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【ちきりん】考えるのが苦手だから『自分のアタマで考えよう』を読んだ

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう

 

著者であるちきりんはネット界隈で著名な匿名ブロガーであるが、2005年から文筆活動として『Chikirinの日記』を書き続けている。ご存知ない方は、この機会にぜひ読んでもらいたい。

 

知識と思考は似て非なるものである

「考える」という文字列を見た上で、あなたが感じることは何か。

 

答えは、結論を一つ選択することだ。この『結論を選択する』ということを進んでできる人とできない人がいる。ボクはというと、可能な限り前者でありたいと思っているものの、後者である。

 

この結論を選択する、ということは訓練が必要なものであり、上意下達型の組織や意思決定プロセスにどっぷりと浸かっている場合、訓練することが難しい状況に陥る。

 

もちろん、絶対というわけではないが、本人の位置する環境がそのような状態になってしまっていた場合、それを改善することはなかなかに困難なものであり、克服するまでに短くない時間を要する。

 

かくいう、ボクもそれで苦しんでいる人間だ。上意下達型の組織や思考プロセス、行為プロセスから逸脱することは、=つまはじきにされることを意味し、せっかく自らの居場所を確保することができた、と考えている人間はそこから外されることが怖いものだ。

 

しかし、組織運営や、適切な仕事を行う上で、自らの意見や発言に責任を持つ必要がある。そうでなければ、プロジェクト進行における責任の所在が曖昧になってしまい、解決するまでに時間を要することになってしまう。

 

結果的に、個人の責任を明確にしなかったことにより、プロジェクトにおけるコストがかかる要素を多大に残すことになる。

 

『何をおおげさな...』と思う人も中に入るかもしれないが、決して大げさでも他人事でもない。思考し、結論を選択することは、自らの発言に責任を持つことにつながり、責任の所在を明確にすることになる。なかったことにする、曖昧な状況のままにしておく、ということを無くすことができるのだ。

 

しかし、これが苦手なのはよく理解できる。自らの考えや発言に責任を持つことは怖いものだし、できることなら避けたいのもよくわかるのだが、そこを脱却し、(言い方が適切かどうかはわからないが)恥をかくことを臆することなく、思考することが個人としての発言権を持つ上では不可欠なのだ。

 

 結論を出すためのプロセスが「思考」

 結論を求めるからこそ思考する。ここを勘違いしてはいけないのだが、結論を出すためのプロセスとして、思考が存在するし、思考を行う上での前提条件を整えることが情報収集なのだ。

 

「考えること」「思考」とは、インプットである情報をアウトプットできる結論に変換するプロセス

 

情報をいくら仕入れても、それを対外的な発言や意見、個人的な結論として発信できなければ、それは『考えた』ことにはならない。これはあらゆる学習におけるプロセスと同様だ。

 

インプットしたものをどんな形でもアウトプットするからこそ、情報や知識が発信用に『変換』されるのであって、この変換こそが『思考』であり、結論までのプロセスだということになる。

 

ボク自身も情報や本を読むこと自体が目的化してしまうことは多分にあるし、それをしてしまった時の後悔は計り知れない。

 

しかし、本書を読んで以降、改めてTwitter等のツールを使用することの再設定や、こうやってブログでの記事作成など、まずは自分としての情報発信についての再定義をすることができた。

 

無論、簡単にできるようになるとは思えないが、それこそ試行錯誤を繰り返すことが思考プロセスであり、発信における責任の取り方に対する学習プロセスということになると考えているからこそ、継続することにしている。

 

下手な自己啓発書を買うよりは一次情報を求めたほうがいいし、フレームワークを知った方が活用の幅が広がる。 

 

ボクと同様、思考すること、発信することに責任を持つことが怖い人は是非とも読んでもらった方がいいのではないだろうか。

 

自分のアタマで考えよう

自分のアタマで考えよう