アンパンマンの世界とは、ポスト・シンギュラリティの世界である
通貨という概念が存在しない
唐突ではある。
しかし、あまりにも合点がいかない。子ども(次男)がアンパンマンを大好きなこともあり、我が家では録画視聴(生視聴ではない!)をしているのだが、それを見ていた際に感じたことを書いて行こう。
まず、この世界の中に“通貨”という概念自体は存在しない。
誰かがお金を払ってサービスや物品等を購入する、というシーンを見たことがあるだろうか。少なくとも僕はない。
つまり、この世界の中では通貨という兌換性が必要なツールは存在しないことを意味しているのではないか。
それを最も決定的にしているのは、ジャムおじさんの存在である。
ただ、パンをこね、無料で配布している
マスオさんことジャムおじさんは、その優しい言説と雰囲気、何よりもパンをこねる際の魔法が魅力的な人物である。
何より、主役であるアンパンマンを生み出したことで有名な存在ではあるが、この世界の中で彼はパンを作ることにおいて、他の存在が認められないところをみると、圧倒的なまでの寡占状況を生み出している。
しかし、それにおいても、彼は一銭も得をすることはない。
何故ならば、この世界には通貨が存在しないからだ。
ビットコインなるものも、日本の円を匂わすような茶化しい紙幣も貨幣も存在しない。
ただ、パンをこね、無料で配布しているのだ。
そう、ただ、パンをこね、タダで配っているのだ。
しかし、注目すべきは、このパンを生産する際に必要な火はどうしているのか、という点。
火を起こす、もしくはそれに類似した方法でパンを焼く、というからには、何かしらのエネルギーが必要なわけであり、その生成にはエネルギーを発生させる太陽光、原子力、火力、水力、地熱...など、多々あるわけだが、ジャムおじさんのパン工房にはそれらに類似する施設等は存在しない。
しかも、送電線を引いているわけでもなさそうである。
これは何を意味するのだろうか。
勝手な憶測だが、これは、エネルギー問題が解決されているのではないだろうか。
一つの家庭に一つのエネルギー生成装置が設置されており、この世界において、すでにそれは一般的な知識として認知されていることが考えられる。いや、そうでなければ納得できない。
つまり、アンパンマンの世界では、エネルギーがフリーになっているのだ。
これで多くの点が納得がいく。
アンパンマンの世界は、ポスト・シンギュラリティそのものであり、すでに人類はエネルギーフリーを獲得しているのだ。エネルギーがフリー、つまりタダとなることで、あらゆる生活コストが引き下がり、結果として自給自足生活(のようなもの)が可能になる。
いや、むしろ、働くことが必要なくなっているのではないか。
これによって、いわゆる大人の存在がそれほど多く確認できないのにも納得できる。
アンパンマンの世界における大人たちは趣味に講じているのだ。
子どもたちは学校へ通い、その合間に友人たちとの交友を深める。
衣服等についても、手縫のものを楽しむ者もいれば、特にこだわりがなければ、各種ECサイトで購入し、配達員(のような仕事をすることが趣味な人)が運んでくれるのを待ち、それを着る。
衣食住において、特に不満が生じることのない世界で、お金を稼ぐ必要も、使う必要もない世界に住んでいている。
この人たちが次に到達した世界は人間を辞めることだったのではないだろうか。
人間をやめた人間たち
そして、アンパンマンの世界の人間たちは人間という姿に囚われる事をやめたのだ。
ありとあらゆるコストから解放された人類は、自らの行動を規定する擬態化することによって、満足感を得ているのだ。
カツ丼や天丼、パンといった姿に自らを変貌させることにより、イメージを作る事、つまり人生のアイコン化を図ったモノだと推測する。
これによって、各種のSNS等による自己承認欲求を満たす行為を全面的に、自らの人生を投げ打つことによって成立させ、『〇〇といえば、あの人』という構図を、それぞれ各個人が実践することができている。
いわゆる評価経済的なものがすでに定着しており、それが当然の世界なのである。
最終的には、どうでもいいのである
さて、ここまで思いつきで文章を書いてきており、内容的には浅はかながらも1,500文字を超え、2,000文字に突入しようかという状況になってきた。
わかるだろうか。
原稿用紙5枚分程度の文章を、ただ、アンパンマンの世界が我々の“先”に位置する世界なのではないか、という本当に妄想話で引きずっているのだ。
我ながら大したものである。
ここで一つ、注意しておきたいのは、ドラえもんのような近未来ではなく、アンパンマンを選んだのには理由がある。
アンパンマンの世界には、科学的なな匂いがバイキンマン以外全くしないのである。
しかし、バイキンマンの製造する機械たちは、恐ろしく高性能であるとともに、恐ろしいぐらいの剛直性、耐久性を持ち合わせている。
おそらく、あの技術は我々の世界からの名残であり、それを唯一継承しているのがバイキンマンなのである。(このバイキンマン論は別の機会に譲る)
つまり、バイキンマンは我々であり、我々はバイキンマンなのだ。
ドラえもんの中に出てくる、野比のび太は典型的なダメ男である。
あんな男をどうにかしようとドラえもんのような超高性能ネコ型マシンを送りつけてくるセノビの高圧的な態度に反発しているだけ、というのが大きな理由だ。
もっといえば、ドラえもんの世界は、なんだかんだと言いながら努力することによってなし得たい事を成す、というヒロイックな展開というのも、僕に絶望を与える。
その点、アンパンマンは自らの存在を投影させるべきものはいない上に、すでに発展を重ねる世界は本編内でいくつか紹介されており、そこにケチをつける事はしない。
長くなった。
ひとまず、ここで改めて結論を述べるとしよう。
アンパンマンの世界は我々の技術的特異点、つまりシンギュラリティが起こった後の世界、つまりポスト・シンギュラリティ・ワールドであり、それをいくつか証明するであろう描写を上記した。
だが、究極的にはどうでもいいのである。
【May_ROMA】なんだか人間関係が堅苦しいと感じてるなら『不寛容社会』を読むべき
@May_ROMAさんの著書
Twitter界隈では有名な @May_ROMAさんこと、谷本真由美さんの著書。
ベッキー事件を皮切りに、ボクたちはなぜ、関係ない人物のスキャンダルにそこまで一生懸命叩くのか。多岐にわたる人種と実際に働き、住んだ経験から分析・考察していく内容。
不寛容社会 - 「腹立つ日本人」の研究 - (ワニブックスPLUS新書)
- 作者: 谷本真由美
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- 発売日: 2017/04/12
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なぜ日本人は見ず知らずの人を叩かずにはいられないのでしょうか?
なぜ日本人はこんなに不寛容になってしまったのでしょうか?
なぜ海外では芸能人の不倫がトップニュースにならないのでしょうか?
なぜ日本人は些細なことで正義感を発揮しようとするのでしょうか?
日本人は集団ヒステリーなのでしょうか?
費用対効果の高いコンテンツとしての他人叩き
雑誌やTV、新聞、ひいてはネットメディア等のメディア側から見た“他人叩き”というコンテンツの優秀さを分析しているのだが、結局、既存メディアが腰砕けなだけであり、弱腰だから他人を叩くことを増長させやすい状況を作れてしまうということを示唆している。
まずはその例として、2016年東京都知事であった舛添氏の経費の不正使用から辞任になったケースについては、舛添氏の経費における態度があまりにも庶民感覚すぎていたからこそ、マスコミが増長したし、それを享受する市民感側に火をつけてしまった、としている。
大企業への厳しい追及や、内戦中のシリアへ取材を敢行することなどのリスクの高い案件に比べたら、すでに“何かをやらかしてしまった人物”というのは、なんのリスクもなく叩けるうえ、ある意味、安心して利用できることになる。
商売の原則である安く仕入れて高く売るということをしっかりと実践してくれている訳だが、その標的になっているのが、政治家であり、芸能人がメインとなり、読者や視聴者の感情に刺さりやすい内容で批判を考えている。
日本人は表面上は礼儀正しそうに振舞いますが、いやらしくて意地の悪い人も割と多く、人の幸福や人生の喜びが大嫌いな国民です。
人様の不幸は悲しまないのに、桜が散ることを惜しむ、という矛盾した面も持っているのです。
ウチとソトの断絶
日本人の特性を上げる際、著者は中根千枝の『家族を中心とした人間関係 (講談社学術文庫)』を紹介しており、その内容は『ウチ』と『ソト』の断絶だ。
ボク自身、田舎に住んでいることもあり、結構目の当たりにすることもあるし、体験したこともあるだが『自分基準の当然』を他人にも強要する了見の狭さがイヤになる事がある。
ウチとするのは、わかりやすくいえば村八分ということになろうか。自らの安全地帯に身を置き、その中にいる人間は味方であり、家族的な信頼感を置く。しかし、いったん、場所や会社が変わったら他人、ソトの人となり、待遇も一気に冷たくなる。
会社が変われば年賀状のやり取りがなくなるなど、実際にボクにも起こっている事だ。
別に数日もすれば会社に出向き、顔を合わせるにもかかわらず、年末のバタついている時期に必死になりながら用意したうえで投函をし、正月の昼間から何をするわけでもなくすごしている中に届く年賀状をみる。
記載する内容といえば、他にも伝える手段はいくらでもあろうものをわざわざ時間や金銭的なコストをかけてまで伝える内容かといえば、決してそのようなものはなく、たいしたものではない。
そんな大したものではないくせに、同僚の先輩や上司は「なんだ、あいつ出してこないじゃないか。常識がないやつだ!」などと尻穴の小さいことをいい、さもあれば年始に出社し、後日、小言を言われてしまうことも少なくない。
そんな半ば家族的なつながりを強制的に抱いておきながら、会社や部署が変わることで「あいつは他所に移った」とか「もう他人だ」などと、いやに冷たい態度をさも当然のように抱くのだ。
まったく持って不寛容だが、これは何も会社組織だけに限った話ではなく、「日本の女性」や「子供を持つ親」であったり、「結婚している男性」など、いわゆる“世間一般的な常識”とされるレイヤーごとに分けている人たちにも存在する。
それを著者は、高畑裕太氏の親に謝罪を求める心理に当てはめた上で説明している。
高畑淳子氏の息子で俳優の裕太氏が不祥事を起こした際、なぜか親である淳子氏が64分間も立ちっぱなしで謝罪することになっていた。
正直、当時もそうだが、今でも、これをする側(淳子氏)も求める側(マスコミや視聴者)も異常だとボクは考える。
この性質について、著者は以下のように述べて説明し、その異常さを否定するとともに、個人主義についても説明する。
日本人は親と子どもを別人格として考えておらず、「血縁関係にある家族」を一つの運命共同体として考えていることも影響しているはず
人間は受精した時点で親とはまったく異なる生命体であり、人格も何もかも異なる生物です。
一人ひとり違う生命であり、同じ人は一人もいません。それはたとえ親子であっても同じこと。違う人間だからこそ考え方も行動も異なってきます。
こうした違いを尊重することは人間尊重の基本原理ですし、近代民主主義や資本主義の下地である個人主義の考え方です。
この『個人主義』という考えをボクの親世代、特にドがつくほど田舎の人たちは、たいそう大事そうに大切な価値観として抱いているのは、ボクの身近なところで起こっているので事実である。
以前記事にしたものでも触れているが、『ウチ』を大切に考えている人たちは、自らのカラダから生まれた人類は、自らと同じ志向を持つことが使命であり、当然の義務かのような態度をとる。
これは、別にド田舎だけの話ではなく、“異質な考え”にはひどく不寛容な態度を取る大人は多々存在するのを目の当たりにした経験があるのは、ボクだけではないはずだ。
正義感
だが、この、異質な考えに不寛容な態度というのは、集団になると非常にヒステリックな行動をとるようになる。いわゆる常識というのは、現在の45歳前後の人たちが享受してきた社会的な雰囲気から作られている。
どういうことかというと、ボクはいわゆるミレニアル世代(1980年以降)と呼ばれる世代だが、この世代の特徴は、育っていく過程の中で、携帯電話やインターネット、ひいてはSNSが当然のように存在するというのが、時代背景だ。
しかし、この世代よりも上の世代は、当然ではなかったため、それを受け入れるのに、時間を要したり、否定したりしてしまう。それが多数になれば、いわゆる常識というものが出来上がってきて、それを前提とした正義感が醸成される形になる。
以前、記事にした養老孟司『遺言。 (新潮新書)』の中で、言葉の効用について以下のように述べている。
いうというのは、言葉を使うということであって、言葉を使うとは、要するに「同じ」を繰り返すことである。それをひたすら繰り返すことによって、都市すなわち「同じを中心とする社会」が成立する。
「同じ」を繰り返すことによって、都市化が進んできたことは否定すべきではない。
先代の日本人は、都市化を邁進し、満腹になるまでご飯を食べられるように必死になってきた。その結果が、今は過去のものだが、経済大国化し、先進国の仲間入りを果たすことがかなった。
それを引き継いだ次の世代の人たちが作った社会ではどうなったのかを著者は、本質的なことに無関係なことに対して均質性を求める不寛容さについて指摘している。
本書内から引用すると、以下のような“態度”が本質的なことに無関係なことに対して均質性を求める一例である。
- 始業開始に五分遅れた
- メール返信に半日以内にしなかった
- ロッカードアの締め忘れ
- 押印のズレ
この態度をとることによって、いわゆる(ボクもこれから迎えるであろう)大人たち世代は何をしたいのかを考えるべきだ。
これを求めたことによって、営業利益に直結するのだろうか。
これを求める態度を突き詰めていくことで、サービス残業をせずに帰れるのだろうか。
求め続けた結果、細かいことばかりにとらわれ、本質的なことを見失っていないだろうか。
最近の不祥事は硬直性が原因?
この一年の間に、神戸製鋼、日産、スバル、三菱マテリアル、東レなど、日本を代表する製造業企業が、技術大国日本の看板を無碍にし、(高品質で高精度という立場を)根幹から揺るがすことが多くなっている。
これについても、上記した“本質的なこととは無関係なことに対しての均質性”を求めたがゆえに起こっていることではないか。
これは先代の日本人が作り上げてきた功績に裏返しとも言え、日本の職場環境は終身雇用が前提となっているがために、人の異動や転職が少ない。
ここ何年かで、その見方は大きく変わってきているように思うが、いまだに転職回数が転職活動に響くというのは事実だろう。かくいう、ボクもジョブホッパーみたいな人間なので、その辺はなんとなく感じている。
『人の異動や移動が不足することで、職場内のルールも硬直化しがち』と著者はいうが、ボクもそれに大いに賛成する。
人の入れ替わりがない、ダイナミズムにかけた就労環境というのは、良くも悪くも長居する人間に優位な状況に陥りやすい。今年の言葉で言えば、忖度が発生しやすい状況になるということだ。
長居することによって、それなりの地位に登ることができた人材を重用する組織体制になっていた以上、不可避なのかもしれない。
長居することができるようになることで、結果として、組織内の立ち回り(社内政治)が上手になり、透明性が失われていくことによって、組織の硬直化が発生し、結果として、上記のような不正がまかり通ってしまうことにつながっているのではないか。
日本のジェンダー観、大丈夫?
同質圧力というのは、何も男性や会社組織に限ったことではなく、日本のジェンダー観にも現れていると著者は述べる。
キャラ弁だ。
我が家でもそうだが、子供を持つ保護者世帯であれば、一度は目にしたことがあるであろう、キャラ弁。
昨今のキャラ弁における隆盛が日本のジェンダー観における同質圧力を表現するのに適していたのかもしれない。
手間暇かけてお弁当を作る母親が日本では「素晴らしい」のか?家事をしない母親は「悪い母親」なのか?
...本当にその通りだと思わざるを得ない。
消費行動の一環として捉えるべきなのかもしれないが、この“母親”が手間暇かけて弁当を作る、ということ自体が時代錯誤甚だしいと言えるのではないだろうか。
専業主婦という言葉も、たかだか100年ほど前にできた言葉であり、時代的にはサラリーマンが珍しく、高給取りであったことが前提な言葉だ。
専業主婦という身分(被扶養者)を支えられる経済力を世帯で一人に押し付けることは現実的ではないし、そんな専業主婦たちがやっているキャラ弁づくりは一円にもならないのだ。
ブログのアフィリエイトをやっている人的には少しは儲かるのかもしれないが、高が知れている。せっせとキャラ弁を作り、何枚も写真を撮り重ね、ブログの記事を書いている暇があれば、人的資本を高め、その対価を対企業から得た方がよほど有益ではないか。
他人と自分が違うことを認識する
結局、ボクが住んでいる日本という国は、同調圧力が強く、人と違うことを受け入れるのにすごく時間がかかる。人と違うというのは、自分が経験していないこと、つまり、わからないことだ。
分からないから否定するのではなく、分からないからこそ、その際を埋める努力が必要なのではないか、と思う。
その第一歩が、自分が他人と違うことを認めるということだと思うし、そうなると道徳という“自分がどうあるべきか”という問題ではないと強く思う次第だ。(ボクは道徳教育に反対なのだが、それはまた別の機会に書かせていただきます。)
最後に著者の言葉を引用して終わりたい。
人間は一人ひとりが異なる生命体であり、誰一人同じ人はいないのです。(略)親子だから分かりあえる、夫婦だから理解し合えるというのは幻想です。最初から意見など通じませんし、異なる生命体なので、お互いを分かり合える日は一生来ないのですり
日本的なものの見方をすれば冷たい様で、実は何よりも人のことを考えた一文ではないか。
不寛容社会 - 「腹立つ日本人」の研究 - (ワニブックスPLUS新書)
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【養老孟司】『遺言。』は都市化ってどういうことなのか考える機会を与えてもらえる
- 作者: 養老孟司
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養老孟司、25年ぶりの書き下ろし
なんだか本が書きたくなったのである。
本書を手に取ったボクはこの一言で一気に引き込まれた。
過去、養老孟司の著書を全てではないにしろ、読ませていただいている。
とっかかりとなったのは【バカの壁】であり、それまでの一面的なものの見方を見直す機会となったのをよく覚えてる。
- 作者: 養老孟司
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本書を読んでいくと、現在の都市化が進んだ現代において、改めて、人間の感覚や認識の重要性について養老が訴えかけてくる。
ここでいう人間性とは『意識』や『感覚』といった機械での再現性が難しいとされるヒトの特性。
ボク自身もAIや井上智洋のいう純粋機械化経済*1は望んでもいるし、可能ならば早く到来してもらいたいとも考えている。
早く到来したからといって、我々人間が“ヒト”ではなくなるかといえば、そんなことはない。
もしかしたら、いまの生体よりも機械化が進み、拡張性のある状態になっていることは十二分にありえるかもしれない。
だけど、だからと言って、考えること、意識することは普遍的なものだからこそ、無くならないだろう。
著者である養老は、『考える』『感覚』といった人間的な特性について、こう述べる。
それが正しいとか、正しくないとか、そんなことは考えていない。考えというのは、そういうものである。
われわれは感覚でいったいなにをまず捉えているのだろうか。それは世界の違い、変化である。
ここは本書を読み進めていく中で、かなり重要な箇所だった。
これらを認識しているかどうかによって、あらゆる街を都市化させてきたこと、今後、人工知能や機械化の推進によって起こる人間と機械の関係を理解できるかどうかに大きな差が出てくる。
それを埋めるキーワードが、世界の違い、変化を感じることにあるのだと理解している。
均質化の代償
現代生活、とりわけ、都市の中での生活というのは、可能な限り『感覚』が働かないようになっているし、そのように作られてきた。
しかし、それを誰が意図したわけでもない。
みなが、『同じ』価値観に基づいた住居を集めたことによって、都市化が進んだことの結果だ。
風の吹き込まない、床面には凹凸もなければ、壁には防音効果がある。
周囲の環境を一切遮断する要素をいくつも用意することで、“住みやすい”環境を手に入れた。
結果、意味のあるものだけに囲まれた世界に住むことになる。
それが当然のように暮らしの中に落とし込まれていくことで、意味のないものの存在、いわゆる”自然”的な存在が許せなくなってくる。
風や音、触覚など、いわゆる五感と呼ばれる感覚器の働きを抑制しながら、我々は近代を生きている。
だから発展をする以前の世界に戻ればいいとか、そういうことを言っているのではなく、そういう状況だ、という確認である。
この感覚を遮断する、という行為で均質化を図る前提になっているのは、“言葉”の成立だ。
言葉というのは、『同じ』を共有するツールであり、言葉を使いこなしてきたからこそ、人類は共同体の生活圏としての都市を築いてきた。
当然ながら、文明の発展に必要だったのは、それを記述や口頭伝承、いづれにしても『言葉』が必要だった。
『同じ』こと、つまり再現性を求めるということであり、あらゆる物事の伝承や継承を行ううえで、最適なツールが言葉だった。
著者である養老はりんごを用いて説明する。
いうというのは、言葉を使うということであって、言葉を使うとは、要するに「同じ」を繰り返すことである。それをひたすら繰り返すことによって、都市すなわち「同じを中心とする社会」が成立する。
つまり言葉、ここでは概念が成立するために必要なことは、リンゴについてそれぞれが同じことを考えている、という前提である。
養老は、マスメディアやネット、Googleの隆盛については根本的にこれで集約されるとしている。
つまり、言葉という人間が生み出した伝達ツールは、”同じ”ということを認識・確認するためのものであり、そのツールによって人々の間には知識・意識の同質化がなされるということだ。
逆を言えば、言葉が通じないということは意識や知識の同質化を図れないということを意味し、これは我々も日々の生活の中で体験済みだ。
ボクには4歳と2歳の息子がいるが、この二人とのコミュニケーションは根本的に一緒なのだが、異なる。
意味理解的にいえば、4歳の息子は(大人と比較すると多くはないが)"言葉”を知っているために、共通しての理解が可能だ。
しかし、2歳の息子は、まだ言葉を話せないので、こちらの確認が入った上でのコミュニケーションは可能。
根本的には二人ともコミュニケーションをとることは可能だが、意味を理解し、それを共有するために言葉をつむぐという点で異なる。
日本語を話す我々は、日本語を話せない外国人との会話にほとほと苦労する。
しかし、相手が知っている言葉をこちらが発した瞬間、一気にコミュニケーションにおけるブレイクスルーが起こる。
共通認識が図れたことにより、心理的な距離感が一気に近くなる。
こういった経験をしたヒトも少なくないのではないか。
養老がいうように、我々はヒトとして”言葉"を話し、その意味を相互理解することで、認識や意識の共有を図ってきた。
そして、それを書き残すことによって、過去と未来をつなぐ"歴史”を作ったのだ。
過去の人間と現在に生きる我々では決定的に時間軸が異なるため、相互理解という点においては困難な部分もある。
だが、言葉があるからこそ、残すことができ、それを認識するという同質化が可能になったこともまた事実だ。
その言葉の壁も、人工知能やスーパーコンピュータの発展により、「考える」必要がなくなることも十二分に考えられる。
そうなってくると、我々人間は、“同じ"ことを考えることが可能になる。
しかし、ありとあらゆるものが“同じ”になったとして、現在我々が生きる文明社会の生活を彩る「違い」を何で味わえばいいのだろう。
ヒトがアートを求める理由
「同じ」に立脚する文明社会に、「違う」ものはないのだろうか。同じという機能を持った意識も、違うものがなければ具合が悪いと、暗黙のうちに知っているに違いない。だから文明とともに生じるヒトの典型的行為があって、それがアート、すなわち芸術となる。いうなればアートは「同じ」を中心とする文明世界の解毒剤ともいえる。
同じものが一つもない世界で、優れたもの、それを芸術作品という。
コンピュータは芸術を作るだろうか。本質的には作らない。それが私の意見である。なぜなら、少なくともいまのコンピュータは、芸術に前提される、唯一性を持たないからである。
機械が芸術作品、つまりアートを生み出すことは可能だろうか、という問いに対して養老は以上のように述べていた。
これにはボクも納得の上での賛成だ。
過去記事で取り扱った中で、井上智洋も述べていることだが、機械を人間の感性に近づけていく作業が必要になるだろう。
dolog.hatenablog.com
機械は数値として、つまりデータとしての認識や、その数値を基にした計算においては人間をすでに凌駕しつつある。
しかし、そこからあえて逸脱する行為においては、模倣ができないだろう。
つまり、正確性を求めることにおいて、人間が機械にかなうすべはないが、正確さの中に逸脱を計算することができるのは人間だけだ。
もっとありていに言えば、「壊すこと」を意図しておこなえるのが、人間の強みともいえる。
そう考えると、アートやスポーツなどは人間特有の個性なのだ。
そして、エンターテイメントなど、崩すことや壊すことも計算されている場の空間を演出することが機械に奪われず、今後も隆盛を誇れるものになるということは、さまざまな媒体でいわれていることだ。
本書を読み進めていくと、そんな世間では当たり前だといわんばかりの風潮や認識について、一つ一つ、人間のあり方を確認しながら、丁寧に認識していくことができる。
本文の中で紹介した養老の言葉以外にも、たくさんの言葉に出会うことができる。
それは、人間の意識や認識について、「考える機会」を与えてくれるものである。
また、意味のあることだけを扱ってきた我々は、意味のないことをどれだけ大切にできているだろう。
そんなことを読み終えたときに感じられる本だ。
- 作者: 養老孟司
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*1:人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊 (文春新書)の中で触れられている汎用人工知能の普及とともにおこる経済社会
【齊藤元章、井上智洋】『人工知能は資本主義を終焉させるか』は未来へのワクワクを感じさせる本だ
現実がSFを超える日は近い
人工知能は資本主義を終焉させるか 経済的特異点と社会的特異点 (PHP新書)
- 作者: 齊藤元章,井上智洋
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2017/11/16
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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今回は齊藤元章さんと井上智洋さんの共著である
人工知能は資本主義を終焉させるか 経済的特異点と社会的特異点 (PHP新書)
を読ませていただきましたので、レビューさせていただきます。
まずは、お二人の略歴を表紙裏の表記から。
齊藤元章(さいとう もとあき)
スパコン・人工知能エンジン開発者。研究開発系シリアルアントレプレナー。医師・医学博士。新潟県生まれ。新潟大学医学部卒業、東京大学大学院医学系研究科修了。大学院入学と同時に医療系法人を設立し研究開発を開始。震災後に米シリコンバレーから拠点を日本に戻す。
井上智洋(いのうえ ともひろ)
駒澤大学経済学部准教授。東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。IT企業勤務を経て、二〇一一年に早稲田大学大学院経済学研究科で博士号取得。人工知能と経済学の関係を研究するパイオニア。
超個人的なことを言えば、齊藤さんが新潟県長岡市出身ということにものすごく興奮しています。
...どうでもいいですね。
本書は、最近、僕なんかでも耳にする機会が増えてきた“シンギュラリティ(技術的特異点)”*1以降の世界は現状の資本主義経済を終わらせることができるのかどうか、という点で両者が議論するという内容。
その議論の中で出てくる内容は、シンギュラリティが起こることが前提となり、いま、僕たちが住む世界の世界観、常識(特に金銭や生活についての認識)が一気に崩せる可能性を示唆しています。
特化型/汎用型人工知能って...
まず、シンギュラリティが起こる前提条件となっている汎用型人工知能ってなんだ?って話です。
現在、我々の生活の中に人工知能は、ある程度普及しています。
例えば、iPhoneをお持ちの方だったら、siriもそうですし、将棋とかチェス、クイズで機械が人間に勝ったなんてニュースを見かけることもあります。
ボクたちが検索する際にGoogleの検索枠を利用してワードを入れ込んだりしますが、あれも人工知能が働いていて、PCで検索を行うと以下のように表示されます。
『0.48秒で約11,000,000件』と出ていますが、これ、この検索ワードに関連し、なおかつボクのこれまでの検索などの状況を踏まえた上で最適であろう検索結果を表示してくれるのに計算されているもの。
他にもボクたちの生活のあらゆるところに、すでに人工知能というのは存在していて、ボクたちの生活を支えてくれています。
Googleなんかは検索アルゴリズムについて資料をダウンロードできるようになっていたりしますので、興味があれば。(Google検索アルゴリズムのリスト)
しかし、これらの人工知能は汎用型人工知能ではなく、特化型人工知能と呼ばれるもので、その名の通り、何かしらの機能に特化された人工知能ということ。そして、特化した機能では、人間を凌駕することができている、ということです。
汎用型人工知能というのは、「汎用=様々な用途や分野に用いられる様」といった使い勝手のいい、というイメージではなく、自立した機械ともいうべき存在であり、意思のない人間というか、知能というか...。
人間では不可能なたくさんの計算や複雑なシミュレーションなどを踏まえた上で判断することが可能な存在にでもなると言えばいいのでしょうか。
そんなことを聞くとなんだか怖くなってしまう人もいるかもしれませんが、その点については、井上さん人間がロボットには負けない領域をCMHと呼び、以下のように述べています。
- Creativity: 創造性
- Management: 経営・管理
- Hospitality: おもてなし
AIが人間とまったく同じような感性を備えていないかぎり、AIの創作活動は人間の感性とは合わないあさっての方向に進んでしまう(井上)
汎用的人工知能は、人間のやっている社会的な技能をあらゆる部分で代替できる知能を持ち合わせることができるけども、感情や感性など、数値化しづらい部分については、人間に似せる作業を繰り返し行っていくことになるだろう、ということです。
2030年経済的特異点
機械化経済⇒純粋機械化経済
本書の中で触れている経済的特異点については、2030年というのをボーダーラインに語られており、汎用型人工知能の登場によって、経済構造がガラリと変わることを指摘しています。
これは、既存の資本主義は、機械と労働という2つのインプットを通じて生産活動が行われ、そこで生産されたモノが消費される、という機械化経済(機械化を目指す経済)が前提となっています。
その前提の上で、汎用型人工知能の登場することで、労働がいらなくなり、AI・ロボットを含む機械のみがモノをつくるようになる経済、これを純粋機械化経済と著者の一人、井上智洋氏は述べます。
日本のデフレの根本原因はなんだ
井上氏は、日本のいわゆる「失われた20年」の根本的な問題として、世の中に出回るお金の総量(マネーストック:現金と預金)があまり増えていないことを上げています。
日銀(日本銀行)は、買いオペレーション、すなわち国債の買い取り、預金準備金を日本銀行の当座に溜め込み、いつでも貸し出せる準備をしているわけですが、市中銀行が顧客に対しての貸し出しを行えません。
これは市中銀行がサボっているわけではなく、日本をはじめとする先進国では、資本主義の発達により、資本蓄積が進んでいることが大きな理由である、としています。
つまり、企業には莫大な内部留保が存在するため、銀行から資金を調達せずに営業活動を行うだけの体力(資金力)があるということなのですが、それだと結局、お金の総量自体は現状のまま推移していることになるため、日本の中に貨幣が増えない、と。
だから、日本の製造業にとって代わって中国が安く物を作り、それが流通しているから日本の中ではデフレが終わらないんだ、などという構造的な問題とは異なるんですね。
何だか、がんばって成長してきたのに、自分たちの手で自分たちの首を絞めているような...そんな何とも言えない気持ちになります。
総需要の減少?
需要・供給関係でいえば、企業側の内部留保は、どちらかといえば供給側のうれしい悲鳴みたいに聞こえますね。
しかし、それだけではなく、需要側、つまり我々消費者側にも要因の一端があり、それは日本の社会問題でもある”少子高齢化が起こす絶対的な需要不足”が担っているのではないか、と齊藤氏は指摘するも、井上氏がそれは影響していない、と反論します。
説明の内訳を聞けば納得。
本来的に言えば、少子高齢化=需要サイド増加=インフレが起こるはずであり、現状はそうなっていないことを踏まえると、マネー不足、つまり、市場に流れるマネー自体が不足しているからこそ、デフレの状況である、ということです。
この箇所は、読んでいて非常に興奮し、えらく納得した部分でもあるのですが、それはつまり、格差の拡大を増長へと進むことを示唆します。
ピケティの「R>G」
『21世紀の資本(みすず書房)』の中で、ピケティは今後、資本家有利の時代、つまり格差が広がっていくことを指摘していますが、現状のまま経済が推移していくのであれば、それは避けられないのかもしれません。
ボクみたいな些末な労働者は、懸命にないスキルを必死に吐き出しながら身銭を稼ぐことしかできませんが、資本家は違います。
すでに資産を保有している彼らは、先を見通し、そこに投資を行うことで莫大なリターン(R)を受け取ることができますが、労働者は経済成長(G)が発生し、企業利益が上がらないことには収入を増やすことができません。
このことから、資本家と労働者の間には大きな格差が生じてしまうことを意味し、それが埋まることは絶望的とさえ...。
また、本書の中で、二人は日本の累進課税の累進性が機能していないことを指摘し、その格差が如実に広がっていくことにも触れることから『ヘリコプターマネー』を含む『ベーシック・インカム』の話題へと進むわけです。
ベーシックインカム
井上氏は今後、労働が不要になる純粋機械化経済の到来に伴い、雇用を失った人々の生活を支えるための社会保障制度として、安定した財源である税金を原資として実施される『固定BI』と、需要増大・景気安定化のためのヘリコプターマネーを財源として行われる『変動BI』を導入すべきだといいます。
これは貨幣制度『レジーム・スチーム』を返還させることを前提にされているのですが、詳細については、ぜひ、齊藤氏とのやり取りを踏まえながらの方が面白いので読んでいただきたく思います。
ちなみに、ヘリコプターマネーについては、井上氏の著書もそうですが、本書内には以下のような説明が書いてありました。
ヘリコプターマネーとは、政府や中央銀行のような公的機関が、空からヘリコプターでお金を降らせるように、貨幣を直接市中に供給することで景気を浮揚させる究極の方策
『究極の方策』と書いている点に、愛嬌と胡散臭さを残しながらも、真剣味を与えていますね(おい)。ボクはこんな表現が大好きです。機械にはこんな無駄なこと、できないだろうな。
また、井上氏はヘリコプターマネーについて、以下のように述べており、個人的にはヘリコプターマネーと聞いても全く抵抗を感じないし、むしろ早くやって欲しいと思っているぐらいです。
あまり現実的ではないかもしれませんが、私自身は、皆さんにはヘリコプターマネーという言葉を聞いても抵抗を感じないぐらいに、くだけた性格になってもらいたいと思っているんです(笑)(井上)
新しい消費税
また、齋藤氏は一つ、大切なことを投げかけて来るのですが、こういう視点から科学に携わっている人がいる、というのを知った瞬間、ボクは頭をどつかれたような気になりました。
なぜ、お金は使う人によって価値に差が出ないのだろうか(齋藤)
これはボクの奥さんも同じことを言っていて、聞き流していたのですが、所得が違うし、所得税も違うのもわかるんだけど、なぜ、消費税は高額所得者であろうが、低所得者だろうが“一律”なんだ、というものです。
ボクは奥さんからその疑問を呈された際に、「所得の高い人と低い人では買うもの自体に(量・質共に)差があるから、所得の高い人はドンドン買うし、その分納税する形になるから」と答えました。
しかし、さらに彼女から来たのは「いや、そこはいい。それはわかる。けど、だからと言って、生活用品とかにも一律ってどうなの?」という疑問。
齊藤氏は、(違うかもしれないが)同質のことを本書の中で触れてくれていて、さらに井上氏とともにその解決方法として新しい税制についても提示されています。
そもそもの問題点は、高額所得者に対して、現行の所得税における累進性が機能していない点なわけですが...
内容としては、お金が現状絶賛沸騰中のBitCoinのように、高機能化・電子化されていくことで、『誰がどんな対象物について、どんな用途やタイミングでお金を払っているのか』を把握することができるようになり、それに基づいて課税するというもの。
イメージとしては、クレジットカードの支払いみたいなイメージですかね。
金額自体は店舗やECサイト上で確認しますが、上記したことを踏まえて購買活動ごとに課税されるという点。
お金持っている人からしたら嫌になりますかね?
社会的特異点
シンギュラリティよりも一歩手前で起こると考えられている『社会的特異点』、それは人々の価値観や意識が大きく変わってくることを指す、ということです。
生活コストがフリーに
人々の価値観が大きく変わる転換点となる最初のドミノがエネルギーである、と齊藤氏は述べるのですが、そのキーとなるのは『常温核融合』だとしています。
以前までは“疑似科学”というレッテルを張られるほどに再現性のない技術だったのですが、今ではほぼ100%再現性を確認できるようになっていて、2016年以降、研究を再開されており、100℃以下で起こる反応でありながら、中性子線も一切放出されないため、小型化しやすく、保守管理しやすいエネルギー源になる可能性が出てきているとのこと。
なぜ、そのようなことが可能になるのかという前提条件が、スーパーコンピュータの性能向上にあり、何度もシミュレーションを行うことが可能になることで、どんな条件ならばほぼ確実に動くのかを割り出すことができるようになるとのこと。
また、ここは日本にとっては非常に重要な点だと思うのですが、原子力発電のように核分裂を起こしてエネルギーを取り出す装置と異なり、装置が倒れたり、壊れたりした場合は反応が一切止まって終わる、という点。
たとえ損壊を起こしたとしても、反応が一切止まっているので放射性物質を人間が浴びるということがありません。
もっといえば、常温核融合は、反応中も反応後も放射性物質を含め、本当に何も検出されないそうで、反応の信憑性が疑われるぐらいだそうなので、朗報以外の何者でもないですね。
エネルギーがフリーになった上で起こることは、われわれの衣食住がエネルギー問題が解決されることにより、フリーに近づいていき、最終的にはフリーで生活できることが可能になるということです。
合成肉は現状ですでに生まれていますし、人口で肉を加工する技術も早々に解決する可能性が高く、パナソニックのように人工光での植物栽培を試みるケースも増えてきました。
絵空事だと馬鹿にできないのは、すでに3Dプリンタを利用しての建築も可能になってきました。
VRの技術も進歩していますので、娯楽という没入間が必要な、つまり場所を選ばなければならないものが、場所を選ばずに楽しむことができるようになります。
なぜ、ここまで齊藤氏はフリーになることに拘るのか、という点において、以下のように述べており、ボクは読んだ瞬間に、同じ人間として尊敬しました 笑
事件や犯罪の大半がお金にまつわるものだとすればわ人々はお金にまつわる一切の問題から解放されるべきではないかと真剣に思うのです。(齊藤)
コンピュータが人間を超える
上記の未来がなぜ実現可能だといえるのか、といえば、コンピュータの能力が人間を圧倒的なまでに越えることがすでに計算できていることにあります。
齊藤氏の言葉を借りれば、人が介在できないレベルになるとのこと。
これは、高速の人工知能エンジンと高速の次世代スーパーコンピュータが組み合わさることで、人手を介さずに仮説や検証を行い、理論を作り出すことができるようになるということで、以下の3項目で
- 今後一年半で1,000倍近く高速になったAIエンジンが出てくると、とてつもない仮説が大量に生み出されるため、その全てに実験系を作り、実証することは数の問題から言っても人間には不可能
- 遺伝的アルゴリズムなどの高度な数式は人間には誰も理解できない。そもそもこういった高次の仮説は人間には理解すらできないし、検証もできない。
- 複雑さ。人間が対応できる複雑さは1対1、1対2、3のように1対nの対応関係に限られる。しかし生命科学等ではn対nの関係になるようなものばかり。例えば、基礎疾患で4つの病気に羅漢している人が5種類の薬を飲み合わせた場合(効果・副作用)の計算などは人間には到底理解しようがない
もう、人間の計算できる能力をはるかに凌駕した機械がすぐそこにあるんですね。
んで、次世代のスーパーコンピュータに、現在よりも1000倍高速なAIを組み合わせ、さらに日本の中で開発された量子コンピューティング技術である量子ニューラル・ネットワークが合わさることで『組み合わせ最適化』が可能になるとのこと。
組合せ最適化というのは、『与えられた条件を満たす組合せの中から、最適なものをできる限り短時間で探し出すこと』。つまり、人間が計算する必要がなくなることを意味します。
人間は最終的に、その中のよさそうなものの中からどれにするのかを選ぶだけの存在になりそうで、それはあと2、3年もあれば実現してしまうレベルになっているそうですよ。
興奮しすぎて、何もまとまらなかった
もう、最終的に、ここまで書いてきて、まとまっていないこと、引用だらけになってしまっていることに多くの反省をしております...。
しかし、未来にちょっとでも興味がある人ならば、ぜひ本書を手に取り、呼んでいただきたいと思います。
本当にワクワクするし、齊藤氏の優しさと、井上氏のユーモアっぷりに脱帽しますから。
お二方、楽しい本をありがとうございました。
人工知能は資本主義を終焉させるか 経済的特異点と社会的特異点 (PHP新書)
- 作者: 齊藤元章,井上智洋
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2017/11/16
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しかる?怒る?受け止める?
子育てに関して、ちょっと考えなければいけないな、と感じたことがあったので共有させていただきます。
ちなみに、ボクは他人を貶めたいとか、否定するとか、そういう意図はありません。
ただただ、子どもに対する接し方について共有したいのです。
それを前提に読んでいただきたく思います。
とある日の昼食どき...
先日、所用のため、妻の実家に行った時のこと。
お昼ご飯を我が家(ボク・妻・長男・次男)と奥さんの実家夫婦(義父・義母)で田舎のファミリーレストランへ出向きました。
ここで一つ、事件というか考えるべきことが生じまして、子供を育てている方には是非考えてもらいたいと思うのです。
「おもちゃが欲しい」とぐずる長男
店内はテーブル席が中心の1階と座敷しかない2階席があり、我々のパーティーは2階席へ。
すでに子供を連れた家族がたくさん座しており、まさにファミリーレストランの様相。
義父に絵本を読んでもらいながら『唐揚げがいい!』と威勢のいい声を張り上げた長男。
「あ、ご飯はいらないの...ね?」という周りの気持ちは関係ありません。
なぜなら、4歳になるところですからね、もう目に入ったものが中心であり、自分の好きなものが中心。
しばらく待っていると、徐々に料理が運ばれてきて、いよいよ長男の待ちに待った唐揚げの登じ...
あれ?表情がおかしい...
どうやらボクから見て後方の席に座っているお子さんが『お子様』系メニューをチョイスし、そこで、スタッフの方からオマケのおもちゃをもらっている様子
もちろん、自らも欲しがり始めました。
『欲ぉしぃい〜!!』
『唐揚げなんていらない!』
『欲しかったのにぃぃぃ!』
などと声を荒げながらグズリ始め、我が夫婦は「おやおや、また始まりましたね」といった気持ちだったのですが、そこで義母の様子が一変。
怒り始めた義母
義母が長男に対し、結構な物言いを始めたのですが、今回の争点はここ。
義母が長男に対して投げかけている言葉は到底ボクの理解を超えており、納得のできない言葉ばかり...
『こんなところで泣くなんて恥ずかしい』
『じゃー食べるのなんてやめる?』
『そんなに泣くんなら外に出す』
以上のような言葉をチクチクと繰り返しながら、ずっと泣きわめく長男に向かって続けていました。
奥さんのとった行動
ここで一貫して我が奥さんがとっていた行動は『受け止めること』
おもちゃがほしくてたまらないという長男の叫びをひたすら受け止め続け、彼の感情が少し収まることを待ち続けていました。
ボクは隣で二男を股に抱えながら食事を与えており、身動きが取れなかったのですが、まだ2歳になっていない次男は貪り食べていた 笑
それを見て義母が『こっちの方が“いい子”だなぁ〜』とか言い出すのには再び腹を立てることになりましたが…。
長男の感情が少しずつ、受け止めてもらったことにより、緩くなってきた頃合いを見計らって、奥さんは少し戯けながら『じゃー、唐揚げ食べちゃおうかなぁ』と言うと、長男はニコニコと食べ始めました。
これこそが、子育てであり、教育だろう!とボクは強く感心しましたし、心強くなりました。
誇らしげに義母に目をやると、ブツブツと、そしてチクチクと何かを繰り返し言い続ける始末。
どうしたもんかなぁ...と思いながら、長男も食べ終えたので、帰宅。
昼寝の時間でもあったので、ボクは次男を寝かしつけようと別室にてウトウト...
義母の怒りは収まっていなかった
ボクが次男とウトウトしている頃、別室では奥さんと義母の間で議論が勃発したと言うこと...
(憶測ですけど、ボクがその場にいたら、ならなかったのではないかと反省もしてます)
正直、内容を聞いて、どうしようもない気になって落胆したのですが...
奥さんが義母から言われたのは、「どうしてあの場で叱りつけることをしないの?」「甘やかしてる」と言う否定的なものだったそう...
ボクはここに本質的な問題が内在していると強く感じたので、今回、恐れ多くも記事として見ました
大人が過ごしやすい状況を作るのが“いい子”なのか?
ボクの年代(30代前半)でも聞かれることなのですが、子どもの様子を見て、『いい子だね』と発するのは、ボクたちよりも上の年齢層に多いのではないか、と。
(あくまでも経験則での実感です)
(大人が食事をする際に)きちんと座って食べていたら『いい子』
(大人の挨拶に対し、)きちんと挨拶をできたら『いい子』
(大人からの問いかけに)すぐに返事ができたら『いい子』
『いい子だね』と他所の大人たちが言う『いい子』と言うのは、前置詞がついてしまうことが多く、いわゆるレッテル貼りにも近いとすら感じる。
今回の件でいうと、義母はただ食べたいから食べている次男を『いい子』だと表現し、長男にぶつけました。
しかし、その『いい子』は『(大人にとって都合が)いい子』にしか聞こえません。
本人は否定するかもしれませんが、状況と発言内容かららはそうとしか受け取れません。
何より『恥ずかしい』という表現を厳しい物言いでしたが、ボクはそれを認めるわけにはいかない。
なぜなら、周囲には同じような子ども連れのパーティーが5組以上おり、会場としても、それを前提とした店になっていたことが一つ。
『恥ずかしい』という言葉にも前置詞がついていて、『(私が)恥ずかしい』になることが一つ。
まず、状況的には恥ずかしい状況など何も生み出しておらず、ボクも奥さんもそれを確認している。
ちなみにいうと、他の子どもが泣く姿も長男以前に二件ほど発生していた。
このことから、なにもボクたちの席だけが騒がしくなっていたわけではない。
そして何より『(私が)恥ずかしい』という言葉を用いたところに甚だ大きな疑問が生じる。
これは前提として、長男と義母が同じ思考体験を共有できることが必要となるはずだ。
要は、同じことを考えられることが前提になる。
しかし、状況を見れば即座にそれができないことぐらいわかるものだ。
彼は“自分が泣いてしまうことで周りの食事をしている家族たちに泣き声という騒音を聞かせること”について思考を巡らせることなどできていない。
目の前で行われたおもちゃの受け渡しに気持ちがいっぱいになり、自分もそうなりたいと強く願った状況だ。
子どもを言いなりに制御できるのがいい親なのか?
義母の中で、“公共の場でなく子どもを制御できない親はダメな親”という認識があるのではないか、とボクは考えている。
それには今回の長男に対する態度だけではなく、きちんと理由がある。
彼女(義母)の娘であるボクの奥さんに対しての態度がそう言わしめるだけ言葉がけを過去に何度となく行ってきたし、目の当たりにした。
そして、今回の長男に対する奥さんの態度を注意というか、指摘してきたことが決定的な要因だ。
「どうしてあの場で叱りつけないの?」
「甘やかしてるんじゃない」という言葉を奥さんに発した本質は“子育てに関してもいうことを聞かせたい”のだと思います。
自分の娘がした、泣く子どもに対しての態度を、自分の考えで染め上げようとしていることになる。
事実、それをボクは奥さんに確認したところ、それを認めている。
ここで言いたいことは、冒頭でも書いた通り、義母を貶めたいとか、ただ単にdisりたい訳でもない。
子どもに接するということは、常に思考を巡らせることであり、思考を巡らせたところでその通りにはいかない徒労感を味わう、暗中模索を繰り返す非常に苦しい闘いだ。
思考停止した状態で『AであればA』『BならばB』ということで決めつけてはいけないし、決めつけられない。
そのようなガッチリとしたルールが必要なのは、集団での行動が必要な場合であり、今回のような個別案件に関しては、きちんと“顔を見た”支援が必要。
子どもにはそれぞれ顔(性質や特性)がある訳で、それをきちんと見ることができる環境や状況なのであれば、きちんと見てあげる必要があると強く考えている。
もちろん、時間的、状況的にそれができないことがあることもあるだろうけど、できる限り子どもには向き合っていくべきだ。
ボクは小さい頃、両親が自営業で蕎麦屋を営んでいたこともあり(現在も元気に営業中)、部屋に一人でいることが多かった。
今になれば、両親が大変だったのは容易に想像ができるが、なかなかに小さいながらに寂しい思いをしたのは記憶に残っている。
だからという訳ではないが、ボクはできる限り子どもに向き合っていきたいし、頭ごなしに否定するような態度をとりたくない。
子どもは大人の分身ではない
今回の件で、義母の取っている態度を見て、自らの行動についても反省することができた。
ボクだって、完璧にできているとは到底思えない。
だけど、考えて行動して、また考えて...というサイクル自体は作れるはずだし、やっていくことが子育てなんだと思う。
そんなことを思っていても、勝手に育つのだろうけど...笑
最近、読んだ中でぐさっときた二冊です。後日、レビューを載せたいと思います。
- 作者: 友田明美
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- 作者: 石田勝紀
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【橘玲】幸福を戦略的に考えたいなら『幸福の資本論』を読む
今回は、2017年6月に出版された『幸福の資本論ーーーあなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』のを読んだ結果、すごく共感し、納得した箇所があったので、共有する。
幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」
- 作者: 橘玲
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2017/06/15
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橘玲(たちばな あきら)さんって...
著者である橘玲さん(@ak_tch)は、『マネーロンダリング』をはじめ、金融・経済関係の書籍を多数手がけている作家だ。
マネーロンダリング入門―国際金融詐欺からテロ資金まで (幻冬舎新書)
- 作者: 橘玲
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幸福になるための3つの資本
『幸福』という言葉は、抽象的ながら実生活の中に溶け込んでいる言葉だ。
資本という経済学用語を利用し、いかにして満足度を測るのか、というところに惹かれ、本書を手に取りました。
ここでいう幸福というのは3つの資本が充実していればいるほど高まるということ。
3つの資本とは...
- 金融資本(自由):金融関係の資産
- 人的資本(自己実現):自身が仕事を行う上での能力
- 社会資本(共同体=絆):家族・友人などのネットワーク
この資本をベースとし、パターン化したものが8つの人生パターンというわけだが、橘はこれですべての人の幸福パターンが説明できるとしている。
3つすべてが充実している人を「超充」、金融資本や人的資本は低い上、社会資本だけは充実している、いわゆるマイルドヤンキーは「プア充」、しかし、そのネットワークすら失ってしまうことで「貧困」になってしまう、など。
しかし、3つを同時に揃えられる「超充」は目指すべきではない、と著者は述べており、それは3つを同時に揃えることは、あまりにも現実離れしていることに起因する。
お金にも恵まれ、好きなことを突き詰めたうえで仕事ができ、多くの愛する人たちに囲まれている...
こんなことをできる人は本当に一握りの、もしかしたらいないかもしれないのだから、目指すだけ野暮というものですが、現実には2つをそろえることができている人はいて、それはボクたちの周りにも、それなりに存在する。
金融資産はなくとも、収入の恵まれた職業に就き、友人や恋人にも恵まれている「リア充」や、職務能力や金融資産にも恵まれているものの、友人や恋人など社会的資本がいまいちな「金持ち」など、身近にも2つ持っている人は一定数存在している。
身近なところに存在するということは、ボクみたいな人間でも目指せるということを意味し、それをどうやって勝ち取るのか、という戦略を考えることが本書のテーマだ。
「幸福は社会資本からしか得られない」
著者である橘氏は、もっとも重要な資本について以下のように述べます。
金融資産や人的資本に比べて社会資本は漠然としているが、幸福を考えるうえで一番重要だ。
割と面食らったような感じですが、ボクはその理由を読んだときに、なんとなく腹落ちしました。金融資産でも人的資本でもなく、社会資本が最も重要であるその理由は...
なぜなら、徹底的に社会的な動物であるヒトは、共同体の仲間から評価されたときに幸福感を感じるように進化の過程でプログラムされているからだ。すなわち、「幸福は社会資本からしか得られない」。
ボクみたいな小さくて何もできない人間でも、曲りなりにも”承認欲求”は持ち合わせています。この10年ほどで、その承認欲求を満たすための装置として、SNSが今ではインフラとして整備された背景を考えると納得できる。
ボクはお金も欲しいし、仕事ができる人間にもなりたいと心底思っているものの、いかんせん、何にも出来ていない...。情けない限りだ。
...戻ります。
ただ、3つの資本は常に増減を繰り返すものですので、それをうまくコントロールする必要があるが、それを設計することができるのがヒトという生物の利得であり、性質でもある。
つまり、増やしたい資本の特性をよく理解したうえで、生み出す富を計画し、実行することが求められるということになる。
超高齢社会の唯一の戦略
著者である橘氏は、日本が現在直面しており、どこの国も経験したことのない問題に関しての対策として『老後の短縮』を掲げている。
橘氏は、そもそも『老後』とは、上記3つの資本の中でいう“人的資本をすべて失った状態”と述べており、金融資産的な資本、つまり収入を得る方法は原理的に以下の二つ。
- 人的資本を労働市場に投資する
- 金融資本を金融市場に投資する
すなわち「働いてお金を稼ぐこと」と「資産運用」で、ほとんどのサラリーマンは定年を迎えると年金以外の定期収入がなくなることで、人的資本からの収入を得ることが不可能。
すると、人的資本をすでに定年という旧来的な制度のおかげで失ってしまっているため、十分な金融資産がない人は不幸に陥ってしまう。
そこで橘はこう述べる。
ここで大事なのは、『老後は自らの意志で長くすることも短くすることもできる』ということです。
老後問題とは、人的資本を失ってからの期間が長すぎることです。だとすれば、老後の経済的な不安を解消するもっとも簡単な方法は、老後を短くすることです。
確かに、現状、日本の中でも再雇用という形で定年退職をした方でも条件は落ちるものの、雇用されている人も一定数いますし、この方々は「老後」とはならない。
が、それまでの働き方ではなく、あくまでも支援者的な立場での就労ということになり、所得が下がってしまう上に満足のいく形での働き方ではないかもしれない。
そんなマックジョブ(本書の中で登場する、本当に誰にでもできる仕事)しかできないスキルしか持ち合わせていないのであれば『老後』が長くなるから、必然的に金融資本に依存する形になる。
そうではなく、ゆるい共同体(社会的資本)を維持しながら、人的資本を好きなことや得意なことに向けて強化し、“フリーエージェント化”することで、下手な依存的な社会的資本に振り回されることなく、常に現役として幸福を目指すことが可能となる。
このフリーエージェント化を目指す、という点が今後の日本においても、特に重要な点だと感じる上に、それができる人的資本はクリエイターになるということを意味する。
簡単にいうと、プロジェクト単位ごとに集合離散する働き方、つまり映画やアプリ開発などの働き方ができる人材となることは、結果として人的資本の高い人材であることを示す何よりの証拠となります。
そしてそれは、自らを『定年』という線引きとは無縁となり、自らのしたいこと、得意なことを生業として生きることが可能になる。
幸福を戦略的に考えられそう
ボクは正直にいうと、決して学歴があるわけでも(専門学校卒)、大した職歴があるわけでもない。しかし、本を読むことはできますし、大好きです。今回、本書に出会ったことで、ボクにだって幸せになることができるかもしれない、と思うことができた。
幸福について、少しでも考えている人は、ぜひ、本書を手にとって(Kindleの場合はダウンロードして)読んでもらいたいと思う。
今回もいい本に出会うことができた。橘先生、ありがとうございます。
幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」
- 作者: 橘玲
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FOOTBALL PERIODISATION参加してきました
スペシャリストとは何を持ってスペシャリストなのか
今回、オランダ人コンディショニングコーチであるレイモンド・フェルヘイエン氏によるFOOTBALL PERIODISATION(サッカーのピリオダイゼーション)セミナー(WFA*1主催、J-DREAM*2共催)に参加してまいりました。
一年ぶりとなるセミナー参加でしたが、前回がアドバンスドコースのLevel 1ということで、今回はアドバンスドコースLevel 2とスペシャリストコースLevel 1という内容でした。
スポーツトレーニングを学んだことがある方には馴染み深い“ピリオダイゼーション”ですが…という流れは、以前、ブログ記事({DE}dolog サッカーのピリオダイゼーションってご存知ですか? - {DE}dolog)前回のアドバンスドコースの内容も紹介しながら書いてあるので、参考までにご覧になってください。
前回から
前回のセミナーから一年、アドバンスの続きを取り組んだわけですが、その内容は「外部要因から影響を受けた場合」の対処です。
しかし、これについては、原則がきちんと踏まえられておれば問題のない話で、きちんとフットボールピリオダイゼーションがどんな原則から成立しており、どのような経過を経て行われるものなのかを把握していることで、どんなイレギュラーがあろうと対応できる、と
また、単独でフィットネステストを行うには何がいいのか、なんて無粋なことを問題提起してました。(あえて無粋なこと、と表現します。)
元々、レイモンドはフィットネス界の人間がフィットネスの用語を使ってサッカーのフィジカルトレーニングを考え、実践することを否定した人です。
結果、見事でした。
何が見事かって、レイモンドはきちんと自らが提唱するフットボールピリオダイゼーションを実施した結果、いわゆるシャトルランテストの結果も、研究ラボで図るVO2Maxも、心拍数の回復度合いもすべて改善する、ということをEvidence Base*3で証明して見せました。
さすが、としか言いようがありませんでした。
”FOOTBALLにおけるPSYCHOLOGY TRAINING”とは
今回のセミナーのメインと言っていい内容だったと思います。
いわゆる「メンタル」という分野に対してのトレーニングを皆さんは、どのようになさっていますか?
最近ではある芸人さんがこの言葉を使って生き残りをかけていますが…(←)
パンサー - YouTube
レイモンドは例のごとく言います。
「メンタルの専門家がフットボールのフィールドでメンタル分野の言葉を使ってトレーニングをする。これはおかしい」
「FOOTBALLを理解しない人間が、自らのフィールドの言葉を使って、指導することは、FOOTBALLじゃない。FOOTBALLの質を高めるためにトレーニングするのであれば、FOOTBALLの言葉に置き換えて考えられなくてはならないハズだ。」
ここでもレイモンドのFOOTBALL愛が感じられます。
具体例に入ります。
選手がプレーをしていて、ミスをしたとします。
例えば試合開始15分程度まで、戦術的に機能したとはとてもいえないプレーをしていた選手がいたとします。
「集中しろ!」「寝てんじゃない!」なんてことばが出てきそうなプレー。
この「集中」という言葉自体がフットボールではない、というわけです。
これは現象に対する主観的な感想です。
その集中していないプレーは「現実としてどんなプレーの結果」を産んだのでしょう。
相手のボール保持者に対してのプレッシャーが甘くなってしまったがため、守備を簡単に崩されてしまったのか。攻守の切り替えが著しく遅れたため、相手に存分なプレーエリアを提供したのか、など
“事実”として選手がしたプレーが「集中しろ」という言葉の裏には存在するわけです。
その事実を選手と指導者が共感する必要があり、その為には選手は常に考え続けなければなりません。
どんなプレーをすべきなのか。
そのプレーの後にはどんな結果が予測され、そのために全力を尽くすことを常に意識し、考え続けることです。
ものすごく簡略的に言ってしまえば、「余計なことを考えずにプレーしろ」ってことですね。
サッカー選手って、ものすごく多くのストレッサーに身を晒されています。
メディア、サポーター、重要な試合、ライバル、レフェリング…
それら外部環境にプレーを左右されてもおかしくないぐらいに様々なものが取り巻いています。
ネガティブな思考が身体動作を制御しはじめれば、それに応じてネガティブなホルモンが分泌されます。自らが思考をコントロールすべきであると語るレイモンド。そんなレイモンドから途中、Meditationという言葉が頻繁に出てきました。
これは「瞑想」や「黙想」という意味で、まさかレイモンドが瞑想を連呼するなんて…キーワードは「禅」かな、と。
*ただし、禅であればレイモンドは日本で禅堂に行って見たのかどうかを聞いてみたい気もします…。野暮ですね。失礼しました。
ボクは日本人ですが、深いところはわかりませんけど、外部からの雑念を一切遮断する「禅」を理解は出来ます。欧米人の基質がどんなものなのかをキチンを把握していないのですが、長谷部みたいに「心を整える」日本人に比べたら荒々しいのかな?というところがMeditationという言葉を使った理由があると思うんです。
ボクなんかはこのFOOTBALL THINKINGの話を聞いていて、本田圭佑選手がすぐに思い浮かびましたよ。時として納得の行かないレフェリングに不満な顔をすることがあるにしても、彼は常に自らのプレーのことを考え続けているように見受けられます。
本田圭佑 Keisuke Honda 2013 - All goals&skill(CSKA ...
ボールの行方や味方のポジションや相手の状態、など
サッカーをすることに意識を注いでいることがすごくわかるプレイヤーなんですよね。
あ、個人的な意見です。
彼みたいなプレイヤーはレイモンド的にいえばGOOD PLAYERなのではないでしょうか。
”ACTIONとは環境との相互作用”
ボクが今回のセミナーに参加して、一番聞けてよかったと思ったのは「ACTIONとは環境との相互作用だ」という文言。
ここ、サッカーに主軸を置かれている方々がどのようにとらえたのかが非常に気になるのですが…
外部の環境に対して、人間が能動的に働きかけることがACTIONだ!とレイモンドが言ったのです。
これ、ライプツィヒ学派の「コンピテンツモデル(1967 OLBRICH,Hirtz)((KoLeSpo講座資料より 」で説明できると思うんです。
詳しくはこちらから
ドイツはライプツィヒからの帰国 その8 - {DE}dolog
つまり、様々な外部環境にさらされながらも、質の高い動きをする、その過程が何よりも大切なんだ、と。
レイモンドのいうフットボールピリオダイゼーションは、結果に至るまでの過程をより良くするためのものであり、結果を高めるための手段でしかない、とセミナーの最後には言っていたのですが、個人的に一番の肝がここにあるのではないか、と感じています。
もちろん、レイモンドはこのピリオダイゼーションで結果を出してきました。
ですが、結果というのは絶対的なものではなく、相対的(他の環境や要因に左右される)なもので、尚且つ、不可逆(元に戻れない性質)なものです。
レイモンドだっていくつもの失敗を重ねて、現在があるわけですから、結果までをコントロールしてきたわけではありません。
ここまで真剣に考え実践してきたのは、フットボール選手の質の高い動きの追求や、負荷のコントロールなどフットボールをより良くするための方策を考えてきたことです。その結果、試合に勝つことが出来て来たわけで、初めから勝つことを意識していたのではないと思います。
如何に選手が結果を出すまでの過程を手助けできるのかどうかを考えてきた結果としてFOOTBALL PERIODISATIONが生まれたんだと思います。
だから、指導する立場にいる人間として、指導対象が如何に環境や状況といったものに対峙・適応していくのかの手助けを意識してこうと強く思いました。
そして、何より、レイモンドはProfessionalでした。
100%を求めるのであれば、100%でいろよってね。
今年も一年ありがとうございました!
感謝しております
今年一年、大変、動きのある一年でした。
素敵な大人の理解のお陰で職場を替えることになり、妻の妊娠・流産・出産…
やはり、ボクにとって大きかったのは何よりも「妻が無事でいてくれたこと」です。
毎年、年末年始は来るのですが、次の年に何が起こるのか予想もできませんし、予想をしたところでその通りには行くわけはないのですが、来年からは自分の行動に対しての予測と準備をきちんとして道筋をある程度立てていきたいな、と考えております。
高城剛さん*1は、年始に再来年の自分が来年どんなことがあったのか振り返るイメージするそうです。
つまり、今の時系列で説明をすると…
2015年にいる自分が2014年を振り返る、ということです。
はじめに聞いた時には正直、何を言ってるのかなと思ったのですが、よく考えてみると、世の中の流れや自分ができる行動、それに伴う準備事項を把握できているからこそ成せる術。
常に情報に身を晒しながら、自分のできる行動、そして、それに伴う準備事項を踏まえた上で、来年一年を生きていこうと思います。
新潟という地におり、最前線というわけにはいきませんが、ひとつの動きを作れるような働きかけを出来そうになってきました。
最後になりますが、こんな素敵写真を撮れるような時間をくれた妻である直美に感謝したいと思います。
ありがとう。
それでは、皆さん、来年もよろしくお願い致します。
遠藤涼介
発達を見せる息子
生後一ヶ月
“人間は, 運動が未発達なままで, この世に生まれ落ちてきます。自分の力で環境を切り拓く事ができるような動作を, 生まれつき持っているわけではありません。新生児にできるのは, 仰向けやうつ伏せの状態で, ごくわずかに体側を捻ることぐらいで, 頭を持ち上げることすらできません。また, 両眼とまぶたのコオーディネートさえ行われてないことが多いのです。”
以上は前回の記事 *1紹介した動作学−スポーツ運動学*2からの引用です。
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我が息子は(結果的に)母親の腹をぶち破って切られてでてくることになったのですが、生後一ヶ月経つ現在、上記の通り、寝ている姿勢を自ら変動させることもできず、わずかに体側を捻ることぐらいで、頭を持ち上げることなんてもっての外です。
しかし、最近になってできるようになったことが一つ。
それが「蹴伸び」です。
睡眠状態から覚醒状態になった途端に、両手両足を目いっぱいに伸ばし、身体背面の筋肉を収縮させることができるようになってきました!
蹴伸び状態にある彼の姿勢を横から見ると「Cの字」を描けるぐらいに仰け反っています。
正直、まだそこまで仰け反れるものでないと高をくくっていた私ですが、その可動性に驚きを隠せません。
無指向的群動作
現在、我が息子を始め(勝手に現在いる子どもの中心を自分の子供だとするあたりが親バカ)とする生後1ヶ月の子どもたちが行っている動作は、目標との関連が全くないもの。
でたらめでぎくしゃくしていて、まだ小さいがために「可愛いい」として扱われるものの、いい大人が同じ動作をしていたとしたら変な人扱いを受ける上に、煙たがられること間違いない。
まとまりがない上に目標も、目的もどこにあるのかがわからない。
それもそのはずで、現在、私の息子が属しているのは新生児期*3で、現状、彼らの視界は30cm程度で、コントラストの濃淡や輪郭確認をギリギリできるぐらいなものだ。
現在、我々が見えている世界と彼らの見えている世界は大きく異る。
それこそ、“我々の見識”を彼に当てはめても全く持って意味を介さないことになる。というよりも、彼にとっては全く意味を持たない世界だ。
以下は「ガイドライン 生涯発達心理学*4」からの引用ですが、新生児の焦点距離と授乳時の焦点についてです。
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“(中略)視覚に関していえば、焦点距離はおよそ30cmくらいで、コントラストの強い部分の境目を区別するくらいであるとされている”
“授乳している時の焦点に位置するのは母親の顔である。その中のコントラストの強い部分は、目や眉、そして髪の生え際である。新生児が凝視するその姿は、母親にとっては自分へのまなざしそのものなのである。”
母親と新生児が多くのアイコンタクトを図れる存在は母親にほかならない、というわけです。(他の人がミルクを上げている時には、その人がちょうど焦点位置に来るので、もしかしたら、そこで彼は「違う」と認識しているかもしれません。)
つまり、焦点距離が30cmくらいしかない中で目的や目標を持った動きを求めるほうが酷なわけで、それを理解しない大人は、“大人としての視界”を有した状態を前提に新生児話しかける。
それは虚空で終わりますが…
必死に適応を目指す
現在の彼が有している動作は…
- 呼吸
- 鳴く(泣く)
- 吸乳
- 嚥下(飲み込むこと)
以上の4点です。
改めて本を片手に彼の動作を観察していると、ここに無指向的群動作が加わって、“必死に重力世界に対して自らを適応”させようという様を感じて仕方ない。
動作学の中にある「両腕の“ふりまわし動作”」や「両脚の“足踏み動作”」も確かに行っている。
その動きは、出生直後の肩から先や膝下だけの小さい運動ではなく、生後4週間を迎え、特に下半身において股関節の伸展動作が見られるようになってきた。
まず、両手両足が自由に動くことは、前提として脊柱の安定が図れないことには達成できないハズ。
それを考えると、ここ最近は頭部の迷路性位置反射で、自分の頭の位置をできるだけ正常な状態*5に保とうと頭部を持ち上げているのだけど、それは四肢のダイナミックな動きを引き出す上での前提条件を整え始めたといえるじゃないか!
いいぞ!我が息子よ!
これからは、更に頚部や脊柱の安定性が増してくることが予想されるので、いわゆる「首がすわる」状態になるわけだ。
楽しみにしていよう。
次はどんな動作を身につけていくのか。
とりあえず、まつ毛が生えた。