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dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

【高井浩章】『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』でお金について考えるべきだ

『おカネの本質について、自分の子どもに対して説明したい』

これは、ぼくのささやかな願望でもあり、希望であり、やるべきタスクだと考えている。

このブログにて扱う書籍を読んだことのある方々ならば、きっと、お金、経済、金融など、おカネにまつわる事案について、一過言ある人もいれば、勉強中という人もいるだろう。

しかし、それを自分ではない他人に対して伝えるというのは容易ではない。

学校での勉強に始まり、自らが興味や関心を持った事柄であったとしても、学んだことを理解し、実践できるようになるためには、インプットのみでは足りず、必ずしもアウトプットが不可欠だ。

もっといえば、アウトプットを踏まえたインプットをすることで学習効率が上がるが、単純に詰め込み型のインプットのみでは、それこそ自己満足で終結してしまう恐れがあるのは、各々で体験したこともあるのではないか。

かくいう、ぼくも、その体験者たるのはいうまでもない。

 

本書は経済や金融を専門とした新聞記者である著者が自らの娘たちに向けたお金の教科書として連載を行っていたもの。Kindle版が個人出版され、1万ダウンロードされた後、書籍化された。

ストーリーとしては、主人公である男子中学生サッチョウさん(木戸くん)、同じく女子中学生のビャッコさん(福島さん)、そして、先生として登場するカイシュウ(江守先生)の3名が「そろばん勘定クラブ」にて「お金とはなにか」について議論し、理解を深める様を描く。

この「お金とはなにか」という議題は、ぼくを含めた大人は子どもたちに対してどう説明できるかを、深く考える必要に迫られる。

上でも書いたが、その本質について子どもに対して理路整然と説明すること、説明できることは、ぼくにとって大きな課題であり、解決すべきものだ。

また、それは子どもを持つ養育者たちの責務なのだとも思う。

なぜなら、国の教育におけるロードマップを描く立場にいる文部科学省が定める学習指導要領の中に「お金について」教えてくれる教科は存在しないからだ。

新学習指導要領(平成29年3月公示):文部科学省

 

義務教育課程の中で教えてくれないのであれば、高等教育に頼る他ないが、大学に通う段階では奨学金を借りるのか借りないのか。その返済について、否が応でも本人と親が「お金」について面と向かって考えなければならないことを意味する。

しかし、そうなってからでいいのだろうか。

今の日本の中における、いわゆる「奨学金の返済問題」は「お金について」考えていない、もしくは考えることを避けてきたことのツケなのではないか。

しかし、それを取り返す機会は十分に与えられている。

いまでは本書のような本質について深く考察した上で、読みやすく解説してくれる本があるからだ。

カイシュウ先生こと、「そろばん勘定クラブ」の主宰たる江守は元々、銀行家として働いており、リーマンショック以後、足を洗った。「お金のこと」について、実務者としての経験値は非常に高いのだが、いまでは銀行家を忌み嫌っている。

その理由は本書に譲るとして、その江守がお金の本質について語る場面があり、その中で「お金の本質は信用であり、その根底にあるのは共同幻想である」と結論付けている。

お金=信用(約束・信頼)

「お金にはなぜ価値があるのか。それはみんながそれをお金として扱うからです。ただの繰り返しじゃないかと思うでしょう。でも、本質はそうとしか言いようがない。小難しい言葉を使うと、お金とは共同幻想なのです。みんながお金に価値があると幻想をいだいている。だからお金がお金たり得る。幻想ではあるけれど、それこそが現実です。」

あくまでも個人の信用を可視化したもの、もっといえば、代替的に可視化したものがお金だ。

代替的に、とした理由は「信用」も多岐にわたるといえるからだ。銀行からお金を借りる上での銀行取引の信用や、SNSでのフォロー・フォロワーの数も指標となることは社会的な発言における信用と考えることができる。

お金を手にすることを目的にすることは、そのお金の本質を見誤ることを誘引する。なぜなら、あくまでも信用を可視化するツールであり、手段である「お金」を手に入れることを目的化することは、本末転倒といえる。

例えば、奨学金を得ることは高等教育を学ぶという目的があるからだ。しかし、奨学金を得ることが目的になるということは、別に学ぶ先はどうでもよく、とりあえず学ぶためには原資がいるから、ということになる。

もっといえば、家を建てたいと考えたときに、住宅ローンを組むことを目的にする人はいないだろう。「とにかく家を建てたいからローンを組みたい」なんていうのは、本末転倒という他にない。

どちらにしても、第三者から金銭を借り受けることには変わりはないが、そこに必要なのは「信用」であり、その人が抱える信用の歴史(信用履歴)だ。

 

本書もそうだが、お金について述べている書籍は多い。特に、ここ数年は仮想通貨の台頭もあり、法定通貨をはじめとした「お金」について考える機会が増えてきた。

増えてきた今だからこそ、ぼくたち大人は考えなければならないし、子どもたちに伝えなければならない。いや、伝えるために学ばなければならない

その入り口として、本書は中学生の主人公たちとともにお金について考えることができる格好の内容となっている。

少しでもお金について考える必要があると思っているのであれば、本書を手にすることをオススメしたい。

旧Kindle版 おカネの教室 統合版

旧Kindle版 おカネの教室 統合版

 
旧Kindle版 おカネの教室(前編)

旧Kindle版 おカネの教室(前編)

 
旧Kindle版 おカネの教室(後編)

旧Kindle版 おカネの教室(後編)

 

【宇野常寛】『母性のディストピア』現実を語るために虚構を語る

いまこの国の現実のどこに、本当に語る価値があるものが存在するというのだろうか。

難民を締め出し、移民に門を閉ざし、過ぎ去りし過去の成功の思い出に引きずられてグローバル化からも情報化からも置き去りにされたこの国のどこの誰に、世界の、イギリスの、アメリカの情況について述べる資格があるというのだろうか。

(中略)

この国のあまりに貧しい現実に凡庸な常識論で対抗することと、宮崎駿富野由悠季押井守といった固有名詞について考えることと、どちらが長期的に、本当の意味で、人類にとって生産的だろうか。想像力の必要な仕事だろうか。

安倍晋三とかSEALDsとかいった諸々について語ることと、ナウシカについて、シャアについて語ることのどちらが有意義か。答えは明白ではないだろうか。

何もかもが茶番と化し、世界の、時代の全てに置いていかれるこの国で、現実について語る価値がどこにあるというのだろうか。いま、この国にアニメ以上の語る価値のあるものがどこにあるのだろうか。

これは『序にかえて』で著者である宇野常寛が書いた文章を引用したものだ。

現在の虚構じみた現実に嫌気がさしていることはもちろんだが、それ以上に虚構に対しての圧倒的なまでのリスペクトを持っていることもうかがい知れる。

本書は、語るべきものとして虚構(アニメ)を扱うわけだが、虚構を題材にする理由として述べているのが上記引用であり、本書の趣旨だ。

 

媒介物であり、中間物として、本質を伝えようとし、その役割を担ってきた新聞やラジオ、TVや映像といったメディアを、ぼくたちはある意味で妄信的に、信仰的に捉えてきた。

しかし、その結果、失われたのは当事者性ともいえる。

メディアという媒介・中間物を経て伝わってくる国の現状や、政策の方向、それを伝える報道の内容は、真実を語るというよりも、その中に存在する人間が書き、発信することで"真実”とされた。

その実、責任の所在がうやむやとなり、誰がこうしてきたと語るよりも、結果的にこうなった、と述べることが正しい社会になっているのではないか。

そうであるならば、新聞や雑誌、TVや映画といった「文字から映像、そして現代のネットの世紀」に移る変遷の中で勃興・隆盛し、サブカルチャーというカテゴライズながらも、世界に発信できるクオリティを作り上げることができた虚構(アニメ)から時代を読み解くことができるのではないか。

むしろ、その方が過去から学ぶという点で言うと正しいのかもしれない。ぼくは本書を読み進める中で、そのように感じ、むしろ、主体性があることにうらやましさすら覚えた。

 

特にぼくはガンダムにおけるシャアの趨勢を追いかける宇野の姿勢に感嘆の息を漏らすとともに、慧眼たる視座に膝を打つ場面が多くあった。

宇野が語るシャア像というのは、虚構だからこその強みである主体性、当事者性を見出すのに最も適した題材なのではないかと感じている。

なぜなら、虚構の中で扱われる事象には当事者がいる。それを成し遂げようとする立場にも、それを止めようとする立場の側にも必ず主体性を持った当事者が存在する

そして、現実と同様、その当事者に対し、ぼくたち視聴者は対外的なポジションからではあるものの、同意の立場をとることもできれば、否定する立場に立つことも可能だ。

しかし、ぼくたちが住まう、現実の世界では政治における政局報道が数多く流され、いまいち当事者たちの思惑が見え隠れするものの、その本質をつかみきれない中でモヤモヤしてしまう。

そこに嫌気がさしているからこそ、政治に対する不信であったり、国の対応に対する不満を抱く。

なぜなら、そこに当事者性が欠落しているように感じているからであり、どこか他人行儀な対応の仕方をしている人間たちに対し、怒りとも似た感情が沸き起こっているからではないか。

そういった不満感や焦燥感、苛立ちを体現しているのは、虚構の中に存在する、立場としては主人公たちに敵対する組織や個人だ。虚構内での立場は敵対する立場だが、本質的には、その姿勢こそ、日本に住む国民の求める偶像なのかもしれない。

 

そう考えると、虚構・アニメを通して、本書では扱われているアニメーターたちが批評されているが、それはぼくたち読者たる国民(視聴者)が批評されているのだと気づく。

ぼくたちは、彼らの作る虚構に対し、少なからずとも同調し、否定する。それに対し、善し悪しを感情的に吐露した(感想を抱いた)瞬間、それは同意を意味し、受け入れたといえる

宮崎駿富野由悠季押井守という日本のアニメ界を牽引してきたアニメーターに対し、また、彼らが製作してきたアニメに対し、それぞれの立場と心情を慮りながらもクリティカルに、深淵を抉り出すように批評を繰り返す。

その姿勢は真剣そのものであり、ドンドンと没入させてくれる。それは、宇野の虚構という真実に対する同意と否定をしてきたことの証左であり、ぼくたちに対する姿勢そのものなのだ。

そして、読者たるぼくたちは、宇野の論調に対し、同調をしながらも否定する。そう、ぼくたちは、ぼくたちが同意し、否定してきたものに対し、否定と同意をする宇野に対し、同じ態度をとる。いや、とらざるをえない。

なぜなら、ぼくたちは虚構を好きだからであり、その可能性を信じたいと考えているからだ。決して諦めたくはないと考えているからこそ、本書を読み進めることができる。

 

そして、この国の姿を虚構という映像の中で表現し続けてきたアニメーターたちへの批評を、文字ではありながらも、彼らがなぶられる様を目にすることは、それを信奉してきたぼくたちに対して多くの気づきを与えてくれる。

虚構に没頭し、その可能性を信じているのであれば、この国の可能性を信じているのであれば、一読の価値は間違いなくある本だ。 

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

 
宮崎駿の雑想ノート

宮崎駿の雑想ノート

 

 

【橘玲】『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』をまずは受け入れることだ

あなたは自らの出自を呪わずに人生を送れているだろうか。

血脈主義というのは現代の価値観において許されるものではない、というのは一般的な認識だろう。

我々は、法の下の平等における加護の下、血筋や社会的立場によって差別を生むことは許されておらず、許すべきではないというのは標準的な思考だ。

では、誰もが出自に関係なく、欲しいと願うあらゆる能力を補填し、身に付けることができるだろうか。

勉強ができる人と、スポーツができる人と、音楽ができる人と、美術ができる人との差を努力することによって埋めることができるのだろうか。

恐らく多くの人の答えは「No」だろうし、そう回答せざるを得ないというのを知っている。

「やればできる」というのはできた人だからこその発言であり、できない人間からすれば詭弁だということをぼくたちの多くは知っている。

 

なぜか。

その影響は「遺伝」にあると言葉にせずとも“なんとなく”知っているからだ。

 

しかし、それを声高にいうことはできない。する人もいない。

身長も、体重も、顔も、「身体的特徴」は親からの遺伝であると、皆が知っているはずなのに、「知能」や「性格」、「こころ」はそう思われていない。というより、そう考えることが“よくないこと”かのように捉われているのはなぜか。

その理由を橘は遺伝の問題は政治問題だとする。

「遺伝」が科学ではなく「政治問題」だからだ。

僕たちの社会では、スポーツが得意なら羨ましがられるけれど、運動能力が劣っているからといって不利益を被ることはない。音楽や芸術などの才能も同じで、ピアノで弾けたり絵がうまかったりすることは生きていく上で必須の条件ではない。

それに対して知能の差は、就職の機会や収入を通じて全ての人に大きな影響を与える。誰もが身にしみて知っているように、知識社会では、学歴や資格で知能を証明しなければ高い評価は得られないのだ。

もしそうなら、知能が遺伝で決まるというのは不平等を容認するのと同じことになる。政治家が国会で、行動遺伝学の統計を示しながら、「バカな親からはバカな子どもが生まれる可能性が高く、彼らの多くはニートやフリーターになる」と発言したら大騒動になる。すなわち、知能は「政治的に」遺伝してはならないのだ。

橘は上記引用のように述べるが、無根拠にいうわけではない。

知能の70%は遺伝で決まるとするアメリカの教育心理学者アーサー・ジェンセンや、子どもの成長に子育ては影響しないと結論づけた心理学研究者ジュディス・リッチ・ハリスを紹介し、エビデンス、つまり根拠を持って主張をしている。

特に、ハリスの研究は子育てに勤(いそ)しむ親にとって福音なのか残酷な悪魔の囁きなのかは受け取る側の状況にもよるのかもしれない。

標準的な発達心理学では、知能や性格の違いは遺伝が50%、環境が50%とされており、その環境というのは親の関与などの家庭環境だと思われている。思われているというよりも信じられている。

しかし、それは大きな誤解であり、そう思うことは親のエゴであるとハリスは結論づけた。子どもの性格は自らが所属するコミュニティで使用される言語や風習のなかで醸成されるものであり、その中で役割を得ようとすることから育まれる、と。

 

さて、これを読んだあなたはどう感じただろう。

この結果を受けると、さしあたって親の関与が子供の生活に大きな影響を与える、ということを信じることはいささか怖いような気もする。

そもそも、信じるという行為は、考えることをやめたものがすることであり、残念ながら、そこから先には希望も何もない。

ここに関するぼくの考え方は以下のエントリに書いているので、ご一読いただければと思う。

goo.gl

子供というと、親と過ごす時間が重要だという主張も感情的には理解できるが、世界の中で親とだけの関係を築いているのであれば、そう理解せざるを得ない

しかし、現実はどうか。そんなことはありえない。

必ず、他の人間と接する機会と時間が設けられる。そうなると、子どもの周辺環境が動的に変化することになるわけであり、静的な状態で常に維持されているということはありえない。

個体としての、子どもに変化はなくとも、それを取り巻く環境が変化し続けるのであれば、それに伴った適応を繰り返すのは必然だろう。

その影響因子が親だけということがあり得ないのはいうまでもないが、影響の割合が大きいというのも、よく考えれば疑いたくなるし、現実、ハリスの研究ではその疑いが結果として出た。

親の課題はそこからだ。

だからこそ、何ができるのかを考え行動すべきであり、子どもの幸福を願うという便宜上の言い訳を周辺に振りまき、子どもに呪いをかけることはやめるべきだ。

自分の影響が決して大きくないということを認識することで、そういう環境の中で、自らの幸福について着々と行動することが大切なのだ。

 

本書では、世間一般的に言えば、耳が痛い情報や現実を読者に訴えかけてくる。

それを受けて、読者であるぼくたちはどう行動すべきなのか。どんな知識を身につけ、生きていけばいいのかを考える機会を与えてくれる。 

 

【山口揚平】『なぜゴッホは貧乏で、ピカソはお金持ちだったのか』で消費と投資の違いを考える

本書は、著者である山口揚平の『新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)』の前身だ。

冒頭、ピカソゴッホという著名な画家について、双方が同様に高名を得ているにもかかわらず、一方は金銭に恵まれ、一方は貧困にあえぐことを引き合いに出し、その差を考察することから始まる。

結論としては、ピカソはお金の正体を知っていた。知っていたというよりも、その本質的な使い方を覚えたということで落ち着く。

生い立ちを含め、ゴッホは凄惨な人生を送っており、耳を切り落とすというまったくもって理解できない行動を起こすぐらい追い詰められていたのに、片や、同じような名声を獲得したピカソはまったくもって悲壮な印象、それを想起させることはない。

ここで述べた「お金の正体」を知っているかどうかというのは、高名な画家であろうとなかろうと関係なく、我々が生活している中で「お金」を扱う上では不可欠な知識であり知識であり見識だ。

これまでのエントリでも、お金のことについて書かれた書籍をいくつか紹介してきた。

しかし、大変申し訳ないが、どれを読んだところであなたが豊かになるなどという保証は一切ない。その知識や見識から行為変容、つまり、行動を変化させられるかどうかにかかっているということはあえて書かせてもらいたい。

 

「お金とは信用である」というのは当ブログで扱ってきた書籍をお読みの方であれば当然の認識かと思われることを考えることから始める。それは「信用とはなにか」を考えなければならないということだ。

本書内に掲載されているが、デービット・マイスターがプロフェッショナル・アドバイザー―信頼を勝ちとる方程式の中で導き出す公式を紹介している。

信用度=専門性+確実度+親密度/ 利己心

 ちなみに、著者である山口は後々、これを信用度ではなく、価値に変換している。

 

では、お金を「信用」だとし、信用度というのは、専門性を高く保ち、仕事ぶりが確実で、親密な関係を構築したことに対し、自らの利益を優先する気持ちをあてて割り引くものだと理解した。

ここまでの理解でいえば、他者への貢献できる専門性を持ち、確実な仕事をし、親密な関係を築くことで、信用が高まり、それがお金に変換された際には大きな金額になることができるということがわかった。

では、消費と投資の違いについてはどうか。

ぼくは以前、『子育て・教育はコストか投資か』というエントリ内で、子どもに対し、教育の義務を課せられるのは養育者であり、その養育者の自己満足にお金を使うことは浪費であり、子どもの人的資本に影響を与えることにお金を使うことは投資であるとした。

dolog.hatenablog.com

本書内で述べられている山口の見解としても同様だ。

消費は「今の感情」に向けられるお金の使い方であり、投資は「将来」のためにお金を使うこととし、あくまでも今の感情に支配され、お金を使うという行為は投資ではなく、消費となる。

山口はその判断を財務諸表でするべきだと述べ、企業だけではなく、一般家庭においても財務諸表的な考え方を持ってお金を扱うべきだとしている。

この点は落合陽一(@ochyai )も同様の意見であり、金融的投資能力として今後の日本において、会計能力が必須能力であることに触れている。

 

財務諸表*1から得られる情報は、消費か投資かの判断を行う上で不可欠だとし、それがお金の使い方を導き出すともしている。

財務諸表とは、P/L(Profit and Losis Statement):損益計算書というものと、B/S(Balance Sheet):貸借対照表というものから構成される企業のお金の記録表だ。

想像できない人は、家計簿だと思えばいい。家計簿もピンと来ない人は、お金の出し入れを記録する用紙だと思えばいい。

それぞれについて簡単に説明をしてみる。

損益計算書というのは、会社の一定期間における経営成績を示す決算書。桃鉄でも出てくる。絶対評価(利益)と相対評価(対比:前年、前期など)が混合された通知表みたいなもので、会社にいくら入ってきて、いくら出て行ったのかを計算し、余り、つまり利益を示すものだ。

貸借対照表は、決算日時において、たとえば3月末日を決算としている会社が、その時点で持っている資産(現金、不動産、など)と負債(借りている現金や不動産など)から余り(差額)をだし、純資産として計算する会社の財政状態を明らかにするものだ。

 

これらを合わせて複式簿記と呼び、全世界で共通のフォーマットの上で運用されている。つまり、日本語で財務諸表(P/LやB/S)が読めれば、海外の企業がどんな経営状態になるのかも把握することが可能ということだ。

逆を返せば、財務諸表が読めないということは、資産状況が把握できないということになる。

つまり、だ。

自分がお金を持っているのかいないのか、有利な状況になるのかならないのか、その時点でのお金のあるなしに左右される。つまり、明日、食事ができるかどうかしか判断できないという状況に陥ってしまうということになり、それでは生活が困窮するだろう。

なぜなら、お金は信用だとするのであれば、その信用が貯めれているのか、そもそもマイナスでしかないのか、ということを判断する指標がわからないということだ。

これは消費だとか投資だとかいっている場合ではない。

自転車操業の状態で、入ってくるものをそのまま消費に回さなければならない状態というのは、余剰分がなくなってしまうため、投資だとかなんとかいっている場合ではない。

個人や家族、会社だろうが、投資を行うためには原資が必要なのには代わりがないため、現状の状態を改善できる部分については改善を図る必要がある。

 

では、自らの資産状況が把握できたとして、「信用を高める」ことは何がいいのだろうか。別に信用を高めることは資産状況となんら関係がなさそうなものだが、そうはいかない。

たとえば、あなたが1万円を貸せる人の顔を思い浮かべられるだろうか。

別に金額は5千円だろうが、千円だろうが関係ない。自分が簡単に貸すことのできる金額で考えてもらえばいいのだが、その金額を貸せる人は誰だろうか。

顔が思い浮かぶ人と、そうではない人の違いは何だろう。その違いが信用だ。

今後は人生の中で、仕事の延長で趣味になるのか、趣味の延長が仕事になるのか分からない人たちが増えていきそうだ。“増えていきそう”というのは、常識が変容するまでに一定期間(10年や20年という単位)を要することからだ。

その辺りについてはnoteで記事にしているので、お時間があればご覧いただきたい。

「普通」という異常|Ryosuke Endo|note

現在、「普通」だとか「常識」だとしている認識はメインストリームとなる年代が変わることで、簡単に変わるものだ。人の認識なんてものは時代によって変容すると誰もが知っているように、世間常識なんてものも変容することを前提にするべきだろう。

となれば、2018年時点でも、ぼくたちの親世代からすると「そんなのは仕事じゃない」*2と思われることが仕事として成立することを考えると、それがメインストリームになっていく可能性は否定できない。

ただ、急激に変わるには、技術的・時代的な前提条件が揃うことが必要になる。

それを考えると、急激にというよりも、今のようにポッと出てきた上で「なんかいいよね、この流れ」という雰囲気から徐々に醸成されていくのではないか。

そうなった時に、誰が求められるのかといえば、すでに一定数の人たちに対して実績を作っている「存在」にお金という名の信用が流れるのは必然だろう。

そうなった際に、あなたは信用を駆使することができるだろうかを考えるべきだ。お金というのはあくまでも信用を可視化するために便利な媒体・仲介でしかない。

相互に信用が高い状態を保てているのであれば、別にお金を介して売買を行う必要なんて全くない。

お金を使うというのは「=相手を完全には信用しきれていない」とも捉えることができる。

なぜなら、相手に完全に信用する価値があるのであれば、別にお金を介して取引を行わなくても良い。

 

本書は、信用を消費としてしまうのか、投資をするのかということを考えるのに打って付けの内容となっているため、ぜひ、手に取って読んでもらいたい。

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)

 

 

*1:財務諸表は、企業が利害関係者に対して一定期間の経営成績や財務状態等を明らかにするために複式簿記に基づき作成される書類である。日常用語としては、決算書と呼ばれている。 ウィキペディア

*2:そもそも仕事=苦役だと思っている世代には現在のサービス業の大半は納得できるものではないだろう

【落合陽一】『日本再興戦略』は日本について考える良い機会だ

「ポジションを取れ。批評家になるな。フェアに向き合え。手を動かせ。金を稼げ。画一的な基準を持つな。複雑なものや時間をかけないと成し得ないことに自分ありの価値を見出して愛でろ。あらゆることにトキメキながら、あらゆるものに絶望して期待せずに生きろ。明日と明後日で考える基準を変え続けろ。」

一つの人格に複数のポジションを持ち合わせた人物。

アーティストであり、研究者であり、経営者であり、学長補佐であり、准教授で、なおかつ夫であり、親である。それが落合陽一だ。

冒頭の引用は本書で紹介されている落合自身がTwitterで呟いた内容。

本書はそもそも日本がとる現在のポジションが適正ではないということの指摘から、日本が取るべきポジション・目指すべき姿についてを落合の視点から考察されている。

 

ぼくは彼を魔法の世紀という本を読んだ時からなんとなく追いかけていて、とにかくきれいな本だったのだが、当初Kindle版でのみ配信されていた*1が、ここまできれいにする必要があるのか、というぐらいにきれい。

魔法の世紀

魔法の世紀

 

脱線するが、これは宇野常寛 (@wakusei2nd)が編集を手がけたことによることからで、宇野の本に装丁に対するこだわりは、見事なものだと思っている。本に対する宇野のリスペクトが現れているといえるが、PLANETSが手がける他の本についても同様で、非常に装丁にこだわりがある。ぜひ、手に取って確かめてもらいたい。

 

話をもどして…

上記本以降、各種メディアに出てくる彼の発言を追ってみると、人・制度・仕組み・技術をワンセットで見ている姿勢からくる発言にsympathy(賛成や同意の意)を抱くようになった。

 

本書は多くの注釈が入れられており、語句に対しての定義づけや意味づけをきちんと行っている

非常に丁寧に作られており、人によって解釈が異なるものや、曖昧になってしまうものに対し、著者として立場を決めていることで、微妙な言葉尻や揚げ足を取った批判をねじ伏せる意図を感じる。

まるで論文を読んでいるかのような気持ちにもなるが、それは彼が常々いっているように、“考えをまとめ、発信する”上で適切なフォーマットが論文という形式であるということを体現しており、こちらに発信する姿勢を求められているような気もした。

発信を手がけるのであれば、自らの立場を踏まえ、裏付けはもちろんのこと、定義づけをきちんと行い、中途半端な揚げ足取りに屈することのない姿勢が健全な論議の場になるのだ、と落合は本書を読むすべての人に求めているのではないかと感じる。

 

そもそも日本のとるべきポジション、すなわち立場や姿勢として、西洋的な近代的個人を目指したことは日本にあっていなかったとしている。なぜか。

それは現状、日本の中では、個人から成り立つ国民国家という意識は醸成されておらず、むしろ孤独感が強調された結果であると落合はいう。

続けて、自然的な“誰が中心でないコミュニティ”こそ、日本が本来的に醸成してきた姿勢であり、目指すべきポジションであると結論づけている。

また、その中では階層性、つまりカースト*2は求めるべきだし、求められるべきだとも指摘しており、過去に日本の中でカーストが存在した事実を踏まえ、現代のコンピューター時代にも適応しうるとしている。そして、これを現在の職種や業態を当ててみると納得ができる。

大きく分類すると、士は政策決定者・産業創造者・官僚で、農は一般生産・一般業務従事者で、工がアーティストや専門家で、商が金融商品や会計を扱うビジネスパーソンです。

この後、詳細に見ていく流れになるのだが、ぼくが大切だと感じたのは、それら詳細を見てきた最後に書かれている次の部分だ。

ですから、士農工商の中で、「商」は一番序列が低いというのは正しいのです。現代風にいうと、職人の息子のほうが、金融畑のトレーダーよりも優遇されるということです。職人のほうが価値を生み出しているのですから、それは当時の政策としては理に適っているように見えます

これは現代において、メガバンクへの就職を希望する学生が多い事実と照らし合わせても納得できるものだ。(ただし、メガバンクのリストラ発表などを経て、19年卒予定の学生たちからは不評のようだ)

2019年卒学生の志望業界、「銀行」が4位にまで転落! メガバンクのリストラ発表が影響か | キャリコネニュース

日本の現状を支えているのは就業人口の多数を占めるサラリーマンだ。明治以降、日本が近代化を推し進める上で欧州や米国を参考に社会構築を図った結果、なぜかどの国にも存在しない職業「サラリーマン」が誕生した。

終身雇用や年功序列というHierarchie*3を強固なものとし、それを担保に住宅を30〜35年という長期ローンで購入させ、収入から強制的に社会保険料を徴収する国としては貴重な存在。

当初、国の政策を担う官僚エリートをサラリーマンと読んだとも考えられているが、それでいうと『士』、つまりクリエイティブな人たちを指す言葉だが、現代日本においてはホワイトカラーと呼ばれるバックオフィス、つまり「商」であり、一般事務などを指す言葉として定着している。

しかし、そんな「商」の人間がたくさんいたところで売るモノがなければ始まらない。仕組みやモノを生み出す存在である「士」や「工」がいなければモノが生まれないし、その先のマーケット(モノを売る場)も生まれようがない。

しかし、現代の日本においてモノづくりに対するリスペクトが低い、もしくはないことを落合は否定する。否定するというよりも、そういう状況になっていることを嘆く。

現在の仕事を回すための「商」であるホワイトカラーの仕事だけが多くなれば、創造性が欠如し、新しい仕組みや制度、モノといったイノベーティブな価値の高い仕事をできる人材がいなくなってしまう。

それは失われた20年とか30年といわれ、先進国でいることに違いはないが、経済の成長が鈍化し、その成長を全く実感できず、経済格差や少子高齢社会といったことが社会の課題ばかりが散見するような社会が醸成された。

正直、書いていてこれほど寂しいと思う事はない。

画一的な教育で横一列に並ぶことを良しとされ、他との違いが認められずに“同じであるべき”だという“正解”を提示された挙句に、大人になったら『なにができる?』『なにをしたい?』と聞く人たちに囲まれ夢もなく“仕事”という名の牢獄に囚われる。

人生という有限のものに対する向き合い方として、これは正しいのだろうか。有限だからこそ、人生においては仕事と生活のバランスを整えるワークライフバランスが叫ばれるが、落合はその考えに異を唱える。

そもそもワークライフバランス』とは、ワークとライフが対比される状況にあることを指し、それ自体に問題があるとし、そもそもワークとライフは切り離され、対比される対象なのではなく、人の有限的な時間の中では同一のものだ。

日本が再興するために今後、百姓を目指すべきだというのは本書内で一貫していわれることだが、その真意はここにある。

百姓とは100の生業を持ちうる職業のことです。

 これは本書の引用だが、士農工商でいう「農」は百姓を指し、多くの人は多能工*4な存在を目指すこと、つまり百姓を目指すべきだと説く。

西洋的な近代的現代人を目指した結果、教育では横一列での評価をされながらも超越した個人を目差さざるを得なかった日本人は一つのことを極めることで天職を得、定年という年齢による強制解雇を受け入れるまでを目指すことが(最低限の)成功だとされた。

しかし、皆が気づいているように、天職なんてものは存在しない。色々なことをあまねく関心を持ち、実際に取り組むことで繋がりを理解しながら対価を得ることを目指す『ワークアズライフ』の世界こそ、求めるべきなのではないか。

そこでは生きることで知識と経験を高め、個人としての価値を高めていくことが必然となり、ワーク(仕事)とライフ(生活)は切り離せなくなる。というよりも切り離して考えることなどできるはずがないのが現代であり、そもそも切り離すことが無理だということに気づくべきだった。

 

同時に、ワークアズライフの生活を送るために必要な能力として、落合は教育の中でポートフォリオマネジメントと金融的投資能力を挙げているが、ワークアズライフの世界では当然だといえ、不可欠だということは理解した上で納得できる。

そもそもこの二つは切っても切り離せない能力であり、“時代を読む”という点においては絶対的に不可欠な能力だ。

どちらも自らの保有する能力や資産について、テーブルの上に平らに並べた上で評価し、次にはどんな行動が必要で、そのための前提となる条件がなにかを考えなければならない。

だからこそ、落合はいう。現代の日本にある本当の格差は経済格差ではなく、モチベーション格差であると。これは一重に、自分のしたいことを見定められる人はそこに向けて自然とやり続けられるが、そうではない人にとっては酷な状態だ。

しかし、そうであるのかないのかを見定められるかどうかは、上記ポートフォリオマネジメントや金融適投資能力が必要で、だからこそ落合は大人であろうが、子どもであろうが全員をどうにかしたいと考えているし、ぼくたちもそう考えていいはずだ。

そんなことを考えられるようになっている事こそが、日本が先進国であることの利点であり、魅力だといえる。そんな、日本のよさに気づいていて、ぼくたちに気づかせてくれたのが落合だ。

 

ぼくにできることは、これまでの固まった思考を疑い、見つめ直し、はじめること。

「日本のためにできること」なんて大層なことはわからない。

 

だけど、ぼくがぼくのためにできること。

ぼくの属するコミュニティのためにできること。

それぞれに対してやりたいと思えることは確かにわかる。

 

本書は、そんなことを考えるきっかけを与えてくれる。

ぜひ手に取り読んだうえで、存分に感化されてみてはどうだろう。

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

日本再興戦略 (NewsPicks Book)

 

 

*1:現在では単行本も扱われている

*2:インドなどヒンドゥー社会の身分制度; 司祭, 王族・武士, 庶民, 隷民の四階級が基本

*3:ピラミッド型に上下に序列化された位階性の組織や秩序

*4:多様な方向に才能を持っている、もしくは多様な仕事をこなすことができること

【橘玲】金融リテラシーの重要性は『臆病者のための億万長者入門』を読むことで認識される

「愚か者の税金」という言葉を耳にしたことがある人はいるだろうか。これにピンときたあなたは経済学を学んだことのある人か、ファイナンシャルリテラシー*1が高い人かもしれない。もし、聞き覚えのない言葉だった人は注意が必要だ。

次の文章を読んでいただき、ここがどこなのかをあててみてもらえるだろうか。

“いま、あなたは行列のできているある店舗をたまたま見つめている。

その行列の先には『ここから出ました』という文字列が並び、行列をなす人たちの手には財布が握り締められている。

無表情ながらも、みなが奥底で「自分こそ」と意気込み、力んでいるかのような緊迫感が少し離れたこの場所からも感じ取ることができる。”

どうだろう。

もしかしたら、この行列に並んだことのある人も中にはいるのかもしれない。

 

そう、ここは宝くじ売り場だ。

そして、冒頭で記載した「愚か者の税金」とは、宝くじを買い求める人が日本宝くじ財団に支払うハズレ権の購入代金のことだ。(詳しい説明は後ほど)宝くじを買い求める人は「夢」を買うという言い方をするが、2017年末に発売されたジャンボ宝くじは、一等前後賞あわせて6億円という破格の当選金額であり、たしかに夢を買うという表現も心なしか的を得ているようにも感じる。

しかし、結論から言えば、宝くじが当たるのは「誰かではあるが、あなたではない」

その確率が自分になるかもしれない、ということを期待し、そこに金銭を投じることはハッキリ言って無駄になる、ということから「愚か者の税金」という言い方がされている。

理由は至極シンプルで、割が悪いのだ。

競馬や競艇、自転車など公営ギャンブルなどと比較して、当選の確率がどれぐらいなのかを比較してみると明らかになる。本書内の引用から宝くじがどれだけ射幸心を煽ることだけを目的に設定されているものなのかを説明する。

日本の交通事故死亡者数は年々減少して、2013年は4373人だった。これを人口比で見ると、1年間に交通事故で死亡するのは3万人に1人だ。

宝くじで1等が当たる確率は交通事故死の300分の1以下。ということは、宝くじを10万円分買って、ようやく1年以内に交通事故で死ぬ確率と同じになる。

それでは宝くじの手数料はどうなっているだろう。

100円の購入代金のうち平均していくらが賞金として払い戻されるかが宝くじの期待値(還元率)で、ジャンボ宝くじでは49.66円しかない。賞金分は半分だけで、残りの半分は販売経費を差し引いた上で地方自治体に分配される。

金融庁金融商品取引法(金商法)で、株式やファンドなどを販売する事業者に対して、顧客保護の原則に立って厳しい義務を課している。

金融商品を販売する際は、過度に射幸心を煽らず、顧客に正確な情報を提供し、冷静で客観的な判断ができるようにしなければならない。とりわけ投資のリスクを説明することと、顧客にとって不利な情報、すなわち金融商品のコストを明示することが強調されている。

宝くじの商品特性を金商法の理念に照らすと、券面にはリスクとコストを次のような文面ではっきりと書く必要がある。

「宝くじにの購入にはリスクがあります。1等の当選確率は1000万分の1で、宝くじを毎回3万円分、0歳から100年間購入したとしても、99.9%の購入者は生涯当せんすることはありません」

「宝くじには、購入代金に対して50%の手数料がかかります。宝くじの購入者は、平均して購入代金の半額を失うことになります」

ラスベガスのルーレットの期待値は95%、パチンコは97%、カジノで最も人気のあるバカラの期待値は99%だ。競馬などの公営競技でも期待値は75%ある。期待値が50%を下回る宝くじやサッカーくじは、世界でもっとも割の悪いギャンブルだ。

さて、改めて問おう。それでもあなたは宝くじを買うや否や。

引用部分にもあるように宝くじの期待値は半分であり、それ以外は販売経費を差し引いた上で、地方自治体に分配される、とある。

つまり、税金のように徴収された上で国民に再分配されるのだ。

「愚か者の税金」と呼ぶ理由は、消費税や所得税のように国民全員に課せられるものではなく、あくまでも購入した者だけに課せられることが理由であり、宝くじを買い求める行為は、不幸にも交通事故で死んでしまうよりも低い確率で割の悪いギャンブルに幸福を求めるということを指して「愚か者」とされている。

 

本書の中で一貫して述べているのはたった一つだ。“経済的に成功するためには経済的合理的でなければならない”ということであり、そのためにはお金にまつわるルール(会計知識や税法など)を把握すること、そして、実践することに他ならない。

宝くじであろうと、保険であろうと、自らの金銭を投げうち、その対価を得ようとするという意味では、それらに違いはない。(本書内では保険を「不幸の宝くじ」と呼んでいる)それを求めるのであれば、計算しなければならないし、できなければならない。

そして、それを計算する理由については、本書の「はじめに」に記載されいてる文章で、その解を得ることになる。

資産運用は金儲けの手段ではなく、人生における経済的リスクを管理するためにある

さて、本書のタイトルに「臆病者」と付いているのはなぜだろう。

ファイナンシャルリテラシーの高い人間は自分にとって利益が出る(儲かる可能性)話が出てきたときに何をするのかといえば、その利益に関わるコストについて考える。つまり、その儲け話を提供する側の人間がどのように考え、その仕組みを作り、どうも受けようとしているのかを考え、調べるのだ。この姿勢が「臆病者」ということになる。

逆にリテラシーの低い人間はどう行動するのか。宝くじを買う人間の行動を考えれば決して難しくない。簡単にいえば無謀なのだ。

「自分は特別であり、世界の中心。」

「自分の判断が間違っているわけがない。」

「今回は外してしまったが、次回は大丈夫。」

つまり、対戦相手のことを全く考えない。相手のことを調べようともしない。コストについて考えるなんて面倒なことはしたくない。学ぶことは時間の無駄であり、それをするぐらいならば他の儲け話を探し、そこへ私財を投じた方がいいと考え、一極集中的に資産を集中投下する。結果、リターンではなく、コストを引き上げることに繋がる。

未来は誰にも予測し得ないが、その予測し得ない状況の中で、世界の中心に自分がいると考えること(ファイナンシャルリテラシーを低く保つこと)は、自らの経済的なリスクを高めているだけに他ならない。

億万長者になることは、たやすいことではないかもしれない。しかし、手に入れることが出来るかどうかは、ファイナンシャルリテラシーを身につけられるかどうかであり、これは文字の読み書きと同様、後天的に誰もが身につけることが出来るものだ。

つまり、これを書いてるぼくにも、読んでいるあなたにも身につけられるものということだ。

臆病者のための億万長者入門 (文春新書)

臆病者のための億万長者入門 (文春新書)

 

 

*1:文章の読み書き能力ができることを指すことから

【橘玲】『80’s(エイティーズ) ある80年代の物語』は当事者性の重要さを認識できる稀有な自叙伝

橘玲にとって最初で最後になる自叙伝だ。 

他人の物語を追体験することは決して楽な作業ではない。なぜなら、自叙伝は本人の物語を追従したくなると感じなければ魅力が大幅に下落してしまうものだが、そこにこそ魅力がある。しかし、書く人間の能力によって抑揚がつきすぎてたり、逆に物足りなかったりすることでその魅力を引き出せるかどうかが大きく分かれる。

 

ぼくは1985年生まれのため、彼の半生を同時期に過ごせていたわけではない。が、本書内に登場する日本史的な事柄については、記憶にありながら読み聞きしたことで理解したことがあるのと、異国の物語ではなかったことが大きいのだと思うが、非常に当事者性を感じながら読むことができた。

ぼくが彼の作品を読んだのは、マネーロンダリング (幻冬舎文庫)がはじめだが、その内容に驚嘆したのは今でも鮮明に覚えている。というのもぼくは今でこそ本を読むことが大好きで積読書は常に数冊置いてあるような状態だが、元来、本を読むことは得意ではなかった。

そのことについては、自己紹介記事内にあるので、興味があれば読んでいただきたい。

dolog.hatenablog.com

しかし、興味本位ながら、ぼくは聞いたことのある言葉でマネーロンダリングという“辛辣な言葉”に好奇心を刺激されたことから手にとって読むことにした。彼の著作の特徴は常に一般的な尺度からすると“辛辣な言葉”を多用することが多い。

その理由は、本書内で彼の物語を追体験することで理解できる。物語である彼の大学在学中から2008年までに、多くの大人に囲まれ、廃れる様を見てきた。その人たちに届けるために辛辣な表現でなければならない。つまり、刺さらない。刺すべきなだからこそ、あえてそういう表現を選ぶべきなのだ。

 

中でもぼくが彼の物語の中におけるハイライトだと感じたのは、彼自身が物語における“80年代の終結”と位置付けているオウム真理教事件に当事者として関わっていたことだ。

唯一の取材可能なメディアとしてサティアンへの出入りすることが可能だったという立場と、大学時代の隣人が15年ぶりに再会したらテロリストになっていた、という当事者性だ。

正直、ぼくはオウム真理教について、何も知らない。

事件当時、小学校4年生だったぼくはTVから「サリン」という聞いたこともないクスリが入った袋をビニール傘で破り、電車内に充満させた結果『死傷者』が出たという報道を耳目にした。同時に、年齢を重ねるにつれ、ぼくの記憶には大して残らなくなっていった。

ぼくの住む地方都市(新潟)では東京で起こったテロ事件に対し、被害にあった家族も知り合いもいないのだから、当事者性を抱くことなどできない。ただ、TVからは定期的に重大事件として懐古されていたので、それとなく事件が補完されていくのを毎年実感するのみだ。

ある日、本当にある日、気になってWikipediaとか関連記事をネットで読み漁った時がある。それはどうしても腑に落ちなかったことがあるのが理由で、それはいわゆる“有名大学を出たエリートたちが、なぜ狂信的な集団に取り込まれていったのか”だ。

調べるだけであり、関連書籍を読むまでに至らなかったのは了見の狭さゆえだが、TVで言われることを補完する以上のことは、簡単に見つかることもなかった。それでも、補完されている情報に対してイレギュラーな情報に当たった時にはオウム真理教に対する認識がアップデートされていくような実感があった。

 

だが、当事者性は一切生まれて来なかった。真に迫る危機感にも似た「感情」が芽生えることはなかったわけだが、本書を読むことで気づいたことがある。それは当事者性をどうすれば持てるのかということだ。それは体験を追従することだ。体験をトレースし、自らへ反映させることで、当事者性を引き寄せることができる。

ぼくがどこでそれを感じたのかといえば、(長くなってしまうが...)下記の引用部分だ。オウム真理教が「カルト教団」だとか「怪しい新興宗教」だとか、ネットを見たところで出てくる文言は、否定的な意見や見方しか出てこなかった。

ぼくは別に肯定したいわけではない。ただ、否定も肯定もしない中立な見方が知りたかった。しかし、テロを犯した“おかしな集団としてのバイアス”を超えてくる人の文章に出会えなかっただけだが、ぼく自身もそこにたどり着くまでの根気を持つには至らなかった。

釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が悟りを開いたのは二五〇〇年ほど前のことだ。仏教ではユダヤ教キリスト教イスラームのような晴天を定めなかったために、構成の解釈によって仏典は膨大に膨れ上がっていく。そのなかでオリジナルに最も近いのは釈迦の言葉をパーリ語に翻訳したもので、上座部仏教小乗仏教)としてスリランカ屋台、ミャンマーなどに伝わった(南伝仏教)。それに対してサンスクリット語大乗仏教は、釈迦の入滅から五〜六百年後の紀元前後に成立し、三蔵法師などによって感じへと翻訳されたものが六世紀に日本に伝えられる(北伝仏教)。

ここまでは仏教史の常識だが、実は日本の仏教では、こうした歴史は見事に「隠蔽」されたきた。日蓮親鸞など大教団を創始した仏教者が学んだのは漢語の仏典だから、それとは異なる「ほんものの仏教」があるというのはきわめて都合が悪かったのだ。

しかし、サンスクリット語パーリ語に精通する宗教哲学者の中村元などが「原始仏教」を積極的に紹介するようになると、「ほんとうの釈迦の教え」を学びたいと考える者が現れる。こうした流れのなかで、中沢新一さんが大学院在学中にチベット密教を学ぶためにネパールに赴いたことはよく知られている。

オウム真理教に集まった「精神世界系」の若者たちも、パーリ語上座部仏教の経典を学び、密教の修行によって解脱と悟りに至ろうとした。そして彼らは“仏教理解の最先端”にいる覚醒者として、日本の「葬式仏教」を徹底的にバカにした。出家した僧侶が妻帯・肉食・飲酒し、寺を子供に世襲させるなどということは、小乗仏教はもちろん大乗仏教でもあり得ないのだから、日本の仏教そのものが「破戒」なのだ。

これはオウム真理教「仏教原理主義」で、釈迦の言葉を「ほんとう」とする限り、論理的には完全に正しい。オウム真理教に対し既存の仏教教団は「あんなものが仏教であるはずはない」と頑なに対話を拒んだが、その理由はパーリ語上座部仏教もまったく知らないからで、「原理主義的に正しい仏教」と比較されることを恐れたのだ。

この文章群は、当事者性を持つ人間であるから感じ得る部分と客観的な視点を持つメディアとしての立場を踏まえた人間だから見える視点から書かれている冷静な分析だ。この視点を持つ人だからこそ他の著書を読んでいても、同じような内容を書かれていたとしても新鮮な気持ちで改めて受け止めることができるのだと実感した。

繰り返すが、自叙伝という類は当人の物語に没入できるのかが凄くむずかしいジャンルであり、だからこそ、著者の当事者性をいかに読者に担わせるのかが重要だ。ましてや、ぼくのような当時を丸ごとシンクロできていない世代の琴線に触れるかどうかは、当事者意識を植えつけられるか否かに大きく左右される。

その点、牧歌的な雰囲気を醸し出していながら、鋭い論理性を持った文章で客観的な視点から物語を追随しようと思える所に、喫茶店の情景を思い起こさせる優れた情景描写。

彼が優秀な編集者であったということと、優秀な物書きであるということがギュッと詰まった集大成的な一冊だと断言でき、読み応えがある中で、すっきりと読み終えられる。しかし、もっと浸っていたいと思える。そんな本だった。

彼の著書を読んだことがない人でもすんなりと読めるだろうし、読んだことがあるのであれば、これまで彼が書いた書籍における謎が解ける場面が多々出てくるので、そういう面でも楽しめる本だ。

ぜひ、手にとって読んでもらいたいと思う。

80's エイティーズ ある80年代の物語

80's エイティーズ ある80年代の物語

 

dolog.hatenablog.com

 

 

【藤沢数希】「反原発」の不都合な真実を読み、よく考えてみよう原発のこと

 

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

 

 「感情論だけの否定はやめにしていきたい」というのが2011年以降、日本の中で活発になっている原子力発電に関する即廃止論を見てきて思う正直な気持ちだ。

それを2011年の段階で警鐘を鳴らしていた書籍を紹介したいと思う。

まず、著者である藤沢数希をご存知ない方のために表紙裏の著者紹介を引用しよう。

欧米研究機関にて、計算科学、理論物理学の分野で博士号取得。その後、外資投資銀行で市場予測、リスク管理、経済分析に従事しながら、言論サイト「アゴラ」に定期寄稿する。著書に『なぜ投資のプロはサルに負けるのか?― あるいは、お金持ちになれるたったひとつのクールなやり方』『日本人がグローバル資本主義を生き抜くための経済学入門

ちなみに、先日、TVドラマとしても制作・放送された『ぼくは愛を証明しようと思う。 (幻冬舎単行本)』の原作者でもある。

 

本書は3.11以降で蔓延した原発を絶対悪と決めつけ、その廃絶こそが『正義』だと決めつけた論調を行うマスコミや我々のような市井の市民に向けた『反原発』に対する一石を投じようとする内容である。

ネット界隈では『放射脳』と呼ばれる反原発を称し、過激な発言や行動を繰り返す人たちを揶揄したり*1、一般の人たちに対しては放射線恐怖症が当てはまるとされる言葉がある。 

ネットの普及により、市井の人たちもあらゆる知識を身に付けることができるようになった。そのおかげなのか、せいなのかは分からないが、振り回される人たちも増えたといえる。

 反原発と“単純に否定する人”は、技術的な話、つまり身近ではない難しい話、もしくはリスクがひたすらに強調されてきた途端に語気を強め、その技術自体を否定し始める。これは原発に限らず、他の要因に対しても似たような態度をとることがあるだろう。

(貯金vs投資などは分かりやすいかもしれない)

 

そんな“考えたり、調べたりするのが面倒”な人に対し、数字と事実と論理を持って「反原発の風潮」に対して一石を投じるのが本書の目的だ。

 

上でも述べたが、自分がわからない分野、領域は危ないという認識を改めるには、自らの知識階層を増やしていく他に対処方法はない。その知識階層の増やし方は、伝聞や読書、など収集の方法は多岐にわたるため、方法については各人のやりやすい方法で、時間を作ってやっていってもらいたい。

しかし、それを怠ってしまった時、つまり「考える」のではなく「信じる」ことに身を任せた瞬間から感情に支配されていく

「信じる」ことに舵を切ってしまうと裏切られた(信じていたこととは違うことが起きた)場合、感情が高まり、冷静な判断や物言いができなくなる。「考える」ことは客観的な評価はもちろんだが、常に何が起こっているのかを把握することに努める必要性があるため、対象から必然的に距離をとることになる。

つまり「信じる」という行為は「考える」ことと全く真逆の概念ということになる。思考することをやめる行為が信じるということであり、信じることを始めた瞬間から考えることをやめたということだ。だから「裏切られた」という感情が浮かび上がってくる。

だからこそ、何か問題や課題が眼前に広がっているのであれば、考えなければならないし、考え続けなければならない。誰かが言ったことを参考にするのはまだしも、妄信的になってはいけないのだ。信じると決めた瞬間から、思考が停止してしまうから。

だから、原子力発電が危ないのか危なくないのか、という点についても、客観性を持って「判断」しなければならないはず。それがいつの間にか、絶対的に悪と決めつけ、破棄することが正義であるかのような態度を振るう人たちも出てきた。

では、原子力発電においては、何が危険なのかを説明できる必要があり、その危険性がどのぐらいの確率で発生しうるのか、どのぐらいの規模で被害が出ているのか、と言ったことを客観的な数値や実情を持って説明できることが原子力を破棄するという意見を表明する上での前提条件だ。

これは子どもを持つ親になって、僕は初めて痛感していることでもある。4歳になった長男と2歳になる次男。彼らに対して説明するとしたら、どう説明するだろう。いや、どう説明しなければならないのだろうと考えたときに思い浮かぶのは、あくまでも中立的に客観的に上記の事柄を丁寧に説明したい、というのが僕の気持ちであり、正しい物の見方であろうと考える。

 

ここで問いたい。例えば、チェルノブイリ原発事故に対する見解はいかがだろう。

1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発事故は、僕は生まれて1年ほどしか経っていない時期でもあり、記憶にはない。しかし、事あるごとにメディアでも取り上げられていたし、どんな事故だったのかというリアルタイムでの進行具合はわからないが、検証記事等の活字を目にする機会を2011年以降は増やすようにした。

もし、これを読んでくださっているあなたの認識が「多くの人が放射性物質の摂取により亡くなり、いまだに近隣の放射線被曝量が多く、とても人の住める地域ではなくなってしまった」と考えている人があれば、それはメディアのセンセーショナルな報道に踊らされているだけなのかもしれない。

もちろん、無害であったとは言えない。本書が刊行された2011年までに甲状腺癌の患者が4,000人ほど見つかっており、それまでに15人ほどが死亡してしまっていたとある。また、事故の緊急作業に従事し、急性放射線症やその後の癌などで50人ほどが死亡してしまっている、とあるが、それ以外の放射線による健康被害は確認されていない。

むしろ、放射線の影響を厳しく管理しすぎた結果、強制移住などによる精神的な健康被害が多かったという事を国連科学委員会がレポートで述べている、ともあり、これらの科学的な見地から藤澤は経済的な復興に力を入れるべきだ、としている。

 チェルノブイリ原発事故の健康被害は、いっぺんに被曝するような原爆のデータをもとに当初考えていたよりも、はるかに軽微だったようです。よって、放射能の恐怖を煽ったり、避難生活を無理強いするよりも、なるべくコミュニティを維持させ、経済的な復興に力を入れるべきだというのが、長年の研究結果から示唆されます。

また、一般的に人は死亡する際、軽微の癌を抱えていることはそれなりに周知されていることだが、それにも触れながらチェルノブイリ原発事故以後の甲状腺癌の増加についての研究結果を紹介するとともに、事故発生後の対応の遅さを指摘するとともに、放射能を正しく恐れることが必要だとする。

一般的に、死亡した人を解剖すると、実際には考えられていたよりも多くの人から甲状腺癌が見つかることから(軽度の癌は生涯見つからずにそのまま放置される)、チェルノブイリ原発事故により甲状腺癌が増えたのは、入念な検診プロジェクトによって報告が増え、見かけ上増えただけだという研究結果もあります。しかし、チェルノブイリ原発事故では、すぐには住民は避難させられず、高濃度の放射性ヨウ素を含む食べ物が周辺住民に流通したこと、また放射性ヨウ素は成長期の子供の甲状腺に溜まることが生理学的にも明らかなことなどから考えて、多少は報告が増えたことによるバイアスもあるかと思いますが、やはり健康被害を及ぼしたと考えるべきでしょう。

 甲状腺癌は稀な癌で、通常1年の間に100万人に数人程度の発生頻度です。これが放射性ヨウ素の汚染により10万人に数人程度まで増えたのです。放射能による健康被害が科学的に証明されたのです。しかし、依然として、高濃度に放射能汚染されたミルクなどを摂取しても99.9%以上の人に何の被害もなかったことも、放射能を正しく恐れるために理解しておく必要があるでしょう。極めて頻度の低い癌の発生確率が、数倍から数十倍に上がったのは事実ですが、それでも癌の発生確率そのものは依然として非常に低いままなのです。

数十倍や数百倍になった、ということがメディアではセンセーショナルな報道のされ方をするため、目や耳につきやすいことは認めるが、相対的なものであることを認識する必要があるということと、その裏付けを探す、ということを報道を受け取る側は身につける必要があるだろう。

そして、過去の歴史(チェルノブイリ原発事故)から学び、福島で起こった原発事故での対応はどうなったのかを冷静に見る必要があるということも合わせて考える必要がある。

日本の中でも非常にセンセーショナルな事故であったことは否定しない。だが、無知であるがゆえにひたすらに怖がることは、正しい態度ではないのではないか。

本エントリを読み、原発事故について少し思索を巡らせてみたいと思った方は是非、本書を手に取り読んで見ることをオススメする。

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

  

*1:全ての反原発派や放射能ノイローゼを指す言葉ではない

【大塚明夫】『声優魂』は崇高なプライドと不退転の覚悟をした人間の本音

役者ではなく、一人の戦士が書いている

声優魂 (星海社新書)

声優魂 (星海社新書)

 

 

ソリッド・スネークアナベル・ガトー、バトー、ライダー...

 これらのキャラクターは日本のゲーム史、アニメ史に残る作品のキャラクターたちであると同時にボクの好きなキャラクターたちでもある。本エントリーをお読みいただいている方々は、それを演じている人物の名をご存知だろうか。

 「知らない」という人でも、その声は聞いたことがあるはず。声優であり、役者である(本来的には逆であることは存じ上げている)大塚明夫だ。

 本書は、大塚明夫がいくら努力をしようが報われない役者の世界で、実感として得ていることをそのまま素直に書き連ねていると同時に、そんな世界で“仕事”を得ている人間としての心構え/ 態度を伝える内容だ。

 その声を聞いたことがある人ならば共感してもらえると思うが、大塚の声は(いい意味での)鈍重さを持ち、腹に強く響いてくる。また、少し不器用ながらも真っ直ぐで男くさい人物を演じさせると無二の存在であるとも個人的には感じている。

 自己啓発本とかそんなものではなく、一人の男が演劇界という特異な世界で無二の存在になり得ることができた戦士が書いた声優/ 俳優論であり、人生論であり、生存戦略論だ。そして、本書を読むことで彼の声を追いかけるようになるかもしれない。そんな魅力に溢れた読み物であった。

 

「声優だけはやめておけ」から始まる

冒頭、大塚明夫が書く一言だ。

 これは、俳優という仕事が他の業種・職種に当てはまらない、特異な仕事であると共に、そのイスをかけてベテラン・新人関係なく血みどろのレースが繰り広げられていること、“一般の生活”を望む人間がおいそれを追いかけて良い世界ではないから、というのが理由なのだが、業界的にはトップランナーである大塚が夢を語るのではなく、現実を語る点に本書の価値がある。

 夢なんてものは見ているだけで十分であり、それを追いかけるものではない、ということを業界で成功している人間が語るのは、捉え方によってはライバルを減らしたいとも受け取れるが、逆に優しさを感じる。

 本書内、特に冒頭から声優を志望する人への“逆すすめ”は多く登場するが、それは目次を見れば一目瞭然なので、それをご覧いただきたい。なお、引用部分は各章のみにしておく。目次を全て引用することが主題ではない。

第一章 「声優になりたい」奴はバカである
第二章 「演じ続ける」しか私に生きる道はなかった
第三章 「声づくり」なんかに励むボンクラどもへ
第四章 「惚れられる役者」だけが知っている世界
第五章 「ゴール」よりも先に君が知るべきもの

 声優という「職業」というよりも「スキル」を発揮するために辛酸を嘗めてきたのか、といえば、大塚本人は「運が良かった」とし、大して苦ではなかったと述べている。しかし、ここは勘違いすべきではなく、あくまでも大塚の場合は基準が総じて高かった、ということだ。

彼は俳優であり声優の大塚周夫の息子であり、演劇界に住まう家族がどう生活しているのかを身を以て体験している。その上、自身はそこから外れようと考え、全く別の道を歩んだことが本書内では記述されている。

つまり、父親の背中を追って、憧れと羨望を抱き、希望に満ちた心で演劇の世界に足を踏み入れたわけではない、ということだ。ここが大塚明夫の魅力でもあるとボクは思っていて、それでも彼は声の仕事をしているし、その演技で(少なくともボクに)感動を与えてくれる。

 

人的資本を高めることと、つながりを維持すること

 彼が本書内で一貫して述べているのは「とにかく声優なんてろくな仕事じゃない。真人間の選ぶ職種でもない。社会の歯車から外れたような人間でなければできない。」と、一貫して声優を志そうとする人間の気持ちを挫こうとする。その畳み掛け方から、おそらく本気であろうことが読者にも伝わってくる。

しかし、その中ではもちろん、声優をやってきた中で、大塚自身が「よかった」と思えること、仕事をする中で声をあてたキャラクターたちや、その生みの親である脚本家やプロデューサーたちとの出会いについて触れており、強く感謝しているとともに、誇りに思っていることもつづっている。

上下動が激しく、思いっきり下げた後に引き上げるような内容のため、こちら側も大きく揺さぶられる。だからこそ、読み飽きることなく、グイグイと大塚の綴る言葉に引き寄せられ、一気に読了までいけてしまう。

その中で、大塚は常に自分を磨くこと、つまり人的資本を高めることの必要性は説いている。声優は自らが仕事を生み出すことのできない職種であるがため、「声をかけてもらう」ことが必須となる。そのため、常に準備をしていることが求められるというよりも必然だというわけだ。

ただ、専門的人的資本でいえば、声の幅や音域、声のあて方やほかのキャラクターとの間合いなどがあるが、それらを行うことは「仕事を行う以上当然」だとしている。それ以上に大塚が重要視しているのは、見識や見聞を広め、人とつながりをつくり維持することが声優に足りていない部分であり、それをすることが声優の専門性を高めるという趣旨で述べている。

これは声優に限らず、一般的なビジネスマンにも言えることだ。

サラリーマンではなくビジネスマンであろうとするならば、自らの人的資本を「一般的」「専門的」それぞれの分野で高める必要があるだろうし、それが結果的に年功序列型の「雇われ」ではなく、「労使関係の対等性」を生みだす。

声優界というのは、個人事業主として自らの人的資本をもって商取引を行うが、近い将来、世の中のビジネスマンにとっても個人事業主として活動、もしくはそれに近い形で働くことが求められるのではないか。

本書内で大塚も希望的な意見として述べているのが、ハリウッド映画のようにプロジェクト単位で専門家が集まり、プロジェクトが終われば解散するという技能をつなぎ合わせて作品を創作するのみという仕事のあり方を提唱している。

現状、雇用主と被雇用者との関係も終身雇用・年功序列型雇用制度の破綻は目に見えて起こっていることだ。労働人口の中で若年層が多いことで成立していた制度であり、現在の日本をみれば年金問題のように破綻していることはわかりきっている。

つまり、近い将来、人の働き方が雇用主・被雇用者との相互依存的な関係ではなく、仕事のみという緩い繋がりの元に技能・スキルを持ち寄り、仕事を行うことが広がっていくのではないか。

それは今後、徐々に人の仕事がAIや機械に代替されていく中で、人の趣味や娯楽が仕事として重宝される時代が訪れるだろう。結果的に残るのはクリエイティブクラスといわれる仕事ができる人であり、人の余暇時間を埋めることに自らの(好きなことが前提だが)技能やスキルをもって、創作活動を行い貢献するひとたちだろう。

そうなったときに、先駆けてそうなりえる可能性があるのは、余暇時間を過ごす上での有益なツールとなる映画やアニメ、スポーツや演劇、音楽など創造性を存分に発揮した上で、人の情動に訴えかけることができる人たちの働き方(仕事の仕方といったほうが適切か)が変わっていくことになる。

 アニメが好きな人向け、声優を目指す人向けでもあるが、きっとビジネスに真剣に向き合っている人にも響くないようであることは間違いないだろう。

 

声優魂 (星海社新書)

声優魂 (星海社新書)

 


アナベル・ガトーの最期


Fate/Zero 11 聖杯問答 段落