しかる?怒る?受け止める?
子育てに関して、ちょっと考えなければいけないな、と感じたことがあったので共有させていただきます。
ちなみに、ボクは他人を貶めたいとか、否定するとか、そういう意図はありません。
ただただ、子どもに対する接し方について共有したいのです。
それを前提に読んでいただきたく思います。
とある日の昼食どき...
先日、所用のため、妻の実家に行った時のこと。
お昼ご飯を我が家(ボク・妻・長男・次男)と奥さんの実家夫婦(義父・義母)で田舎のファミリーレストランへ出向きました。
ここで一つ、事件というか考えるべきことが生じまして、子供を育てている方には是非考えてもらいたいと思うのです。
「おもちゃが欲しい」とぐずる長男
店内はテーブル席が中心の1階と座敷しかない2階席があり、我々のパーティーは2階席へ。
すでに子供を連れた家族がたくさん座しており、まさにファミリーレストランの様相。
義父に絵本を読んでもらいながら『唐揚げがいい!』と威勢のいい声を張り上げた長男。
「あ、ご飯はいらないの...ね?」という周りの気持ちは関係ありません。
なぜなら、4歳になるところですからね、もう目に入ったものが中心であり、自分の好きなものが中心。
しばらく待っていると、徐々に料理が運ばれてきて、いよいよ長男の待ちに待った唐揚げの登じ...
あれ?表情がおかしい...
どうやらボクから見て後方の席に座っているお子さんが『お子様』系メニューをチョイスし、そこで、スタッフの方からオマケのおもちゃをもらっている様子
もちろん、自らも欲しがり始めました。
『欲ぉしぃい〜!!』
『唐揚げなんていらない!』
『欲しかったのにぃぃぃ!』
などと声を荒げながらグズリ始め、我が夫婦は「おやおや、また始まりましたね」といった気持ちだったのですが、そこで義母の様子が一変。
怒り始めた義母
義母が長男に対し、結構な物言いを始めたのですが、今回の争点はここ。
義母が長男に対して投げかけている言葉は到底ボクの理解を超えており、納得のできない言葉ばかり...
『こんなところで泣くなんて恥ずかしい』
『じゃー食べるのなんてやめる?』
『そんなに泣くんなら外に出す』
以上のような言葉をチクチクと繰り返しながら、ずっと泣きわめく長男に向かって続けていました。
奥さんのとった行動
ここで一貫して我が奥さんがとっていた行動は『受け止めること』
おもちゃがほしくてたまらないという長男の叫びをひたすら受け止め続け、彼の感情が少し収まることを待ち続けていました。
ボクは隣で二男を股に抱えながら食事を与えており、身動きが取れなかったのですが、まだ2歳になっていない次男は貪り食べていた 笑
それを見て義母が『こっちの方が“いい子”だなぁ〜』とか言い出すのには再び腹を立てることになりましたが…。
長男の感情が少しずつ、受け止めてもらったことにより、緩くなってきた頃合いを見計らって、奥さんは少し戯けながら『じゃー、唐揚げ食べちゃおうかなぁ』と言うと、長男はニコニコと食べ始めました。
これこそが、子育てであり、教育だろう!とボクは強く感心しましたし、心強くなりました。
誇らしげに義母に目をやると、ブツブツと、そしてチクチクと何かを繰り返し言い続ける始末。
どうしたもんかなぁ...と思いながら、長男も食べ終えたので、帰宅。
昼寝の時間でもあったので、ボクは次男を寝かしつけようと別室にてウトウト...
義母の怒りは収まっていなかった
ボクが次男とウトウトしている頃、別室では奥さんと義母の間で議論が勃発したと言うこと...
(憶測ですけど、ボクがその場にいたら、ならなかったのではないかと反省もしてます)
正直、内容を聞いて、どうしようもない気になって落胆したのですが...
奥さんが義母から言われたのは、「どうしてあの場で叱りつけることをしないの?」「甘やかしてる」と言う否定的なものだったそう...
ボクはここに本質的な問題が内在していると強く感じたので、今回、恐れ多くも記事として見ました
大人が過ごしやすい状況を作るのが“いい子”なのか?
ボクの年代(30代前半)でも聞かれることなのですが、子どもの様子を見て、『いい子だね』と発するのは、ボクたちよりも上の年齢層に多いのではないか、と。
(あくまでも経験則での実感です)
(大人が食事をする際に)きちんと座って食べていたら『いい子』
(大人の挨拶に対し、)きちんと挨拶をできたら『いい子』
(大人からの問いかけに)すぐに返事ができたら『いい子』
『いい子だね』と他所の大人たちが言う『いい子』と言うのは、前置詞がついてしまうことが多く、いわゆるレッテル貼りにも近いとすら感じる。
今回の件でいうと、義母はただ食べたいから食べている次男を『いい子』だと表現し、長男にぶつけました。
しかし、その『いい子』は『(大人にとって都合が)いい子』にしか聞こえません。
本人は否定するかもしれませんが、状況と発言内容かららはそうとしか受け取れません。
何より『恥ずかしい』という表現を厳しい物言いでしたが、ボクはそれを認めるわけにはいかない。
なぜなら、周囲には同じような子ども連れのパーティーが5組以上おり、会場としても、それを前提とした店になっていたことが一つ。
『恥ずかしい』という言葉にも前置詞がついていて、『(私が)恥ずかしい』になることが一つ。
まず、状況的には恥ずかしい状況など何も生み出しておらず、ボクも奥さんもそれを確認している。
ちなみにいうと、他の子どもが泣く姿も長男以前に二件ほど発生していた。
このことから、なにもボクたちの席だけが騒がしくなっていたわけではない。
そして何より『(私が)恥ずかしい』という言葉を用いたところに甚だ大きな疑問が生じる。
これは前提として、長男と義母が同じ思考体験を共有できることが必要となるはずだ。
要は、同じことを考えられることが前提になる。
しかし、状況を見れば即座にそれができないことぐらいわかるものだ。
彼は“自分が泣いてしまうことで周りの食事をしている家族たちに泣き声という騒音を聞かせること”について思考を巡らせることなどできていない。
目の前で行われたおもちゃの受け渡しに気持ちがいっぱいになり、自分もそうなりたいと強く願った状況だ。
子どもを言いなりに制御できるのがいい親なのか?
義母の中で、“公共の場でなく子どもを制御できない親はダメな親”という認識があるのではないか、とボクは考えている。
それには今回の長男に対する態度だけではなく、きちんと理由がある。
彼女(義母)の娘であるボクの奥さんに対しての態度がそう言わしめるだけ言葉がけを過去に何度となく行ってきたし、目の当たりにした。
そして、今回の長男に対する奥さんの態度を注意というか、指摘してきたことが決定的な要因だ。
「どうしてあの場で叱りつけないの?」
「甘やかしてるんじゃない」という言葉を奥さんに発した本質は“子育てに関してもいうことを聞かせたい”のだと思います。
自分の娘がした、泣く子どもに対しての態度を、自分の考えで染め上げようとしていることになる。
事実、それをボクは奥さんに確認したところ、それを認めている。
ここで言いたいことは、冒頭でも書いた通り、義母を貶めたいとか、ただ単にdisりたい訳でもない。
子どもに接するということは、常に思考を巡らせることであり、思考を巡らせたところでその通りにはいかない徒労感を味わう、暗中模索を繰り返す非常に苦しい闘いだ。
思考停止した状態で『AであればA』『BならばB』ということで決めつけてはいけないし、決めつけられない。
そのようなガッチリとしたルールが必要なのは、集団での行動が必要な場合であり、今回のような個別案件に関しては、きちんと“顔を見た”支援が必要。
子どもにはそれぞれ顔(性質や特性)がある訳で、それをきちんと見ることができる環境や状況なのであれば、きちんと見てあげる必要があると強く考えている。
もちろん、時間的、状況的にそれができないことがあることもあるだろうけど、できる限り子どもには向き合っていくべきだ。
ボクは小さい頃、両親が自営業で蕎麦屋を営んでいたこともあり(現在も元気に営業中)、部屋に一人でいることが多かった。
今になれば、両親が大変だったのは容易に想像ができるが、なかなかに小さいながらに寂しい思いをしたのは記憶に残っている。
だからという訳ではないが、ボクはできる限り子どもに向き合っていきたいし、頭ごなしに否定するような態度をとりたくない。
子どもは大人の分身ではない
今回の件で、義母の取っている態度を見て、自らの行動についても反省することができた。
ボクだって、完璧にできているとは到底思えない。
だけど、考えて行動して、また考えて...というサイクル自体は作れるはずだし、やっていくことが子育てなんだと思う。
そんなことを思っていても、勝手に育つのだろうけど...笑
最近、読んだ中でぐさっときた二冊です。後日、レビューを載せたいと思います。
- 作者: 友田明美
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2017/08/08
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (1件) を見る
- 作者: 石田勝紀
- 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
- 発売日: 2017/09/14
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログを見る