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dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

{DE}dolog 体罰の効果と必要性


今回も、大阪桜宮高校の自殺事案に関する記事です。連続して申し訳ありませんが、自分としては、指導中の暴力行為に絶対的な否定する立場を取っています。しかし、根底にはどんな考えがあって、そう言っているのかを自分自身、きちんと明確にしたいと考えていて、その結果、こうやって文章として書く事が自分の考えをまとめる事をBlogを書いている中で感じているので、書かせていただきます。






体罰を行う背景とは






体罰の意味:懲らしめる為に身体的な苦痛を与える事とあります。


つまり、身体的な苦痛を与える事で、受けた人間が取った行為を反省させる意味。これというのは、そもそも「罰を与える側」の人間が存在する事を意味し、「罰を与える」というぐらいだから、支配的な主従関係が成立している事を暗示している。



思い浮かべやすいのは、軍隊組織。しかし、いくら軍律と言えど、理不尽な体罰が存在するか、と言えば個人的には無いと考える。

その理由は、そもそも軍隊的組織において体罰を科すと言う事は「=生命の危険」が生じる場合だと思うからだ。



一人の隊員が取った行動によって、組織が壊滅しかねない、もしくは多くの生命が奪われる、それでなくとも個人の生命が危険に侵される状況を生んでしまった行為を責める、という意味が多く含まれるから。

人民軍隊保持了最高的克制 by QiFei

また、映画や何かで見かける「上官に対する態度が…」云々というのは、指示系統の一本化やシステム的に、上官に対する態度が良く無いと、損なわれる危険性があり、その事で蜘蛛の子が散ってしまう様に、組織が空中分解してしまう事を避けるためだ。と思う。あくまでも予想でしかないが…



ここで問題。例えば上官と一兵卒がいる。軍隊規律的に正当な体罰行為が頻繁に行われていたとしたら、その一兵卒は上官に対しての態度が良くなるだろうか、悪くなるだろうか。



これは、上官に「その人間を見る目」があるかどうかに起因するのでは無いか。

そして、きちんとその事に対してのフォローがあるのかどうかにもよるだろう。

それに関する明確な説明も必要だ。自分がした事がどんなに大変な事で、どういった危険が生じたのか。



それを理解する人間で無いと受け入れられない。

Somalia 1992 by Monica's Dad

普段から構築された信頼関係の基に、組織としての在り方や成り立ち方について、相互理解が生じている上で、尚かつ、上にも書いたが「生命の危険」が侵された場合にのみ、有効な前提となりうるのではないだろうか。





スポーツの中で体罰は必要?不必要?






では、翻って、今回の大阪での事案から体罰の必要性のついて考察してみる。



率直に言って、まず大前提として、様々な競技スポーツは基本的に「生命の危険」に侵される事は無い

個人においても、組織においても、それぞれが取る行動によって「命」を失う事は無い。



不幸にも心不全などで、プレー中に症状が出てしまい、命を失う事はサッカーにおいては確認されているが、それは「失敗」や「甘さ」から生じている訳ではない。偶発的なもので、誰にも制御できない。



そういった偶発的な事象をのぞけば、競技スポーツを取り組む上で生命の危険に晒される事は、基本的には無い。

この時点で、上で定義した「体罰実施における前提」が崩れている。つまり、理由が弱くなった。



では、何故、スポーツの指導中に行われてしまうのだろう。



個人的な視点で物事を進めれば、政治的な観点で「中央集権的な思考体系」を第一に挙げてみる。

監督は絶対的な存在であり、間違った事は言わない。だからこそ、監督の言っている事を“規律正しく”行う事でチームとしての最優先事項である勝利に近づける、と言う事だ。



しかし、特に球技系のスポーツにおいて楽しいのは、総じて「相手との駆け引き」だ。

自分が取る行動によって相手を出し抜く。自分が球技をしていたからこそ感じる部分だが、相手のしたい事をさせなかった、防いだ時、もしくはそれを凌駕した時に得る快感は、何とも言えない。



そうなると、個々人で的確な判断を伴った上で行動できる様に準備していかなければならないが、「中央集権的な思考体系」のチームにおいては、そんなものは必要ない。



如何に相手を制圧するか、を求められているからだ。



だが、そこまでする必要があるのだろうか。別に勝利を目指す姿勢を批判しているのでは無い。その構えは持って然るべきだし、持たざる者はフィールドやコートに立つべきでは無い。それを持たずにフィールドやコートに立つと言う事は、相手に失礼だ。



相手を制するにも、一筋縄では行かないだろうし、もし、自らが取っていた方策が全く通用しなかった場合、どのように対応するのか、が大切なハズ。

だが、すり抜けられてしまった場合に、そこからどうにかするだけ普段から「考えていない」。

IMG_3069 by Monica's Dad

そう、出来なかった場合には、叱咤される。また叱咤される。そして、叱咤される。

そこに“暴力”という絶対的な武器を振りかざす事で、さらに相手の思考を停止させる。



相手の事よりも、監督の事を考える。監督がどのようにしたら怒らないか、を考える。



その考えている事はスポーツの中に必要な事だろうか。

だが、選手はそれを否定出来ない。何故なら、前回の記事で最後に触れたが、チームを移る事は出来ないからだ。



つまり、ここにいなければ自分が好きなスポーツをする事が出来なくなる



そこにしがみついてでも、スポーツがしたければ、そこでするしか無い。

また怒られない様にプレーする。怒られる。殴られる。追いつめられる。



書いていてドンドン不思議になって来た。

この世界は何なのだろうか。



選手達は、ただスポーツが巧くなりたいだけなのに。

巧くなる事を阻害されていて、その上に暴力に怯える日々を送る。



どう考えてもスポーツの中に体罰が必要ない事が自分の中で明確になった。


お読みいただいた皆さんはどの様に考えますか?