【大塚明夫】『声優魂』は崇高なプライドと不退転の覚悟をした人間の本音
役者ではなく、一人の戦士が書いている
ソリッド・スネーク、アナベル・ガトー、バトー、ライダー...
これらのキャラクターは日本のゲーム史、アニメ史に残る作品のキャラクターたちであると同時にボクの好きなキャラクターたちでもある。本エントリーをお読みいただいている方々は、それを演じている人物の名をご存知だろうか。
「知らない」という人でも、その声は聞いたことがあるはず。声優であり、役者である(本来的には逆であることは存じ上げている)大塚明夫だ。
本書は、大塚明夫がいくら努力をしようが報われない役者の世界で、実感として得ていることをそのまま素直に書き連ねていると同時に、そんな世界で“仕事”を得ている人間としての心構え/ 態度を伝える内容だ。
その声を聞いたことがある人ならば共感してもらえると思うが、大塚の声は(いい意味での)鈍重さを持ち、腹に強く響いてくる。また、少し不器用ながらも真っ直ぐで男くさい人物を演じさせると無二の存在であるとも個人的には感じている。
自己啓発本とかそんなものではなく、一人の男が演劇界という特異な世界で無二の存在になり得ることができた戦士が書いた声優/ 俳優論であり、人生論であり、生存戦略論だ。そして、本書を読むことで彼の声を追いかけるようになるかもしれない。そんな魅力に溢れた読み物であった。
「声優だけはやめておけ」から始まる
冒頭、大塚明夫が書く一言だ。
これは、俳優という仕事が他の業種・職種に当てはまらない、特異な仕事であると共に、そのイスをかけてベテラン・新人関係なく血みどろのレースが繰り広げられていること、“一般の生活”を望む人間がおいそれを追いかけて良い世界ではないから、というのが理由なのだが、業界的にはトップランナーである大塚が夢を語るのではなく、現実を語る点に本書の価値がある。
夢なんてものは見ているだけで十分であり、それを追いかけるものではない、ということを業界で成功している人間が語るのは、捉え方によってはライバルを減らしたいとも受け取れるが、逆に優しさを感じる。
本書内、特に冒頭から声優を志望する人への“逆すすめ”は多く登場するが、それは目次を見れば一目瞭然なので、それをご覧いただきたい。なお、引用部分は各章のみにしておく。目次を全て引用することが主題ではない。
第一章 「声優になりたい」奴はバカである
第二章 「演じ続ける」しか私に生きる道はなかった
第三章 「声づくり」なんかに励むボンクラどもへ
第四章 「惚れられる役者」だけが知っている世界
第五章 「ゴール」よりも先に君が知るべきもの
声優という「職業」というよりも「スキル」を発揮するために辛酸を嘗めてきたのか、といえば、大塚本人は「運が良かった」とし、大して苦ではなかったと述べている。しかし、ここは勘違いすべきではなく、あくまでも大塚の場合は基準が総じて高かった、ということだ。
彼は俳優であり声優の大塚周夫の息子であり、演劇界に住まう家族がどう生活しているのかを身を以て体験している。その上、自身はそこから外れようと考え、全く別の道を歩んだことが本書内では記述されている。
つまり、父親の背中を追って、憧れと羨望を抱き、希望に満ちた心で演劇の世界に足を踏み入れたわけではない、ということだ。ここが大塚明夫の魅力でもあるとボクは思っていて、それでも彼は声の仕事をしているし、その演技で(少なくともボクに)感動を与えてくれる。
人的資本を高めることと、つながりを維持すること
彼が本書内で一貫して述べているのは「とにかく声優なんてろくな仕事じゃない。真人間の選ぶ職種でもない。社会の歯車から外れたような人間でなければできない。」と、一貫して声優を志そうとする人間の気持ちを挫こうとする。その畳み掛け方から、おそらく本気であろうことが読者にも伝わってくる。
しかし、その中ではもちろん、声優をやってきた中で、大塚自身が「よかった」と思えること、仕事をする中で声をあてたキャラクターたちや、その生みの親である脚本家やプロデューサーたちとの出会いについて触れており、強く感謝しているとともに、誇りに思っていることもつづっている。
上下動が激しく、思いっきり下げた後に引き上げるような内容のため、こちら側も大きく揺さぶられる。だからこそ、読み飽きることなく、グイグイと大塚の綴る言葉に引き寄せられ、一気に読了までいけてしまう。
その中で、大塚は常に自分を磨くこと、つまり人的資本を高めることの必要性は説いている。声優は自らが仕事を生み出すことのできない職種であるがため、「声をかけてもらう」ことが必須となる。そのため、常に準備をしていることが求められるというよりも必然だというわけだ。
ただ、専門的人的資本でいえば、声の幅や音域、声のあて方やほかのキャラクターとの間合いなどがあるが、それらを行うことは「仕事を行う以上当然」だとしている。それ以上に大塚が重要視しているのは、見識や見聞を広め、人とつながりをつくり維持することが声優に足りていない部分であり、それをすることが声優の専門性を高めるという趣旨で述べている。
これは声優に限らず、一般的なビジネスマンにも言えることだ。
サラリーマンではなくビジネスマンであろうとするならば、自らの人的資本を「一般的」「専門的」それぞれの分野で高める必要があるだろうし、それが結果的に年功序列型の「雇われ」ではなく、「労使関係の対等性」を生みだす。
声優界というのは、個人事業主として自らの人的資本をもって商取引を行うが、近い将来、世の中のビジネスマンにとっても個人事業主として活動、もしくはそれに近い形で働くことが求められるのではないか。
本書内で大塚も希望的な意見として述べているのが、ハリウッド映画のようにプロジェクト単位で専門家が集まり、プロジェクトが終われば解散するという技能をつなぎ合わせて作品を創作するのみという仕事のあり方を提唱している。
現状、雇用主と被雇用者との関係も終身雇用・年功序列型雇用制度の破綻は目に見えて起こっていることだ。労働人口の中で若年層が多いことで成立していた制度であり、現在の日本をみれば年金問題のように破綻していることはわかりきっている。
つまり、近い将来、人の働き方が雇用主・被雇用者との相互依存的な関係ではなく、仕事のみという緩い繋がりの元に技能・スキルを持ち寄り、仕事を行うことが広がっていくのではないか。
それは今後、徐々に人の仕事がAIや機械に代替されていく中で、人の趣味や娯楽が仕事として重宝される時代が訪れるだろう。結果的に残るのはクリエイティブクラスといわれる仕事ができる人であり、人の余暇時間を埋めることに自らの(好きなことが前提だが)技能やスキルをもって、創作活動を行い貢献するひとたちだろう。
そうなったときに、先駆けてそうなりえる可能性があるのは、余暇時間を過ごす上での有益なツールとなる映画やアニメ、スポーツや演劇、音楽など創造性を存分に発揮した上で、人の情動に訴えかけることができる人たちの働き方(仕事の仕方といったほうが適切か)が変わっていくことになる。
アニメが好きな人向け、声優を目指す人向けでもあるが、きっとビジネスに真剣に向き合っている人にも響くないようであることは間違いないだろう。
【本多静六】『私の財産告白』を読んだことは財産を成すための一歩だ
誰でも金融資産を増やせる
本多静六という人物をご存知だろうか。もし、ご存知ないのであれば、ぜひ本書を手に取ってもらいたい。
著者である本多静六は、子ども時代から学生時代にかけてひどい貧乏生活を髄液に染み渡るほどに感じていた。「貧乏でいることによって、深刻な苦痛と耐え難い屈辱を舐めさせられてきた」と語るほどに。
また、「貧乏生活からの脱却は、精神の独立も生活の独立もおぼつかないと考えた」とも述べており、これが彼の貧乏征伐の決意とされている。
貧乏が精神的に苦痛であり、その貧困的な精神性を退治すること。これは、身近なところで考えれば、ダイエットという名の自己規制をかけられるかどうか、という精神性にも似ている。
もちろん、貧乏というのは本人の意思では成し得なかった部分もあるため、一概にダイエットと比較できるのかという批判もあるかもしれないが、「本人の意思のもと」という条件付きで比較する。
どちらにも共通しているのは「無駄を省くこと」だ。
太ってしまう大きく、そして簡単な要因は、無駄な嗜好品をバクバクと音を立てて食べてしまうことだ。同じく、自らの意思で無駄な購買行動を取ってしまうという点で、貧乏にも同様のことがいえるのではないか。
つまり、やむを得ず生活を詰めるような状況は、貧乏の連鎖を生み出し、結局は貧乏のままだ。なぜかといえば、そこには貧乏精神の脱却が図れていないことが明確だからだ。
そこで、本多は貧乏を圧倒するために勤倹貯蓄をつくることを決意し『四分の一天引き貯金法』を考案・実践し、結果的に何千万円もの資産を積む形になったわけだが、これを行うには断固たる決意が必要であり、容赦のない行動規律が求められることはいうまでもない。すなわち、寸分の妥協も許されないのだ。
本多はこれを“大いなる決心と勇気が必要である”とし、貯金の問題は、方法の如何ではなく、実行の如何である、と方法論に縛られるのではなく、決めることの重要性を論じているのだ。
また、本多はそれに飽き足らず、臨時収入を全て貯蓄に回してしまう、という荒技をことも無げにやりきったところに、飽くなき精神性の強さが見られる。その生活は、時として子供達の悲しみを買うこととなり、さすがに断腸の思いだと述べている。
しかし、同時に「しっかりとした理性の上からきており、気の毒だとか、かわいそうだなどということは、単に一時的なことで、しかもツマラヌ感情の問題だ。」とも。
自分だけではなく、自らの家族にも同様の辛酸を舐める生活を求めながらも、強い意志を持って貯蓄を成し遂げることを優先しており、今の苦しさは苦しさを逃れるための苦しさである、と自らの奥さんを説いた。
自らの収入の四分の一を貯蓄に回すというのは、例えば月の手取りが20万円だった場合、5万円を貯蓄に回すということだ。決して少なくない金額ではあるが、それを不退転の決意を持って実行することで、金融資産を増やすことが叶う。
この方法の意味するところは、実施するひとに須(すべから)く、金融資産を構築することを約束することを意味しているのであり、年間で間違いなく一定金額が資産として計上できるのだ。
資産をさらに増やすために運用へ
金融資産を増やすためには、不退転の決意を持って、しっかりと履行することで、増やすことができることがわかった。しかし、本多はドイツ留学時の師であるブレンタノ教授より財産を増やせ、といわれている。
そのブレンタノ博士が、私の卒業帰国に際して、
「お前もよく勉強するが、今後、今までのような貧乏生活を続けていては仕方がない。いかに学者でもまずゆうに独立生活ができるだけの財産をこしらえなければ駄目だ。そうしなければ常に金のために自由を制せられ、心にもない屈従を強いられることになる。学者の権威も何もあったものでない。帰朝したらその辺のことからぜひしっかり努力してかかることだよ」
と戒められた。
つまり、自ら望んで貧乏生活を行い、貯蓄を行うだけにとどまらず、一定額を貯めることができたのであれば、他の有利な事業に投資をすることで、財産を作るのだ、と説かれたのだ。
ちなみに、当時の銀行の法廷歩合は年率で5〜9%の間で推移していて、年間で60万に5%の利率だとしたら3万円が含み益になる。もちろん、これを3年、5年、10年と継続することで、一定の金額になることが期待できる。
(参考)歴史統計:日本銀行金融研究所
しかし、それだけではなく、当時の日本は国家社会の発展前夜であり、その時勢を利用するため、幹線鉄道と山林への投資を行うことで、財を成すための投資先として有望なことがわかった。ましてや、本多はその専門家として、大学で助教授を務めている。
結論をいえば、本多は勤倹貯蓄と投資を行なった結果、40代にして現在の価値で100億以上の財産を形成したと言われている。
現代に生きる我々が本多の資産貯蓄・運用方法について学ぶべき点として、2点だ。
- 勤倹貯蓄
- 資産運用
なんでもない、ただ、これだけであり、誰でもできる。しかし、何といっても大切なのは、貯蓄にしても、資産運用にしても“ルールを決め、それを守り通す意志”ということになる。
確かに、誰でもできる、というのには語弊がある。意志を持った行動を取れる人間であれば、誰でもできる。
本書を読み進めていくと、本多静六という人は、決して株式投資で先見の明があったわけでもなさそうだ。しかし、自分の中で運用ルールを定め、それを遵守していたからこそ、莫大な資産を獲得するに至ったことを見ると、ボクのような市井の人間でも一定程度の財産を築けることがわかる。
そして、現状、誰でも多かれ少なかれ、投資家として一歩を踏み出すことは何ら難しいことでも何でもない。自らの資産を運用することになった途端、各種銘柄や世の中の流れについて勉強せざるを得なくなる。
そのスタートとして、本書を読んでみるのもいいのではないだろうか。
スポーツをすることには意義があるのか
僕は元々スポーツが大好きだ。自身のキャリアもスポーツ好きが高じて(全然うまくいかなかったけど)個人事業主のトレーナーとして活動開始したのが最初だ。そんなスポーツに対して、今でも好きなことに変わりはない(と、自分では思ってる)。
だけど、そこまで熱烈な感じはなく、あくまでも趣味レベルで「いいよね」という程度。
今回のエントリで考えたいのは『スポーツをすることの意義』。スポーツが好きで好きでたまらない、その世界にどっぷり浸かっている人たちに対して異議を唱えるのと、全くスポーツに対して期待していない人に向けて書いてみたい。それは『スポーツに投じる時間とお金というコストは支払うだけの意義があるのか』という点において。
結論として、なぜ僕がこんなことを考えるのかといえば、子どもが生まれ一緒に生活する中で、スポーツを“させたい”と強く思ってないからだ。もっといえば、別にやらなくていいとすら思ってる。本人が望むのであれば別だが、親の立場としてはどうしてもやって欲しいとは思っていない。
そうはいっても、僕はスポーツに意義があるとは考えていて、スポーツをすることによって得ることがあるだろうとは経験則・実感値としてある。ただ、全面的に意義があると考えているわけではなく、あくまでも一部分においては...という条件付きだ。
まず考えなければならないのはスポーツに対して期待する効果は何か、ということ。スポーツとは果たして、何を消費し、どんなものを得ることができるのか。
スポーツは自らの時間と活動を交換し、身体的・精神的な・向上・改善・快復を試みる手段であり、その過程にある上達過程・意思の疎通過程において、達成感や満足感を得ることできるうえ、集団的なスポーツになれば団結力やコミュニケーション能力の醸成にも影響を与えることができるであろうと仮定すると、スポーツの目的は『自己実現』であり『自己表現』であり『自己満足』を得ること、つまり『自尊心の獲得』と僕は考えている。つまり、スポーツの価値はそれらの目的を達成することで、それを生活の中で獲得することに意義があるのではないか。
また、スポーツは映画や演劇など他分野でいうエンターテイメント的な面を備えており、地域ごとに創設されているプロスポーツは興行として行われ、おらが街の誇りとして地域住民の自尊心や一体感、連帯感に火を焚きつけてくれる。
おそらく、スポーツが好きで、現段階においてなんらかのスポーツを実践している人、スポーツを観戦し、応援している人にとって上記内容はそう遠くない実感として受け入れてもらえるのではないか。
それでは、スポーツの価値について日本の中における指針はどこにあるのか。日本の中では文部科学省が管轄していたし、今ではスポーツ庁が管轄下にスポーツを置いていることから、それらが定めるスポーツ基本計画を見ていくことが適当だろう。
文部科学省がスポーツ基本計画の中で書いている一文を参照するのが良さそうだ。スポーツ基本計画(第二期)の中で文部科学省は以下のように書いている(が、これはスポーツの価値について『人生』『社会』『世界』『未来』という4つの中の『スポーツで人生を変える』という部分での内容である)。
スポーツ基本法において,スポーツは「心身の健全な発達,健康及び体力の保持増進,精神的な充足感の獲得,自律心その他の精神の涵養等のために個人又は 集団で行われる運動競技その他の身体活動」と広く捉えられており,「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは,全ての人々の権利」であるとされている。
人生の中でスポーツに対し『する、みる、ささえる』ことは『スポーツを日常生活に位置付けることで,スポーツの力により人生を楽しく健康で生き生きとしたものにすることができる。』としていることから、スポーツにいずれかの形で関わりを持つことで、その効用を享受できるということだ。
スポーツをすることは、人生の中においてどれほどの確率で投資に対するリターンを享受できるのだろうか。冒頭でも述べたように『時間とお金』を投ずる以上は、それに対しての効果や効用を見るべきだ。それを見ずに効果の検証を行うということは、そもそもスポーツに『お金や時間を使う』ということを考えるな、という感情的な話になってしまうし、それは『体育』だ。
今回、僕が一貫して述べているのは『スポーツをすること』へ投資した時間とお金はどのぐらいの利率でリターンを得ることができるのか。そのためにはゴール設定が必要だ。ゴールとしては、国の代表としてオリンピックに出場することを一つのゴールとした場合について考えてみることにする。
各競技ごとに本格的に競技として取り組んでいくであろう年齢は異なるだろうし、生物学的年齢や暦年齢でいう早熟や遅熟を考慮する必要も出てくるのだが、高校サッカーや甲子園など、メディアとしても扱われる機会が増える高校生年代の競技人口からオリンピック代表に選ばれることを率として概算で単純に計算してみると以下のようになる。
まず、全国高等学校体育連盟に属する競技団体への登録者数(2018年1月訂正)は1,246,713名、高等学校野球連盟へ所属する登録者数(2017年5月)は161,573名となっており、高校生段階で1,408,286名の競技スポーツへの参加している学生たちがいるということになる。
余談ではあるが、2017年日本の中にいる15~19歳の人口数*1は2,920,000人となっているが、概算的に引用させてもらえば、およそ48%が競技スポーツに関わっている計算となる。(あくまでも概算であることを重ねておく)つまり、高校生の半数はレベルの高低はあれど、スポーツに関わっていることになる。
高校生年代における競技スポーツ登録者数が1,408,286名がそのまま競技を続けるわけでもなければ、オリンピックに正式競技として採用されていない競技を取り組んでいることもある。その中でオリンピック代表に選ばれるとしたら、そもそも競技を選別しなければならないし、長く競技を継続できるレベルに達している必要がある。
リオデジャネイロ(ブラジル)で開催されたオリンピックでの日本選手団人数(元データはこちら)*2が338名だったため、もし、何かしらの競技を続けていたとして、日本のトップレベルに到達する場合、リターン率は0.00024%となった。 一万人に二人だ。
もちろん、各種競技ごとにこの倍率は異なるだろうし、何かしらの変数があることも否定しないが、上記したように、概算で単純計算をしてスポーツをすることからオリンピック代表になることをゴール設定したことを想定している。
狭い門である、ということを言いたいのではない。そんなことはわかりきっている。本題はここから先だ。スポーツに特化した生活を送り、スポーツで日本代表として活動するために相応の時間とお金をかけたところで、代表としてオリンピックに出れるかどうかは全くわからない。
競技者としての技能や実力は確かに向上しているであろうが、それをなくした際に何が残るのだろうか、ということが僕が考えたスポーツをする意義に対する疑問だ。
スポーツに特化した生活を行うことによって、会社経営ができるわけでも、経営に関わる技能が身につくわけでも、もっといえば、生活する中で役に立つ知恵が身につくわけでもない。
これが僕の子どもにスポーツを絶対にやってもらいたいと思えない大きな理由だ。
もちろん、全否定をするつもりは一切ないし、冒頭でも述べたように、僕はスポーツが好きだし、自分が成長することを実感した時は本当に楽しかったし、うまくいかない時に工夫することの大切さを身を以て体験できたことには感謝すらしている。
ただ、それは上での触れたが『自己満足』だ。もちろん、それでいいのだ。僕がスポーツに期待する部分はここであり、自らがやりたいと思う動きや体勢、道具を扱う、そして相手との駆け引きなど、自分のことを認めること、つまり自尊心や成功体験を味わうことの重要性は僕自身味わっているし、大切な部分だ。
ただ、根本的にスポーツは遊びだ。遊びを徹底的に攻略したところで、それを楽しむ方法や見方を増やすことはできても、会社の会計を担当することはできないし、Webサイトを構築することもできないし、人を感動させる文章を書くこともできない。
プロで活動するスポーツ選手も多くの選手が10年も20年も続けられるわけではない。プロ野球選手の球団との選手契約を打ち切られる選手に関する情報は日本プロ野球機構のサイト内にページを設けて公表されている。
(出典: 日本プロ野球機構『セカンドキャリア>2016年度』)
大卒選手や社会人野球経験者がドラフトされる制度的なこともあるが、30歳手前で、在籍年数は8.5年となっている。これはJリーグでは契約を打ち切られる平均年齢は25,6歳となっている。しかし、何もビジネスをしてこなかった人材が、企業側も採用に関していえば簡単ではない。
ここまでスポーツに関して、することの意義を考えてきた。もちろん、それぞれに満足する形で関わればいい、というのはよくわかるし、それでいいのかもしれない。夢のある世界であるというのはその通りだと思う。しかし、厳しい言葉を使えば、夢を搾取することで成り立っている側面も正面切って否定できるだろうか...。
あくまでも遊びであり、遊びに対して本気になることは、むしろ歓迎だ。しかし、そんな本気の子ども達に対し、スポーツをするということをメリットとデメリットを説明できることは大人として不可欠な態度なのではないかという思いから本エントリを書いた。
僕の結論としては、スポーツをすることは意義があるとはいい難い。しかし、スポーツの自己満足(自己実現・表現・肯定感・成功体験)を満たす効用については大いに期待できるし、実体験としてもオススメはできる、と考えているということでエントリを締めたい。
*1:総務省統計局 統計データ > 人口推計 > 人口推計の概要,推計結果等 >人口推計の結果の概要 より
*2:リオデジャネイロオリンピック2016 日本代表選手団 - JOC
小室哲哉さん引退は僕たちのせいだ
小室哲哉さんを引退に追いやったのは誰か...。そんな誰も納得しない問いをここ数時間真剣に考えている。モヤモヤした気持ちを抱いた僕がTweetした内容は以下の通りだ。
これを書くことで「ウケる」と思う雑誌社があるということは、買うだろうと思われている市民と呼ばれる「人」がいるからなのであって、間接的に僕も含めて多くの人が文春を否定できるのかどうか分からないです…。政治家が愚かなのは国民が選んだ以上、国民が…
— 遠藤涼介 EN Do Ryosuke (@ryosuke_endo) 2018年1月19日
https://t.co/FnFnftgYOT?amp=1
愚かだったということの証左になりますが、ワイドショーで、雑誌で、新聞で、ネットで、広大な情報の海があるのに記事を書く人も、編集者も、発行者も「読むひと」を思い浮かべてるということは、僕を含めた多くの人が「求めてる」と思われてるということの証左ですよね…
— 遠藤涼介 EN Do Ryosuke (@ryosuke_endo) 2018年1月19日
僕は小室哲哉さんの音楽大好きです。中でも「BEYOND THE TIME 〜メビウスの宇宙を越えて〜」は宇宙をイメージできる唯一無二の曲だと思ってますし、仮面ライダービルドの主題歌も浅倉大介さんとすごくカッコいい曲つくってくれて、息子たちも歌いまくってます。
— 遠藤涼介 EN Do Ryosuke (@ryosuke_endo) 2018年1月19日
だけど、だけど、上でツイートしたみたいに、雑誌社がそんな情報を求めてるという範疇に僕もいると考えると、小室哲哉さんのつくった音楽を楽しむ資格が無いのかもしれない、と考えてしまいます。愚かな消費者は自らの野次馬根性で好きな音楽すら消してしまうんです。悔しい。
— 遠藤涼介 EN Do Ryosuke (@ryosuke_endo) 2018年1月19日
ここで僕が述べているのは、国の政治家が愚かだと国民が罵ることは国民に主権のある民主主義国家である以上、それを選んだ国民が愚かだったという証左になるということから、出版物においても同様で、活字として出てくるものは、発行者や編集者、記者が「求めている人がいる」ということを背中に感じた上で実際に行動した結果だ。
つまり、新聞、雑誌、TV、ラジオをはじめとしたマスメディア然り、ネット内でもSNS、ブログ、掲示板然り、そこに書かれるものはそれを読む人がいる前提で文字となり、実際に僕たちの目に触れている。
ここから僕が考えたことは、週刊文春が小室哲哉さんのことを記事にする、ということが引退に直接結びついたかどうかは判断できないが、間接的にその背中を押す形になっただろう、ということであり、その間接的という枠組みの中には僕やファンの人たちも含めた多くの人たちが含まれる。
何がいいたいのかと言えば、愚かな為政者が存在するのと同様で、愚かな記事は僕たちのなかに野次馬根性を抱き、今回の記事が掲載されている雑誌をどんな形であれ手に取り、読み、否定的な感想を抱いていることの証左だということだ。
Tweet内でも記載したが、僕はなんだかんだといいながら小室哲哉の音楽が好きだ。中でも『BEYOND THE TIME~メビウスの宇宙を越えて~』はトンデモない名曲だと信じている。
全く聞いたことのない人は是非、目を閉じ、自身の中にある宇宙をイメージしながら聞いてもらいたい。ここまで音楽で空間をイメージさせられる曲を僕は他に知らない。
TM NETWORK / BEYOND THE TIME(TM NETWORK CONCERT -Incubation Period-)
僕なんかが言わなくても、小室哲哉は紛れもなく天才だ。
だが、その天才は、プライベートで消耗し、それを少なからず妬む気持ちを抱いていた僕たち愚かな消費者たちが今回の掲載された記事を求めた結果、芸能活動からの引退という最悪の結末を迎えることとなった。
けど、それは僕たちが間接的に招いた結果であり、そんな僕たちは小室哲哉の音楽を楽しむ資格を持っているのだろうか。ただ、記事にした文春を否定するのは簡単だけど、その記事を読むのは僕たち消費者だし、騒動を報道するワイドショーを視聴するのも僕たち消費者だ。
僕たちは、希望するもしないもなく、「求めている」と思われている。思われているからこそ、活字になり、記事になり、編集され、出版される。別の媒体でも一緒だ。
そこでどうしたらいいのか、という解を得る段階に僕はまだない。ただ、今は残念な気持ちを抱いているが、いま、僕のそばに小室哲哉さんが浅倉大介さんと共に作った『仮面ライダービルド』の主題歌をノリノリで聞いている長男がいる。
まだ4歳だが、「この曲はすごくかっこいい」という彼の言葉は小室哲哉という才能について、素直に評価された一言なんだなぁと切なくなった。
【ちきりん】考えるのが苦手だから『自分のアタマで考えよう』を読んだ
- 作者: ちきりん,良知高行
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2011/10/28
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著者であるちきりんはネット界隈で著名な匿名ブロガーであるが、2005年から文筆活動として『Chikirinの日記』を書き続けている。ご存知ない方は、この機会にぜひ読んでもらいたい。
知識と思考は似て非なるものである
「考える」という文字列を見た上で、あなたが感じることは何か。
答えは、結論を一つ選択することだ。この『結論を選択する』ということを進んでできる人とできない人がいる。ボクはというと、可能な限り前者でありたいと思っているものの、後者である。
この結論を選択する、ということは訓練が必要なものであり、上意下達型の組織や意思決定プロセスにどっぷりと浸かっている場合、訓練することが難しい状況に陥る。
もちろん、絶対というわけではないが、本人の位置する環境がそのような状態になってしまっていた場合、それを改善することはなかなかに困難なものであり、克服するまでに短くない時間を要する。
かくいう、ボクもそれで苦しんでいる人間だ。上意下達型の組織や思考プロセス、行為プロセスから逸脱することは、=つまはじきにされることを意味し、せっかく自らの居場所を確保することができた、と考えている人間はそこから外されることが怖いものだ。
しかし、組織運営や、適切な仕事を行う上で、自らの意見や発言に責任を持つ必要がある。そうでなければ、プロジェクト進行における責任の所在が曖昧になってしまい、解決するまでに時間を要することになってしまう。
結果的に、個人の責任を明確にしなかったことにより、プロジェクトにおけるコストがかかる要素を多大に残すことになる。
『何をおおげさな...』と思う人も中に入るかもしれないが、決して大げさでも他人事でもない。思考し、結論を選択することは、自らの発言に責任を持つことにつながり、責任の所在を明確にすることになる。なかったことにする、曖昧な状況のままにしておく、ということを無くすことができるのだ。
しかし、これが苦手なのはよく理解できる。自らの考えや発言に責任を持つことは怖いものだし、できることなら避けたいのもよくわかるのだが、そこを脱却し、(言い方が適切かどうかはわからないが)恥をかくことを臆することなく、思考することが個人としての発言権を持つ上では不可欠なのだ。
結論を出すためのプロセスが「思考」
結論を求めるからこそ思考する。ここを勘違いしてはいけないのだが、結論を出すためのプロセスとして、思考が存在するし、思考を行う上での前提条件を整えることが情報収集なのだ。
「考えること」「思考」とは、インプットである情報をアウトプットできる結論に変換するプロセス
情報をいくら仕入れても、それを対外的な発言や意見、個人的な結論として発信できなければ、それは『考えた』ことにはならない。これはあらゆる学習におけるプロセスと同様だ。
インプットしたものをどんな形でもアウトプットするからこそ、情報や知識が発信用に『変換』されるのであって、この変換こそが『思考』であり、結論までのプロセスだということになる。
ボク自身も情報や本を読むこと自体が目的化してしまうことは多分にあるし、それをしてしまった時の後悔は計り知れない。
しかし、本書を読んで以降、改めてTwitter等のツールを使用することの再設定や、こうやってブログでの記事作成など、まずは自分としての情報発信についての再定義をすることができた。
無論、簡単にできるようになるとは思えないが、それこそ試行錯誤を繰り返すことが思考プロセスであり、発信における責任の取り方に対する学習プロセスということになると考えているからこそ、継続することにしている。
下手な自己啓発書を買うよりは一次情報を求めたほうがいいし、フレームワークを知った方が活用の幅が広がる。
ボクと同様、思考すること、発信することに責任を持つことが怖い人は是非とも読んでもらった方がいいのではないだろうか。
- 作者: ちきりん,良知高行
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子育て・教育はコストか投資か
子どもを迎え入れる=大きな費用がかかる
日本を覆う少子高齢化の波は一向に止む気配がないどころか、その勢いを増すばかりだ。厚生労働省が発表した人口動態統計によると、2017年の出生数は2016年から2年連続で100万人を割り込み、941,000人としている。
もちろん、内閣府もこの状況に手を拱いているだけではなく、対策を講じており、毎年その内容を白書としてまとめ、内閣府のWebサイトに挙げている。
保守であるはずの政権与党である自民党が「母親は主婦として家を守るべきだ」とは言わず「女性が活躍できる社会を目指す」とし、女性が働けるような環境を整備するということを喧伝し、実際に政策を打っていることからも、その緊急性がうかがえる。
歴史的な流れを見ることは今回は他の場所へ譲るとして、今回は我々のような個人で見た際、どのような理由で少子化になったのか。そして、子育て・教育はコストなのか投資なのか、ということを考えてみたい。
コストとしての教育
まずは「コスト」と「投資」の言葉について、その違いを考えてみたい。(はてなキーワードより引用)
【コスト】
- 何かを生産するのにかかる(かかった)費用
- 広義には、物の値段のことも含む。
- 金銭だけではなく、あらゆる物事を達成するのにかかった物理量(時間、エネルギーなど)のこと
【投資】
ここでの違いは、コストは費用のみに焦点が当たり、投資はそのリターンまで焦点を当てることだ。リターンの有無を確認しているかどうか、またはリターンを求めるのか否かという態度によって「コスト」か「投資」かが別れるということだ。
では、純粋に教育産業における経営的な視点で見た場合、そのコストの多くはどこにかかるのか。それは人件費だ。
厚生労働省が公表している賃金構造基本統計調査によれば、教育・学習支援業における平均年収は435万となっており、他の職種も含めた一般的な平均年収304万円を大きく上回っている。
もちろん、これは一般的な学校での人件費とは言い難く、民間の学習塾や各種習い事などの教育サービス業界の賃金体系だと考えるのが自然だ。しかし、子どもたちが通う「学校」には大きく分けて二種類あり、公立の学校と私立の学校だ。
ここで扱われている数字には、民間、つまり私立の学校は民間の事業者となる。ということで、上記数値を適応させてもらうこととする。
なお、文部科学省は地方教育費調査として、地方公務員として働く公費の歳入・歳出についての資料を公表している。
結果の概要-平成28年度(平成27会計年度)地方教育費調査:文部科学省
子育て・教育がコストかどうかという点においての分かれ目になるのは「リターンを求めるのか否か」だ。僕の世代を始め、大都市圏においては、義務教育課程や高等教育を私立に通わせることがある程度スタンダードだった。
この背景には、公立の学校が学級崩壊や校内暴力で荒れ、崩壊していたこともあり、余程のことがない限り私立を選択せざるを得なかった。下図は文部科学省の問題行動等についてまとめられた資料だ。資料内では昭和から追っているが、平成に入り、急激に中学年代の暴力行為が増えている。
平成26年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」について
ここから考えられることは、投資として中学や高等学校へ行かせるというよりも、安全で一定水準の私立に仕方なく通わせるというコストとして教育を捉えることも決して違和感がない。
また、私学に通わせることで学費は高くなる。下記リンクは文部科学省が私学と公立校の学費を比較したものだ。学費は単純差額で民主党政権時に開始された2倍とも3倍ともされており、優秀な学生は多少無理をしてでも私学へ通わせることが保護者の優先事項とされた。
平成29年度私立高等学校等授業料等の調査結果について:文部科学省
上で図示した一般労働者賃金の対前年増減率の推移と性別間の格差の推移を見ていただきたいのだが、平成に入り、一般労働者は平成に入り14年度まで下落傾向にあった。その中で私学へ通わせることを考えると決して楽な生活ではないことが想像に難くないが、それでも大都市圏の保護者は私学を望んだ。
しかし、高校無償化や中高一貫教育によって、優秀な学生が私学だけではなく、公立も選択するようになったことから、学級崩壊や校内暴力等が収まる結果となり、中学高校の教育はコストからほぼ解放されることとなっている。
なお、現在、高校授業料の無償化については、所得制限を設けるなど制度が変わっている。下記リンクより参照いただきたい。
子育て・教育は投資としての地位を確保できたか
現在、教育に関するコストはより就学前児童(保育対象年齢児童への無償化)と大学等の高等教育機関に対する税の問題にシフトしたが、そうなるとコストが別の場所へ移動したことにより、教育は投資としての地位を確保できるのだろうか。
現状、日本はデフレーション経済下におかれている。内閣府は90年代半ば以降緩やかなデフレ傾向であったことを正式に認めている*1が、物価が上昇したことに対して賃金はどうか。
上でも見たが、一般労働者の賃金平均は、平成9年と平成28年において(途中に上下はあるがほぼ横ばいに近く、金額的には)6万円上昇している。それであるならば、デフレ経済下においては生活が楽になるはずだが、実感としては決してそうはなっていない。
デフレ環境下では、いまよりこれから、今日より明日の方が物価が安くなるので、買うのを控えるようになる。銀行に預金を行うことで、ゼロ金利であっても、実質的には物価が下がっていくので利率が増えていくことと同義だ。そして何より、デフレではお金の価値が引き上がる。
つまり、お金をすでに保有している、もしくは定期的に金額が確実に入ってくる人間には大変有利であり、お金を保有していない人間には不利な状況になるということだ。
非正規労働者や住宅ローンを抱える人間は非常に苦しくなる。モノやサービスの価値は下がるわけだから、非正規で労働というサービスを提供している人は平気で物価の低減を理由に対価を引き下げられ、住宅ローンを抱えている個人では、住宅や土地の価値は目減りしていくことで、相対的に借金の価値が重く重くのしかかる。
そんな中で生活することになった人たちへの賃金はほぼ据え置きの状態でありながら、物価が下がり続けていく中で、人々は上でも述べたように私学へ入れたい気持ちを胸に抱き、安くない学費をサラリーマンである父親が家計を一人で支えながら(母親は扶養控除限度額までのパートで補助し)子どもを金銭的に支援しなければならなかった。
これでは子どもを育てることは明らかにコストだ。とても投資とはいえない。正確にいえば、投資と考えたいが、家計的には明らかにコストとして重くのしかかる。
このような背景を経て、日本の少子化は加速していくこととなる。また、高齢化に伴い、社会保障という厚生労働省からの“税金”が負担が一般労働者には重くのしかかる。
下図は、国民の所得に対する国の税制負担割合を示すもので、社会保障の負担率の負担割合が大きく増加しており、租税負担率*2と合わせた国民負担率は2016年の時点で42.5%となっている。
社会保障は税金ではないと認識している人もいるかもしれないが、国へ「強制的に」徴収されたものを国に住まう権利を有する人たちへの再分配であること、そして、国の方針に則って運用されることを考えると、運用する省庁が異なるだけであり、実質的には税金と変わりはない。
これを国際比較しているものが財務省には公表されており、これを確認すると2014年度時点において、日本の先進国の中では中程度の負担率となっているが、
国民負担率(対国民所得比)の内訳の国際比較(日米英独仏瑞) : 財務省
福祉のあり方には国の色というべきものが出てくるし、大学までの授業料が無償、高齢福祉が充実しているなど、それぞれの国ごとの方針に沿ったものが福祉政策として策定され、実施されている。
日本も国民皆保険など、他国と比較しても長けているものもあるが、これは国民総所得を一緒に見る必要があるだろう。見てみると日本における所得は他国と比較し決して高くない。(下図)
1人当たり国民総所得(2015年)(国際比較)のグラフ | 探してみよう統計データ|なるほど統計学園
これは、税や社会保証の負担率が他国と比較しても中程度であるものの、手元に残る資金が他国と比較して少なくなることを意味する。ましてや、上でも触れてきたが、教育という観点で見た際、日本は特に高等学校への支出が大きく(現在は高校の無償化でましになっているが...)、国民の負担率に教育費が上乗せされることを考えると、やはり、教育はコストという結論になる。
ここから考えられることは、日本が他国に類を見ないほどの高い少子化高齢化率に陥っているのは致し方がなく、理由は上で見てきたように、子育て世代に対する負担が大きく、それに加えて教育費用を捻出することが一般家庭には大きな負担となるからだ。
投資に必要なのは大人の態度
では、子育て・教育を「投資」とすることは無理なのだろうか。
冒頭の「コスト」と「投資」の意味について触れている段階で、答えが出てしまっているのだが、結局は金銭を使う側の態度でどうにでもなるのではないか、というのがボクの答えだ。
上では「子育て・教育はコストと見なさざるを得ない」という結論になったが、養育するものの立場として、考えなければならないことであるから仕方ない。問題はそれ以降だ。
今後、日本は他国が経験したことのない問題がドンドンと押し寄せてくる。2040年には全国の人口が1億人強となり、高齢化率が36%を超えてくる。つまり、三人に一人以上が高齢者ということだ。
統計局ホームページ/人口推計/人口推計(平成28年10月1日現在)‐全国:年齢(各歳),男女別人口 ・ 都道府県:年齢(5歳階級),男女別人口‐
2040年となると、今から22年後だが、日本における人口増加は期待できない。というか、いまごろ政府が様々な政策を打ったところで、付加価値程度にはなっても本質的な解決にはすでに遅すぎ、すでに詰んでいる状態だ。
この人口動態の中で子どもたちは、日本市場を相手だけに闘うだけで十分という昭和バブルな生き方ではない。日本国民だけで商売をしようと思ってもたかが知れているのだから、今後は世界中の人たちが商売の対象になったとしても生きていけるだけの人的資本を身につける必要がある。
上記したが、日本は他国が経験したことのない問題が押し寄せる世界問題初体験国家になることが決定している。つまり、その問題に対する失敗や成功を持っている国がいないということだ。逆に言えばチャンスであり、問題に直面することで他国に先んじてknow-howを持つことができるということにもなる。
こうなると、親が「コスト」ではなく、「投資」として子どもたちにしてやれることは、親の自己満足な浪費ではなく、子どもの人的資本、もっと言えば市場価値を高めるような消費に金融資本を使っていくということだ。
親の思い出や自己満足な浪費としての例を挙げるならば、「七五三の衣装」「成人式の晴れ着」など、どう考えても“子どもの(人的資本を高める意味での)成長”になんら影響を与えないイベントだ。
七五三など、そもそもは子どもの健康を祈願し、神社を詣でるというものでしかないのに、なぜ衣装を整え、写真まで撮る必要があるのか。晴れ着にしても伝統とか言われているが、調べてみれば別に大したことはない、ただの金持ちの見栄の張り合いが行われただけで、それを伝統ということ自体が烏滸(おこ)がましい。
結局、それぞれクリスマスやバレンタイン、恵方巻きなどと一緒で、商売上イベントを利用した方が売りやすい、というただ販促につられている人たちが多い、というだけだ。
現代以降を生きる子どもたちは、こういった生きる上でのリテラシー*3を高めていく必要があり、それは養育者たる親の考え方や接し方が大いに重要な要素となる。
単に小遣いと称してお金を渡すのか、その稼ぎ方を教えるのか。稼ぎ方というのも多岐にわたるわけで、簡単にあげれば以下などだ。
これらを行うにも先人のknow-howから学ぶことができるし、そのためには本を読む必要がある。これも親から子どもへの投資になる。いいかえれば、子どもが行動する際に動けるような自信を身につけさせることとも言える。
上記した販促イベントに乗っかって、親の自己満足的な浪費をするのであれば、その金額を何年か蓄積させ、子どもに短期留学をさせることだってできる。つまり、子どもにとって(将来的に)有益になるであろう事柄に対し金融資本を投ずるには、親の自己満足や思ひで作りを我慢するしかない。
人生は何をするにもトレードオフ
人に与えられる時間は有限であり、金融資本についても有限だ。有限である以上、何かを選ぶには何かを捨てるしかない。人生は何をするにしてもトレードオフ*4なのだ。
企業においても、採算の取れない不要なコストのかかる部門をカットするし、家計においても同様だ。金融資本を増やそうと考えるならば、現状の生活からカットできる部分についてはカットし、資本に充てる。
子育て・教育は、養育者の観点からみれば確かにコストではあるが、子どもに対して投資を行いたいと考えるのであれば、必然的に親の自己満足や見栄に子どもを付き合わせる浪費に対してメスを入れざるを得ない。
*1:内閣府平成13年度年次経済財政報告http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je01/wp-je01-00102.html
*2:国民がどの程度,所得税や消費税などの租税を負担しているかをマクロ的に示す指標。
*3:原義では「読解記述力」を指し、転じて現代では「(何らかのカタチで表現されたものを)適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」という意味に使われるようになり(後述)、日本語の「識字率」と同じ意味で用いられている。
*4:一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという状態・関係のことである。 トレードオフのある状況では具体的な選択肢の長所と短所をすべて考慮したうえで決定を行うことが求められる。
【友田明美】『子どもの脳を傷つける親たち』は自分が加害者かもしれないと認識させてくれる
虐待の悲劇的な効用は脳の萎縮
本書内で触れている最もセンセーショナルなのは「マルトリートメント(強者である大人から弱者である子どもに対する不適切な関わり方)」を受けた子供の脳へのダメージと、その影響について述べられる部分だ。
本書内では、「虐待」ではなく「マルトリートメント」と表現しており、“虐待という言葉の持つ響きが強烈で、ときにその本質を見失うおそれがあるため”という。
確かに「虐待」という言葉は非常に重く、辛い。被害者だけではなく、加害者にもその重さがのしかかる言葉ではあるし、言葉だけを追いかける形になれば、その後の対策についても“行為”だけを辞めれば良い、という理解になりかねない。
だからこそ、「かかわり」という言葉を用いたことで、あくまでも保護者の「かかわり方の問題」という認識を与えることを目指したのだろう。
しかし、本書内で触れているマルトリートメントの範囲は「かかわり方」という言葉を採用しているだけに広い。広くなることによって、ボクは自らもマルトリートメントの加害者であることを認識するに至った。
自分とは無関係だと思い込んでいた
本書を読むまで虐待が与えるダメージは短期的なもの(肉体的なもの)と長期的なもの(精神的なもの)と、その虐待期間によるダメージ箇所が変わる、という程度の認識でしかなかった。というよりも、そもそも虐待というものに対し、特に意識したことがなかった。
部活動中の教員による体罰によって当時17歳の学生が自ら命を絶った大阪桜宮高校の事件以来、ボクは“体罰”という言葉には敏感ではあったと思う。しかし、虐待という言葉には敏感な状態かといえば、決してそんなことはなく、むしろ無関係とすら思っていたようにも思う。
しかし、自分に子どもができ、向き合う中で少しずつ認識がずれていった。
小さい子どもを持つ保護者であれば経験があると思うが、生まれたての子や幼児期の子どもは我々保護者の意思とは相反した行動が日常茶飯事だ。無論、それが愛おしい要素ではあるのだが、時としてそれが憎悪に変わる瞬間もある。
3時間おき(短ければもっと短時間)に起きる乳児期などは、母親が心身ともに疲弊しており、パートナーである父親はサポートが必然的に求められるが、何をしても泣きやまない時というのは、両親にとって非常にツラく、長い時間になる。
その時間が頻繁に発生してくると、普段は愛くるしい目の前にいる赤子が異常なまでに憎く思えることもある。
厚生労働省の報告*1によれば、0-3歳までの虐待死の内、0歳が61.4%、3歳未満では72.7%と3歳未満までの死亡率が圧倒的に高い。
ボクは虐待死や、虐待を肯定したいわけではない。しかし、そこに至ってしまう親たちの気持ちは少なからず理解しているつもりだ。そして、世の保護者は少なからず経験があるはずだ。
脳の萎縮を引き起こすマルトリートメント
最もショッキングなのは、マルトリートメントが引き起こす脳へのダメージだ。少し長くなるが、引用する。
二〇〇三年、ハーバード大学において、マーチン・タイチャー氏とともに研究を始めた時も、子どもの脳においてダメージを受けやすいのは、これらの部分であろうという予測をしていました。
それを実証するために、一八〜二五歳のアメリカ人男女およそ一五〇〇人に聞き取りを行い、以下のような体罰を受けた経験のある二三人を選び出しました。
こういった調査を行うさいには、比較するグループも抽出する必要があるため、席に挙げたような体罰被害の経験がない二二人から協力を得ました。この両方のグループに対して、高解像度の核磁気共鳴画像法・MRIで脳を撮影。詳細な携帯情報を収集し、VBM法という脳皮質の容積を正確に解析する手法を用いて、両方のグループの脳皮質の容積を比較しました。
その結果、厳格な体罰を経験したグループでは、そうでないグループと比べ、前頭前野のなかで感情や思考をコントロールし、行動抑制力に関わる「(右)前頭前野(内側部)」の容積が平均一九・一%、「(左)前頭前野(背外側部)」の容積が一四・五%小さくなっていたことがわかりました。
さらに、集中力や意思決定、共感などに関係する「右前帯状回」が一六・九%減少していました。これらの部分が損なわれると、うつ病の一種である気分障害や、飛行を繰り返す素行障害につながることが明らかになっています。
これ以外にも、性的マルトリートメントや両親が子どもの目の前で喧嘩を見せられた子どもは視覚野に対して、暴言によって聴覚野に対してダメージを負うことも紹介されている上に、マルトリートメントを経験する年齢によって、影響を受ける場所が異なる、ということにも触れている。
非常にショックだった。
絶対的な強者である大人が絶対的な弱者である子どもに対しての行動一つで、人の脳にまでダメージが及ぶことは、“なんとなく”想像はできていた。しかし、その形状にまで影響を与えることになろうとは思ってもいなかった節がある。というよりも、考えないようにしていた。
よくよく考えたらわかることだ。
筋肉を鍛えれば、筋繊維がトレーニング内容に応じて適応していくように、環境に対して適応する力が人には備わっているのだから、劣悪な環境に順応していく、ということはわかったはずだ。
しかし、認めたくなかったのかもしれない。自分自身が少し声を荒げてしまうことで、彼らの脳に対して大きな影響を与えてしまっていることに。もちろん、継続的にであろうが、単発的であろうが、「不適切なかかわり」をしていることには変わりはない。
子どもとのかかわり方は回答のないゲームだ。
正解がない分、どれだけ多くの引き出しと環境を用意できるのかが保護者・養育者たる大人の務めであり、義務だと思っている。また、ボクは子どもに関わっていて、ボクはすごく驚かされているし、幸福感を与えてもらっている。
我が家の息子は現在、四歳とそろそろ二歳を迎える息子がいる。
四歳になった長男は、色々なことに敏感だ。もしかしたら、僕たち夫婦の顔を窺うようにするクセがついてしまったのかもしれない。恥ずかしながら、喧嘩する様子を見せたこともあるし、どちらからも責められてしまう状況を作ってしまったこともある。
その都度、夫婦で反省し、改善をしてきているつもりだが、もしかしたら、いや、必ず至らない部分はあると思っている。それは、ボクたち夫婦が彼と「適切な関係」で結ばれていたいと思うし、それを模索していくことが子育てになると信じているからだ。
普段の自分の態度が少しでも気になった人は、本書を手にとって読んでもらいたい。そして、自身の行動を振り返ってみる機会となることを祈念するばかりだ。
【木村草太】法律に壁を感じてる人は『キヨミズ准教授の法学入門』を読むといい
ボクは道徳教育よりも法学教育派だ
結論から述べてしまおう、正直にいって、ボクはこの本を読むまで法学というものに対して興味もなかったし、あまり自分にとって関係のない分野だと思っていた。
そう、完全に思っていたのだが、なぜにこの本を手に取ったのかといえば、ただのミーハー心でしかない。著者である木村草太氏をWeb上で見かけ、文章を読み、twitterで追っかけて見ていた、というのが大きな理由である。
まず、本書の裏表紙に書かれている著者紹介が、ちょっと特別な感情を抱いてしまう文章であることをお伝えしたい。本の裏表紙というスペースに対し、著者の不思議な体験談を交え、若干の怠け者感を漂わせながら、最終的には「あなたがいなければ...」という称賛対象にされてしまうという流れにボクはストンとハマったのだ。
1980年横浜市生まれ。中学2年時に日本国憲法を読んで不思議な開放感を覚え、法律家を目指す。東京大学法学部進学後、司法試験勉強に身が入らない中、長谷部恭男『比較不能な価値の迷路』に出会い、「これだ!」と感じて憲法学者を志すことに。同大学法学政治学研究助手となり、平等・被差別原則を表する。首都大学東京では、「高度な内容を分かりやすく」を信条に、憲法や情報法の授業を担当。法科大学院の講義をまとめた『憲法の急所』(羽鳥書店)は「東京大生協で最も売れている本」「全法科大学院生必読の書」と話題に。新しいスタンダードとなる憲法体型書の執筆を目標とする。ツイッター @SotaKimura
法学初心者向けの書籍である
本書は、法律というものが全くわからない、むしろ小難しい領域であり、勉強するには敷居が高いと思っている主人公、高校2年生のキタムラくんの視点から、清水准教授との出会いを経て、関係を深くしていくとともに、法律について段階的に、わかりやすく生活の中に落とし込んで行ってくれる。
まず、主人公の設定が高校2年生ながらも、ボクにぴったりと合致した。というか、ボク以外にもそう感じている人は少ないのではないだろうか。
『法律』という言葉自体に高圧的な態度を感じ取ってしまっていたボクは、可能な限り避けてきた、というのが正直な気持ちだ。法律というのは、基本的に人を縛るものであり、そこから逸脱する人間を、圧倒的な権力を持って断罪する、とでも言えばいいだろうか。
とにかく、“怖いもの”であったことは間違いない。しかし、この“怖いもの”というのも、結局は知らないから、という一つの過程での努力(関心)不足に 帰結する。
これは他のことにも言えることで、例えば、投資や金融というものに対して興味関心を特に持てなかった人は、怖いだろう。それは、リスク面ばかり先行して頭の中に入ってくることで、『投資=悪、危ないもの』(とまでは言わなくともそれに近いところまで)という所まで思考が至ってしまうのではないか。
しかし、物事は一面的なものではなく、常にコインの裏表で、逆の立場というものがある。
投資というのは、金融資産の運用方法の一つであり、リスクをとってリターンを受け取るものだ。その逆というのは、リスクを取らずに貯蓄、つまり金融機関に資産を預け、少ないリターンをちょぼちょぼと受け取っていくことだ。
今回のエントリは金融本の話ではないのでここまでにするが、無関心でいたことの帰結が怖いというイメージを持つことにつながっていることを考えると、知ることでその怖さは全く持って消失してしまうことになる。
そして、ボクが本書を読んで感じた本書の目的は『法律という言葉の重たい壁』を取り払うことと、『一面的なものの見方ではなく、権利を主張する双方の意見の落とし所を決めることの大切さ』を説くことだ。
ボクが道徳教育よりも法科教育だと考えるに至った本は本書
以前の書評エントリ『保育園義務教育化』 でも記載したのだが、ボクは道徳教育よりも法科教育を義務教育過程の中に組み込むべきだと考えている。
文部科学省のWebサイトを訪れ『道徳教育について』ページを見ると、位置付けとして以下のように記載されている。
道徳教育は,児童生徒が人間としての在り方を自覚し,人生をよりよく生きるために,その基盤となる道徳性を育成しようとするものです。
『人間としてのあり方を自覚し』という文言が、なんともいえない高貴な感じを受けてしまうのだが、それは別に良いとして...
以前のエントリで書いているので、繰り返しになるのだが、道徳教育は個人の思想信条に近しいものがあり、それを他人にまで強制しかねないというところに、ボクは欠点があると思っている。
例えば、人に対して優しくする、という行動を自らがしたいのであれば、それは問題ない。しかし、それを他人にまで求めることは果たして“良いこと”として捉えていいのか。
自らがしたいことと、相手にして欲しいことは全くもって別問題だ。一緒くたに考えて良いものではないし、すべきでもない。これはつまり、道徳教育を行う教員側にとっての大問題ともいえる。
道徳教育の場を振り返ってもらいたいのだが、どうしても耳障りのいい、気分が、こう、なんというか穏やかになるような“答え”を出したくなる。
教員の顔を伺った回答を学生がする、ということは存分にあることであり、模範的な回答をしていたやつが、裏ではさっきの回答とは全くもって逆の行動をとっている、なんて光景を見たことがあるのはボクだけではないはずだ。
つまり、小学生であれ、中学生であれ、教員の顔を伺った、もしくは同級生の顔を伺った上での忖度回答が出てしまうのが道徳教育ともいえる。
以下のリンク先は、小学校道徳教育で使用される読み物の資料集がある。
ぜひ、時間が許せば、一つでも二つでも構わないので読んでもらいたい。読んでもらえるとわかるが、これを読んだ後に、否定的な意見をいうことは難しいし、それを言おうものならば爪弾きにされてもおかしくないのではないか。
ボクがいいたいのは、道徳教育を否定することではなく、不足している、と述べたい。道徳心というのは社会性を保つ上では不可欠なものであると認識している。しかし、それだけでは足りないのだとボクはいいたい。
基本的に、その道徳心を持っている人間だけがいればいいのかもしれないが、それは理想論。逆を言えば理想論でしかない。
Aという主張をしたい人間もいれば、Bという行動をしたい、という人間もいる。しかし、はたから見たらCという文章を書いている人もいるし、Dというサービスを立ち上げている人もいる。
もっといってしまえば、宗教的な思想の違いは、どうやっても道徳的な考え方での理解の範疇を超えている。もし、どちらかの宗教を信条としている側に不利な状況が生まれたとしたら、道徳はどうやって解決まで導くのか。
「優しくする」とか「相手を思いやる」では解決できないのだ。
色々な価値観を持っている人たちが存在するが、共同空間の中で一緒に生活することになった場合に、どこで折り合いをつけるのか、どう解決するのかということを考えるのが法学であり、憲法理解だ。
我々は現在、というかこれまでの歴史を振り返っても、他者との共存を断絶した生き方はできていない。つまり、他者との共存が基盤・前提になっているのが近代社会であり、ボクたちが生きる世界だ。
その中で、ボクたちは自分と相手の価値観、権利を踏まえた上で共存していかなければならない。これは親子関係であれ、他人であれ、関係ない。誰にとっても存在しうるのが権利だ。
というわけではボクは上で述べてきたように、法学教育を是非とも義務教育課程に組み込んで欲しいと考えているのだが、来年度より道徳教育が特別の教科化されるので、まだまだ叶わないことになるが、せめて自分の子どもには伝えていきたいと考えている次第だ。
少しでも法学について、せめて入り口に立って見たいと考えたことがある人にはオススメだ。
【橘玲】『専業主婦は2億円損をする』は専業主婦を否定したいわけではない
人生をもっと上手く生きるための提案
本書は以前書いたエントリーで紹介した『幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』を若い女性用にカスタマイズされた内容になっているが、本書から読み進め、上記を読む事で理解が進むことは間違いない。しかし、本書のみでも十分に充実した内容となっており、きちんと読み進める事で、示唆を受けることは可能だ。
著者である橘玲は(ボクが勝手に判断するに)基本的に数字とファクトとロジックを織り交ぜ、現状の社会に対して不満を抱く人たちに寄り添いながら、ルールの中で、上手く生きることを示唆するのが著述のスタイルだ。そして、実際に本書内で橘は以下のように書いている。
理想の社会などどこにもありません。ここで提案しているのは、世の中がまちがっているということを前提としたうえで、どうすればあなたが幸せになれるのか、ということです。
そもそもの著者の書籍を読んだことのある人であれば『否定⇒現状分析・把握⇒提案』というフローを想像し、内容を自らに生活に落とし込んでいく術を考える機会を提供してくれることを理解しているだろう。
本書のタイトルも、例のごとく、アンチテーゼとして受け、その主張を吟味しながら理解をしていくことを前提にされていることは読者であれば何も問題はない文言だったと思う。
しかし、今回の想定とする読者層では異なった反応が起こる。
タイトルだけで内容を判断し、否定されたと受け取る人たちが各種サイトで多くのコメントを投稿し、半ば炎上している現状を鑑みて、期間限定で電子書籍版が無料配信*1となった経緯からも、その反響の大きさを物語っている。
「専業主婦」が2億円をすでに損している理由 | 家計・貯金 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
子どもを産んだ瞬間から差別が...
我が家の現状に目を移してみると、我が家はダブルインカム、つまり共働きだ。専業主婦という選択肢は、我が家の家計的にも、相互のやりがい的にもありえない選択肢だった。
何よりも、我が家ではボクだけでなく、奥さんも働きたい・社会貢献を自分なりの価値観として果たしたいという希望を抱いていたこともあり、専業主婦という選択肢は必然的になくなった。
そして何より、ダブルインカムであることが精神的な安定につながっていた。つまり、ボクの収入だけでは不足というか、不安だったのである。金融資産という観点で見た時に、我々には圧倒的に日本円という現金が必要であったことは否めない。
また、それぞれに志した“仕事”を行うことで、少なからず自己実現を果たそうとしていることは全くもって否定しないし、今でもそうやってもがいている。そして何より実感することは、103万の壁や130万の壁なんてものは、ダブルインカムを果たしてしまえば取るに足らないものだということが実感だ。
そして、何よりも実感を持って体験しているのが、下記引用部分だ。
一見男女平等に見えても、「女性が子どもを産むと“差別”を実感する社会」なのです。
女性が子どもを産むと差別を実感する社会、というのは滅私奉公を求める日本の会社における評価のことだ。長時間労働とサービス残業、昇進のため、もしくは生活のために残業をする人が評価されるという本末転倒な軸が存在し、それが出来なくなる「子ども」を産んだ女性は、マミートラックという「ママ向け」の仕事を用意される。
これは第一線で働く社員から子どもが生まれた瞬間に二級社員扱いを受けるわけなので配慮という名の差別ということになるが、それを優しさとして認識している。つまり、「子どもがいるうちは大変だろうから、簡単にできる仕事を...」といった具合に。
これは、そもそも前提が長時間労働とサービス残業が織り込み済みの働き方になってしまっていることに端を発してしまうわけだが、それは上でも述べたように、滅私奉公する人間、つまり、長時間勤務とサービス残業をする人間が頑張っている人間であり、そういう人間を昇進させようとしている会社が少なくないからだ、ということになる。
結果的に、いくら働きたいと考える女性であろうと、忠誠心を示す「時間」を提供することが出来なくなると、2級社員扱いされてしまい、給与も減り、昇進も望めない。ドンドンと追いやられた結果、退職を選ばざるを得ない。
つまり、日本の会社は「出産をする女性」までは男女で差をなくすことはできているが、出産をした瞬間から差別をしてしまう、という構図を図らずも構築してしまっており、改善が図れていない、というのが実情だ。
専業主婦は子育てに失敗できない
子どもを産んだ女性が会社からフェードアウトし、”結果的に”専業主婦を選んだとして、待ち受けているのが男性の帰りが遅く、子育てを一手に引き受けることで、家事と育児を行うのが勤めとなってしまう。
子どもへの責任を一手に引き受けなければならない母親は、少子化の波を受け、『絶対に失敗の許されないプロジェクト』として子育てを担う存在になってきた。
以前のエントリでも記載したが、保育の質や親が子育てをする重要性について考えている人たちとTwitter上でやり取りをしたが、そこでも(望んで)専業主婦になっていた人たちは、保護者たる親が責任を持って子どもを育てるべきだ、という意見が強い人の姿が多く目についた(というか、そういう人しか入ってこなかった)。
『保育園義務教育化』を読んだら、まずは親の幸福感だと感じた - {DE}dolog
働くことを望む母親がいる、という話をしたとしても「経済優先で物事を進めてきたことで、保育現場に起こってはいけないような事態が起こっている」とも述べていた。子どもが犠牲になっている、という趣旨だ。
少し横道に逸れてしまったが、本気でそういったことを心配し、自らの手で子どもを育てることこそが“善”であり、広めるべき認識なのだ、という正義感を持つ人たちもいる、ということを理解してもらいたい。
しかし、その様子はまるで、強迫観念に迫られているかのような姿勢が現れており、そこまで背負う必要があるのか、ボクはそのやり取りを重ねた時には判断がつかなかったのだが、とにかく、背負っていることは理解できた。
そして、専業主婦を望まなくともなってしまった人たちは、その圧力に屈しそうになりながらも耐え、旦那の帰りが遅いことにも理解を示し、子育てをするという役割を放棄することは認められない環境に身を置いているのだ、ということも理解できた。
果たして、子育てが失敗のできないプロジェクトなのだろうか。
現在、自分が子どもと関わっていて痛切に感じるのは「わからない」というのが正直なところだ。たとえば「三つ子の魂百まで」なんていわれるが、生まれた瞬間から性格なんてものは決まっているのではないかと感じるし、何をどういったところで、こちらの思惑通りの行動なんて取りようがない。
本書内で、ジュディス・リッチ・ハリスの『子育ての大誤解』を紹介し、『絶対に失敗のできないプロジェクト』である子育てに懸命になる母親を救済しようとしている。
子育ての大誤解〔新版〕上――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)
子育ての大誤解〔新版〕下――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)
以下、引用する。
2人の子ども(実子と養子)を育てながら研究を続けていたハリスは、それまで誰も気づかなかった疑問を抱きました。
アメリカやカナダのような移民国家では、英語を話さない国からたくさんの子どもたちがやってきますが、すぐに流暢に英語を喋るようになります。
「学校で英語を学ぶのだから当たり前だ」と思うかもしれませんが、就学前の子供の方が言葉の習得はずっと早いのです。親が母語で話しかけても、子どもが英語で答える家庭は珍しくありません。
でもこれは、「親の子育てが子どもの人生を決める」という常識からは、全く説明できないことです。子どもは、最も大切な親との会話の手段を捨ててしまうのですから。
その理由は一つしかない、とハリスは考えました。子どもには、親との関係よりはるかに大切なものがあるのです。それは「友だち関係」です。
移民国家では、家庭内と家庭外で言葉が異なるということが平気で発生する。その状況で、子どもは親とのコミュニケーションではなく、友だちとのコミュニケーションを優先させるということであり、それは子どもなりのサバイバル術であり、のけ者にされてしまうことをどうにかして避けなければならないからこそ取る行動ということだ。
自らを振り返れば、なんのこともない確かにその通りなのだが、子どもは『友だち関係の中で自分の「キャラ」をつくる』ことで、成長していく。その過程に親が入り込む余地はない。厳密にいうと入り込めない。入り込みすぎることは、自分の子どもがのけ者になってしまう可能性を助長してしまうことにもなりかねない。
つまり、著者である橘がいいたいのは、『成長の過程にかかわれないのであれば、成功も失敗もない』と語り、『絶対に失敗のできないプロジェクト』ではない上に、すべてを背負いこむ必要はないということだ。
みんなが幸福になる方法はないが、あなたが幸福になる方法はある
橘が一貫して主張しているのは、幸福を求める権利は誰にでもあり、それを行使するためには、現状の社会や会社に文句をいっても変わるまでに時間がかかる上、それを待っている間に消耗してしまう。それを避けるために、ルールをうまく活用しようということだ。
それを表しているのが、冒頭の橘の言葉だ。『理想の社会なんてないし、世の中は間違っている。間違っていることを前提とした上で、あなたが幸せになる方法を模索しましょう』という、幸福を求めるための働き方を提案することだ。
ここまで書いてきたように、橘は専業主婦という存在を否定し、闇雲に働けといっているのではなく、現状の社会的な問題や課題を挙げた上で、報われない『専業主婦』という立場を取らざるを得ない人たちに、手を差し伸べているだけなのだ。
ぜひ読んだ上で、自身の幸福について考えてもらいたいと思う。