関東・東北大震災から
早くも1ヶ月が経過しようとしています。
自分自身は新潟にいましたので、特に被害も無く、平穏無事に過ごしておりました。
twitterやFacebookを始めていたこともあり、(電波の繋がる状況下において)それらソーシャルネットワークのForceを強く感じました。
正直な所、今回の震災を迎えた上で、自分のしていることに対しての自信が揺らぎました。
上記したネットワークの中から次々と出てくる被災地の状況…
スポーツというのは、生活の基盤の中で行われるもの、というのを強く認識“させられ”ました。
その後、本当に深く考えました。
考えても仕方ないのかもしれないけど、考えました。
トイレにいるときも
風呂に入っているときも
食事をしているときも
仕事をしているときも
車に乗っているときも
トイレにいるときも
…あれ?
トイレが二回…
うん。
被災者の方のブログの中には痛烈でありながらも、とても真実を語っている内容がありました。
自分の兄に対して『どうしたらいい?』と問いかけると『正直、不幸になって欲しい』と返ってきた、と。
家が流され、数多の人たちを置き去りにしながらも津波から逃げ仰せたはいいものの、残ったのは心の傷だった。
という内容。
大変ショックでした。
頑張ろうなんていえない。
頑張れなんてもってのほか。
一人じゃない、なんて、詭弁かもしれない。
一つのチームだなんて思えるはずがない。
元々、震災が起こった後、自分は『被災者の方達には成り得ない』から、“いつも通り”過ごす。
いつも通りの生活を送る事と、自分の出せる中での義捐金を出す事が何よりの支援だと考え、
行動しています。
どこか、そんな自分に満足していた部分があるのかもしれません。
そうする事で、『関与した』という結果を自分に提示したかったのかもしれません。
そうした中で、自分のしている仕事に関して考えていると、やるせない気分になりました。
必要…ない?
本当にそう思いました。
真剣にそう考えました。
けど、自分にはこれしかない。
これでやっていくと決めた。
だから、どんな状況であれ、“必要だ”と思われるようになろうと強く思いました。
サッカーのチャリティマッチを見ていて、感動しました。
凄く凄く、勇気を感じました。
そりゃ、生活がある程度出来ている人間が感じることかもしれませんが、
そういう人間がいないと、暗くなるばかり。
そうじゃない。
暗くなるよりも明るく。
過去よりも現在。
未来なんてわからないから、今。
俺にとってのスポーツは、大切で必要なもの。
必要だと思われるようにすべきもの。
じゃなきゃ、俺が俺の仕事を、存在を否定することになる。
そんなのは俺がしたら駄目。
しちゃいけない。
俺は俺の闘いをこれからも続ける。
それが今回の震災から1ヶ月経った自分の気持ち。
東北には仲間がいます。
福島にも。
茨城には血の繋がった人間がいます。
人事じゃない。
俺のことでもある。
だからこそ、俺の闘いをする。
必要!