の購入者は生涯当せんすることはありません」

「宝くじには、購入代金に対して50%の手数料がかかります。宝くじの購入者は、平均して購入代金の半額を失うことになります」

ラスベガスのルーレットの期待値は95%、パチンコは97%、カジノで最も人気のあるバカラの期待値は99%だ。競馬などの公営競技でも期待値は75%ある。期待値が50%を下回る宝くじやサッカーくじは、世界でもっとも割の悪いギャンブルだ。

さて、改めて問おう。それでもあなたは宝くじを買うや否や。

引用部分にもあるように宝くじの期待値は半分であり、それ以外は販売経費を差し引いた上で、地方自治体に分配される、とある。

つまり、税金のように徴収された上で国民に再分配されるのだ。

「愚か者の税金」と呼ぶ理由は、消費税や所得税のように国民全員に課せられるものではなく、あくまでも購入した者だけに課せられることが理由であり、宝くじを買い求める行為は、不幸にも交通事故で死んでしまうよりも低い確率で割の悪いギャンブルに幸福を求めるということを指して「愚か者」とされている。

 

本書の中で一貫して述べているのはたった一つだ。“経済的に成功するためには経済的合理的でなければならない”ということであり、そのためにはお金にまつわるルール(会計知識や税法など)を把握すること、そして、実践することに他ならない。

宝くじであろうと、保険であろうと、自らの金銭を投げうち、その対価を得ようとするという意味では、それらに違いはない。(本書内では保険を「不幸の宝くじ」と呼んでいる)それを求めるのであれば、計算しなければならないし、できなければならない。

そして、それを計算する理由については、本書の「はじめに」に記載されいてる文章で、その解を得ることになる。

資産運用は金儲けの手段ではなく、人生における経済的リスクを管理するためにある

さて、本書のタイトルに「臆病者」と付いているのはなぜだろう。

ファイナンシャルリテラシーの高い人間は自分にとって利益が出る(儲かる可能性)話が出てきたときに何をするのかといえば、その利益に関わるコストについて考える。つまり、その儲け話を提供する側の人間がどのように考え、その仕組みを作り、どうも受けようとしているのかを考え、調べるのだ。この姿勢が「臆病者」ということになる。

逆にリテラシーの低い人間はどう行動するのか。宝くじを買う人間の行動を考えれば決して難しくない。簡単にいえば無謀なのだ。

「自分は特別であり、世界の中心。」

「自分の判断が間違っているわけがない。」

「今回は外してしまったが、次回は大丈夫。」

つまり、対戦相手のことを全く考えない。相手のことを調べようともしない。コストについて考えるなんて面倒なことはしたくない。学ぶことは時間の無駄であり、それをするぐらいならば他の儲け話を探し、そこへ私財を投じた方がいいと考え、一極集中的に資産を集中投下する。結果、リターンではなく、コストを引き上げることに繋がる。

未来は誰にも予測し得ないが、その予測し得ない状況の中で、世界の中心に自分がいると考えること(ファイナンシャルリテラシーを低く保つこと)は、自らの経済的なリスクを高めているだけに他ならない。

億万長者になることは、たやすいことではないかもしれない。しかし、手に入れることが出来るかどうかは、ファイナンシャルリテラシーを身につけられるかどうかであり、これは文字の読み書きと同様、後天的に誰もが身につけることが出来るものだ。

つまり、これを書いてるぼくにも、読んでいるあなたにも身につけられるものということだ。

臆病者のための億万長者入門 (文春新書)

臆病者のための億万長者入門 (文春新書)

 

 

*1:文章の読み書き能力ができることを指すことから

家族を他人だと思えない人へ

先日、こんな内容から始まる連投Tweetをしてみました。

理由としては、僕の友人(女性)がパートナーとの関係についてひたすら思い悩んでいたのが理由です。

ぼくの結論は「家族であろうと他人は他人」ということです。

一見すると冷たい人間のように思われるかもしれませんが、ぼくの立場からすれば、「家族なんだから」という人たちほど、家族に対して残酷で冷酷な人たちはいません。

これは「核家族化が進んだことにより家族の関係が希薄化した」なんていう類の小難しい話でもなんでもなくて、血が繋がっていようが繋がっていまいが、人間は別の固体であり、人格であり、存在ですよね、という話です。

たとえば、ぼくは両親から遺伝子を受け継ぎ、身体組成遺伝を受け、その知能の70%を遺伝され(アーサー・ジェンセン;1969)、性格は周りの子どもたち、つまり集団生活において形成されてきました。

しかし、血が繋がっているということで、意思疎通が図れているかといえば図れていない。いま、この瞬間、ぼくは父親の考えていること、感じていることを認知することはできていない。

もしかしたら、今後、技術の発展により、それが可能になるのかもしれませんが、だからといってぼくが父親になれるわけでもなく、ぼくの父親がぼくになれるわけでもありません

以心伝心という現象を意図的に引き起こすことは不可能なのです。

つまり別の固体であり、人格であり、存在ということです。

当然といえば当然の帰結だし、「なにをいまさら」といわれてもおかしくないと思うんですけど、家族関係を構築する、もしくは共有する時間が長ければ長い関係の人ほど、これを受け入れることが難しくなります。

なぜかといえば、共有する時間が長いということは、共感する時間が長いということを意味するからで、ここがくせもの。共感するということは同じことを考えているわけではない(共感している≠同じことを考えている)んですよ。

ぼくは現在時点で子ども2人に恵まれており、春には3人目が出てくる予定ですが、子どものことはかわいいし、見ていて楽しいし、うれしくもなります。

たとえば、次男が最近、語彙が増えてきたので話しかけてくることだったり、呼びかけてくることが増えてきたので、その様子を見ているとすごくかわいくて仕方ない。

それをぼくと奥さんは同時に見ていたりすると「かわいいね」とか「すごいね」とか共感してます。だからといって、同じことを考えているかといえばまったく異なるはずです。

奥さんは長男との比較から「長男は同じ時期にこんな風にいえてたか」と過去を考えているかもしれないし、ぼくは「次男は次にどんな言葉をこちらに発してくれるんだろう」と未来を考えているかもしれません。

奥さんとぼくとの関係でいっても、同じ風景描写を共有したところで、同じ思考をしているとはまったくいえないわけなんですよ。これ、大人同士だと理解が難しいかもしれませんが「大人対子ども」で考えてみれば分かりがいいと思います。

我が家ではご他聞にもれず、仮面ライダーが大好きな子どもたちです。仮面ライダーRXがパワーループにて放映されております。視聴している中でぼくと子どもでRXがリボルケインで敵を倒すシーンには常に興奮!

ぼくと長男で「きたー!!!!」といえば、次男もおぼえたての言葉で「ちぃたー!!」と興奮し、相手の爆破を背にするシーンでハイタッチをする。ぼくと子どもとの間で間違いなく共感が発生している瞬間です。

しかし、ぼくはリボルケインが出された瞬間に勝利が確定するというダチョウ倶楽部的なフローについて考えますし、長男はリボルケインを出さなければならないところまで追い詰められているところが興奮するみたい。次男はよくわかんないけど、興奮してます。

このシーンを思い浮かべるだけで、それぞれ共感するステージには同時に上がっているにもかかわらず、それぞれ考えていることが異なることを理解してもらえるんじゃないかな、と。

しかし、ここが今回の問題における肝で、家族という集団は自然と共感する場面が多くなりますので、感情が揺れ動く場面を同時に過ごす時間が長くなります。

長くなる/その場が多くなるけど、同じことを考えるわけがないんです。正確にいえば、考えられるわけがない。それを押し付けることは”自分の思考に追いついていない、考えられない”と相手を突き放すことであり、残酷で冷酷な対応をしていることになります。

そして、もっと厄介なことに、この対応をしている人の大半が「家族なんだから」「夫婦なんだから」「パートナーなんだから」という耳障りのいい呪文を唱えることで相手を拘束しようとしますが、うまくいきません

それは当然で、自分が考えていることは相手も考えられるという前提が間違っていることに気づいていないからです。なので、ドンドンと相手に対して絶望し「なんでわかってもらえないんだ...」と気分がさらに悪くなります。

これは完全にポジションの取り方を間違ってしまった結果であり、その結果を受け止めきれないという不幸な循環に入っていることの証左です。

信じる、というのは考えることをやめることと同義で、つまり、口では「信じる」という耳障りのいいことをいい、根本的には相手のことを考えていない、という地獄みたいな結果を招き、思い悩むことになります。

だから、そもそも自分以外の人間が他人であり、自分の考えていることなどわかるわけがない、という前提に立つことは、一見すると冷たいようですが、根本的には常に相手のことを考えているので、どちらが優しいのかは一目瞭然です。

冷静になって考えれば、生活をともにしている中でパートナーにサプライズをしようと考えるということは、相手は自分の考えていることを共有していない、ということを理解しているということです。

しかし、それが感情が込み入ってくると難しくなるのは理解できますし、共感しますが、「他人である」ということを前提に立たないと、それまで感じてきた幸福感は音を立てて崩れていきます。

ぼくは「家族とはいえ他人は他人である」と考えはじめたことで、相手がしてくれることに対して自然と感謝の気持ちが沸いてきましたし、すごく感謝できるようになりました

相手に対して求めることが多くなってきたとき、それは自分の中にバイアスとして「一緒に時間を共有してるのに...」という強制的な圧力をかけ始めているというサインだとぼくは思います。

そうなってきたとき、ふと「他人」であるという、根本的な前提を思い出すことで、相手との距離感も適切に構築できていくのではないでしょうか。

【橘玲】『80’s(エイティーズ) ある80年代の物語』は当事者性の重要さを認識できる稀有な自叙伝

橘玲にとって最初で最後になる自叙伝だ。 

他人の物語を追体験することは決して楽な作業ではない。なぜなら、自叙伝は本人の物語を追従したくなると感じなければ魅力が大幅に下落してしまうものだが、そこにこそ魅力がある。しかし、書く人間の能力によって抑揚がつきすぎてたり、逆に物足りなかったりすることでその魅力を引き出せるかどうかが大きく分かれる。

 

ぼくは1985年生まれのため、彼の半生を同時期に過ごせていたわけではない。が、本書内に登場する日本史的な事柄については、記憶にありながら読み聞きしたことで理解したことがあるのと、異国の物語ではなかったことが大きいのだと思うが、非常に当事者性を感じながら読むことができた。

ぼくが彼の作品を読んだのは、マネーロンダリング (幻冬舎文庫)がはじめだが、その内容に驚嘆したのは今でも鮮明に覚えている。というのもぼくは今でこそ本を読むことが大好きで積読書は常に数冊置いてあるような状態だが、元来、本を読むことは得意ではなかった。

そのことについては、自己紹介記事内にあるので、興味があれば読んでいただきたい。

dolog.hatenablog.com

しかし、興味本位ながら、ぼくは聞いたことのある言葉でマネーロンダリングという“辛辣な言葉”に好奇心を刺激されたことから手にとって読むことにした。彼の著作の特徴は常に一般的な尺度からすると“辛辣な言葉”を多用することが多い。

その理由は、本書内で彼の物語を追体験することで理解できる。物語である彼の大学在学中から2008年までに、多くの大人に囲まれ、廃れる様を見てきた。その人たちに届けるために辛辣な表現でなければならない。つまり、刺さらない。刺すべきなだからこそ、あえてそういう表現を選ぶべきなのだ。

 

中でもぼくが彼の物語の中におけるハイライトだと感じたのは、彼自身が物語における“80年代の終結”と位置付けているオウム真理教事件に当事者として関わっていたことだ。

唯一の取材可能なメディアとしてサティアンへの出入りすることが可能だったという立場と、大学時代の隣人が15年ぶりに再会したらテロリストになっていた、という当事者性だ。

正直、ぼくはオウム真理教について、何も知らない。

事件当時、小学校4年生だったぼくはTVから「サリン」という聞いたこともないクスリが入った袋をビニール傘で破り、電車内に充満させた結果『死傷者』が出たという報道を耳目にした。同時に、年齢を重ねるにつれ、ぼくの記憶には大して残らなくなっていった。

ぼくの住む地方都市(新潟)では東京で起こったテロ事件に対し、被害にあった家族も知り合いもいないのだから、当事者性を抱くことなどできない。ただ、TVからは定期的に重大事件として懐古されていたので、それとなく事件が補完されていくのを毎年実感するのみだ。

ある日、本当にある日、気になってWikipediaとか関連記事をネットで読み漁った時がある。それはどうしても腑に落ちなかったことがあるのが理由で、それはいわゆる“有名大学を出たエリートたちが、なぜ狂信的な集団に取り込まれていったのか”だ。

調べるだけであり、関連書籍を読むまでに至らなかったのは了見の狭さゆえだが、TVで言われることを補完する以上のことは、簡単に見つかることもなかった。それでも、補完されている情報に対してイレギュラーな情報に当たった時にはオウム真理教に対する認識がアップデートされていくような実感があった。

 

だが、当事者性は一切生まれて来なかった。真に迫る危機感にも似た「感情」が芽生えることはなかったわけだが、本書を読むことで気づいたことがある。それは当事者性をどうすれば持てるのかということだ。それは体験を追従することだ。体験をトレースし、自らへ反映させることで、当事者性を引き寄せることができる。

ぼくがどこでそれを感じたのかといえば、(長くなってしまうが...)下記の引用部分だ。オウム真理教が「カルト教団」だとか「怪しい新興宗教」だとか、ネットを見たところで出てくる文言は、否定的な意見や見方しか出てこなかった。

ぼくは別に肯定したいわけではない。ただ、否定も肯定もしない中立な見方が知りたかった。しかし、テロを犯した“おかしな集団としてのバイアス”を超えてくる人の文章に出会えなかっただけだが、ぼく自身もそこにたどり着くまでの根気を持つには至らなかった。

釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が悟りを開いたのは二五〇〇年ほど前のことだ。仏教ではユダヤ教キリスト教イスラームのような晴天を定めなかったために、構成の解釈によって仏典は膨大に膨れ上がっていく。そのなかでオリジナルに最も近いのは釈迦の言葉をパーリ語に翻訳したもので、上座部仏教小乗仏教)としてスリランカ屋台、ミャンマーなどに伝わった(南伝仏教)。それに対してサンスクリット語大乗仏教は、釈迦の入滅から五〜六百年後の紀元前後に成立し、三蔵法師などによって感じへと翻訳されたものが六世紀に日本に伝えられる(北伝仏教)。

ここまでは仏教史の常識だが、実は日本の仏教では、こうした歴史は見事に「隠蔽」されたきた。日蓮親鸞など大教団を創始した仏教者が学んだのは漢語の仏典だから、それとは異なる「ほんものの仏教」があるというのはきわめて都合が悪かったのだ。

しかし、サンスクリット語パーリ語に精通する宗教哲学者の中村元などが「原始仏教」を積極的に紹介するようになると、「ほんとうの釈迦の教え」を学びたいと考える者が現れる。こうした流れのなかで、中沢新一さんが大学院在学中にチベット密教を学ぶためにネパールに赴いたことはよく知られている。

オウム真理教に集まった「精神世界系」の若者たちも、パーリ語上座部仏教の経典を学び、密教の修行によって解脱と悟りに至ろうとした。そして彼らは“仏教理解の最先端”にいる覚醒者として、日本の「葬式仏教」を徹底的にバカにした。出家した僧侶が妻帯・肉食・飲酒し、寺を子供に世襲させるなどということは、小乗仏教はもちろん大乗仏教でもあり得ないのだから、日本の仏教そのものが「破戒」なのだ。

これはオウム真理教「仏教原理主義」で、釈迦の言葉を「ほんとう」とする限り、論理的には完全に正しい。オウム真理教に対し既存の仏教教団は「あんなものが仏教であるはずはない」と頑なに対話を拒んだが、その理由はパーリ語上座部仏教もまったく知らないからで、「原理主義的に正しい仏教」と比較されることを恐れたのだ。

この文章群は、当事者性を持つ人間であるから感じ得る部分と客観的な視点を持つメディアとしての立場を踏まえた人間だから見える視点から書かれている冷静な分析だ。この視点を持つ人だからこそ他の著書を読んでいても、同じような内容を書かれていたとしても新鮮な気持ちで改めて受け止めることができるのだと実感した。

繰り返すが、自叙伝という類は当人の物語に没入できるのかが凄くむずかしいジャンルであり、だからこそ、著者の当事者性をいかに読者に担わせるのかが重要だ。ましてや、ぼくのような当時を丸ごとシンクロできていない世代の琴線に触れるかどうかは、当事者意識を植えつけられるか否かに大きく左右される。

その点、牧歌的な雰囲気を醸し出していながら、鋭い論理性を持った文章で客観的な視点から物語を追随しようと思える所に、喫茶店の情景を思い起こさせる優れた情景描写。

彼が優秀な編集者であったということと、優秀な物書きであるということがギュッと詰まった集大成的な一冊だと断言でき、読み応えがある中で、すっきりと読み終えられる。しかし、もっと浸っていたいと思える。そんな本だった。

彼の著書を読んだことがない人でもすんなりと読めるだろうし、読んだことがあるのであれば、これまで彼が書いた書籍における謎が解ける場面が多々出てくるので、そういう面でも楽しめる本だ。

ぜひ、手にとって読んでもらいたいと思う。

80's エイティーズ ある80年代の物語

80's エイティーズ ある80年代の物語

 

dolog.hatenablog.com

 

 

【藤沢数希】「反原発」の不都合な真実を読み、よく考えてみよう原発のこと

 

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

 

 「感情論だけの否定はやめにしていきたい」というのが2011年以降、日本の中で活発になっている原子力発電に関する即廃止論を見てきて思う正直な気持ちだ。

それを2011年の段階で警鐘を鳴らしていた書籍を紹介したいと思う。

まず、著者である藤沢数希をご存知ない方のために表紙裏の著者紹介を引用しよう。

欧米研究機関にて、計算科学、理論物理学の分野で博士号取得。その後、外資投資銀行で市場予測、リスク管理、経済分析に従事しながら、言論サイト「アゴラ」に定期寄稿する。著書に『なぜ投資のプロはサルに負けるのか?― あるいは、お金持ちになれるたったひとつのクールなやり方』『日本人がグローバル資本主義を生き抜くための経済学入門

ちなみに、先日、TVドラマとしても制作・放送された『ぼくは愛を証明しようと思う。 (幻冬舎単行本)』の原作者でもある。

 

本書は3.11以降で蔓延した原発を絶対悪と決めつけ、その廃絶こそが『正義』だと決めつけた論調を行うマスコミや我々のような市井の市民に向けた『反原発』に対する一石を投じようとする内容である。

ネット界隈では『放射脳』と呼ばれる反原発を称し、過激な発言や行動を繰り返す人たちを揶揄したり*1、一般の人たちに対しては放射線恐怖症が当てはまるとされる言葉がある。 

ネットの普及により、市井の人たちもあらゆる知識を身に付けることができるようになった。そのおかげなのか、せいなのかは分からないが、振り回される人たちも増えたといえる。

 反原発と“単純に否定する人”は、技術的な話、つまり身近ではない難しい話、もしくはリスクがひたすらに強調されてきた途端に語気を強め、その技術自体を否定し始める。これは原発に限らず、他の要因に対しても似たような態度をとることがあるだろう。

(貯金vs投資などは分かりやすいかもしれない)

 

そんな“考えたり、調べたりするのが面倒”な人に対し、数字と事実と論理を持って「反原発の風潮」に対して一石を投じるのが本書の目的だ。

 

上でも述べたが、自分がわからない分野、領域は危ないという認識を改めるには、自らの知識階層を増やしていく他に対処方法はない。その知識階層の増やし方は、伝聞や読書、など収集の方法は多岐にわたるため、方法については各人のやりやすい方法で、時間を作ってやっていってもらいたい。

しかし、それを怠ってしまった時、つまり「考える」のではなく「信じる」ことに身を任せた瞬間から感情に支配されていく

「信じる」ことに舵を切ってしまうと裏切られた(信じていたこととは違うことが起きた)場合、感情が高まり、冷静な判断や物言いができなくなる。「考える」ことは客観的な評価はもちろんだが、常に何が起こっているのかを把握することに努める必要性があるため、対象から必然的に距離をとることになる。

つまり「信じる」という行為は「考える」ことと全く真逆の概念ということになる。思考することをやめる行為が信じるということであり、信じることを始めた瞬間から考えることをやめたということだ。だから「裏切られた」という感情が浮かび上がってくる。

だからこそ、何か問題や課題が眼前に広がっているのであれば、考えなければならないし、考え続けなければならない。誰かが言ったことを参考にするのはまだしも、妄信的になってはいけないのだ。信じると決めた瞬間から、思考が停止してしまうから。

だから、原子力発電が危ないのか危なくないのか、という点についても、客観性を持って「判断」しなければならないはず。それがいつの間にか、絶対的に悪と決めつけ、破棄することが正義であるかのような態度を振るう人たちも出てきた。

では、原子力発電においては、何が危険なのかを説明できる必要があり、その危険性がどのぐらいの確率で発生しうるのか、どのぐらいの規模で被害が出ているのか、と言ったことを客観的な数値や実情を持って説明できることが原子力を破棄するという意見を表明する上での前提条件だ。

これは子どもを持つ親になって、僕は初めて痛感していることでもある。4歳になった長男と2歳になる次男。彼らに対して説明するとしたら、どう説明するだろう。いや、どう説明しなければならないのだろうと考えたときに思い浮かぶのは、あくまでも中立的に客観的に上記の事柄を丁寧に説明したい、というのが僕の気持ちであり、正しい物の見方であろうと考える。

 

ここで問いたい。例えば、チェルノブイリ原発事故に対する見解はいかがだろう。

1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発事故は、僕は生まれて1年ほどしか経っていない時期でもあり、記憶にはない。しかし、事あるごとにメディアでも取り上げられていたし、どんな事故だったのかというリアルタイムでの進行具合はわからないが、検証記事等の活字を目にする機会を2011年以降は増やすようにした。

もし、これを読んでくださっているあなたの認識が「多くの人が放射性物質の摂取により亡くなり、いまだに近隣の放射線被曝量が多く、とても人の住める地域ではなくなってしまった」と考えている人があれば、それはメディアのセンセーショナルな報道に踊らされているだけなのかもしれない。

もちろん、無害であったとは言えない。本書が刊行された2011年までに甲状腺癌の患者が4,000人ほど見つかっており、それまでに15人ほどが死亡してしまっていたとある。また、事故の緊急作業に従事し、急性放射線症やその後の癌などで50人ほどが死亡してしまっている、とあるが、それ以外の放射線による健康被害は確認されていない。

むしろ、放射線の影響を厳しく管理しすぎた結果、強制移住などによる精神的な健康被害が多かったという事を国連科学委員会がレポートで述べている、ともあり、これらの科学的な見地から藤澤は経済的な復興に力を入れるべきだ、としている。

 チェルノブイリ原発事故の健康被害は、いっぺんに被曝するような原爆のデータをもとに当初考えていたよりも、はるかに軽微だったようです。よって、放射能の恐怖を煽ったり、避難生活を無理強いするよりも、なるべくコミュニティを維持させ、経済的な復興に力を入れるべきだというのが、長年の研究結果から示唆されます。

また、一般的に人は死亡する際、軽微の癌を抱えていることはそれなりに周知されていることだが、それにも触れながらチェルノブイリ原発事故以後の甲状腺癌の増加についての研究結果を紹介するとともに、事故発生後の対応の遅さを指摘するとともに、放射能を正しく恐れることが必要だとする。

一般的に、死亡した人を解剖すると、実際には考えられていたよりも多くの人から甲状腺癌が見つかることから(軽度の癌は生涯見つからずにそのまま放置される)、チェルノブイリ原発事故により甲状腺癌が増えたのは、入念な検診プロジェクトによって報告が増え、見かけ上増えただけだという研究結果もあります。しかし、チェルノブイリ原発事故では、すぐには住民は避難させられず、高濃度の放射性ヨウ素を含む食べ物が周辺住民に流通したこと、また放射性ヨウ素は成長期の子供の甲状腺に溜まることが生理学的にも明らかなことなどから考えて、多少は報告が増えたことによるバイアスもあるかと思いますが、やはり健康被害を及ぼしたと考えるべきでしょう。

 甲状腺癌は稀な癌で、通常1年の間に100万人に数人程度の発生頻度です。これが放射性ヨウ素の汚染により10万人に数人程度まで増えたのです。放射能による健康被害が科学的に証明されたのです。しかし、依然として、高濃度に放射能汚染されたミルクなどを摂取しても99.9%以上の人に何の被害もなかったことも、放射能を正しく恐れるために理解しておく必要があるでしょう。極めて頻度の低い癌の発生確率が、数倍から数十倍に上がったのは事実ですが、それでも癌の発生確率そのものは依然として非常に低いままなのです。

数十倍や数百倍になった、ということがメディアではセンセーショナルな報道のされ方をするため、目や耳につきやすいことは認めるが、相対的なものであることを認識する必要があるということと、その裏付けを探す、ということを報道を受け取る側は身につける必要があるだろう。

そして、過去の歴史(チェルノブイリ原発事故)から学び、福島で起こった原発事故での対応はどうなったのかを冷静に見る必要があるということも合わせて考える必要がある。

日本の中でも非常にセンセーショナルな事故であったことは否定しない。だが、無知であるがゆえにひたすらに怖がることは、正しい態度ではないのではないか。

本エントリを読み、原発事故について少し思索を巡らせてみたいと思った方は是非、本書を手に取り読んで見ることをオススメする。

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

  

*1:全ての反原発派や放射能ノイローゼを指す言葉ではない

僕の名前は遠藤涼介

いまさら感が満載だが、当ブログ{DE}Dologの管理人である僕のことをエントリとして残しておく。僕がブログを書く理由は大きく分けて3つ。

  1. 中学生である自分に対して伝えられるレベルで物事を考え、発信していきたい
  2. 過去にブログを通して得た情報に対してすごく興奮したのを覚えていて、それをほかの「誰か」に届けたいと考えているから
  3. タイトルの通り、いろんな情報の取得行動履歴

継続してエントリを書いていくことを考えたのには、僕の実体験を人に伝える行為をしてみたいという承認欲求が動機であり、理由だ。僕は過去にドイツへ超短期留学をしたことがある。当時の僕はスポーツトレーナーとして名を馳せていきたいと真剣に考えていて、行く2,3年前から本当にいきたくて仕方なかったのをよく覚えている。いくことになった前年の8月に結婚したばかりの僕を、我が家の嫁はブーブー文句を言いながらも最終的には応援する形で向かわせてくれた。

そのドイツでの学んだことを自分なりにまとめて、対外的に発信することが、日本のスポーツにとって少しでも影響を与えてくれるんではないかと思ったし、そうすることで属していたコミュニティでも貢献できるんじゃないかと考えたことから、書き出したのを覚えている。

そして、実際にエントリを読んでくれた人たちから「わかりやすかった」とか「まとめてくれて助かった」とか、自分のしたことを評価してくれた上に感謝までされたことを本当にうれしく思ったし、やりがいを感じたことが何より大きい経験だった。

...のだけれど、今ではブログサービスを乗り換えまくったせいで、文体が壊れているぐらいに読みづらくて、非常に心苦しいのだが、ブログを書き始めた原点ともいえるエントリだ。
dolog.hatenablog.com

そこからもチョコチョコと気づいた時に書き連ねるようにしていたものの、なかなかエントリを増やすようなことをしてこなかったし、できてなかった。しかし、2017.11月頃から自分の生活ペースの中で確実に更新できる頻度でエントリーを増やしていこうと考え、現時点では継続できている。

そんな中で、僕は新たに読んでくださる人たちに向け、自己紹介をしたい。

 

僕は幼少時代、新潟県の燕市という街で育った。『燕三条』といえば洋食器産業が盛んな地域ということで、小学校の教科書でも紹介されているから、なんとなく知っている人もいるかも知れない。そんないわゆる職人の町とされている燕市で育った。そして、そんな燕市内にある上州屋というそば屋で多くの年月を過ごしてきた。そう、ボクの実家はそば屋だ。

店主である僕の親父は、高校卒業とともに東京へ修行に出て、銀座の名店といわれる店に腕一本で職人として働いた末、地元に帰ってきて開業した。今っぽくいえば、東京からのUターン創業者ということになる。

創業当初、地元では燕三条という地域的に麺といえばラーメンが主体であり、そばを好む人間などいないということから「絶対に潰れる」ということをひたすらに言われたらしい。創業者本人と僕の母親が揃いも揃って述べていたので、相当な言われようだったのだろう。

 

子供時代、ボクは活発な少年だったように思うし、空回りの得意な少年だったのは覚えている。ほんと、どこにでもいる真面目な小学生。

下校時、友人との帰り道で目をつむりながら走り、田んぼの用水路へ落ちたこともあれば、お腹が痛くて我慢して夕方遅くまで遊んでいたところ、自転車に乗った途端に股間を刺激されたことからゆるいヤツが出てしまったこともある。つまり、普通の小学生ということだ。

そして、本が大して好きではなかった。

いまでこそ、年間に年収の●割程度を消費し、本を読み漁った末に奥さんから目玉を食らってしまった経歴を持つ僕だが、いわゆる学校という場所へ通学している時には全くもって本が好きではなく、苦手だと感じていた。

小学生の時に読んでいた本といえば、『ズッコケ三人組』か『はれときどきぶた』か『週刊少年ジャンプ』ぐらいなものだ。特に週刊少年ジャンプについては、いわゆる黄金期と呼ばれる時代に読むことができたことは光栄だった。

それいけズッコケ三人組 (ポプラ社文庫―ズッコケ文庫)

それいけズッコケ三人組 (ポプラ社文庫―ズッコケ文庫)

 
はれときどきぶた (あたらしい創作童話 13)

はれときどきぶた (あたらしい創作童話 13)

 
Slam dunk―完全版 (#1) (ジャンプ・コミックスデラックス)

Slam dunk―完全版 (#1) (ジャンプ・コミックスデラックス)

 

スラムダンクにおける桜木花道の成長っぷりに興奮したし、ドラゴンボール孫悟空が放つ救いようのない強さに憧れたし、こち亀における両津勘吉はダメな男と思いながらも共感したし、I'sの伊織ちゃんの可愛さにほとほと惚れ抜いたし、るろうに剣心の作者が新潟出身だからってのだけで凄くそそられた...。いや、本当だ。

とにかく、本といえば簡単な文字の大きいものしか読めないし、漫画しか内容が入って来なかった。そんな僕でも今となっては活字が大好きになるのだ。人生とはわからないものだ。

 

そう、なんの脈絡もないが、僕のスポーツにおけるヒーローはカズであり、ヒデであり、ゾノなのだ...。いや、野茂やイチロー、松坂にも憧れ、ひいてはマイケルジョーダンや田臥勇太にも憧れたものだ。 

おはぎ

おはぎ

 
中田英寿 誇り (幻冬舎文庫)

中田英寿 誇り (幻冬舎文庫)

 
イチロー 262のメッセージ

イチロー 262のメッセージ

 
僕のトルネード戦記 (集英社文庫)

僕のトルネード戦記 (集英社文庫)

 

つまり、サッカーもバスケも野球も大好きだった。小学校5年生の時、地元のサッカースポーツ少年団に入った。練習試合に出してもらえなかった。1ヶ月でやめた。

中学校に上がってから野球部に入った。仮入部期間から本入部に際し、校舎周りを10周走った後、上級生のノックの玉拾いをさせられた。1日でやめた。

その後、すぐにバスケ部へ移った。割と頑張って秋には上級生に混じってベンチメンバーに入った。冬になり気管支炎から肺炎にかかった。部活に顔を出せない期間が長くなった。同級生や上級生からいびられた。学校行くのが嫌になった。引きこもった。

朝、起きると腹痛が起こる。トイレに入ると凄く安心した。誰も僕に干渉できない空間に入ることで僕以外の不可侵空間を得ることができたと実感する。親から「学校、休もうか」と言われることで精神的な安堵を得られたのをよく覚えているし、当時の僕にとって大きな救いになったことはいうまでもない。

ほどなくして、バスケ部の顧問へをやめたいと申し出た。すると、顧問からこう言われた。

「ここで逃げていいのか?ここで逃げたら一生このままなんじゃねーか?」

こう言われ、僕は奮起した...のではなく絶望した。担任はそんな僕に何もしなかった。自宅まで来たが、大したことはしなかった。どちらも部活動に力を入れている教員だったが、そこから漏れ出てしまう人間は容赦なく冷たくあしらう。

その後の僕もそうだったのだが、部活動という組織から漏れた人間に、得てして内部の人間はえらく冷たい。それは“辛酸を舐めながらも頑張っている自分たちの場所から逃げた人間許すまじ”という空気が確実に存在する。それを顧問たる立場にいる彼らは平気でやってのけたのだ。そして、その後、そんな状態にいる僕に対してフォローを行うことは卒業するまで一切なかった。

バスケ部の顧問に至っては、親が営むそば屋へ教員でまとまって訪れた際に、店内で僕の母親に対し「期待してるから勿体無いと思うんですよね〜。」なんて軽口を叩き、僕の存在が部活の中では大きな存在であるかのようにした。僕が欲しかったのはそんな言葉ではない。

逃げることを非としか受け取れないのが教員なのであれば、教員になんて死んでもなるものか、と心に決めた。

のらりくらりと中学生活を送っていた僕は最終学園への進級時に陸上部への入部を決意する。理由は卒業アルバムでの掲載を気にして。僕は2年次にコンピューター部に所属しており、その面々と卒業アルバムに映ることはどうしても避けたかった、という青春期における青少年の心持ちというものだ。

 

高校生になり、僕は後ほど新潟県内で強豪校となるサッカー部に所属することを決めていた。そう、サッカー少年団を1ヶ月で退団し、野球部を1日で退部し、バスケ部を体調不良と引きこもりから9ヶ月ほどで退部した、言ってしまえば“ダメなやつ”である僕が、だ。

男子サッカー部 - 帝京長岡高等学校

僕が1年生の時に全国高校サッカー選手権大会の本大会へ初めて駒を進めたが、これは新潟県で新潟地区以外から初めての優勝ということで、新潟県のサッカー史においては歴史的な転換点となった、みたいだ。

僕はというと、3年生の時にGKで試合に出れた。運が良かった。そして、今となっては全国的に有名になった帝京長岡高校サッカー部のOBだ。 プロ選手も後輩だ。これから全国大会で優秀な結果を残すことができる後輩たちも、総じて僕の後輩になるのだ。

すごくカッコ悪いので、もう言わない。ただ、仕事やらでそれが話題になることで若干進めやすいことがあるので、そこぐらいでは話題にする。

 

そんなこんなで僕はスポーツを大好きな僕は初めて、その大好きなスポーツで自分史における自信となる結果を残すことができた。そのことによって、キャリアをスポーツで進めていこうと考え、スポーツトレーナーの道を志すことにした。

専門学校への進学し、無事に卒業を迎えた僕は私学の高校野球チームをはじめとした数カ所と契約を結び、活動を開始。まぁ、あまりうまく行かなかったから2年ほどで畳み、接骨院とフィットネススタジオが併設されている施設へお世話になることを決めた。

ちなみにドイツへ行ったのはこの時期であり、スポーツで副業的に色々と仕事を取り組めたのも当該施設に籍を置いていた時期だ。施設の詳細は、当時僕が書いた下記エントリに記してある。三条市近辺にお住いの方は是非、足を運んでもらいたい。

dolog.hatenablog.com

同時に、僕はインターネットが大好きだったし、クラウドファンディングサイトで募金を募って未来を描いた製品がローンチされる様を見るのが未来を見ているようで大好きだった。結果、出来上がってきた製品がクソみたいなものだったり、プロジェクト自体が消し飛び、出資金が飛んだなんてことは懐かしい思い出だ。

当時はKickstarterも日本語対応しておらず、訳のわからないまま支払いにはペイパルの登録が必要ということで無理やり登録したり、とにかく日本の中ではなく、海外で有望なサービスが色々とローンチされ、日本の中でサービス開始されるという瞬間を目の当たりにしていた時期でもあった。

その後、僕は新潟県内に存在するスポーツの専門学校へ籍を移すことになる。この時になると、トレーナーとしての名を馳せたいとか、実力を高めたいという気持ちよりも経営や管理に目が向いていた。

過去に自分が個人事業を行っていた際に躓いた部分がそこだった自覚があり、それを職務として担える場所がないかを考えていて、大きな組織に入り込んで行くことで賄えるのではないかと勝手に期待し、特別講師などを経て声をかけてもらった専門学校へと足を向けた。

dolog.hatenablog.com

しかし、ちょうど経営管理や運営について学べば学ぶほど、与えられた職務を担えば担うほどに箱の中だけ、スポーツの中だけで物事を考えることに限界を感じた。

インターネットの世界は話題の宝庫だ。この世界では個々人がすべての情報を個人の認識のもと、自由に発信することが認められている。スポーツはその話題の一つに過ぎない。ちょっと瞬間的なバズり方をするから、スポーツには広告として価値がある。しかし、持続的・継続的に事業を跳ね上げ続けられるかといえば、現状はできてない。

だったら、スポーツの世界にだけ依存して生きていることは、将来の僕に対して僕自身が恐怖感と焦燥感を感じていたのが確かだった。サラリーマンになりたかったのではなく、ビジネスマンになりたかったのだ。つまり、人的資本を高めることをしたかった。

組織に所属することが前提になるのではなく、所属することを所望される存在にならなければならないのだと自分に対して強く感じていた。しかし、現実の自分はそうなれていない。自分の親父が30年以上も自らのスキルで「稼いできた」ことは客観的な事実であり、揺るがない。そこを羨ましくも思うし、自らができていないことを情けなく思ってもいた。

スポーツトレーナーをしていた時、よく父親に「遊びだろ」と言われ、憤慨したのを覚えているが、今となってはよく理解できる言葉だ。

果たして、スポーツはあくまでも広告費と集客収入がメインとなる。広告を扱うことなんてことをしたことがない僕は、逆にできようになるのであれば、スポーツを選択肢として保つ上でも絶対的に不可欠なのではないかと考えたこと、新潟の中でベンチャー企業で働ける機会がそう多くはないだろうと考えていたことが重なり、県内大手グループを辞め、新潟市内のべんチャーへ籍を移した。

正直、受かると思っていなかったが、非常に勢いがあり、魅力があり、夢を感じた。このワクワクする感じがベンチャーの良さであり、最大の利点だろう。地方発のメガベンチャーを標榜していたこともあり、その一員になりたい気持ちと、自分自身もスケールして行きたいと考えていた。

メンバーはとにかく精鋭揃い。彼らは新潟は愚か、他府県で同様の企業があっても中枢を担えるであろうと思える力を、日々、自分たちを頼ってくれる顧客からの仕事に注ぎ込み、取り組んでいた。

あのレベルで仕事を取り組んでいる人たちには出会ったことがなかったというのが正直な感想。そんな圧倒的なスキルを持つ精鋭揃いの中で、とにかく僕には圧倒的にスキルが足りていないことを実感することばかりだった。勉強をすればすんなり入ってはくるし、自分なりに考えを持って取り組んでいたが、それ以上のスピードと質を求められ、僕は挫けた

加入から7ヶ月を過ぎたところで会社の諸事情もあり、それまでの企画営業や自社媒体の編集要員兼営業に付け加える形で管理部門での仕事を任せてもらえるようになった。自らの力を過大評価していたのかもしれない。高望みをしすぎたのかもしれない。結果として僕はその仕事をこなすことができず、精神的な疾患により2ヶ月ほど休職した末、退職した。

この精神的な疾患については、きちんとエントリを書きたいと思う。ひとつ言えるのは、家族がいてくれたことが何よりも救いだった。そして、その経験があるからこそ、僕はひとつ階段を登れたのではないか、と思う。現状全く問題ない。全治したということで医師からも診断を受けてもいる。

僕は自分に絶望したくないし、諦めたくない。悪あがきとも取れるだろうし、何ができるんだ、という風にも捉えられるかもしれないが、何か大きなことをしたいのではない。ただ、自分が納得した人生を送りたいと考えているだけで、あらゆることを子どもに説明できる人物でいたいとも思う。

子どもに対して、あらゆることを説明するためには、自分自身の色々なリテラシーを高める必要があるし、多岐にわたる関心を持っておく必要がある。そのため、現時点では書評が主な内容となっていて、その時点での自分の感じたこと、考えたことを他者の目に触れるように書く必要があると思い、エントリを継続的に書くようにしている。

 今後も、仕事上必要なこと、生活上必要なこと、子育て上必要なこと、ありとあらゆる僕に関わることに関して、アウトプット・共有の場としてエントリを更新し続けていこうと思う。

あらゆる面でど素人の僕が中学生当時の僕に引きこもりという選択をしたことに対して、それ以外にも楽しいことや面白いことはたくさん存在していて、それらを解説していきたい

そんな思いで今後も更新していきたいと思う次第だ。

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