【木村草太】法律に壁を感じてる人は『キヨミズ准教授の法学入門』を読むといい
ボクは道徳教育よりも法学教育派だ
結論から述べてしまおう、正直にいって、ボクはこの本を読むまで法学というものに対して興味もなかったし、あまり自分にとって関係のない分野だと思っていた。
そう、完全に思っていたのだが、なぜにこの本を手に取ったのかといえば、ただのミーハー心でしかない。著者である木村草太氏をWeb上で見かけ、文章を読み、twitterで追っかけて見ていた、というのが大きな理由である。
まず、本書の裏表紙に書かれている著者紹介が、ちょっと特別な感情を抱いてしまう文章であることをお伝えしたい。本の裏表紙というスペースに対し、著者の不思議な体験談を交え、若干の怠け者感を漂わせながら、最終的には「あなたがいなければ...」という称賛対象にされてしまうという流れにボクはストンとハマったのだ。
1980年横浜市生まれ。中学2年時に日本国憲法を読んで不思議な開放感を覚え、法律家を目指す。東京大学法学部進学後、司法試験勉強に身が入らない中、長谷部恭男『比較不能な価値の迷路』に出会い、「これだ!」と感じて憲法学者を志すことに。同大学法学政治学研究助手となり、平等・被差別原則を表する。首都大学東京では、「高度な内容を分かりやすく」を信条に、憲法や情報法の授業を担当。法科大学院の講義をまとめた『憲法の急所』(羽鳥書店)は「東京大生協で最も売れている本」「全法科大学院生必読の書」と話題に。新しいスタンダードとなる憲法体型書の執筆を目標とする。ツイッター @SotaKimura
法学初心者向けの書籍である
本書は、法律というものが全くわからない、むしろ小難しい領域であり、勉強するには敷居が高いと思っている主人公、高校2年生のキタムラくんの視点から、清水准教授との出会いを経て、関係を深くしていくとともに、法律について段階的に、わかりやすく生活の中に落とし込んで行ってくれる。
まず、主人公の設定が高校2年生ながらも、ボクにぴったりと合致した。というか、ボク以外にもそう感じている人は少ないのではないだろうか。
『法律』という言葉自体に高圧的な態度を感じ取ってしまっていたボクは、可能な限り避けてきた、というのが正直な気持ちだ。法律というのは、基本的に人を縛るものであり、そこから逸脱する人間を、圧倒的な権力を持って断罪する、とでも言えばいいだろうか。
とにかく、“怖いもの”であったことは間違いない。しかし、この“怖いもの”というのも、結局は知らないから、という一つの過程での努力(関心)不足に 帰結する。
これは他のことにも言えることで、例えば、投資や金融というものに対して興味関心を特に持てなかった人は、怖いだろう。それは、リスク面ばかり先行して頭の中に入ってくることで、『投資=悪、危ないもの』(とまでは言わなくともそれに近いところまで)という所まで思考が至ってしまうのではないか。
しかし、物事は一面的なものではなく、常にコインの裏表で、逆の立場というものがある。
投資というのは、金融資産の運用方法の一つであり、リスクをとってリターンを受け取るものだ。その逆というのは、リスクを取らずに貯蓄、つまり金融機関に資産を預け、少ないリターンをちょぼちょぼと受け取っていくことだ。
今回のエントリは金融本の話ではないのでここまでにするが、無関心でいたことの帰結が怖いというイメージを持つことにつながっていることを考えると、知ることでその怖さは全く持って消失してしまうことになる。
そして、ボクが本書を読んで感じた本書の目的は『法律という言葉の重たい壁』を取り払うことと、『一面的なものの見方ではなく、権利を主張する双方の意見の落とし所を決めることの大切さ』を説くことだ。
ボクが道徳教育よりも法科教育だと考えるに至った本は本書
以前の書評エントリ『保育園義務教育化』 でも記載したのだが、ボクは道徳教育よりも法科教育を義務教育過程の中に組み込むべきだと考えている。
文部科学省のWebサイトを訪れ『道徳教育について』ページを見ると、位置付けとして以下のように記載されている。
道徳教育は,児童生徒が人間としての在り方を自覚し,人生をよりよく生きるために,その基盤となる道徳性を育成しようとするものです。
『人間としてのあり方を自覚し』という文言が、なんともいえない高貴な感じを受けてしまうのだが、それは別に良いとして...
以前のエントリで書いているので、繰り返しになるのだが、道徳教育は個人の思想信条に近しいものがあり、それを他人にまで強制しかねないというところに、ボクは欠点があると思っている。
例えば、人に対して優しくする、という行動を自らがしたいのであれば、それは問題ない。しかし、それを他人にまで求めることは果たして“良いこと”として捉えていいのか。
自らがしたいことと、相手にして欲しいことは全くもって別問題だ。一緒くたに考えて良いものではないし、すべきでもない。これはつまり、道徳教育を行う教員側にとっての大問題ともいえる。
道徳教育の場を振り返ってもらいたいのだが、どうしても耳障りのいい、気分が、こう、なんというか穏やかになるような“答え”を出したくなる。
教員の顔を伺った回答を学生がする、ということは存分にあることであり、模範的な回答をしていたやつが、裏ではさっきの回答とは全くもって逆の行動をとっている、なんて光景を見たことがあるのはボクだけではないはずだ。
つまり、小学生であれ、中学生であれ、教員の顔を伺った、もしくは同級生の顔を伺った上での忖度回答が出てしまうのが道徳教育ともいえる。
以下のリンク先は、小学校道徳教育で使用される読み物の資料集がある。
ぜひ、時間が許せば、一つでも二つでも構わないので読んでもらいたい。読んでもらえるとわかるが、これを読んだ後に、否定的な意見をいうことは難しいし、それを言おうものならば爪弾きにされてもおかしくないのではないか。
ボクがいいたいのは、道徳教育を否定することではなく、不足している、と述べたい。道徳心というのは社会性を保つ上では不可欠なものであると認識している。しかし、それだけでは足りないのだとボクはいいたい。
基本的に、その道徳心を持っている人間だけがいればいいのかもしれないが、それは理想論。逆を言えば理想論でしかない。
Aという主張をしたい人間もいれば、Bという行動をしたい、という人間もいる。しかし、はたから見たらCという文章を書いている人もいるし、Dというサービスを立ち上げている人もいる。
もっといってしまえば、宗教的な思想の違いは、どうやっても道徳的な考え方での理解の範疇を超えている。もし、どちらかの宗教を信条としている側に不利な状況が生まれたとしたら、道徳はどうやって解決まで導くのか。
「優しくする」とか「相手を思いやる」では解決できないのだ。
色々な価値観を持っている人たちが存在するが、共同空間の中で一緒に生活することになった場合に、どこで折り合いをつけるのか、どう解決するのかということを考えるのが法学であり、憲法理解だ。
我々は現在、というかこれまでの歴史を振り返っても、他者との共存を断絶した生き方はできていない。つまり、他者との共存が基盤・前提になっているのが近代社会であり、ボクたちが生きる世界だ。
その中で、ボクたちは自分と相手の価値観、権利を踏まえた上で共存していかなければならない。これは親子関係であれ、他人であれ、関係ない。誰にとっても存在しうるのが権利だ。
というわけではボクは上で述べてきたように、法学教育を是非とも義務教育課程に組み込んで欲しいと考えているのだが、来年度より道徳教育が特別の教科化されるので、まだまだ叶わないことになるが、せめて自分の子どもには伝えていきたいと考えている次第だ。
少しでも法学について、せめて入り口に立って見たいと考えたことがある人にはオススメだ。