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レスリング除外危機からオリンピックとスポーツについて考えてみよう

レスリングがオリンピックから外されるかもしれない?

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ここ最近、レスリングの除外危機が報道されてしばらく経ちますが、オリンピック主催側が種目を選抜するということは何を求めてのことかのかを考えていて、改めて「オリンピックってどんなものなのか」という点でまとめる必要があるなと思いましたので、まとめてみます。

オリンピックは勝つことよりも参加することに意義がある

これは皆さんも耳にしたことのあるコトバだと思います。
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近代オリンピックの創始者であるピエール・ド・クーベルタンの有名なコトバとして紹介されることが多いコトバですが、実はこれ、セントポール大寺院の主教が述べたコトバだそうです。*1

クーベルタンはイギリスの中産階級社会に起源を持つアマチュアリズム*2に感銘を受け、それをオリンピックに参加する上での大前提とし、スポーツを利害から切り離しにかかりました。

しかし、どうでしょう。
現代におけるオリンピックはその様相を為していると言えるでしょうか。現代のような多様性社会が全世界中で展開する中でそれを貫くことは、いくら歴史とその重みのあるオリンピックと言えども難しい。
コトバを返せば、完全なるアマチュアリズムによってオリンピックを運営できる程、今の世界は甘くは無い、というワケです。

そもそも途中で止まったオリンピック*3をナゼ復興することを目指したのでしょうか。

「スポーツを考える」の著者である多木浩二はその著作の中でこのように述べています。

スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)

スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)

今になるとはっきりしてきたが、長年、スポーツにおいて普遍的な価値を持つと思われてきたアマチュアリズムなる美徳にしても、スポーツを生みだしたイギリスの特権的なジェントルマン固有のイデオロギーであり、感情であった。つまり歴史のある時期に支配的な感情以上のものではなかったのである。しかしこのイデオロギーはその後のスポーツに「理想」として受け継がれ、十九世紀の終わりにイギリスからこの理想を学んだフランス人のピエール・ド・クーベルタンが近代オリンピックを創始しようと思ったとき、アマチュア・スポーツに関するイデオロギーは良くも悪しくも充分に出そろっていた。

多木は、イギリスから始まったスポーツの近代化は、近代オリンピックの隆盛のオカゲだとし、近代オリンピックの創始は1896年。つまり19世紀末。イギリスの産業革命が18世紀から19世紀にかけて起こっています。

多木の文章を借りれば、産業革命後の人々の中には、多かれ少なかれ渇望の中に生きており、その渇望を満たす手段としてスポーツを選択したとも言えます。

イギリスから発生したスポーツの代表格にはフットボールがあります。ルールが各学校毎に定められていたフットボールはイートン・カレッジとラグビー校との間に起こった学校間のルールの隔たりに決着を付けた結果、サッカーとラグビーへと分かれていくこととなったわけです。

渇望を欲した人々の中から勃発したイデオロギーの衝突から生じた有名な事案の一つですが、これにしてもサッカーは1863年12月8日サッカー統一ルールが制定され、同年12月19日には世界初のサッカー統一下での試合が行われ、一方ラグビーでも1871年にラグビー協会を設立し、それぞれの方向へ進んでいく形となりました。
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多木は同じく著書の中でなぜ、現在国際的に行われているスポーツの大半がイギリスから生まれ、または派生していったのかをノルベルト・エリアスの考察を踏まえながら以下のように論じています。

ジェントルマンが政治から余暇にいたるひろい社会領域を非暴力的なゲームにする歴史的な段階にさしかかっていたことであり、こうした社会的な環境のなかで、はじめて書かれた規則にもとづいたゲームとしてのスポーツが作り出せたからであった。

“ゲームとしての”という点が重要だと思うのですが、それまでのスポーツはゲームとして成立しておらず、暴力的な立場同士のイデオロギーをぶつけ合う場でしかなかったとも解釈できます。それを、“規則にもとづいたゲーム”として成立させたことを多木はエリアスの文明化理論や議会制度考察などを含めて“非暴力化した競技”と呼んでいます。

この暴力から脱したスポーツはイデオロギー同士の対決という様相を残しながらアメリカナイズ(大衆化)されていき、現代に至る訳ですが、大衆化したスポーツは「スポーツ=競技“のみ”を語る」という枠組みを既に脱しており、オーディエンスまでを含んだ包括的な存在にまで昇華されています。

観客までを「スポーツ」と規定することが求められる以上、スタジアムや競技場だけで完結すれば良いものでは既になく、実際に会場へと足を運べずとも、その様子を見たいと願う・思う人間のために映像や写真を通して伝搬することが不可避になり、一気にメディアが台頭する形が成立した訳です。

メディアが不可欠な存在として認識され始めると、そこに対する“宣伝広告の舞台”とすることが企業側にとっても有利だとする判断がなされ始めた結果、現在の様なショー・ビズ化したメガ・イベントへと変遷します。

スポーツは既にその性質を近代オリンピック創始頃のアマチュアリズムを既に脱しており、時代とともに変遷に変遷を重ね、今では一つのコンテンツとして立派に存在しており、莫大な金額の動く広告としての存在価値が強く存在します。

一つのコンテンツと見なされるということは、スポーツに特別感心の無い人たちからすれば、バラエティ番組と評価基準が一緒となり、視聴率という数字上で意義を問われることとなります。いくら、感動をあたえるだとか勇気をあたえるだとか述べたところで、それはメディア側の都合で流すこととなる一つのストーリーであり、確信を得ているものかどうかは当事者でない限り判断に困ります。

数字で語ることが不可避である以上、一つのコンテンツとして内容を充実させる必要がある、ということは当然の帰結。

例えばドラマを作るにしても脚本は誰に書かせるのか。監督は誰。演出が誰で、主演をどんな人がやって、助演として誰を選んで…とそのドラマの内容を充実させるためには、ドコにどんな配置をするのかを求められるのと一緒で、オリンピックでも同様のことが起こっているだけなんだと思います。

それを踏まえて個人的な意見をいうと、ボクはもし日本がレスリングをオリンピックの種目として残したいのであれば「メダルを取っている選手がいるから」という理由以上の理由を挙げる必要があるように思います。

ボクは好きな競技としてサッカーを挙げるのですが、逆を言えばサッカーは既にオリンピックの範疇を越えているようにすら思っており、その理由は単独で完結するだけの“ちから”を持っているからに他なりません。オリンピックと比肩するサッカーのW杯は、単独競技の大会としては群を抜いており、既に大きな枠組みのなかで守られている必要性は無いといえないでしょうか。

常に時代とともに変遷を重ねて来たオリンピックですが古代オリンピック時代からの競技を一つ削ろうとしているところに、時代の流れを強く感じます。

オリンピックのすべて―古代の理想から現代の諸問題まで

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ENDO,Ryosuke

*1:参照:JOC HPhttp://www.joc.or.jp/olympism/coubertin/

*2:アマチュアリズム【amateurism】 アマチュアamateurはラテン語のamator(愛好者)に由来する。アマチュアリズムは,多くの場合スポーツにおいて問題とされる。スポーツにおけるアマチュアリズムとは,アマチュアは趣味としてスポーツを行い,それによって生計を営んだり賞金を得るなど,経済的な利益を追求してはならないという考え方で,19世紀初頭,イギリスの中産階級の社会で発生した。1839年イギリスの第1回ヘンレー・レガッタで,参加規定に初めてアマチュアという名辞が使われ,66年にはイギリス陸上競技選手権大会で,さらにアマチュア規定が整備され,これがその後長くアマチュアリズムの規範となった。引用元: コトバンク

*3:これも日本オリンピック委員会のページで紹介されています。http://www.joc.or.jp/olympic/history/index.html