声の小さな人間の戯言
今回は、日本におけるコオーディネーショントレーニングの日本の中での現状についての個人的な印象を述べます。
まず、簡単に言ってしまえば、日本におけるコーディネーション( coordination )トレーニングと、旧東ドイツ発祥のコオーディネーション( ko-ordination )トレーニングというのは、“似て非なるもの”だというのが僕の意見です。
日本の中で言われるコオーディネーショントレーニングが、子供の時期“だけ”が取りざたされる事と、スポーツパフォーマンスの前提条件の一つである、という考え方を抜きだしてみても、その差が一目瞭然です。
というのも、スポーツ技術的な発展を希望する場合に、一過性の練習やトレーニングをした所で、大きな発展には繋がらない事は誰しも知り得ている事と思いますが、それは「子供の時期だけ」ということでも一緒であり、競技人生を通して行われるべきものであるにもかかわらず、そこが抜け落ちている事が大きな差になっているように思うのです。
その差はどこにあるのか、という点を考えると、日独のスポーツシステムや、その中で(恐れながら僕を含めた)実質的な指導をする人間の差という所に起因するのではないでしょうか。
まず、スポーツシステムという枠組みの中で言えば、『コオーディネーショントレーニング』という一つの手段が根本的に組み込まれている、という事です。言い方を変えれば、それをする事が「当然」なのか、そうでないのか、という所。
ドイツのライプツィヒ大学にて博士号を取得された泉原さんが述べていたのが、
「ドイツでは各地方々から独自のコオーディネーションの考えが生まれているけど、日本ではまだ“コオーディネーションとは…”という所から始めなければならない。」
これをお読みになってどうお考えですか?
引いて言ってしまえば、まだ日本のスポーツ界自体がコオーディネーショントレーニングを各競技現場で使いこなす、という状況まで至っていない、とも言えるのかもしれません。
つまり、生意気な言い方をすれば、そこまで成熟していない、という事です。
最近では昨年の震災以降、「○○村」だという言い方が否定的な文言として頻繁にメディアに出現していますが、日本全体的な問題でもあり、日本のスポーツも例えば「ストレングス村」とか「ファンクショナル村」といった村社会があったとして、その中だけでやっていく分には特に困ったことはないけれど、よそ者に対しては本当に厳しい。
少しでも村の意にそぐわない事をしている者がいれば排除しにかかる。
○○絶対主義なんてものがあるのだとすれば、こういった思想が根本にはあるような気がしてなりません。
以前のブログ記事の中でも触れていますが「スポーツパフォーマンスというのは包括的に観察した上で判断しなければならない。」ものであり、もし、上記した○○村というものが存在しており、それが絶対的なものにまで昇華されているのだとしたら、非常に危惧すべきものであり、一刻も早く抜け出さなければならないのではないでしょうか。
(まぁ逆説的に言えば僕もそれに縛られているのかもしれませんが…)
その辺りが一極化してしまう日本の未成熟具合を表現してしまう要因であり、それが日本のスポーツ界の発展を阻害しているのではないか、と個人的には考えています。
先日、僕の指導を受けて下さっている方から「集中」という事に関して非常に面白い示唆を与えていただき、twitterの中でも書いたのですが、その方はゴルフと仕事を結びつけて、こう述べました。
「例えばパターなんてものは集中する必要があるんだけど、何も見ないと失敗する。集中するってのは色んな所から事象を見た上で判断する冷静さを持つ事であって、一つの事に捉われて視野狭窄になる事じゃないんだよね。」
「見えない奴には見えないよ。だって見ようとしないんだもん。見ようとして動いて見てみる事が分析をさせてくれるし、道筋を見せてくれるんだよ。それは仕事も一緒。出来ない奴は見ないし、見ようとしない。色んなこと見なきゃ。」
非常に重心の乗った考え方であり、なるほどな、と納得する言葉でした。
これを上記の事に結びつけるとすれば、「いろんなところから事象を見た上で判断する冷静さを…」という点。
村社会の中でよそ者を排他する行為に至るまでの思考というのは、“我々と違う事をしている人間は「間違っている」”という固定観念的なものであり、そこには「多角的な視点」だとか「包括的な見方」というのは“必要のないもの”であり、“存在しないもの”であるとすら言えます。
これは一つの事柄に集中しているように見えて、実は捉えられているだけであり、他の事柄が見えない状態なのでは無いでしょうか。
その先にあるのは、それだけでやっていく事の限界で、そこに来て初めて他の村が何をしているのかを確認しに行くのですが、行った先の隣村が排他的なままであれば、隣村に行った村人たちは絶望に打ちひしがれて帰ってくるだけです。
その結果、その村の滅亡なのか、また違う村を探し、その他の村との共存なのかは分かりませんが、ハイ手的な村分化の中で生まれるのは、小さいコロニーの中での継承であり、発展につながったかと言えば否定せざるを得ません。
以上のことを踏まえた上で、僕は末端のスポーツ従事者だということを認識した上で、自分の周りから小さいながらも働きかけていこうと思います。
個人的な指導を受ける方には、一つのやり方だけを提示するのではなく、多岐に渉る考え方やプロセスを提供できるように。
チームでお手伝いする際には指導者の方と議論を重ねながら、“絶対的な”ものを作らないように。
自分のポジティブ・フィードバックを常に意識した上で、また、当事者である事を貫いていこうと。
以上、2020年東京五輪の開催を夢見る瑣末なスポーツ従事者の戯言でした。