【May_ROMA】なんだか人間関係が堅苦しいと感じてるなら『不寛容社会』を読むべき
@May_ROMAさんの著書
Twitter界隈では有名な @May_ROMAさんこと、谷本真由美さんの著書。
ベッキー事件を皮切りに、ボクたちはなぜ、関係ない人物のスキャンダルにそこまで一生懸命叩くのか。多岐にわたる人種と実際に働き、住んだ経験から分析・考察していく内容。
不寛容社会 - 「腹立つ日本人」の研究 - (ワニブックスPLUS新書)
- 作者: 谷本真由美
- 出版社/メーカー: ワニブックス
- 発売日: 2017/04/12
- メディア: 新書
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なぜ日本人は見ず知らずの人を叩かずにはいられないのでしょうか?
なぜ日本人はこんなに不寛容になってしまったのでしょうか?
なぜ海外では芸能人の不倫がトップニュースにならないのでしょうか?
なぜ日本人は些細なことで正義感を発揮しようとするのでしょうか?
日本人は集団ヒステリーなのでしょうか?
費用対効果の高いコンテンツとしての他人叩き
雑誌やTV、新聞、ひいてはネットメディア等のメディア側から見た“他人叩き”というコンテンツの優秀さを分析しているのだが、結局、既存メディアが腰砕けなだけであり、弱腰だから他人を叩くことを増長させやすい状況を作れてしまうということを示唆している。
まずはその例として、2016年東京都知事であった舛添氏の経費の不正使用から辞任になったケースについては、舛添氏の経費における態度があまりにも庶民感覚すぎていたからこそ、マスコミが増長したし、それを享受する市民感側に火をつけてしまった、としている。
大企業への厳しい追及や、内戦中のシリアへ取材を敢行することなどのリスクの高い案件に比べたら、すでに“何かをやらかしてしまった人物”というのは、なんのリスクもなく叩けるうえ、ある意味、安心して利用できることになる。
商売の原則である安く仕入れて高く売るということをしっかりと実践してくれている訳だが、その標的になっているのが、政治家であり、芸能人がメインとなり、読者や視聴者の感情に刺さりやすい内容で批判を考えている。
日本人は表面上は礼儀正しそうに振舞いますが、いやらしくて意地の悪い人も割と多く、人の幸福や人生の喜びが大嫌いな国民です。
人様の不幸は悲しまないのに、桜が散ることを惜しむ、という矛盾した面も持っているのです。
ウチとソトの断絶
日本人の特性を上げる際、著者は中根千枝の『家族を中心とした人間関係 (講談社学術文庫)』を紹介しており、その内容は『ウチ』と『ソト』の断絶だ。
ボク自身、田舎に住んでいることもあり、結構目の当たりにすることもあるし、体験したこともあるだが『自分基準の当然』を他人にも強要する了見の狭さがイヤになる事がある。
ウチとするのは、わかりやすくいえば村八分ということになろうか。自らの安全地帯に身を置き、その中にいる人間は味方であり、家族的な信頼感を置く。しかし、いったん、場所や会社が変わったら他人、ソトの人となり、待遇も一気に冷たくなる。
会社が変われば年賀状のやり取りがなくなるなど、実際にボクにも起こっている事だ。
別に数日もすれば会社に出向き、顔を合わせるにもかかわらず、年末のバタついている時期に必死になりながら用意したうえで投函をし、正月の昼間から何をするわけでもなくすごしている中に届く年賀状をみる。
記載する内容といえば、他にも伝える手段はいくらでもあろうものをわざわざ時間や金銭的なコストをかけてまで伝える内容かといえば、決してそのようなものはなく、たいしたものではない。
そんな大したものではないくせに、同僚の先輩や上司は「なんだ、あいつ出してこないじゃないか。常識がないやつだ!」などと尻穴の小さいことをいい、さもあれば年始に出社し、後日、小言を言われてしまうことも少なくない。
そんな半ば家族的なつながりを強制的に抱いておきながら、会社や部署が変わることで「あいつは他所に移った」とか「もう他人だ」などと、いやに冷たい態度をさも当然のように抱くのだ。
まったく持って不寛容だが、これは何も会社組織だけに限った話ではなく、「日本の女性」や「子供を持つ親」であったり、「結婚している男性」など、いわゆる“世間一般的な常識”とされるレイヤーごとに分けている人たちにも存在する。
それを著者は、高畑裕太氏の親に謝罪を求める心理に当てはめた上で説明している。
高畑淳子氏の息子で俳優の裕太氏が不祥事を起こした際、なぜか親である淳子氏が64分間も立ちっぱなしで謝罪することになっていた。
正直、当時もそうだが、今でも、これをする側(淳子氏)も求める側(マスコミや視聴者)も異常だとボクは考える。
この性質について、著者は以下のように述べて説明し、その異常さを否定するとともに、個人主義についても説明する。
日本人は親と子どもを別人格として考えておらず、「血縁関係にある家族」を一つの運命共同体として考えていることも影響しているはず
人間は受精した時点で親とはまったく異なる生命体であり、人格も何もかも異なる生物です。
一人ひとり違う生命であり、同じ人は一人もいません。それはたとえ親子であっても同じこと。違う人間だからこそ考え方も行動も異なってきます。
こうした違いを尊重することは人間尊重の基本原理ですし、近代民主主義や資本主義の下地である個人主義の考え方です。
この『個人主義』という考えをボクの親世代、特にドがつくほど田舎の人たちは、たいそう大事そうに大切な価値観として抱いているのは、ボクの身近なところで起こっているので事実である。
以前記事にしたものでも触れているが、『ウチ』を大切に考えている人たちは、自らのカラダから生まれた人類は、自らと同じ志向を持つことが使命であり、当然の義務かのような態度をとる。
これは、別にド田舎だけの話ではなく、“異質な考え”にはひどく不寛容な態度を取る大人は多々存在するのを目の当たりにした経験があるのは、ボクだけではないはずだ。
正義感
だが、この、異質な考えに不寛容な態度というのは、集団になると非常にヒステリックな行動をとるようになる。いわゆる常識というのは、現在の45歳前後の人たちが享受してきた社会的な雰囲気から作られている。
どういうことかというと、ボクはいわゆるミレニアル世代(1980年以降)と呼ばれる世代だが、この世代の特徴は、育っていく過程の中で、携帯電話やインターネット、ひいてはSNSが当然のように存在するというのが、時代背景だ。
しかし、この世代よりも上の世代は、当然ではなかったため、それを受け入れるのに、時間を要したり、否定したりしてしまう。それが多数になれば、いわゆる常識というものが出来上がってきて、それを前提とした正義感が醸成される形になる。
以前、記事にした養老孟司『遺言。 (新潮新書)』の中で、言葉の効用について以下のように述べている。
いうというのは、言葉を使うということであって、言葉を使うとは、要するに「同じ」を繰り返すことである。それをひたすら繰り返すことによって、都市すなわち「同じを中心とする社会」が成立する。
「同じ」を繰り返すことによって、都市化が進んできたことは否定すべきではない。
先代の日本人は、都市化を邁進し、満腹になるまでご飯を食べられるように必死になってきた。その結果が、今は過去のものだが、経済大国化し、先進国の仲間入りを果たすことがかなった。
それを引き継いだ次の世代の人たちが作った社会ではどうなったのかを著者は、本質的なことに無関係なことに対して均質性を求める不寛容さについて指摘している。
本書内から引用すると、以下のような“態度”が本質的なことに無関係なことに対して均質性を求める一例である。
- 始業開始に五分遅れた
- メール返信に半日以内にしなかった
- ロッカードアの締め忘れ
- 押印のズレ
この態度をとることによって、いわゆる(ボクもこれから迎えるであろう)大人たち世代は何をしたいのかを考えるべきだ。
これを求めたことによって、営業利益に直結するのだろうか。
これを求める態度を突き詰めていくことで、サービス残業をせずに帰れるのだろうか。
求め続けた結果、細かいことばかりにとらわれ、本質的なことを見失っていないだろうか。
最近の不祥事は硬直性が原因?
この一年の間に、神戸製鋼、日産、スバル、三菱マテリアル、東レなど、日本を代表する製造業企業が、技術大国日本の看板を無碍にし、(高品質で高精度という立場を)根幹から揺るがすことが多くなっている。
これについても、上記した“本質的なこととは無関係なことに対しての均質性”を求めたがゆえに起こっていることではないか。
これは先代の日本人が作り上げてきた功績に裏返しとも言え、日本の職場環境は終身雇用が前提となっているがために、人の異動や転職が少ない。
ここ何年かで、その見方は大きく変わってきているように思うが、いまだに転職回数が転職活動に響くというのは事実だろう。かくいう、ボクもジョブホッパーみたいな人間なので、その辺はなんとなく感じている。
『人の異動や移動が不足することで、職場内のルールも硬直化しがち』と著者はいうが、ボクもそれに大いに賛成する。
人の入れ替わりがない、ダイナミズムにかけた就労環境というのは、良くも悪くも長居する人間に優位な状況に陥りやすい。今年の言葉で言えば、忖度が発生しやすい状況になるということだ。
長居することによって、それなりの地位に登ることができた人材を重用する組織体制になっていた以上、不可避なのかもしれない。
長居することができるようになることで、結果として、組織内の立ち回り(社内政治)が上手になり、透明性が失われていくことによって、組織の硬直化が発生し、結果として、上記のような不正がまかり通ってしまうことにつながっているのではないか。
日本のジェンダー観、大丈夫?
同質圧力というのは、何も男性や会社組織に限ったことではなく、日本のジェンダー観にも現れていると著者は述べる。
キャラ弁だ。
我が家でもそうだが、子供を持つ保護者世帯であれば、一度は目にしたことがあるであろう、キャラ弁。
昨今のキャラ弁における隆盛が日本のジェンダー観における同質圧力を表現するのに適していたのかもしれない。
手間暇かけてお弁当を作る母親が日本では「素晴らしい」のか?家事をしない母親は「悪い母親」なのか?
...本当にその通りだと思わざるを得ない。
消費行動の一環として捉えるべきなのかもしれないが、この“母親”が手間暇かけて弁当を作る、ということ自体が時代錯誤甚だしいと言えるのではないだろうか。
専業主婦という言葉も、たかだか100年ほど前にできた言葉であり、時代的にはサラリーマンが珍しく、高給取りであったことが前提な言葉だ。
専業主婦という身分(被扶養者)を支えられる経済力を世帯で一人に押し付けることは現実的ではないし、そんな専業主婦たちがやっているキャラ弁づくりは一円にもならないのだ。
ブログのアフィリエイトをやっている人的には少しは儲かるのかもしれないが、高が知れている。せっせとキャラ弁を作り、何枚も写真を撮り重ね、ブログの記事を書いている暇があれば、人的資本を高め、その対価を対企業から得た方がよほど有益ではないか。
他人と自分が違うことを認識する
結局、ボクが住んでいる日本という国は、同調圧力が強く、人と違うことを受け入れるのにすごく時間がかかる。人と違うというのは、自分が経験していないこと、つまり、わからないことだ。
分からないから否定するのではなく、分からないからこそ、その際を埋める努力が必要なのではないか、と思う。
その第一歩が、自分が他人と違うことを認めるということだと思うし、そうなると道徳という“自分がどうあるべきか”という問題ではないと強く思う次第だ。(ボクは道徳教育に反対なのだが、それはまた別の機会に書かせていただきます。)
最後に著者の言葉を引用して終わりたい。
人間は一人ひとりが異なる生命体であり、誰一人同じ人はいないのです。(略)親子だから分かりあえる、夫婦だから理解し合えるというのは幻想です。最初から意見など通じませんし、異なる生命体なので、お互いを分かり合える日は一生来ないのですり
日本的なものの見方をすれば冷たい様で、実は何よりも人のことを考えた一文ではないか。
不寛容社会 - 「腹立つ日本人」の研究 - (ワニブックスPLUS新書)
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