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dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

小室哲哉さん引退は僕たちのせいだ

小室哲哉さんを引退に追いやったのは誰か...。そんな誰も納得しない問いをここ数時間真剣に考えている。モヤモヤした気持ちを抱いた僕がTweetした内容は以下の通りだ。

 

 

ここで僕が述べているのは、国の政治家が愚かだと国民が罵ることは国民に主権のある民主主義国家である以上、それを選んだ国民が愚かだったという証左になるということから、出版物においても同様で、活字として出てくるものは、発行者や編集者、記者が「求めている人がいる」ということを背中に感じた上で実際に行動した結果だ。

 

つまり、新聞、雑誌、TV、ラジオをはじめとしたマスメディア然り、ネット内でもSNS、ブログ、掲示板然り、そこに書かれるものはそれを読む人がいる前提で文字となり、実際に僕たちの目に触れている。

 

ここから僕が考えたことは、週刊文春小室哲哉さんのことを記事にする、ということが引退に直接結びついたかどうかは判断できないが、間接的にその背中を押す形になっただろう、ということであり、その間接的という枠組みの中には僕やファンの人たちも含めた多くの人たちが含まれる。

 

何がいいたいのかと言えば、愚かな為政者が存在するのと同様で、愚かな記事は僕たちのなかに野次馬根性を抱き、今回の記事が掲載されている雑誌をどんな形であれ手に取り、読み、否定的な感想を抱いていることの証左だということだ。

 

Tweet内でも記載したが、僕はなんだかんだといいながら小室哲哉の音楽が好きだ。中でも『BEYOND THE TIME~メビウスの宇宙を越えて~』はトンデモない名曲だと信じている。

 

全く聞いたことのない人は是非、目を閉じ、自身の中にある宇宙をイメージしながら聞いてもらいたい。ここまで音楽で空間をイメージさせられる曲を僕は他に知らない。


TM NETWORK / BEYOND THE TIME(TM NETWORK CONCERT -Incubation Period-)

僕なんかが言わなくても、小室哲哉は紛れもなく天才だ。

だが、その天才は、プライベートで消耗し、それを少なからず妬む気持ちを抱いていた僕たち愚かな消費者たちが今回の掲載された記事を求めた結果、芸能活動からの引退という最悪の結末を迎えることとなった。

けど、それは僕たちが間接的に招いた結果であり、そんな僕たちは小室哲哉の音楽を楽しむ資格を持っているのだろうか。ただ、記事にした文春を否定するのは簡単だけど、その記事を読むのは僕たち消費者だし、騒動を報道するワイドショーを視聴するのも僕たち消費者だ。

僕たちは、希望するもしないもなく、「求めている」と思われている。思われているからこそ、活字になり、記事になり、編集され、出版される。別の媒体でも一緒だ。

そこでどうしたらいいのか、という解を得る段階に僕はまだない。ただ、今は残念な気持ちを抱いているが、いま、僕のそば小室哲哉さんが浅倉大介さんと共に作った『仮面ライダービルド』の主題歌をノリノリで聞いている長男がいる。

まだ4歳だが、「この曲はすごくかっこいい」という彼の言葉は小室哲哉という才能について、素直に評価された一言なんだなぁと切なくなった。

子育て・教育はコストか投資か

子どもを迎え入れる=大きな費用がかかる

日本を覆う少子高齢化の波は一向に止む気配がないどころか、その勢いを増すばかりだ。厚生労働省が発表した人口動態統計によると、2017年の出生数は2016年から2年連続で100万人を割り込み、941,000人としている。

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平成29年(2017)人口動態統計の年間推計|厚生労働省

もちろん、内閣府もこの状況に手を拱いているだけではなく、対策を講じており、毎年その内容を白書としてまとめ、内閣府のWebサイトに挙げている。

白書 - 少子化対策 - 内閣府

保守であるはずの政権与党である自民党が「母親は主婦として家を守るべきだ」とは言わず「女性が活躍できる社会を目指す」とし、女性が働けるような環境を整備するということを喧伝し、実際に政策を打っていることからも、その緊急性がうかがえる。

 

歴史的な流れを見ることは今回は他の場所へ譲るとして、今回は我々のような個人で見た際、どのような理由で少子化になったのか。そして、子育て・教育はコストなのか投資なのか、ということを考えてみたい。

 

コストとしての教育

まずは「コスト」と「投資」の言葉について、その違いを考えてみたい。(はてなキーワードより引用)

【コスト】

  1. 何かを生産するのにかかる(かかった)費用
  2. 広義には、物の値段のことも含む。
  3. 金銭だけではなく、あらゆる物事を達成するのにかかった物理量(時間、エネルギーなど)のこと

【投資】

  1. 利益を得る目的で、資金を証券・事業などに投下すること
    三省堂提供「大辞林 第二版」より)
    「お金が儲かるしくみ」の一部もしくは全部を買うこと。
    そのしくみが機能しているあいだはそれを持っているだけで収入になる。
    金持ちが金持ちであり続ける理由はそういったしくみを多数所持していることによる。
  2. 転じて、リスクを前提に相応の見返りを期待して何かに金銭を投じる行為全般を指す。
    ギャンブルや、キャピタルゲイン目当ての株式売買などに用いるのは本来の用法から言えば誤りだが、一般的に広く使われているのも事実。

 

ここでの違いは、コストは費用のみに焦点が当たり、投資はそのリターンまで焦点を当てることだ。リターンの有無を確認しているかどうか、またはリターンを求めるのか否かという態度によって「コスト」か「投資」かが別れるということだ。

 

では、純粋に教育産業における経営的な視点で見た場合、そのコストの多くはどこにかかるのか。それは人件費だ。

厚生労働省が公表している賃金構造基本統計調査によれば、教育・学習支援業における平均年収は435万となっており、他の職種も含めた一般的な平均年収304万円を大きく上回っている。

平成28年賃金構造基本統計調査 結果の概況|厚生労働省

もちろん、これは一般的な学校での人件費とは言い難く、民間の学習塾や各種習い事などの教育サービス業界の賃金体系だと考えるのが自然だ。しかし、子どもたちが通う「学校」には大きく分けて二種類あり、公立の学校と私立の学校だ。

ここで扱われている数字には、民間、つまり私立の学校は民間の事業者となる。ということで、上記数値を適応させてもらうこととする。

なお、文部科学省は地方教育費調査として、地方公務員として働く公費の歳入・歳出についての資料を公表している。

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結果の概要-平成28年度(平成27会計年度)地方教育費調査:文部科学省

 

子育て・教育がコストかどうかという点においての分かれ目になるのは「リターンを求めるのか否か」だ。僕の世代を始め、大都市圏においては、義務教育課程や高等教育を私立に通わせることがある程度スタンダードだった。

この背景には、公立の学校が学級崩壊や校内暴力で荒れ、崩壊していたこともあり、余程のことがない限り私立を選択せざるを得なかった。下図は文部科学省の問題行動等についてまとめられた資料だ。資料内では昭和から追っているが、平成に入り、急激に中学年代の暴力行為が増えている。

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平成26年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」について

ここから考えられることは、投資として中学や高等学校へ行かせるというよりも、安全で一定水準の私立に仕方なく通わせるというコストとして教育を捉えることも決して違和感がない。

また、私学に通わせることで学費は高くなる。下記リンクは文部科学省が私学と公立校の学費を比較したものだ。学費は単純差額で民主党政権時に開始された2倍とも3倍ともされており、優秀な学生は多少無理をしてでも私学へ通わせることが保護者の優先事項とされた。

平成29年度私立高等学校等授業料等の調査結果について:文部科学省

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上で図示した一般労働者賃金の対前年増減率の推移と性別間の格差の推移を見ていただきたいのだが、平成に入り、一般労働者は平成に入り14年度まで下落傾向にあった。その中で私学へ通わせることを考えると決して楽な生活ではないことが想像に難くないが、それでも大都市圏の保護者は私学を望んだ。

しかし、高校無償化や中高一貫教育によって、優秀な学生が私学だけではなく、公立も選択するようになったことから、学級崩壊や校内暴力等が収まる結果となり、中学高校の教育はコストからほぼ解放されることとなっている。

なお、現在、高校授業料の無償化については、所得制限を設けるなど制度が変わっている。下記リンクより参照いただきたい。

高校授業料無償化の新制度と旧制度の違い

 

子育て・教育は投資としての地位を確保できたか

現在、教育に関するコストはより就学前児童(保育対象年齢児童への無償化)と大学等の高等教育機関に対する税の問題にシフトしたが、そうなるとコストが別の場所へ移動したことにより、教育は投資としての地位を確保できるのだろうか。

現状、日本はデフレーション経済下におかれている。内閣府は90年代半ば以降緩やかなデフレ傾向であったことを正式に認めている*1が、物価が上昇したことに対して賃金はどうか。

上でも見たが、一般労働者の賃金平均は、平成9年と平成28年において(途中に上下はあるがほぼ横ばいに近く、金額的には)6万円上昇している。それであるならば、デフレ経済下においては生活が楽になるはずだが、実感としては決してそうはなっていない。

デフレ環境下では、いまよりこれから、今日より明日の方が物価が安くなるので、買うのを控えるようになる。銀行に預金を行うことで、ゼロ金利であっても、実質的には物価が下がっていくので利率が増えていくことと同義だ。そして何より、デフレではお金の価値が引き上がる

つまり、お金をすでに保有している、もしくは定期的に金額が確実に入ってくる人間には大変有利であり、お金を保有していない人間には不利な状況になるということだ。

非正規労働者や住宅ローンを抱える人間は非常に苦しくなる。モノやサービスの価値は下がるわけだから、非正規で労働というサービスを提供している人は平気で物価の低減を理由に対価を引き下げられ、住宅ローンを抱えている個人では、住宅や土地の価値は目減りしていくことで、相対的に借金の価値が重く重くのしかかる。

そんな中で生活することになった人たちへの賃金はほぼ据え置きの状態でありながら、物価が下がり続けていく中で、人々は上でも述べたように私学へ入れたい気持ちを胸に抱き、安くない学費をサラリーマンである父親が家計を一人で支えながら(母親は扶養控除限度額までのパートで補助し)子どもを金銭的に支援しなければならなかった。

これでは子どもを育てることは明らかにコストだ。とても投資とはいえない。正確にいえば、投資と考えたいが、家計的には明らかにコストとして重くのしかかる

このような背景を経て、日本の少子化は加速していくこととなる。また、高齢化に伴い、社会保障という厚生労働省からの“税金”が負担が一般労働者には重くのしかかる。

下図は、国民の所得に対する国の税制負担割合を示すもので、社会保障の負担率の負担割合が大きく増加しており、租税負担率*2と合わせた国民負担率は2016年の時点で42.5%となっている。

 

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国民負担率及び租税負担率の推移(対国民所得比) : 財務省

社会保障は税金ではないと認識している人もいるかもしれないが、国へ「強制的に」徴収されたものを国に住まう権利を有する人たちへの再分配であること、そして、国の方針に則って運用されることを考えると、運用する省庁が異なるだけであり、実質的には税金と変わりはない。

これを国際比較しているものが財務省には公表されており、これを確認すると2014年度時点において、日本の先進国の中では中程度の負担率となっているが、

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国民負担率(対国民所得比)の内訳の国際比較(日米英独仏瑞) : 財務省

福祉のあり方には国の色というべきものが出てくるし、大学までの授業料が無償、高齢福祉が充実しているなど、それぞれの国ごとの方針に沿ったものが福祉政策として策定され、実施されている。

日本も国民皆保険など、他国と比較しても長けているものもあるが、これは国民総所得を一緒に見る必要があるだろう。見てみると日本における所得は他国と比較し決して高くない。(下図)

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1人当たり国民総所得(2015年)(国際比較)のグラフ | 探してみよう統計データ|なるほど統計学園

これは、税や社会保証の負担率が他国と比較しても中程度であるものの、手元に残る資金が他国と比較して少なくなることを意味する。ましてや、上でも触れてきたが、教育という観点で見た際、日本は特に高等学校への支出が大きく(現在は高校の無償化でましになっているが...)、国民の負担率に教育費が上乗せされることを考えると、やはり、教育はコストという結論になる。

ここから考えられることは、日本が他国に類を見ないほどの高い少子化高齢化率に陥っているのは致し方がなく、理由は上で見てきたように、子育て世代に対する負担が大きく、それに加えて教育費用を捻出することが一般家庭には大きな負担となるからだ。

 

投資に必要なのは大人の態度

では、子育て・教育を「投資」とすることは無理なのだろうか。

冒頭の「コスト」と「投資」の意味について触れている段階で、答えが出てしまっているのだが、結局は金銭を使う側の態度でどうにでもなるのではないか、というのがボクの答えだ。

上では「子育て・教育はコストと見なさざるを得ない」という結論になったが、養育するものの立場として、考えなければならないことであるから仕方ない。問題はそれ以降だ。

今後、日本は他国が経験したことのない問題がドンドンと押し寄せてくる。2040年には全国の人口が1億人強となり、高齢化率が36%を超えてくる。つまり、三人に一人以上が高齢者ということだ。

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統計局ホームページ/人口推計/人口推計(平成28年10月1日現在)‐全国:年齢(各歳),男女別人口 ・ 都道府県:年齢(5歳階級),男女別人口‐

2040年となると、今から22年後だが、日本における人口増加は期待できない。というか、いまごろ政府が様々な政策を打ったところで、付加価値程度にはなっても本質的な解決にはすでに遅すぎ、すでに詰んでいる状態だ。

この人口動態の中で子どもたちは、日本市場を相手だけに闘うだけで十分という昭和バブルな生き方ではない。日本国民だけで商売をしようと思ってもたかが知れているのだから、今後は世界中の人たちが商売の対象になったとしても生きていけるだけの人的資本を身につける必要がある

上記したが、日本は他国が経験したことのない問題が押し寄せる世界問題初体験国家になることが決定している。つまり、その問題に対する失敗や成功を持っている国がいないということだ。逆に言えばチャンスであり、問題に直面することで他国に先んじてknow-howを持つことができるということにもなる。

こうなると、親が「コスト」ではなく、「投資」として子どもたちにしてやれることは、親の自己満足な浪費ではなく、子どもの人的資本、もっと言えば市場価値を高めるような消費に金融資本を使っていくということだ。

親の思い出や自己満足な浪費としての例を挙げるならば、「七五三の衣装」「成人式の晴れ着」など、どう考えても“子どもの(人的資本を高める意味での)成長”になんら影響を与えないイベントだ。

七五三など、そもそもは子どもの健康を祈願し、神社を詣でるというものでしかないのに、なぜ衣装を整え、写真まで撮る必要があるのか。晴れ着にしても伝統とか言われているが、調べてみれば別に大したことはない、ただの金持ちの見栄の張り合いが行われただけで、それを伝統ということ自体が烏滸(おこ)がましい。

結局、それぞれクリスマスやバレンタイン、恵方巻きなどと一緒で、商売上イベントを利用した方が売りやすい、というただ販促につられている人たちが多い、というだけだ。

現代以降を生きる子どもたちは、こういった生きる上でのリテラシー*3を高めていく必要があり、それは養育者たる親の考え方や接し方が大いに重要な要素となる。

 

単に小遣いと称してお金を渡すのか、その稼ぎ方を教えるのか。稼ぎ方というのも多岐にわたるわけで、簡単にあげれば以下などだ。

  • 自らの人的資本(プログラミングなどの身につけた技能)を使って対価を得る
  • 株式投資や仮想通貨への投資から運用益を得る
  • ネットせどりのオーナーとして、仕入れと販売の差額から利益を得る

これらを行うにも先人のknow-howから学ぶことができるし、そのためには本を読む必要がある。これも親から子どもへの投資になる。いいかえれば、子どもが行動する際に動けるような自信を身につけさせることとも言える。

上記した販促イベントに乗っかって、親の自己満足的な浪費をするのであれば、その金額を何年か蓄積させ、子どもに短期留学をさせることだってできる。つまり、子どもにとって(将来的に)有益になるであろう事柄に対し金融資本を投ずるには、親の自己満足や思ひで作りを我慢するしかない。

人生は何をするにもトレードオフ

人に与えられる時間は有限であり、金融資本についても有限だ。有限である以上、何かを選ぶには何かを捨てるしかない。人生は何をするにしてもトレードオフ*4なのだ。

企業においても、採算の取れない不要なコストのかかる部門をカットするし、家計においても同様だ。金融資本を増やそうと考えるならば、現状の生活からカットできる部分についてはカットし、資本に充てる。

子育て・教育は、養育者の観点からみれば確かにコストではあるが、子どもに対して投資を行いたいと考えるのであれば、必然的に親の自己満足や見栄に子どもを付き合わせる浪費に対してメスを入れざるを得ない

 

*1:内閣府平成13年度年次経済財政報告http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je01/wp-je01-00102.html

*2:国民がどの程度,所得税や消費税などの租税を負担しているかをマクロ的に示す指標。

*3:原義では「読解記述力」を指し、転じて現代では「(何らかのカタチで表現されたものを)適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」という意味に使われるようになり(後述)、日本語の「識字率」と同じ意味で用いられている。

*4:一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという状態・関係のことである。 トレードオフのある状況では具体的な選択肢の長所と短所をすべて考慮したうえで決定を行うことが求められる。

【佐藤航陽】『お金2.0』を読み、お金というよりも経済の流れに身を委ねることを決めた?

達観した物見をする著者

前著を読ませてもらった際にも感じたが、イマイチ納得のできる表現が思いつかなかった。しかし、今回、本書を読ませてもらったことにより、明確になったのが、佐藤航陽という人は達観している、ということだ。

書評として、というよりも、本書を少しでも読みたくなってもらえれば、と思い書いて見た。

お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)

お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)

 

 世界中で起こる分散化

まず、断っておかなければならないのは、本書はタイトルこそ「お金2.0」となっているが、お金というツール自体に意味を見出し、「新時代における通貨の説明」をする本ではない。

お金、つまり通貨はあくまでも価値リソースを表現するのにちょうどいいツールだという程度だ。

なので、そこを間違って汲み取るべきではないことと、お金が中心となる社会というのは、今後来ないとかんがえられる、その理由は...という代替論として、ちょうどよい言葉、表現が「お金」だったということ。

 

大なり小なりすでに起こっている分散化の世界

現在、世界は分散化というキーワードの元に、大きなうねりを作り出している。

英国でのBrexit騒乱、米大統領ドナルド・トランプ氏が就任、スペインのカタルーニャ州独立運動など、これまでの中央集権的な思考やシステムに対し、反発をする動きが見られる。

その中でも、今年にかけて20倍以上の値動きを見せている仮想通貨Bit Coinについても、お金の分散化という意味で言っても、注目を集めている。

そもそもBit Coinとは、サトシ・ナカモトという(正体不明な)人物が暗号理論のメーリングリスト*1に電子暗号通貨ビットコインの論文を発表したところから端を発している。

ブロックチェーンという技術を応用して作られており、簡単に言ってしまうと、その技術は記帳システムであり、一定数の取引を1ブロックとして規定し、その取引履歴を個々人のアドレスに記帳していく事になる。つまり、ブロックチェーンは中央で管理する管理者は存在しない。

今後、分散化がドンドンと加速的に増えて来ることによって起こることは、仲介者や代理人という存在が全く不要となることだ。つまり、P2P(直接本人同士)で物事が解決し、流通して行くという流れになるということを意味する。

 分散化の先

貨幣的な機能が分散化された先にあるのは、経済の主義における変遷が起こる。

つまり、現在のグローバルな世界で周知の事実である『資本主義経済』が次のステージに移ることになる。佐藤は資本主義経済の次のステージは『価値主義経済』だと述べており、その説明を引用する。

価値主義ではその名の通り価値を最大化しておくことが最も重要です。価値とは非常に曖昧な言葉ですが、経済的には人間の欲望を満たす実世界での実用性(使用価値・利用価値)を指す場合や、倫理的・精神的な観点から真・善・美・愛など人間社会の存続にプラスになるような概念を指す場合もあります。

ここで注意しなければならないことは『既存の資本主義における価値』と『価値主義経済下における価値』とは似て非なるものである、ということだ。

資本主義経済下における価値の中に、人のエモーショナルな部分、つまり、感情を価値とする指標はない。(正確にいえば、それを価値として換算する機能を有していない)

ということは、人の感情を豊かにするもの、精神的に満足するもの、など、一重に評価が個人に委ねられるものの価値が高まっていくことを示している。

再度確認しておくと、あらゆる通貨などを中心とした社会的な機能が分散化し、個人でのコントロールが可能になると時を同じくして、これまでの資本主義では充足できなくなった人類は、次のステージ、価値主義への足を踏み入れることになる。

個人へ価値の判断が委ねられるということは、これまでの評価軸、中央集権的システムではなく、分散化された先にある個々人が評価軸として機能することを意味し、個人の信用が前提となる。

 つまり、個人の信用に基づいて価値評価され、その価値観に基づいたグルーピング、つまり経済圏が生まれることになるし、さらにはその経済圏をどう運営していくのか、というKnow-Howを多く持っている人物こそ(あらゆる商圏において)“価値の高い”存在になる。

なんだか難しく書いてきたが、簡単にいえば以下の通りだ。

  • 経済が資本主義が終わり、価値主義へと変遷する。
  • 資本主義の終焉に伴い、法定通貨が徐々に力を失い、仮想通貨、それよりもっと分散化したものになる。
  • 価値主義経済下では、価値を下支えする『信用』が重要

『資本主義経済が終焉?そんなバカな...』と疑い深くなるのも理解できるが、先進国は過去のエントリで紹介した『人工知能は資本主義を終焉させるか』でも触れているように、資本主義経済下では企業の蓄積資本が多くなっている事に伴い、動くマネーの総量自体に変化がない。

dolog.hatenablog.com

 そこに上乗せし、生活するための需要というものが一定度の満足度を得られているため、物欲自体が低下する。つまり『ないものがない』ため、買いたい物が総じて少なくなっている状態という事だ。

先進国が抱える、比較的満足状態に強いられた人々が抱える不足感という現状に対して一石を投じたのがSNSの隆盛における“承認欲求の顕在化”と言える。SNSが明らかにしたのは、実在する人物でも虚構的な存在だとしても、そこに存在するアカウントを個々人の価値観に基づいたフォローやフォロワー関係が構築できるということだ。

これにより、大きな組織を無条件に信用するのではなく、たとえ小さな組織、個人であっても、そこに共感や好意といった個人的な感情に上乗せされた『価値』を認識することが出来れば、その情報を追随し、さらには支援することが可能になった。

あらゆる境界線がなくなって行く世界

これまでは企業同士、もしくは組織同士での間でしか起こすことができなかった『お金』を動かすことが個人にもできるようになってきた。(もちろん、個人で行うことが全く不可能だったとは言わない。) 

佐藤はこれを、市場経済と民主政治の定義を確認した上で、市場経済は“人間の欲望を刺激し「より良い生活をしたい」と思う仕組みを支援する仕組み”民主政治は“全体の不満の声を吸収し、全員が納得できる意思決定を目指す仕組み”とし、以下のように述べている。

「価値」という視点で見ると、明確に区別する理由がなくなります。(略)市場経済が苦手な領域を民主政治が担い、民主政治が苦手な領域を市場経済に委ねる、といった具合です。これを価値という観点から捉え直すと、経済と政治はアプローチが違うだけであり、2つは同じ活動として分類することができます。 

この先、経済と政治、営利と非営利など、これまで明確に分けようとしていた(分かれていた)ものの壁が取り払われ、境界線というものがなくなって行くということだ。

これまでは情報の非対称性などを利用し、そこに資産的な価値を見出し、活動していたことが非難され始め、社会的な意義を前提に事業を進めることを求められるようになって行く。

そこには金融資産を転がす事によって名声を得ていた資本家や資産家だけではなく、多くの人を集め、誘導し、経済圏を作ることができるソーシャルキャピタリストの台頭が考えられ、これまでの法定通貨を国が印刷し、配布することと、個人が個人の価値を分散化し、それを譲渡する事に差異がなくなってきた。

これによって次に起こるのはお金のコモディティ化だ。

お金のコモディティ化

コモディティ化というのは、同質化や一般化、普遍化するという意味であり、お金というものの価値に高低がつかなくなって行くという事だ。

d.hatena.ne.jp

ベーシック・インカムという制度がフィンランドをはじめとした、自治体やNGOなど10あまりの国や地域で実証実験を行っている。(ご存知ない方は、以下のリンクをご参照いただきたい。)

www.nhk.or.jp

汎用型人工知能の登場によるシンギュラリティが多く話題になることが増えているが、労働が駆逐され、仕事が残った時、働くということを選ぶ人と、選ばない人が存在してくる事になる。

その際、それぞれの人(働く人、働かない人全ての人)に一定の金額を配布し、差別をなくした状態を目指すのがベーシックインカムだが、これが実施される事によって、お金の価値が陳腐なものになる。つまり、コモディティ化する。

資本主義経済下であれば、その多寡によって、人生の価値が上下していたが、価値主義経済においては、それぞれがお金以外の価値を多く見出し、そこに対して没頭して行くことが前提になっているため、それほど大きな問題にならないだろう。

繰り返しになるが、以前のエントリーにある『人工知能は資本主義を終焉させるか』の中でエネルギー問題が解決される事によって、ありとあらゆるコストが無くなり、衣食住に関しては0コストに近づく事に触れている。

dolog.hatenablog.com

それでは、我々は何をモノやサービスの対価として支払う形になるのだろうか。

そこで佐藤は『時間』が通過として成立して行くと述べる。

時間が通貨や資本として良いのは、経済の「新陳代謝」という点で優れているからです。経済システムが衰退する原因は、新陳代謝の機能が失われて階層が固定化してよどんで行き、活力を失っていくためです。

もし、お金が時間の経過とともに消えて行くとしたらどうでしょうか?どうせ貯めておけないで消えて行くのであれば、リスクを取ってやりたいことをやろうとすると思います。時間そのものが通貨だった場合には、保存できない上、どうせ使わなければ自然消滅するので、これを使って何をしようと考える人が増えるはずです。

 

資本ではなく価値に着目する

 本書の中で、佐藤は一貫して、現在の資本主義経済下で行われている商取引をある程度肯定しながら、あくまでも『価値』の優位性を語っていた。これは、実際に事業を行なっている中で、常に仮説と検証を繰り返している佐藤が、行き着いた一つの答えだ。

 そして、その答えは現実を帯び、僕たちの生活の中で確実に息づいている。

まだ起こってもいないことを心配するのであれば、少しでもワクワクしていた方が個人の価値としての有用性が高い。

今後、脳と脳とを繋いでコミュニケーションを図ることが可能になるだろうし、脳内のデータをクラウドコンピューティングにバックアップを取ることも可能になるかもしれない。

そうなった時、僕が僕であることを誰が証明してくれるのか。それは、そこまでに築いた信用関係であり、信頼関係だろう。

どんどんと機械ができることを増やす一方、僕たちはできることが減って行くのかもしれない。その時、少しでも社会に取って、周囲の人たちにとって、必要な存在であれたら、それは僕の生きる理由になるのではないか。

いつまでも古臭い流れに乗っているのではなく、新しい流れに乗る勇気を出し、踏み出して行くことで、自らをアップデートできるし、それを続けて行くべきだ。

本書を読み、お金というものに対して、というよりも、改めて、今後の主義経済、そして技術などにどうやって乗って行くのかを常に考え、委ねて行くことを決めた。

 

お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)

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*1:2008年、metzdowd.com内の暗号理論に関するメーリングリスト

アンパンマンの世界とは、ポスト・シンギュラリティの世界である

通貨という概念が存在しない

唐突ではある。

しかし、あまりにも合点がいかない。子ども(次男)がアンパンマンを大好きなこともあり、我が家では録画視聴(生視聴ではない!)をしているのだが、それを見ていた際に感じたことを書いて行こう。

 

まず、この世界の中に“通貨”という概念自体は存在しない。

誰かがお金を払ってサービスや物品等を購入する、というシーンを見たことがあるだろうか。少なくとも僕はない。

つまり、この世界の中では通貨という兌換性が必要なツールは存在しないことを意味しているのではないか。

それを最も決定的にしているのは、ジャムおじさんの存在である。

ただ、パンをこね、無料で配布している

マスオさんことジャムおじさんは、その優しい言説と雰囲気、何よりもパンをこねる際の魔法が魅力的な人物である。

何より、主役であるアンパンマンを生み出したことで有名な存在ではあるが、この世界の中で彼はパンを作ることにおいて、他の存在が認められないところをみると、圧倒的なまでの寡占状況を生み出している。

しかし、それにおいても、彼は一銭も得をすることはない。

何故ならば、この世界には通貨が存在しないからだ。

ビットコインなるものも、日本の円を匂わすような茶化しい紙幣も貨幣も存在しない。

 

ただ、パンをこね、無料で配布しているのだ。

そう、ただ、パンをこね、タダで配っているのだ。

 

しかし、注目すべきは、このパンを生産する際に必要な火はどうしているのか、という点。

火を起こす、もしくはそれに類似した方法でパンを焼く、というからには、何かしらのエネルギーが必要なわけであり、その生成にはエネルギーを発生させる太陽光、原子力、火力、水力、地熱...など、多々あるわけだが、ジャムおじさんのパン工房にはそれらに類似する施設等は存在しない。

しかも、送電線を引いているわけでもなさそうである。

これは何を意味するのだろうか。

 

勝手な憶測だが、これは、エネルギー問題が解決されているのではないだろうか。

一つの家庭に一つのエネルギー生成装置が設置されており、この世界において、すでにそれは一般的な知識として認知されていることが考えられる。いや、そうでなければ納得できない。

 

つまり、アンパンマンの世界では、エネルギーがフリーになっているのだ。

これで多くの点が納得がいく。

 

アンパンマンの世界は、ポスト・シンギュラリティそのものであり、すでに人類はエネルギーフリーを獲得しているのだ。エネルギーがフリー、つまりタダとなることで、あらゆる生活コストが引き下がり、結果として自給自足生活(のようなもの)が可能になる。

 

いや、むしろ、働くことが必要なくなっているのではないか。

これによって、いわゆる大人の存在がそれほど多く確認できないのにも納得できる。

 

アンパンマンの世界における大人たちは趣味に講じているのだ。

子どもたちは学校へ通い、その合間に友人たちとの交友を深める。

 

衣服等についても、手縫のものを楽しむ者もいれば、特にこだわりがなければ、各種ECサイトで購入し、配達員(のような仕事をすることが趣味な人)が運んでくれるのを待ち、それを着る。

衣食住において、特に不満が生じることのない世界で、お金を稼ぐ必要も、使う必要もない世界に住んでいている。

この人たちが次に到達した世界は人間を辞めることだったのではないだろうか。

人間をやめた人間たち

そして、アンパンマンの世界の人間たちは人間という姿に囚われる事をやめたのだ。

ありとあらゆるコストから解放された人類は、自らの行動を規定する擬態化することによって、満足感を得ているのだ。

カツ丼や天丼、パンといった姿に自らを変貌させることにより、イメージを作る事、つまり人生のアイコン化を図ったモノだと推測する。

これによって、各種のSNS等による自己承認欲求を満たす行為を全面的に、自らの人生を投げ打つことによって成立させ、『〇〇といえば、あの人』という構図を、それぞれ各個人が実践することができている。

いわゆる評価経済的なものがすでに定着しており、それが当然の世界なのである。

 

最終的には、どうでもいいのである

さて、ここまで思いつきで文章を書いてきており、内容的には浅はかながらも1,500文字を超え、2,000文字に突入しようかという状況になってきた。

わかるだろうか。

原稿用紙5枚分程度の文章を、ただ、アンパンマンの世界が我々の“先”に位置する世界なのではないか、という本当に妄想話で引きずっているのだ。

我ながら大したものである。

ここで一つ、注意しておきたいのは、ドラえもんのような近未来ではなく、アンパンマンを選んだのには理由がある。

アンパンマンの世界には、科学的なな匂いがバイキンマン以外全くしないのである。

しかし、バイキンマンの製造する機械たちは、恐ろしく高性能であるとともに、恐ろしいぐらいの剛直性、耐久性を持ち合わせている。

おそらく、あの技術は我々の世界からの名残であり、それを唯一継承しているのがバイキンマンなのである。(このバイキンマン論は別の機会に譲る)

 

つまり、バイキンマンは我々であり、我々はバイキンマンなのだ。

ドラえもんの中に出てくる、野比のび太は典型的なダメ男である。

あんな男をどうにかしようとドラえもんのような超高性能ネコ型マシンを送りつけてくるセノビの高圧的な態度に反発しているだけ、というのが大きな理由だ。

もっといえば、ドラえもんの世界は、なんだかんだと言いながら努力することによってなし得たい事を成す、というヒロイックな展開というのも、僕に絶望を与える。

その点、アンパンマンは自らの存在を投影させるべきものはいない上に、すでに発展を重ねる世界は本編内でいくつか紹介されており、そこにケチをつける事はしない。

 

長くなった。

ひとまず、ここで改めて結論を述べるとしよう。

 

アンパンマンの世界は我々の技術的特異点、つまりシンギュラリティが起こった後の世界、つまりポスト・シンギュラリティ・ワールドであり、それをいくつか証明するであろう描写を上記した。

 

だが、究極的にはどうでもいいのである。

移籍情報

スポコン → アップルスポーツカレッジ 遠藤涼介

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私、遠藤涼介、3月いっぱいで5年ほどお世話になった“スポコン”を退職することとなりました。4月より新潟市にある専門学校、アップルスポーツカレッジで働かせていただく運びとなりました。

今回の移籍に関しては、当施設のボスである丸山院長との話し合いを重ねてきた上に、様々な方々の働きかけや気持ちが交錯したものであり、慣れた環境から動くこと自体はトライでもありますが、最終的には感謝の気持でいっぱいです。


スポコンでの5年間を思えば、自身の価値を高めるために奔走した期間でした。
もちろん、自分の中での話ですし、思い返せば全然足りないな、なんて思うわけですが、いい経験ができましたし、何よりも自分の存在価値を示せるだけの結果を出せたことが良かったと考えております。

ある程度、期待された状態で入ったものですから、一年目に全く何もできていないことに自らの非力さを感じましたし、そこから2年3年…と時間を積もらせていく過程で、もがいて考えていたことが結果につながり、恩に報いることが出来て安心しました。


他の人が自分の立ち位置にたてば、もっと良い結果を得ていたかもしれないですし、自分の中ではその可能性も否定できません。自信がないって言うよりも、自分だけでは、言い方を変えれば慣れてしまった自分の目からは見えない景色を見れる人がやれば、もっと大きな成果を得ていたかもしれません。


ボク自身のこういう感情というのは今後もずっと消えないと思います。今までもそうなので。それだけ自分に自信がないとも言えるのですが、自分が通ってきた道は良かったと感じています。ただ、ボクは自己分析してみると改めて感じることなのですが、謙虚に生きていくことしか生きる道がありません。


逆をいえば、それが今までできてきたので、今でもなんとかスポーツという枠組みの中で生きていれるのかもしれません。
真逆の事をいえば、まだまだ他分野への影響力がないわけで、もっと影響力をもてるだけの存在にならなければいけませんね。


お仕事でご一緒させていただく方々は、それなりに経験を積んできたので増えてきました。ただ、至らない点をお許し下さい。これから挽回できるようになります。

いま考えると周囲の方々からはボク個人に対して、施設として、存在価値を高めるために投資してもらえたと思っています。スポコンでお世話になることを決めた際に個人的な目標としていたモノも達成でき、上にも書きましたが求められてきた“結果”を出せましたし、ある程度のワガママも許してもらえました。


今後は環境も変わりますし、またイチから自分のポジションを獲得しなければならない状況ですが、自分自身の課題を踏まえ、もっと貴重な人材になるべく邁進していこうと考えております。

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ENDO,Ryosuke

“スポコン”(SPOrts CONditioning studio)

新潟県三条市にあるパーソナルトレーニング専用施設

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現在、ボクがお仕事をさせていただいているスポコンの紹介をさせていただきます。


接骨院と併設されていることを考えるとなおさらなのですが、一定のスペースを確保した上で、道具的にもしっかりしたものが揃っていますので、人が運動することを考えると、それほど大きな動きを求めることはできなくても、様々なトレーニングを行うことができます。

入り口の扉を開けると受付があり、このように案内表示が上を見上げると目に入ってきて、左へ進もうとすると7人の小人が出迎えてくれますw
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左へ進み、足を踏み入れるとカーディオマシンが置いてありまして、内容は「トレッドミル3台」「エアロバイク3台」「クロストレーナー2台」「振動マシン2台」など。
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特徴

そんなふうにマシンが置いてありますが、スポコンでのメインはこちらでのトレーニングが特徴。
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写真をご覧になっていただくとお分かりになるとおもいますが、スポコンではスクワットラックは置いてません。「スペース的な問題で置けない」ということもあるのですが、なくても他のことで代用できるので問題にしていません。


メインとして多くの方々に取り組んでいただいているのは、それぞれに求めるものや希望が異なるので一様には語れないのですが「自分のカラダを自分で動かすこと」です。当然のことだと思われますが、スポーツジムなどに行けば道具を使って運動をすることが多いですし、そうなると自分のカラダに意識を向けた状態でじっくりとトレーニングをすることは少なくなります。


運動ですから、自らのカラダを使っていることは当然なのですが、自分のカラダがどういう状態なのか、どう動かすとどこに問題が生じるのかを自覚してもらうことと、自分のカラダを使って自らの意志でそれを解決していくことをスポコンとしては大きな目的としています。


痩せたい、という方の多くは運動習慣がない方。なぜ運動習慣がないのかといえば「面倒だから」や「つらいから」などがあります。そこで、どうアプローチしたらいいのかを考えるのですが、今のところアプローチの仕方として、「運動すること」が「楽しいこと」であったり「思っていたよりもつらくない」、もしくは何かをすることで「楽になること」を掴んでもらうことから始める必要があると考えています。


自分のカラダを動かすことで自分のカラダや動きが変わることを実感したことがないから、継続したい気持ちにならないのであり、運動をやめたくなるのもよく理解出来ます。かくいうボクも継続的に動かすことは苦手でした。


スポコンはそんな人のためにこそ存在する施設だと自負していまして、姿勢を改善するのも自分ですし、動かしやすくするのも自分です。


姿勢や動かし方が良くなれば運動が効率化するので「楽に動かす」ことができ、結果的に継続しやすい環境を自分自身で作ることができます。


ストレッチングを大切に取り組んでいる人は中々いない


スポコンでのトレーニングを指導させていただいている中で感じることは、「柔軟性」や「可動性」を高めることを大切に考えて取り組んでらっしゃる方は(スポコンを利用されている方の範囲で)それほど多くはない、ということですね。


旧ソ連、ロシアスポーツ科学会の重鎮、故L.P.マトヴェーエフ博士は、柔軟性の中で“姿勢”から触れています。この意図については明確にはわかりませんが、筋の柔軟性や可動性が姿勢に与える影響が大きいことを示しているのだと考えます。

ロシア体育・スポーツトレーニングの理論と方法論

ロシア体育・スポーツトレーニングの理論と方法論


明確な数値は挙げられないのですが、スポコンでトレーニングを受ける方で特に姿勢を改善した方が…と感じる方は筋の柔軟性が低いことが多い、と経験則ですが感じています。スポーツをしている高校生や中学生、になるとプレーで誤魔化されてることが多いのですが、一旦プレー環境を離れて普段の生活をみてみると姿勢が整っていない選手は、柔軟性が極度に低いケースも確かにあります。


スポコンでのトレーニングは、メインとしてストレッチがメインになっているケースも少なくありません。しかし、字面だけを見るとご理解いただけ無いかもしれませんが、普段、伸ばすことのない筋肉を自身の意識下で動かすことは中々シンドい部分はあります。


ベーシックな部分にプラスして地味な部分のトレーニングを重ねることで自分のカラダをどんなふうに動かしているのかの“意識”が先鋭化されていきます。なので、結果的にスポコンでのトレーニングを長く継続していただいている方は、ドンドンご自身でカラダの調節ができるようになっていく方が多いです。

そんなスポコンでのトレーニングに興味が湧いた方はこちらの記事もご参照ください。併設されている接骨院の院長であり、スポコンの施設長でもある丸山智院長のスポコン設立の理由などを述べています。

ねんざや打撲治療からスポーツ選手のリハビリ、応急処置まで 県央地域の人達の「もしも」に応える 新潟県三条市林町二 丸山接骨院

丸山接骨院|三条市|整骨・接骨


ENDO,Ryosuke

高性能化するシューズとボク

ボクが高性能化している訳ではありません…

高いクッション性と反発力を得ているシューズ購入してみました

なにを言っているのかよくわからないと思いますが、adidasから発売された「ENERGY BOOST: エナジー ブースト」を履いた人なら共感してもらえるのではないでしょうか。

adidasのEnergy Boostというシューズの特徴は二つ。

  1. 高いクッション性
  2. 高い反発力

矛盾しているようにも聞こえる二つのポイントを見事に叶えているのが、このシューズの最大の特徴。

詳しくはadidas japan HP内にあるboost | adidasをご覧ください。


しがない一市民ランナーにすらなれないボクですが、シューズは色々と履いています。


今回、Energy Boostを知ったのは、インターネット上にadidas発の新しいランニングシューズがでるぞ!!というマイナビのニュース(アディダス、新素材「BOOSTフォーム」世界初採⽤のランニングシューズ発売 | ライフ | マイナビニュース)を目にしたことからでした。


「別に他のシューズと変わらないんだろう…」と思っていましたし、違っても「どうせ“ランニングシューズ”でしょ。」ぐらいにしかおもってませんでした。

とかいいつつも興味があったから履いてみたんですよ。←


そしたら…ですね…


なんと言うか不思議な感覚に足が包まれてました。そう、包まれてるって感覚があるんですよ。


足全体がシューズに優しく包まれているんですけど、そんなに包まれたら重いんじゃないかと思いきやシューズ自体は非常に軽い仕上がりに。少し固めのサーフェス(床面)で歩いたり走ったりすると、その反発力に驚くんですが、同時にクッション性も高い。


非常に高性能なシューズだな、とボクとしては好印象。


道具選びに時間をかけても損はしない


いままで、ランニングシューズを、いっても“何百足も履いてきたワケではない”ですし、かといって「足型をとってまで…」というぐらいなボクなワケですが、大半の人はボクとおなじ様なきもちでランニングシューズを選んでいるのではないでしょうか。


それって、やっぱり“しょせんシューズ”ってのが根底にあると思うんですけど、かといって“軽視”できない。ながい時間と期間を走ってて足が痛くなるのはイヤですし…


いちおう、運動指導する立場に身を置く人間からいわせてもらえば、自分のカラダに適した道具を使えるかどうかで日々のトレーニングの質が変わって、それを継続した時の効果にも違いが生じるワケですから。できればいいものを選びたいし、選んでもらいたい。


また、シューズが自分の足やカラダあっていないことでケガを負ってしまった場合、それにかかる医療費を考えれば、シューズ選びに少し時間とお金をかけた方が「費用対効果」の面でみても損はない(…ハズなんですよ)。


高性能なシューズを履くことでのデメリットは?


きちんとしたデータを挙げられずに申し訳ないのですが、シューズ自体が高性能な場合、それを履き続けることで享受できるメリットは、上にも挙げたようにパフォーマンスの向上や障害予防が挙げられます。そのかわり、足の“足として”の機能を補完する、補ってくれるカタチになるワケで、そういう観点でいえば、足の機能は低下すると言えるかもしれません。


そこに着目して、裸足でのランニングを推奨、実践している団体もあります。日本ベアフット・ランニング協会 公式裸足ランニングはこちら


改めて自分の足を使って大地を掴むことも少なくなってきている生活様式のなかで、あえてそれを取り組んでいくことも自分のランニングパフォーマンスを向上させるために必要なことだと思います。


自分のカラダに対して様々な条件下で刺激を与える


コオーディネーショントレーニングの観点でいえば、サーフェスを変える、シューズを履く・履かない、リズムやテンポをかえる、などすることで固有感覚受容器に対して刺激を与えることができ、結果、いちランニング動作を行う上でも動作を行った本人の動作に対する“経過質”が先鋭化、つまり感覚が鋭くなった結果、効率化していきます。


モチロン、かたいかたいアスファルトの上を裸足で1時間も走れ、なんてことはいいませんが、左右でシューズを変えてみて走ることはありかもしれません。

結論として…

高性能なシューズができればできるほど、それに見合った、というか、それを使いこなせるだけの動作や動作感覚を養っていく必要はありますよね、という話でまとめたいと思います。

けど、このENERGY BOOST…いいシューズです。

ENDO,Ryosuke

指導を受けてくださる方への向き合い方

悩みを抱えている方に対しての接し方

今回はボクが普段のセッションのなかでトレーニングを受けてくださる方々への接し方について書いてみたいと思います。なんていうか流行りのライフハックみたいにしてみたいと思います。

トレーニングを受けにくる方は、すべての方が元気でやる気満々、というわけではありません。家庭内の問題を気にされている方や、仕事上での悩みを抱えている方もトレーニングを受けにいらっしゃいます。

モチロン、ボクの対応がすべて正しいかと言えばそうではないと思います。ボクのとった対応が気に召さなかった方もいらしたでしょうし、不快な思いを終始抱かせてしまった方もいたかもしれません。しかし、それを踏まえた上で現在のボクの仕事術を紹介したいな、と思います。

1.雰囲気や表情からどんな状態なのかを察する

トレーニングを行う前段階として体調の把握をするのですが、ボクは施設に足を踏み入れてこられた雰囲気や表情から、ある程度その方の状態を把握するようにしています。

当然と言えば当然の行動なのですが、難易度が高いのも事実。機嫌が悪いのは何となくわかっても、時には表情に出さない方もいらっしゃいますから、継続的にお付き合いのある方であれば普段の様子と比較して、まだお付き合いが浅い方は、こちらには壁が無いことを態度で示す様にしています。

その方の好きなことや明るい話題から解きほぐしていき、柔和な表情が作られるように。たとえ悩みを抱えていても、トレーニングを受けに施設に足を運んでくださった以上、こちらとしては最終的に笑顔で施設を後にしてもらいたいものです。

最初の雰囲気から状態を探り、そこから少しでもプラスの状態へあげるように雰囲気を良くするように努める必要があります。

2.ズケズケと入り込まない

たとえクライアントの方が悩みを抱えていたとしても、その悩みに対してズケズケと入り込む様なことはしません。あくまでもその方が話を聞いてほしいとお考えならば、聞く“かまえ”を作る必要がありますが、それもその方との関係がドコまで構築できているのかに依存しますので、注意する必要があります。

ボクの場合、ついつい深い所まで聞いてしまいたくなるので自制することが多いのですが、それを望む方もいらっしゃいます。ご自身の考えを誰かに伝えたいのだけど、上手くまとまったいない場合にはそのお手伝いをする意味を込めて、質問をさせていただくことにしています。

ですが、こちらの考えを押し付けるのではなく、“引き出す”という態度で。

こちらの考えを上乗せしてしまっては、その人がどのように考えているのか、どのようなことで悩んでいるのかを、その方が自覚でき無くなってしまいますから、その方がどのような考えでどうして行くことが見えていないのか、を一緒に探っていく様な気持ちを持つように心がけています。

3.最終的にはカラダとメンタル的にフレッシュな状態に

そんなクライアントの方々はボクの“指導を受けること”で自分のカラダを変えたいと思っている方ばかりですから、真剣に取り組んでくださいますし、こちらとしてもそれに応えるべく真剣に指導させて頂きます。

指導をさせていただく機会が毎月150件を越えるなかで強く感じていることは、カラダの調子、状態が上向くことで精神的な状態も上向くことで、その日の表情があまり明るく無かった方でも、セッションを終えて施設を後にされるときには表情を明るくされて「ありがとうございました」と言ってくださいます。

そんなときに“役に立てた”と実感します。

時として、というか常になのですが、自分の考えたトレーニングでホントに効果があるのか、その手段でいいのかどうか、というのは全くとはいいませんが自信があるワケではありません。正直、やってみないとわからない部分が多分にあると思っていて、そこからの微調整を繰り返すことが必要だと今の施設で活動してみて強く感じています。

ある程度の予測は持ちながらも少しずつ刺激の入り方を工夫するとか、コトバの掛け方を変えるとか。

あんな手やこんな手を自分のなかでなんとかやりくりして、カラダに関する不安要素を取り除いたり、少なくして強みを出したりで施設を後にするときには笑顔で出て行ってもらえるように真剣に考えます。

何だかスゴくキラキラした文章になってしまったのですが、最後に。

人からお金をいただいて仕事をする以上、お金を払ってくださる方の期待以上のことが出来なければ、現在の金額すら払って頂けません。それがどんな内容なのか、どんな人間が指導するのか、もモチロン影響しますが、それを前提にしながら、抱いている期待値を超えたときに金銭が発生するので、そこはどんな仕事をしようが見失わないようにしています。

逆にいえば、それが出来た時には金銭を授受することが出来る訳です。だから常にそれを越えるように研鑽を重ねなければならないし、これからも試行錯誤を繰り返しながら、どんな仕事をいただいたとしても自らの精一杯を発揮していく所存です。

として、むすびとさせていただきます。

「悩みグセ」をやめる9つの習慣

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サラリーマンの悩みのほとんどにはすでに学問的な「答え」が出ている (マイナビ新書)

サラリーマンの悩みのほとんどにはすでに学問的な「答え」が出ている (マイナビ新書)


ENDO,Ryosuke

{DE}dolog 体罰の効果と必要性


今回も、大阪桜宮高校の自殺事案に関する記事です。連続して申し訳ありませんが、自分としては、指導中の暴力行為に絶対的な否定する立場を取っています。しかし、根底にはどんな考えがあって、そう言っているのかを自分自身、きちんと明確にしたいと考えていて、その結果、こうやって文章として書く事が自分の考えをまとめる事をBlogを書いている中で感じているので、書かせていただきます。






体罰を行う背景とは






体罰の意味:懲らしめる為に身体的な苦痛を与える事とあります。


つまり、身体的な苦痛を与える事で、受けた人間が取った行為を反省させる意味。これというのは、そもそも「罰を与える側」の人間が存在する事を意味し、「罰を与える」というぐらいだから、支配的な主従関係が成立している事を暗示している。



思い浮かべやすいのは、軍隊組織。しかし、いくら軍律と言えど、理不尽な体罰が存在するか、と言えば個人的には無いと考える。

その理由は、そもそも軍隊的組織において体罰を科すと言う事は「=生命の危険」が生じる場合だと思うからだ。



一人の隊員が取った行動によって、組織が壊滅しかねない、もしくは多くの生命が奪われる、それでなくとも個人の生命が危険に侵される状況を生んでしまった行為を責める、という意味が多く含まれるから。

人民軍隊保持了最高的克制 by QiFei

また、映画や何かで見かける「上官に対する態度が…」云々というのは、指示系統の一本化やシステム的に、上官に対する態度が良く無いと、損なわれる危険性があり、その事で蜘蛛の子が散ってしまう様に、組織が空中分解してしまう事を避けるためだ。と思う。あくまでも予想でしかないが…



ここで問題。例えば上官と一兵卒がいる。軍隊規律的に正当な体罰行為が頻繁に行われていたとしたら、その一兵卒は上官に対しての態度が良くなるだろうか、悪くなるだろうか。



これは、上官に「その人間を見る目」があるかどうかに起因するのでは無いか。

そして、きちんとその事に対してのフォローがあるのかどうかにもよるだろう。

それに関する明確な説明も必要だ。自分がした事がどんなに大変な事で、どういった危険が生じたのか。



それを理解する人間で無いと受け入れられない。

Somalia 1992 by Monica's Dad

普段から構築された信頼関係の基に、組織としての在り方や成り立ち方について、相互理解が生じている上で、尚かつ、上にも書いたが「生命の危険」が侵された場合にのみ、有効な前提となりうるのではないだろうか。





スポーツの中で体罰は必要?不必要?






では、翻って、今回の大阪での事案から体罰の必要性のついて考察してみる。



率直に言って、まず大前提として、様々な競技スポーツは基本的に「生命の危険」に侵される事は無い

個人においても、組織においても、それぞれが取る行動によって「命」を失う事は無い。



不幸にも心不全などで、プレー中に症状が出てしまい、命を失う事はサッカーにおいては確認されているが、それは「失敗」や「甘さ」から生じている訳ではない。偶発的なもので、誰にも制御できない。



そういった偶発的な事象をのぞけば、競技スポーツを取り組む上で生命の危険に晒される事は、基本的には無い。

この時点で、上で定義した「体罰実施における前提」が崩れている。つまり、理由が弱くなった。



では、何故、スポーツの指導中に行われてしまうのだろう。



個人的な視点で物事を進めれば、政治的な観点で「中央集権的な思考体系」を第一に挙げてみる。

監督は絶対的な存在であり、間違った事は言わない。だからこそ、監督の言っている事を“規律正しく”行う事でチームとしての最優先事項である勝利に近づける、と言う事だ。



しかし、特に球技系のスポーツにおいて楽しいのは、総じて「相手との駆け引き」だ。

自分が取る行動によって相手を出し抜く。自分が球技をしていたからこそ感じる部分だが、相手のしたい事をさせなかった、防いだ時、もしくはそれを凌駕した時に得る快感は、何とも言えない。



そうなると、個々人で的確な判断を伴った上で行動できる様に準備していかなければならないが、「中央集権的な思考体系」のチームにおいては、そんなものは必要ない。



如何に相手を制圧するか、を求められているからだ。



だが、そこまでする必要があるのだろうか。別に勝利を目指す姿勢を批判しているのでは無い。その構えは持って然るべきだし、持たざる者はフィールドやコートに立つべきでは無い。それを持たずにフィールドやコートに立つと言う事は、相手に失礼だ。



相手を制するにも、一筋縄では行かないだろうし、もし、自らが取っていた方策が全く通用しなかった場合、どのように対応するのか、が大切なハズ。

だが、すり抜けられてしまった場合に、そこからどうにかするだけ普段から「考えていない」。

IMG_3069 by Monica's Dad

そう、出来なかった場合には、叱咤される。また叱咤される。そして、叱咤される。

そこに“暴力”という絶対的な武器を振りかざす事で、さらに相手の思考を停止させる。



相手の事よりも、監督の事を考える。監督がどのようにしたら怒らないか、を考える。



その考えている事はスポーツの中に必要な事だろうか。

だが、選手はそれを否定出来ない。何故なら、前回の記事で最後に触れたが、チームを移る事は出来ないからだ。



つまり、ここにいなければ自分が好きなスポーツをする事が出来なくなる



そこにしがみついてでも、スポーツがしたければ、そこでするしか無い。

また怒られない様にプレーする。怒られる。殴られる。追いつめられる。



書いていてドンドン不思議になって来た。

この世界は何なのだろうか。



選手達は、ただスポーツが巧くなりたいだけなのに。

巧くなる事を阻害されていて、その上に暴力に怯える日々を送る。



どう考えてもスポーツの中に体罰が必要ない事が自分の中で明確になった。


お読みいただいた皆さんはどの様に考えますか?