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ドイツはライプツィヒからの帰国 その7

前回のブログでは「スポーツパフォーマンスとは何か」というところを触れました。



今回から講座の内容について簡単に触れながらご紹介したいと思います。



ライプツィヒ学派としては“結果に至った過程までも包括的に見る必要がある”という考えだと僕は述べました。

それは、100年前と現在の比較が成り立つのか、という事も含まれます。

100年前と現在では社会的な状況が大きく異なる事から、その比較が成り立たないと共に、選手を取り巻く状況がその比較を難しくします。



例えば、宗教的な問題で女性のスポーツ参加が認められない国の選手とそうでない選手のスポーツパフォーマンスは比較すらも成り立ちません。

これは大げさな例として挙げましたが、それだけ、スポーツパフォーマンスというのは儚いものの上に成り立つものであり、いい悪いという判断をつけるのが難しいものでもあります。



だからこそ、スポーツの研究のすべては競技結果の向上のために行われるもので、「○○能力」という(小さな)言葉の数が増える事は前回も触れましたが、健全であると言えるのです。

そして、研究をして何をするのかと言えば、(随分と簡単な言い回しになってしまう事を恐れずに述べますと)現在、その競技のパフォーマンスがどのような規定因子から成り立っているのかの把握、そこからトップレベルとの差異を調べ、それをトレーニングの中に落とし込んでいく、という一連の流れの精度を高くする為に必要になるのです。



そうして研究を重ねる中から、(特に球技系競技において)選手の中に「器用」な選手や「巧みな」選手がいる事に気づき、そこからDr.Meinel(マイネル博士)の「運動学」が生まれ、「コオーディネーション」へと継承発達していく事となります。(当時、東ドイツにおいてもコンディショニング(ちから、持久などエネルギー系)トレーニングが主流であったものの、マイネル博士がそれだけでは無いだろうと言う判断の基、上記した「器用性」と「巧みさ」を提唱しました。)



この事から、昨今、スポーツの世界で言われるコオーディネーションというのはドイツが発祥の地だと言え、その旧東ドイツの中心だったのがライプツィヒ学派(当時はDHfK:デー・ハー・エフ・カー)だと言えます。

そして、重要な点なのですが、あくまでもコオーディネーションというのは、前回のブログ記事でも触れましたが、作り出された造語である「能力」を使用する、つまり仮定された能力です。

ちから性能力(日本で言えば筋力)、持久性能力、という能力と同等に語られるものであり、それは“いくつになっても向上させることが出来る”ものだからです。

この様にパフォーマンスを規定する能力、つまり、パフォーマンスの前提となるものという意味から、ライプツィヒ学派は「運動パフォーマンスの前提条件」と言います。



次の点が大変重要なポイントなのですが、子供の時期に発達しやすい時期があり(ハルトマン博士の言い方を借りれば“感受期”)、その時期に行った選手と行われてこなかった選手との間には、将来的なパフォーマンスの中で差が生じる事に繋がります。



恒常的にいくつになってもトレーニングされるものであり、年齢が高まるに連れて一般的、専門的の割合に変化が生じさせるだけで、“子供の時期だけに重要”なトレーニングでは無い、という事です。

日本の中で勘違いされつつある部分なのですが、“子供の時期だけ”、“遊びを通じて行う”、”ドリル形式”などという言葉で扱われる事は、以上のことを踏まえると、ライプツィヒ学派の認識と大きく異なると言わざるを得ません。



次回は、コオーディネーションについてもう少し触れたいと思います。



トレーニング科学国際集中講座 in Lepzig 基礎資料中

(編集:ライプツィヒ大学スポーツ学部/一般動作学・トレーニング学研究室

翻訳:高橋日出二(ライプツィヒスポーツ科学交流協会))より抜粋・引用