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【古市憲寿】『保育園義務教育化』を読むと子どもの前に親の幸福感だと感じる

 

保育園義務教育化

保育園義務教育化

 

ここ数年、まともにTV番組を見ないのだが、たまたま目にしたTV番組で彼を見かけ、彼の発言を聞いたとき、素直に聞けたのが印象的だったのを覚えている。

たぶん、彼に対して僕は自らの意見を代替的に発言してもらうことを依頼しているようにも感じる。

某番組の中では、まるで「常識のないやつ」といった風潮で扱われていたが、そんなことはなく、彼なりに試行した結果を口にしているだけであり、むしろ危険なのは、その雰囲気に飲み込まれることだろう。

"常識”というものを振りかざす場合には注意が必要であり、それは自らが所属するクラスタ(ある集合体や群れ)内での普遍的な認識とでもいうべきものであり、ほかのクラスタには適用されないこともある。

そんな彼が自らに子どもがいるわけでもないのに出版した本書。

しかし、発想の転換をしてみれば、子どもを育てていない人間が保育園についての本を出版しようと考えることは非常に勇気がいることだ。

たとえば、あなたが、まったく知らないスポーツや演劇について、その情報を求めているコミュニティーに文章を投下することを想像してみてほしい。

圧倒的に敷居が高く感じるはずだ。しかし、その敷居の高さは、古市という人間には関係がない。むしろ、執筆時点において、自らに降りかかっている災難についての共有事項を書き記しているかのような熱量で書いている。

親が人間だって何歳の時に気づくか

これは、“はじめに”の冒頭でくる言葉だ。

皆さんは自らの親が人間だということに何歳のとき、気づいただろうか。ボクは正直、記憶にないのだが、いま、記憶をたどってみたところ、どうやら小学生の低学年だったころに体調を崩して寝ている様子を確認したときに、そうなんだと感じた記憶がある。

そして、「あ、寝ることはできるんだな」と感じた。

一人の女性が「お母さん」になった途端、人間としてのあらゆる権利を社会的に剥奪されます。

割とセンセーショナルな言い方だが、日本の中において、ジェンダー観を見直したほうがよい、というのは以前の記事にも記載した。

dolog.hatenablog.com

 

つまり、「母親」という一種のレッテルを貼られた人が生まれることを意味している。そのレッテルを貼られてしまうと、ありとあらゆる権利を(事実上)消失してしまいかねないことに対して、古市は上記の言葉で表現している。

 

『子ども=母親』ではない

一時期、芸人、松本人志が新幹線の中で泣く子どもに対してTwitterを利用し、Tweetした内容が少し話題になったことがあった。

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松本がどういう意図を持ち、この文章としたのかはわからないし、現時点では考えも変わっている可能性は否定できないが、このTweet時点において、松本は親に対して厳しい目を向けているのは確かである。

 

無論、この親がどのような態度を取っていたのかはわからない。もしかしたら、鼻くそでもほじっていたのかも知れないし、くそ笑顔で日本酒のカップでも飲んでいたのかもしれない。

 

これを題材に古市は「子どもと母親は別人格である」という旨で書いている。

 

個人的に、これは圧倒的なまでに納得である。

 

そもそも、我々、保護者たる存在は、子どもに扶養責任や保護責任はある。しかしもって、泣くことを制御する義務までを負っているわけではない。無論、ボク自身が該当場所にいて、同じ状況になったとしたら、泣きやむ策をいろいろと講じることは想像に難くない。

 

しかし、この“母親と子どもが別人格”、つまり、あくまでも別の人間が起こしていることであり、それが母親に責任があるという態度はいかがなものか、ということだ。

 

子どもが泣いているのは母親の責任であるのだから(そこまでは言わなくとも同じ態度である)、きちんと責任もってオロオロしろ、というべきなのだろうか。

 

日本のジェンダー観として、母親は常に笑顔で子どもに接し、泣けば泣きやむ為にあやすことを求めるが、それが当然というのは何故なのか考えたことがあるだろうか。

 

なぜ、あなたがやらないのか。

 

もしかしたら、あなたの目の前にいる母親は、育児疲れでヘトヘトな状況なのかもしれないし、やっとのことで部屋から子供を連れ出し、実家への帰路についていたのかもしれない。

 

ボクは、子ども連れの保護者を街中で見かけることは、交通事故の予防と一緒だと考えている。

 

たとえば、走行する車と向かいから歩いてくる歩行者がぶつからないようにする為にはどうしたらいいだろうか?

  1. 歩行者が周囲の状況をよく観察し気をつけながら歩行する
  2. 車の運転者が歩行者の同行に気を配りながら運転する

事故率が最も低くなるのは、双方がきちんと確認しながら、気を使うことだ。

どちらか一方だけが確認しているだけだと事故の確率は高くなり、特に自動車の運転手側が認識していない状態では危険な状態とも言える。

 

街中で親子連れ、特に乳幼児を抱えている人となった場合、見るほうも見られるほうも、双方が気を使うことで、イライラは解消されるのかもしれない。

 道徳教育?

ただ、これは個人の倫理観や、子どもに対する容認度がかかわってくるため、なかなかに難しいのかもしれない。

 

本書の中で、古市は「人間性に深く迫る教育を行う必要性がある」ということで、道徳教育が新たな枠組みによって教科化されることに対し、簡単に触れている。

本書の結論的には『非認知能力』の向上を図るような教育が必要であることに帰結するのだが、ここで一つ疑問が生じる。道徳教育を行うことは、果たして有効、必要なのだろうか?

 

話が逸れてしまうが、ここで個人的な意見を述べさせてもらう。個人的には、義務教育過程の中で、法律を学ぶ機会があったほうが良いと感じている。

 

道徳教育の場合、教職員の"答え”が前提となるため、“正しいと思われる"回答をすれば良いことになる。また、あくまでも個人の良心呵責に基づくため、個人の中だけで問題を解決させてしまう。

 

最後のシーンにつけて、「ごんはどんなきもちだったでしょうか?」

 

まず、昔話である“ごんぎつね”の、しかも狐の気持ちを考えてみたところで、到底理解が及ぶわけがない。それを回答したところで、ごんぎつねの物語からいえば、非常に悲しい報われない話なので、それに沿った気持ちを回答すれば、それなりに高評価につながりそうである。

 

法教育の場合は、状況に対してセンチメンタルなものではなく、相互理解を促すことが必要となる。

 

Aという権利とBという権利、二つの権利を持つもの同士が主張に対し、きちんと一定の答えを出すことが求められる。つまり、お互いの権利・主張を踏まえたうえで、お互いに許容・譲歩できるのはどこまでだ、ということを明示する必要があるのだ。

 

主張相手の権利を踏まえる、というところに道徳教育と異なる点がある。

 

現在はすでに特別教科として実施されることが決定している道徳であるが、果たして小学生や中学生に対して、行う教育という科目において、どちらかを選択しなければならない、というのであれば、ボクは法科教育を行うべきだ、と考えている。

 

 少子高齢社会への対策として

 

本書のタイトルにあるように、ボクは保育園の義務教育化をするべきだと考える立場である。ただ、これにはいくつかの条件があることも理解しているつもりだ。

以前、ボク自身、twitter上で『保育の質』について、他のユーザー達と意見を交換する機会があったが、その中では『保育の質』という点においてハード面、ソフト面において、諸外国と比較し、低いことが指摘されている。

 

しかし、昼食や補食の問題、各施設ごとのハード面の違いなど、一律を整えることは不可能に近いと言えるのではないかと考えている。

そして、何よりも、子どもの保育の質云々を語るのであれば、まずは保護者たる親の幸福度を高めることが優先されるべきなのではないか。

現段階において、日本では、養子縁組の養親となるものの条件は以下の通りである。

  • 25歳から45歳までの婚姻届を出している夫婦
  • 離婚の可能性がなさそうなこと
  • 健康で安定した収入があること
  • 育児をするのに十分な広さの家であること
  • 共働きの場合、一定期間は夫婦のどちらかが家で育児に専念できること

この条件をご覧になった感想はいかがだろう。ボクは『ひどくハードルの高い注文だな』というのが率直な感想だ。まるで、片親というのは存在すべきではないかのような条件だ。

 

まるで昭和時代の家族構成を、そう、サザエさん、もしくは、クレヨンしんちゃんの世帯が前提となっているのだ。

 

ここで言いたいのは、同じ“子ども”だとしても、『片親の子ども』と『両親が揃っている子ども』との間に差別が存在していいわけがない、ということだ。

 

『片親では子どもが...』という感情的な議論は、この場においては正直どうでもいい。そう、どうでもいい。

 

ボクが言いたいのは、結果的に片親になってしまった子どもであろうが、そう出ない子どもであろうが、そこに学ぶことや社会性を身に付けること、ひいては生きることに対しての権利はあるはずであり、そこに差があってはならない、ということだ。

 

しかし、そのためには、保護者たる親の幸福感を高めることが必要であり、そのためには子どもを育てることが社会的生活を営む上で阻害要因となってしまわないような制度設計が必要だろう。

 

子どもを産んだ後に働くことを望む、働かずに育てることを選ぶ、どちらを選択したとしても、そこに制度的な差別はなくすべきであり、なくすことが前提となるべきだ。

 

今回、本書を読むことによって、『子どものため』という言葉は、我々のエゴになってないのか、ということを痛感し、考えさせられた。

 

多くのデータを参照にいていることは間違いないが、それをひけらかしにしない文章構成は、流石だと感じたし、保育等の子どもの生活環境を考える際の入門書としては、非常に優れているのではないだろうか。

 

子どもに関わる人であれば、一読をお勧めする。

保育園義務教育化

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