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dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

ドイツはライプツィヒからの帰国 その6

本日から少しだけ内容について触れてみたいと思います。

明らかにポイントが多すぎて少数に絞る事は難しいのですが…

けど、何とか言語表現してみたいと思います。



では、まず、このシリーズの中で一番初めのブログの中で紹介したDr.Minowの言葉からご紹介させていただきたいと思います。

皆さんはスポーツパフォーマンスというものをどのように規定しますか?

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100mを9.8sec(秒)で走ること

走り幅跳びで7.80cm跳ぶこと

サッカーの試合を1:0で勝利すること、などなど



様々な事が浮かんでくると思います。

しかし、これらは結果でしかない、とミノウ博士は述べます。

この結果に至った過程を知る必要があると共に、自分の中で基準を設ける必要があるとも言います。

では、例えば、世界記録を基準にした際にこれらの結果がいいのか悪いのか判断するとします。果たしてそれは包括的に見た事になるでしょうか。

体調、天候、ライバル選手、トレーニングの過程、etc…

包括的に見ると言う事は、以上のような各条件を踏まえた上で、上の結果が良かったのかどうかを判断する必要があることを意味します。



走り幅跳びで考察するならば…

その日、その選手は体調を崩しており、体温が39°(平均36.4°)まで上がり、天候は雨、滑り易いサーフェス状態でした。そして、試技の最後で出た記録は踏切板の15cm手前で踏み切ってしまったとします。果たして、このパフォーマンスは低いと言えるでしょうか。



この様に、“結果”という一面的な事象だけを見ても選手のパフォーマンスというのは分かりませんし、それだけで判断出来ることなどありません。また、それを細かく分析する事は、質の高いトレーニングを重ねる事に繋がり、結果的にスポーツパフォーマンスを高める事に繋がります。

なぜか。

例えば「○○能力」という言葉があります。

「ちから」や「持久」という部分で我々は多くの使い方をします。

持久能力に関して言えば、全身持久力や局所的な筋持久力という言い方もあり、はたまたその中でも有酸素静持久や無酸素静持久という能力も存在し、現実として我々は使用しています。



では、この○○能力というものは『からだの中の何処に存在する』のでしょうか。

身体解剖をして、身体を開いて言ってみましょう。

まずは皮膚を切ります。

筋肉が見えてきました。

筋肉を開いてみると、筋原線維というもっと小さなタンパク質の集まりが見えてきます。

それも切ってみました。

すると何がみえるのか。

期待に胸を躍らせます。



しかし、『持久という器官』は何処にもありません。

そう、○○能力というのはからだの中に存在しないのです。

なぜかと言うと、○○能力というのは造語だからで、特にトレーニングを指導しなければならない人間達の都合によって作り出された造語で、トレーニングを円滑に進める為の“言葉”でしかないとDr.Minowは述べました。



続けて、その○○能力が人によって言葉を変えるのは健全だと言います。というのは、各人がより良い状況を作り出そうとしているのであって、誰も悪意があるわけでは無いからだと。



この事から言えるのは、研究=全て競技結果に当てはまるか、という問題です。

これまで述べてきた事から考察すると、答えはNoです。

しかし、パフォーマンスの前提条件(ちから、持久、コオーディネーション能力、など)を多く把握しておくと言う事が質の高いトレーニングを構築する為に必要だと言えるため、研究を続けていく必要があると言えます。

特にコオーディネーショントレーニングの発祥地であるドイツはライプツィヒに根源があり、そのコオーディネーションという考えが何故生まれたのか、というのは「動作の器用性」というところがスタートとなり、継承発展してきたものです。



少し小難しい話になりましたが、この考えを基盤にしながら、旧東ドイツはライプツィヒにおいて50年以上もの年月をスポーツ科学に注いできた事を考えると、日本のスポーツとの差はあって然るべしだと思ってしまいます。

しかし、僕達に出来る事は、それらを知り、踏まえた上でどのように行動を起こしていくか、これからの世代に何を残していけるか、という事が重要だと思うのです。



さて、次回は、この考え方からどのような考察が生まれたのか、という事をご紹介します。