小室哲哉さん引退は僕たちのせいだ
小室哲哉さんを引退に追いやったのは誰か...。そんな誰も納得しない問いをここ数時間真剣に考えている。モヤモヤした気持ちを抱いた僕がTweetした内容は以下の通りだ。
これを書くことで「ウケる」と思う雑誌社があるということは、買うだろうと思われている市民と呼ばれる「人」がいるからなのであって、間接的に僕も含めて多くの人が文春を否定できるのかどうか分からないです…。政治家が愚かなのは国民が選んだ以上、国民が…
— 遠藤涼介 EN Do Ryosuke (@ryosuke_endo) 2018年1月19日
https://t.co/FnFnftgYOT?amp=1
愚かだったということの証左になりますが、ワイドショーで、雑誌で、新聞で、ネットで、広大な情報の海があるのに記事を書く人も、編集者も、発行者も「読むひと」を思い浮かべてるということは、僕を含めた多くの人が「求めてる」と思われてるということの証左ですよね…
— 遠藤涼介 EN Do Ryosuke (@ryosuke_endo) 2018年1月19日
僕は小室哲哉さんの音楽大好きです。中でも「BEYOND THE TIME 〜メビウスの宇宙を越えて〜」は宇宙をイメージできる唯一無二の曲だと思ってますし、仮面ライダービルドの主題歌も浅倉大介さんとすごくカッコいい曲つくってくれて、息子たちも歌いまくってます。
— 遠藤涼介 EN Do Ryosuke (@ryosuke_endo) 2018年1月19日
だけど、だけど、上でツイートしたみたいに、雑誌社がそんな情報を求めてるという範疇に僕もいると考えると、小室哲哉さんのつくった音楽を楽しむ資格が無いのかもしれない、と考えてしまいます。愚かな消費者は自らの野次馬根性で好きな音楽すら消してしまうんです。悔しい。
— 遠藤涼介 EN Do Ryosuke (@ryosuke_endo) 2018年1月19日
ここで僕が述べているのは、国の政治家が愚かだと国民が罵ることは国民に主権のある民主主義国家である以上、それを選んだ国民が愚かだったという証左になるということから、出版物においても同様で、活字として出てくるものは、発行者や編集者、記者が「求めている人がいる」ということを背中に感じた上で実際に行動した結果だ。
つまり、新聞、雑誌、TV、ラジオをはじめとしたマスメディア然り、ネット内でもSNS、ブログ、掲示板然り、そこに書かれるものはそれを読む人がいる前提で文字となり、実際に僕たちの目に触れている。
ここから僕が考えたことは、週刊文春が小室哲哉さんのことを記事にする、ということが引退に直接結びついたかどうかは判断できないが、間接的にその背中を押す形になっただろう、ということであり、その間接的という枠組みの中には僕やファンの人たちも含めた多くの人たちが含まれる。
何がいいたいのかと言えば、愚かな為政者が存在するのと同様で、愚かな記事は僕たちのなかに野次馬根性を抱き、今回の記事が掲載されている雑誌をどんな形であれ手に取り、読み、否定的な感想を抱いていることの証左だということだ。
Tweet内でも記載したが、僕はなんだかんだといいながら小室哲哉の音楽が好きだ。中でも『BEYOND THE TIME~メビウスの宇宙を越えて~』はトンデモない名曲だと信じている。
全く聞いたことのない人は是非、目を閉じ、自身の中にある宇宙をイメージしながら聞いてもらいたい。ここまで音楽で空間をイメージさせられる曲を僕は他に知らない。
TM NETWORK / BEYOND THE TIME(TM NETWORK CONCERT -Incubation Period-)
僕なんかが言わなくても、小室哲哉は紛れもなく天才だ。
だが、その天才は、プライベートで消耗し、それを少なからず妬む気持ちを抱いていた僕たち愚かな消費者たちが今回の掲載された記事を求めた結果、芸能活動からの引退という最悪の結末を迎えることとなった。
けど、それは僕たちが間接的に招いた結果であり、そんな僕たちは小室哲哉の音楽を楽しむ資格を持っているのだろうか。ただ、記事にした文春を否定するのは簡単だけど、その記事を読むのは僕たち消費者だし、騒動を報道するワイドショーを視聴するのも僕たち消費者だ。
僕たちは、希望するもしないもなく、「求めている」と思われている。思われているからこそ、活字になり、記事になり、編集され、出版される。別の媒体でも一緒だ。
そこでどうしたらいいのか、という解を得る段階に僕はまだない。ただ、今は残念な気持ちを抱いているが、いま、僕のそばに小室哲哉さんが浅倉大介さんと共に作った『仮面ライダービルド』の主題歌をノリノリで聞いている長男がいる。
まだ4歳だが、「この曲はすごくかっこいい」という彼の言葉は小室哲哉という才能について、素直に評価された一言なんだなぁと切なくなった。
【ちきりん】考えるのが苦手だから『自分のアタマで考えよう』を読んだ
- 作者: ちきりん,良知高行
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2011/10/28
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 30人 クリック: 893回
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著者であるちきりんはネット界隈で著名な匿名ブロガーであるが、2005年から文筆活動として『Chikirinの日記』を書き続けている。ご存知ない方は、この機会にぜひ読んでもらいたい。
知識と思考は似て非なるものである
「考える」という文字列を見た上で、あなたが感じることは何か。
答えは、結論を一つ選択することだ。この『結論を選択する』ということを進んでできる人とできない人がいる。ボクはというと、可能な限り前者でありたいと思っているものの、後者である。
この結論を選択する、ということは訓練が必要なものであり、上意下達型の組織や意思決定プロセスにどっぷりと浸かっている場合、訓練することが難しい状況に陥る。
もちろん、絶対というわけではないが、本人の位置する環境がそのような状態になってしまっていた場合、それを改善することはなかなかに困難なものであり、克服するまでに短くない時間を要する。
かくいう、ボクもそれで苦しんでいる人間だ。上意下達型の組織や思考プロセス、行為プロセスから逸脱することは、=つまはじきにされることを意味し、せっかく自らの居場所を確保することができた、と考えている人間はそこから外されることが怖いものだ。
しかし、組織運営や、適切な仕事を行う上で、自らの意見や発言に責任を持つ必要がある。そうでなければ、プロジェクト進行における責任の所在が曖昧になってしまい、解決するまでに時間を要することになってしまう。
結果的に、個人の責任を明確にしなかったことにより、プロジェクトにおけるコストがかかる要素を多大に残すことになる。
『何をおおげさな...』と思う人も中に入るかもしれないが、決して大げさでも他人事でもない。思考し、結論を選択することは、自らの発言に責任を持つことにつながり、責任の所在を明確にすることになる。なかったことにする、曖昧な状況のままにしておく、ということを無くすことができるのだ。
しかし、これが苦手なのはよく理解できる。自らの考えや発言に責任を持つことは怖いものだし、できることなら避けたいのもよくわかるのだが、そこを脱却し、(言い方が適切かどうかはわからないが)恥をかくことを臆することなく、思考することが個人としての発言権を持つ上では不可欠なのだ。
結論を出すためのプロセスが「思考」
結論を求めるからこそ思考する。ここを勘違いしてはいけないのだが、結論を出すためのプロセスとして、思考が存在するし、思考を行う上での前提条件を整えることが情報収集なのだ。
「考えること」「思考」とは、インプットである情報をアウトプットできる結論に変換するプロセス
情報をいくら仕入れても、それを対外的な発言や意見、個人的な結論として発信できなければ、それは『考えた』ことにはならない。これはあらゆる学習におけるプロセスと同様だ。
インプットしたものをどんな形でもアウトプットするからこそ、情報や知識が発信用に『変換』されるのであって、この変換こそが『思考』であり、結論までのプロセスだということになる。
ボク自身も情報や本を読むこと自体が目的化してしまうことは多分にあるし、それをしてしまった時の後悔は計り知れない。
しかし、本書を読んで以降、改めてTwitter等のツールを使用することの再設定や、こうやってブログでの記事作成など、まずは自分としての情報発信についての再定義をすることができた。
無論、簡単にできるようになるとは思えないが、それこそ試行錯誤を繰り返すことが思考プロセスであり、発信における責任の取り方に対する学習プロセスということになると考えているからこそ、継続することにしている。
下手な自己啓発書を買うよりは一次情報を求めたほうがいいし、フレームワークを知った方が活用の幅が広がる。
ボクと同様、思考すること、発信することに責任を持つことが怖い人は是非とも読んでもらった方がいいのではないだろうか。
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子育て・教育はコストか投資か
子どもを迎え入れる=大きな費用がかかる
日本を覆う少子高齢化の波は一向に止む気配がないどころか、その勢いを増すばかりだ。厚生労働省が発表した人口動態統計によると、2017年の出生数は2016年から2年連続で100万人を割り込み、941,000人としている。
もちろん、内閣府もこの状況に手を拱いているだけではなく、対策を講じており、毎年その内容を白書としてまとめ、内閣府のWebサイトに挙げている。
保守であるはずの政権与党である自民党が「母親は主婦として家を守るべきだ」とは言わず「女性が活躍できる社会を目指す」とし、女性が働けるような環境を整備するということを喧伝し、実際に政策を打っていることからも、その緊急性がうかがえる。
歴史的な流れを見ることは今回は他の場所へ譲るとして、今回は我々のような個人で見た際、どのような理由で少子化になったのか。そして、子育て・教育はコストなのか投資なのか、ということを考えてみたい。
コストとしての教育
まずは「コスト」と「投資」の言葉について、その違いを考えてみたい。(はてなキーワードより引用)
【コスト】
- 何かを生産するのにかかる(かかった)費用
- 広義には、物の値段のことも含む。
- 金銭だけではなく、あらゆる物事を達成するのにかかった物理量(時間、エネルギーなど)のこと
【投資】
ここでの違いは、コストは費用のみに焦点が当たり、投資はそのリターンまで焦点を当てることだ。リターンの有無を確認しているかどうか、またはリターンを求めるのか否かという態度によって「コスト」か「投資」かが別れるということだ。
では、純粋に教育産業における経営的な視点で見た場合、そのコストの多くはどこにかかるのか。それは人件費だ。
厚生労働省が公表している賃金構造基本統計調査によれば、教育・学習支援業における平均年収は435万となっており、他の職種も含めた一般的な平均年収304万円を大きく上回っている。
もちろん、これは一般的な学校での人件費とは言い難く、民間の学習塾や各種習い事などの教育サービス業界の賃金体系だと考えるのが自然だ。しかし、子どもたちが通う「学校」には大きく分けて二種類あり、公立の学校と私立の学校だ。
ここで扱われている数字には、民間、つまり私立の学校は民間の事業者となる。ということで、上記数値を適応させてもらうこととする。
なお、文部科学省は地方教育費調査として、地方公務員として働く公費の歳入・歳出についての資料を公表している。
結果の概要-平成28年度(平成27会計年度)地方教育費調査:文部科学省
子育て・教育がコストかどうかという点においての分かれ目になるのは「リターンを求めるのか否か」だ。僕の世代を始め、大都市圏においては、義務教育課程や高等教育を私立に通わせることがある程度スタンダードだった。
この背景には、公立の学校が学級崩壊や校内暴力で荒れ、崩壊していたこともあり、余程のことがない限り私立を選択せざるを得なかった。下図は文部科学省の問題行動等についてまとめられた資料だ。資料内では昭和から追っているが、平成に入り、急激に中学年代の暴力行為が増えている。
平成26年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」について
ここから考えられることは、投資として中学や高等学校へ行かせるというよりも、安全で一定水準の私立に仕方なく通わせるというコストとして教育を捉えることも決して違和感がない。
また、私学に通わせることで学費は高くなる。下記リンクは文部科学省が私学と公立校の学費を比較したものだ。学費は単純差額で民主党政権時に開始された2倍とも3倍ともされており、優秀な学生は多少無理をしてでも私学へ通わせることが保護者の優先事項とされた。
平成29年度私立高等学校等授業料等の調査結果について:文部科学省
上で図示した一般労働者賃金の対前年増減率の推移と性別間の格差の推移を見ていただきたいのだが、平成に入り、一般労働者は平成に入り14年度まで下落傾向にあった。その中で私学へ通わせることを考えると決して楽な生活ではないことが想像に難くないが、それでも大都市圏の保護者は私学を望んだ。
しかし、高校無償化や中高一貫教育によって、優秀な学生が私学だけではなく、公立も選択するようになったことから、学級崩壊や校内暴力等が収まる結果となり、中学高校の教育はコストからほぼ解放されることとなっている。
なお、現在、高校授業料の無償化については、所得制限を設けるなど制度が変わっている。下記リンクより参照いただきたい。
子育て・教育は投資としての地位を確保できたか
現在、教育に関するコストはより就学前児童(保育対象年齢児童への無償化)と大学等の高等教育機関に対する税の問題にシフトしたが、そうなるとコストが別の場所へ移動したことにより、教育は投資としての地位を確保できるのだろうか。
現状、日本はデフレーション経済下におかれている。内閣府は90年代半ば以降緩やかなデフレ傾向であったことを正式に認めている*1が、物価が上昇したことに対して賃金はどうか。
上でも見たが、一般労働者の賃金平均は、平成9年と平成28年において(途中に上下はあるがほぼ横ばいに近く、金額的には)6万円上昇している。それであるならば、デフレ経済下においては生活が楽になるはずだが、実感としては決してそうはなっていない。
デフレ環境下では、いまよりこれから、今日より明日の方が物価が安くなるので、買うのを控えるようになる。銀行に預金を行うことで、ゼロ金利であっても、実質的には物価が下がっていくので利率が増えていくことと同義だ。そして何より、デフレではお金の価値が引き上がる。
つまり、お金をすでに保有している、もしくは定期的に金額が確実に入ってくる人間には大変有利であり、お金を保有していない人間には不利な状況になるということだ。
非正規労働者や住宅ローンを抱える人間は非常に苦しくなる。モノやサービスの価値は下がるわけだから、非正規で労働というサービスを提供している人は平気で物価の低減を理由に対価を引き下げられ、住宅ローンを抱えている個人では、住宅や土地の価値は目減りしていくことで、相対的に借金の価値が重く重くのしかかる。
そんな中で生活することになった人たちへの賃金はほぼ据え置きの状態でありながら、物価が下がり続けていく中で、人々は上でも述べたように私学へ入れたい気持ちを胸に抱き、安くない学費をサラリーマンである父親が家計を一人で支えながら(母親は扶養控除限度額までのパートで補助し)子どもを金銭的に支援しなければならなかった。
これでは子どもを育てることは明らかにコストだ。とても投資とはいえない。正確にいえば、投資と考えたいが、家計的には明らかにコストとして重くのしかかる。
このような背景を経て、日本の少子化は加速していくこととなる。また、高齢化に伴い、社会保障という厚生労働省からの“税金”が負担が一般労働者には重くのしかかる。
下図は、国民の所得に対する国の税制負担割合を示すもので、社会保障の負担率の負担割合が大きく増加しており、租税負担率*2と合わせた国民負担率は2016年の時点で42.5%となっている。
社会保障は税金ではないと認識している人もいるかもしれないが、国へ「強制的に」徴収されたものを国に住まう権利を有する人たちへの再分配であること、そして、国の方針に則って運用されることを考えると、運用する省庁が異なるだけであり、実質的には税金と変わりはない。
これを国際比較しているものが財務省には公表されており、これを確認すると2014年度時点において、日本の先進国の中では中程度の負担率となっているが、
国民負担率(対国民所得比)の内訳の国際比較(日米英独仏瑞) : 財務省
福祉のあり方には国の色というべきものが出てくるし、大学までの授業料が無償、高齢福祉が充実しているなど、それぞれの国ごとの方針に沿ったものが福祉政策として策定され、実施されている。
日本も国民皆保険など、他国と比較しても長けているものもあるが、これは国民総所得を一緒に見る必要があるだろう。見てみると日本における所得は他国と比較し決して高くない。(下図)
1人当たり国民総所得(2015年)(国際比較)のグラフ | 探してみよう統計データ|なるほど統計学園
これは、税や社会保証の負担率が他国と比較しても中程度であるものの、手元に残る資金が他国と比較して少なくなることを意味する。ましてや、上でも触れてきたが、教育という観点で見た際、日本は特に高等学校への支出が大きく(現在は高校の無償化でましになっているが...)、国民の負担率に教育費が上乗せされることを考えると、やはり、教育はコストという結論になる。
ここから考えられることは、日本が他国に類を見ないほどの高い少子化高齢化率に陥っているのは致し方がなく、理由は上で見てきたように、子育て世代に対する負担が大きく、それに加えて教育費用を捻出することが一般家庭には大きな負担となるからだ。
投資に必要なのは大人の態度
では、子育て・教育を「投資」とすることは無理なのだろうか。
冒頭の「コスト」と「投資」の意味について触れている段階で、答えが出てしまっているのだが、結局は金銭を使う側の態度でどうにでもなるのではないか、というのがボクの答えだ。
上では「子育て・教育はコストと見なさざるを得ない」という結論になったが、養育するものの立場として、考えなければならないことであるから仕方ない。問題はそれ以降だ。
今後、日本は他国が経験したことのない問題がドンドンと押し寄せてくる。2040年には全国の人口が1億人強となり、高齢化率が36%を超えてくる。つまり、三人に一人以上が高齢者ということだ。
統計局ホームページ/人口推計/人口推計(平成28年10月1日現在)‐全国:年齢(各歳),男女別人口 ・ 都道府県:年齢(5歳階級),男女別人口‐
2040年となると、今から22年後だが、日本における人口増加は期待できない。というか、いまごろ政府が様々な政策を打ったところで、付加価値程度にはなっても本質的な解決にはすでに遅すぎ、すでに詰んでいる状態だ。
この人口動態の中で子どもたちは、日本市場を相手だけに闘うだけで十分という昭和バブルな生き方ではない。日本国民だけで商売をしようと思ってもたかが知れているのだから、今後は世界中の人たちが商売の対象になったとしても生きていけるだけの人的資本を身につける必要がある。
上記したが、日本は他国が経験したことのない問題が押し寄せる世界問題初体験国家になることが決定している。つまり、その問題に対する失敗や成功を持っている国がいないということだ。逆に言えばチャンスであり、問題に直面することで他国に先んじてknow-howを持つことができるということにもなる。
こうなると、親が「コスト」ではなく、「投資」として子どもたちにしてやれることは、親の自己満足な浪費ではなく、子どもの人的資本、もっと言えば市場価値を高めるような消費に金融資本を使っていくということだ。
親の思い出や自己満足な浪費としての例を挙げるならば、「七五三の衣装」「成人式の晴れ着」など、どう考えても“子どもの(人的資本を高める意味での)成長”になんら影響を与えないイベントだ。
七五三など、そもそもは子どもの健康を祈願し、神社を詣でるというものでしかないのに、なぜ衣装を整え、写真まで撮る必要があるのか。晴れ着にしても伝統とか言われているが、調べてみれば別に大したことはない、ただの金持ちの見栄の張り合いが行われただけで、それを伝統ということ自体が烏滸(おこ)がましい。
結局、それぞれクリスマスやバレンタイン、恵方巻きなどと一緒で、商売上イベントを利用した方が売りやすい、というただ販促につられている人たちが多い、というだけだ。
現代以降を生きる子どもたちは、こういった生きる上でのリテラシー*3を高めていく必要があり、それは養育者たる親の考え方や接し方が大いに重要な要素となる。
単に小遣いと称してお金を渡すのか、その稼ぎ方を教えるのか。稼ぎ方というのも多岐にわたるわけで、簡単にあげれば以下などだ。
これらを行うにも先人のknow-howから学ぶことができるし、そのためには本を読む必要がある。これも親から子どもへの投資になる。いいかえれば、子どもが行動する際に動けるような自信を身につけさせることとも言える。
上記した販促イベントに乗っかって、親の自己満足的な浪費をするのであれば、その金額を何年か蓄積させ、子どもに短期留学をさせることだってできる。つまり、子どもにとって(将来的に)有益になるであろう事柄に対し金融資本を投ずるには、親の自己満足や思ひで作りを我慢するしかない。
人生は何をするにもトレードオフ
人に与えられる時間は有限であり、金融資本についても有限だ。有限である以上、何かを選ぶには何かを捨てるしかない。人生は何をするにしてもトレードオフ*4なのだ。
企業においても、採算の取れない不要なコストのかかる部門をカットするし、家計においても同様だ。金融資本を増やそうと考えるならば、現状の生活からカットできる部分についてはカットし、資本に充てる。
子育て・教育は、養育者の観点からみれば確かにコストではあるが、子どもに対して投資を行いたいと考えるのであれば、必然的に親の自己満足や見栄に子どもを付き合わせる浪費に対してメスを入れざるを得ない。
*1:内閣府平成13年度年次経済財政報告http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je01/wp-je01-00102.html
*2:国民がどの程度,所得税や消費税などの租税を負担しているかをマクロ的に示す指標。
*3:原義では「読解記述力」を指し、転じて現代では「(何らかのカタチで表現されたものを)適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」という意味に使われるようになり(後述)、日本語の「識字率」と同じ意味で用いられている。
*4:一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという状態・関係のことである。 トレードオフのある状況では具体的な選択肢の長所と短所をすべて考慮したうえで決定を行うことが求められる。
【友田明美】『子どもの脳を傷つける親たち』は自分が加害者かもしれないと認識させてくれる
虐待の悲劇的な効用は脳の萎縮
本書内で触れている最もセンセーショナルなのは「マルトリートメント(強者である大人から弱者である子どもに対する不適切な関わり方)」を受けた子供の脳へのダメージと、その影響について述べられる部分だ。
本書内では、「虐待」ではなく「マルトリートメント」と表現しており、“虐待という言葉の持つ響きが強烈で、ときにその本質を見失うおそれがあるため”という。
確かに「虐待」という言葉は非常に重く、辛い。被害者だけではなく、加害者にもその重さがのしかかる言葉ではあるし、言葉だけを追いかける形になれば、その後の対策についても“行為”だけを辞めれば良い、という理解になりかねない。
だからこそ、「かかわり」という言葉を用いたことで、あくまでも保護者の「かかわり方の問題」という認識を与えることを目指したのだろう。
しかし、本書内で触れているマルトリートメントの範囲は「かかわり方」という言葉を採用しているだけに広い。広くなることによって、ボクは自らもマルトリートメントの加害者であることを認識するに至った。
自分とは無関係だと思い込んでいた
本書を読むまで虐待が与えるダメージは短期的なもの(肉体的なもの)と長期的なもの(精神的なもの)と、その虐待期間によるダメージ箇所が変わる、という程度の認識でしかなかった。というよりも、そもそも虐待というものに対し、特に意識したことがなかった。
部活動中の教員による体罰によって当時17歳の学生が自ら命を絶った大阪桜宮高校の事件以来、ボクは“体罰”という言葉には敏感ではあったと思う。しかし、虐待という言葉には敏感な状態かといえば、決してそんなことはなく、むしろ無関係とすら思っていたようにも思う。
しかし、自分に子どもができ、向き合う中で少しずつ認識がずれていった。
小さい子どもを持つ保護者であれば経験があると思うが、生まれたての子や幼児期の子どもは我々保護者の意思とは相反した行動が日常茶飯事だ。無論、それが愛おしい要素ではあるのだが、時としてそれが憎悪に変わる瞬間もある。
3時間おき(短ければもっと短時間)に起きる乳児期などは、母親が心身ともに疲弊しており、パートナーである父親はサポートが必然的に求められるが、何をしても泣きやまない時というのは、両親にとって非常にツラく、長い時間になる。
その時間が頻繁に発生してくると、普段は愛くるしい目の前にいる赤子が異常なまでに憎く思えることもある。
厚生労働省の報告*1によれば、0-3歳までの虐待死の内、0歳が61.4%、3歳未満では72.7%と3歳未満までの死亡率が圧倒的に高い。
ボクは虐待死や、虐待を肯定したいわけではない。しかし、そこに至ってしまう親たちの気持ちは少なからず理解しているつもりだ。そして、世の保護者は少なからず経験があるはずだ。
脳の萎縮を引き起こすマルトリートメント
最もショッキングなのは、マルトリートメントが引き起こす脳へのダメージだ。少し長くなるが、引用する。
二〇〇三年、ハーバード大学において、マーチン・タイチャー氏とともに研究を始めた時も、子どもの脳においてダメージを受けやすいのは、これらの部分であろうという予測をしていました。
それを実証するために、一八〜二五歳のアメリカ人男女およそ一五〇〇人に聞き取りを行い、以下のような体罰を受けた経験のある二三人を選び出しました。
こういった調査を行うさいには、比較するグループも抽出する必要があるため、席に挙げたような体罰被害の経験がない二二人から協力を得ました。この両方のグループに対して、高解像度の核磁気共鳴画像法・MRIで脳を撮影。詳細な携帯情報を収集し、VBM法という脳皮質の容積を正確に解析する手法を用いて、両方のグループの脳皮質の容積を比較しました。
その結果、厳格な体罰を経験したグループでは、そうでないグループと比べ、前頭前野のなかで感情や思考をコントロールし、行動抑制力に関わる「(右)前頭前野(内側部)」の容積が平均一九・一%、「(左)前頭前野(背外側部)」の容積が一四・五%小さくなっていたことがわかりました。
さらに、集中力や意思決定、共感などに関係する「右前帯状回」が一六・九%減少していました。これらの部分が損なわれると、うつ病の一種である気分障害や、飛行を繰り返す素行障害につながることが明らかになっています。
これ以外にも、性的マルトリートメントや両親が子どもの目の前で喧嘩を見せられた子どもは視覚野に対して、暴言によって聴覚野に対してダメージを負うことも紹介されている上に、マルトリートメントを経験する年齢によって、影響を受ける場所が異なる、ということにも触れている。
非常にショックだった。
絶対的な強者である大人が絶対的な弱者である子どもに対しての行動一つで、人の脳にまでダメージが及ぶことは、“なんとなく”想像はできていた。しかし、その形状にまで影響を与えることになろうとは思ってもいなかった節がある。というよりも、考えないようにしていた。
よくよく考えたらわかることだ。
筋肉を鍛えれば、筋繊維がトレーニング内容に応じて適応していくように、環境に対して適応する力が人には備わっているのだから、劣悪な環境に順応していく、ということはわかったはずだ。
しかし、認めたくなかったのかもしれない。自分自身が少し声を荒げてしまうことで、彼らの脳に対して大きな影響を与えてしまっていることに。もちろん、継続的にであろうが、単発的であろうが、「不適切なかかわり」をしていることには変わりはない。
子どもとのかかわり方は回答のないゲームだ。
正解がない分、どれだけ多くの引き出しと環境を用意できるのかが保護者・養育者たる大人の務めであり、義務だと思っている。また、ボクは子どもに関わっていて、ボクはすごく驚かされているし、幸福感を与えてもらっている。
我が家の息子は現在、四歳とそろそろ二歳を迎える息子がいる。
四歳になった長男は、色々なことに敏感だ。もしかしたら、僕たち夫婦の顔を窺うようにするクセがついてしまったのかもしれない。恥ずかしながら、喧嘩する様子を見せたこともあるし、どちらからも責められてしまう状況を作ってしまったこともある。
その都度、夫婦で反省し、改善をしてきているつもりだが、もしかしたら、いや、必ず至らない部分はあると思っている。それは、ボクたち夫婦が彼と「適切な関係」で結ばれていたいと思うし、それを模索していくことが子育てになると信じているからだ。
普段の自分の態度が少しでも気になった人は、本書を手にとって読んでもらいたい。そして、自身の行動を振り返ってみる機会となることを祈念するばかりだ。
【木村草太】法律に壁を感じてる人は『キヨミズ准教授の法学入門』を読むといい
ボクは道徳教育よりも法学教育派だ
結論から述べてしまおう、正直にいって、ボクはこの本を読むまで法学というものに対して興味もなかったし、あまり自分にとって関係のない分野だと思っていた。
そう、完全に思っていたのだが、なぜにこの本を手に取ったのかといえば、ただのミーハー心でしかない。著者である木村草太氏をWeb上で見かけ、文章を読み、twitterで追っかけて見ていた、というのが大きな理由である。
まず、本書の裏表紙に書かれている著者紹介が、ちょっと特別な感情を抱いてしまう文章であることをお伝えしたい。本の裏表紙というスペースに対し、著者の不思議な体験談を交え、若干の怠け者感を漂わせながら、最終的には「あなたがいなければ...」という称賛対象にされてしまうという流れにボクはストンとハマったのだ。
1980年横浜市生まれ。中学2年時に日本国憲法を読んで不思議な開放感を覚え、法律家を目指す。東京大学法学部進学後、司法試験勉強に身が入らない中、長谷部恭男『比較不能な価値の迷路』に出会い、「これだ!」と感じて憲法学者を志すことに。同大学法学政治学研究助手となり、平等・被差別原則を表する。首都大学東京では、「高度な内容を分かりやすく」を信条に、憲法や情報法の授業を担当。法科大学院の講義をまとめた『憲法の急所』(羽鳥書店)は「東京大生協で最も売れている本」「全法科大学院生必読の書」と話題に。新しいスタンダードとなる憲法体型書の執筆を目標とする。ツイッター @SotaKimura
法学初心者向けの書籍である
本書は、法律というものが全くわからない、むしろ小難しい領域であり、勉強するには敷居が高いと思っている主人公、高校2年生のキタムラくんの視点から、清水准教授との出会いを経て、関係を深くしていくとともに、法律について段階的に、わかりやすく生活の中に落とし込んで行ってくれる。
まず、主人公の設定が高校2年生ながらも、ボクにぴったりと合致した。というか、ボク以外にもそう感じている人は少ないのではないだろうか。
『法律』という言葉自体に高圧的な態度を感じ取ってしまっていたボクは、可能な限り避けてきた、というのが正直な気持ちだ。法律というのは、基本的に人を縛るものであり、そこから逸脱する人間を、圧倒的な権力を持って断罪する、とでも言えばいいだろうか。
とにかく、“怖いもの”であったことは間違いない。しかし、この“怖いもの”というのも、結局は知らないから、という一つの過程での努力(関心)不足に 帰結する。
これは他のことにも言えることで、例えば、投資や金融というものに対して興味関心を特に持てなかった人は、怖いだろう。それは、リスク面ばかり先行して頭の中に入ってくることで、『投資=悪、危ないもの』(とまでは言わなくともそれに近いところまで)という所まで思考が至ってしまうのではないか。
しかし、物事は一面的なものではなく、常にコインの裏表で、逆の立場というものがある。
投資というのは、金融資産の運用方法の一つであり、リスクをとってリターンを受け取るものだ。その逆というのは、リスクを取らずに貯蓄、つまり金融機関に資産を預け、少ないリターンをちょぼちょぼと受け取っていくことだ。
今回のエントリは金融本の話ではないのでここまでにするが、無関心でいたことの帰結が怖いというイメージを持つことにつながっていることを考えると、知ることでその怖さは全く持って消失してしまうことになる。
そして、ボクが本書を読んで感じた本書の目的は『法律という言葉の重たい壁』を取り払うことと、『一面的なものの見方ではなく、権利を主張する双方の意見の落とし所を決めることの大切さ』を説くことだ。
ボクが道徳教育よりも法科教育だと考えるに至った本は本書
以前の書評エントリ『保育園義務教育化』 でも記載したのだが、ボクは道徳教育よりも法科教育を義務教育過程の中に組み込むべきだと考えている。
文部科学省のWebサイトを訪れ『道徳教育について』ページを見ると、位置付けとして以下のように記載されている。
道徳教育は,児童生徒が人間としての在り方を自覚し,人生をよりよく生きるために,その基盤となる道徳性を育成しようとするものです。
『人間としてのあり方を自覚し』という文言が、なんともいえない高貴な感じを受けてしまうのだが、それは別に良いとして...
以前のエントリで書いているので、繰り返しになるのだが、道徳教育は個人の思想信条に近しいものがあり、それを他人にまで強制しかねないというところに、ボクは欠点があると思っている。
例えば、人に対して優しくする、という行動を自らがしたいのであれば、それは問題ない。しかし、それを他人にまで求めることは果たして“良いこと”として捉えていいのか。
自らがしたいことと、相手にして欲しいことは全くもって別問題だ。一緒くたに考えて良いものではないし、すべきでもない。これはつまり、道徳教育を行う教員側にとっての大問題ともいえる。
道徳教育の場を振り返ってもらいたいのだが、どうしても耳障りのいい、気分が、こう、なんというか穏やかになるような“答え”を出したくなる。
教員の顔を伺った回答を学生がする、ということは存分にあることであり、模範的な回答をしていたやつが、裏ではさっきの回答とは全くもって逆の行動をとっている、なんて光景を見たことがあるのはボクだけではないはずだ。
つまり、小学生であれ、中学生であれ、教員の顔を伺った、もしくは同級生の顔を伺った上での忖度回答が出てしまうのが道徳教育ともいえる。
以下のリンク先は、小学校道徳教育で使用される読み物の資料集がある。
ぜひ、時間が許せば、一つでも二つでも構わないので読んでもらいたい。読んでもらえるとわかるが、これを読んだ後に、否定的な意見をいうことは難しいし、それを言おうものならば爪弾きにされてもおかしくないのではないか。
ボクがいいたいのは、道徳教育を否定することではなく、不足している、と述べたい。道徳心というのは社会性を保つ上では不可欠なものであると認識している。しかし、それだけでは足りないのだとボクはいいたい。
基本的に、その道徳心を持っている人間だけがいればいいのかもしれないが、それは理想論。逆を言えば理想論でしかない。
Aという主張をしたい人間もいれば、Bという行動をしたい、という人間もいる。しかし、はたから見たらCという文章を書いている人もいるし、Dというサービスを立ち上げている人もいる。
もっといってしまえば、宗教的な思想の違いは、どうやっても道徳的な考え方での理解の範疇を超えている。もし、どちらかの宗教を信条としている側に不利な状況が生まれたとしたら、道徳はどうやって解決まで導くのか。
「優しくする」とか「相手を思いやる」では解決できないのだ。
色々な価値観を持っている人たちが存在するが、共同空間の中で一緒に生活することになった場合に、どこで折り合いをつけるのか、どう解決するのかということを考えるのが法学であり、憲法理解だ。
我々は現在、というかこれまでの歴史を振り返っても、他者との共存を断絶した生き方はできていない。つまり、他者との共存が基盤・前提になっているのが近代社会であり、ボクたちが生きる世界だ。
その中で、ボクたちは自分と相手の価値観、権利を踏まえた上で共存していかなければならない。これは親子関係であれ、他人であれ、関係ない。誰にとっても存在しうるのが権利だ。
というわけではボクは上で述べてきたように、法学教育を是非とも義務教育課程に組み込んで欲しいと考えているのだが、来年度より道徳教育が特別の教科化されるので、まだまだ叶わないことになるが、せめて自分の子どもには伝えていきたいと考えている次第だ。
少しでも法学について、せめて入り口に立って見たいと考えたことがある人にはオススメだ。
【橘玲】『専業主婦は2億円損をする』は専業主婦を否定したいわけではない
人生をもっと上手く生きるための提案
本書は以前書いたエントリーで紹介した『幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』を若い女性用にカスタマイズされた内容になっているが、本書から読み進め、上記を読む事で理解が進むことは間違いない。しかし、本書のみでも十分に充実した内容となっており、きちんと読み進める事で、示唆を受けることは可能だ。
著者である橘玲は(ボクが勝手に判断するに)基本的に数字とファクトとロジックを織り交ぜ、現状の社会に対して不満を抱く人たちに寄り添いながら、ルールの中で、上手く生きることを示唆するのが著述のスタイルだ。そして、実際に本書内で橘は以下のように書いている。
理想の社会などどこにもありません。ここで提案しているのは、世の中がまちがっているということを前提としたうえで、どうすればあなたが幸せになれるのか、ということです。
そもそもの著者の書籍を読んだことのある人であれば『否定⇒現状分析・把握⇒提案』というフローを想像し、内容を自らに生活に落とし込んでいく術を考える機会を提供してくれることを理解しているだろう。
本書のタイトルも、例のごとく、アンチテーゼとして受け、その主張を吟味しながら理解をしていくことを前提にされていることは読者であれば何も問題はない文言だったと思う。
しかし、今回の想定とする読者層では異なった反応が起こる。
タイトルだけで内容を判断し、否定されたと受け取る人たちが各種サイトで多くのコメントを投稿し、半ば炎上している現状を鑑みて、期間限定で電子書籍版が無料配信*1となった経緯からも、その反響の大きさを物語っている。
「専業主婦」が2億円をすでに損している理由 | 家計・貯金 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
子どもを産んだ瞬間から差別が...
我が家の現状に目を移してみると、我が家はダブルインカム、つまり共働きだ。専業主婦という選択肢は、我が家の家計的にも、相互のやりがい的にもありえない選択肢だった。
何よりも、我が家ではボクだけでなく、奥さんも働きたい・社会貢献を自分なりの価値観として果たしたいという希望を抱いていたこともあり、専業主婦という選択肢は必然的になくなった。
そして何より、ダブルインカムであることが精神的な安定につながっていた。つまり、ボクの収入だけでは不足というか、不安だったのである。金融資産という観点で見た時に、我々には圧倒的に日本円という現金が必要であったことは否めない。
また、それぞれに志した“仕事”を行うことで、少なからず自己実現を果たそうとしていることは全くもって否定しないし、今でもそうやってもがいている。そして何より実感することは、103万の壁や130万の壁なんてものは、ダブルインカムを果たしてしまえば取るに足らないものだということが実感だ。
そして、何よりも実感を持って体験しているのが、下記引用部分だ。
一見男女平等に見えても、「女性が子どもを産むと“差別”を実感する社会」なのです。
女性が子どもを産むと差別を実感する社会、というのは滅私奉公を求める日本の会社における評価のことだ。長時間労働とサービス残業、昇進のため、もしくは生活のために残業をする人が評価されるという本末転倒な軸が存在し、それが出来なくなる「子ども」を産んだ女性は、マミートラックという「ママ向け」の仕事を用意される。
これは第一線で働く社員から子どもが生まれた瞬間に二級社員扱いを受けるわけなので配慮という名の差別ということになるが、それを優しさとして認識している。つまり、「子どもがいるうちは大変だろうから、簡単にできる仕事を...」といった具合に。
これは、そもそも前提が長時間労働とサービス残業が織り込み済みの働き方になってしまっていることに端を発してしまうわけだが、それは上でも述べたように、滅私奉公する人間、つまり、長時間勤務とサービス残業をする人間が頑張っている人間であり、そういう人間を昇進させようとしている会社が少なくないからだ、ということになる。
結果的に、いくら働きたいと考える女性であろうと、忠誠心を示す「時間」を提供することが出来なくなると、2級社員扱いされてしまい、給与も減り、昇進も望めない。ドンドンと追いやられた結果、退職を選ばざるを得ない。
つまり、日本の会社は「出産をする女性」までは男女で差をなくすことはできているが、出産をした瞬間から差別をしてしまう、という構図を図らずも構築してしまっており、改善が図れていない、というのが実情だ。
専業主婦は子育てに失敗できない
子どもを産んだ女性が会社からフェードアウトし、”結果的に”専業主婦を選んだとして、待ち受けているのが男性の帰りが遅く、子育てを一手に引き受けることで、家事と育児を行うのが勤めとなってしまう。
子どもへの責任を一手に引き受けなければならない母親は、少子化の波を受け、『絶対に失敗の許されないプロジェクト』として子育てを担う存在になってきた。
以前のエントリでも記載したが、保育の質や親が子育てをする重要性について考えている人たちとTwitter上でやり取りをしたが、そこでも(望んで)専業主婦になっていた人たちは、保護者たる親が責任を持って子どもを育てるべきだ、という意見が強い人の姿が多く目についた(というか、そういう人しか入ってこなかった)。
『保育園義務教育化』を読んだら、まずは親の幸福感だと感じた - {DE}dolog
働くことを望む母親がいる、という話をしたとしても「経済優先で物事を進めてきたことで、保育現場に起こってはいけないような事態が起こっている」とも述べていた。子どもが犠牲になっている、という趣旨だ。
少し横道に逸れてしまったが、本気でそういったことを心配し、自らの手で子どもを育てることこそが“善”であり、広めるべき認識なのだ、という正義感を持つ人たちもいる、ということを理解してもらいたい。
しかし、その様子はまるで、強迫観念に迫られているかのような姿勢が現れており、そこまで背負う必要があるのか、ボクはそのやり取りを重ねた時には判断がつかなかったのだが、とにかく、背負っていることは理解できた。
そして、専業主婦を望まなくともなってしまった人たちは、その圧力に屈しそうになりながらも耐え、旦那の帰りが遅いことにも理解を示し、子育てをするという役割を放棄することは認められない環境に身を置いているのだ、ということも理解できた。
果たして、子育てが失敗のできないプロジェクトなのだろうか。
現在、自分が子どもと関わっていて痛切に感じるのは「わからない」というのが正直なところだ。たとえば「三つ子の魂百まで」なんていわれるが、生まれた瞬間から性格なんてものは決まっているのではないかと感じるし、何をどういったところで、こちらの思惑通りの行動なんて取りようがない。
本書内で、ジュディス・リッチ・ハリスの『子育ての大誤解』を紹介し、『絶対に失敗のできないプロジェクト』である子育てに懸命になる母親を救済しようとしている。
子育ての大誤解〔新版〕上――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)
子育ての大誤解〔新版〕下――重要なのは親じゃない (ハヤカワ文庫NF)
以下、引用する。
2人の子ども(実子と養子)を育てながら研究を続けていたハリスは、それまで誰も気づかなかった疑問を抱きました。
アメリカやカナダのような移民国家では、英語を話さない国からたくさんの子どもたちがやってきますが、すぐに流暢に英語を喋るようになります。
「学校で英語を学ぶのだから当たり前だ」と思うかもしれませんが、就学前の子供の方が言葉の習得はずっと早いのです。親が母語で話しかけても、子どもが英語で答える家庭は珍しくありません。
でもこれは、「親の子育てが子どもの人生を決める」という常識からは、全く説明できないことです。子どもは、最も大切な親との会話の手段を捨ててしまうのですから。
その理由は一つしかない、とハリスは考えました。子どもには、親との関係よりはるかに大切なものがあるのです。それは「友だち関係」です。
移民国家では、家庭内と家庭外で言葉が異なるということが平気で発生する。その状況で、子どもは親とのコミュニケーションではなく、友だちとのコミュニケーションを優先させるということであり、それは子どもなりのサバイバル術であり、のけ者にされてしまうことをどうにかして避けなければならないからこそ取る行動ということだ。
自らを振り返れば、なんのこともない確かにその通りなのだが、子どもは『友だち関係の中で自分の「キャラ」をつくる』ことで、成長していく。その過程に親が入り込む余地はない。厳密にいうと入り込めない。入り込みすぎることは、自分の子どもがのけ者になってしまう可能性を助長してしまうことにもなりかねない。
つまり、著者である橘がいいたいのは、『成長の過程にかかわれないのであれば、成功も失敗もない』と語り、『絶対に失敗のできないプロジェクト』ではない上に、すべてを背負いこむ必要はないということだ。
みんなが幸福になる方法はないが、あなたが幸福になる方法はある
橘が一貫して主張しているのは、幸福を求める権利は誰にでもあり、それを行使するためには、現状の社会や会社に文句をいっても変わるまでに時間がかかる上、それを待っている間に消耗してしまう。それを避けるために、ルールをうまく活用しようということだ。
それを表しているのが、冒頭の橘の言葉だ。『理想の社会なんてないし、世の中は間違っている。間違っていることを前提とした上で、あなたが幸せになる方法を模索しましょう』という、幸福を求めるための働き方を提案することだ。
ここまで書いてきたように、橘は専業主婦という存在を否定し、闇雲に働けといっているのではなく、現状の社会的な問題や課題を挙げた上で、報われない『専業主婦』という立場を取らざるを得ない人たちに、手を差し伸べているだけなのだ。
ぜひ読んだ上で、自身の幸福について考えてもらいたいと思う。
【山口揚平】『新しい時代のお金の教科書』を読んだから、これからの時代に準備しようと思う
お金とは国であろうが、個人であろうが信用に依存するツール
最近、ボク自身が投資や金融という分野に対して興味があり、勉強をしていることもあり、お金にまつわる本を読み漁っていることあるのだが、今回の『新しい時代のお金の教科書 (ちくまプリマー新書)』は、タイトルの通り、これからの時代を予見した上でのお金について考えさせられる本だった。
ピカソがお金持ちだった
画家として有名なピカソはお金の本質を見抜いていた天才である、と山口は述べるが、理由は読み進めていくことで容易に理解でき、本書内で触れられているエピソードは以下の通り。
- 通常の画家が絵を描いたら画商に託すことが一般の中、描き上げたら画商たちを集め、絵におけるバックグラウンドの説明、描く際の心象風景の説明をし、最後に絵を見せる、というプレゼンを行っていた(物語を売っていた)
- 毎年有名な画家に描かせるワインラベルの絵を描いた際、報酬を金銭ではなく、ワインで受け取り、ワインの熟年年数とピカソの名声の上がり方を計算し、大きなリターンを得ていた(資産投資)
- 画材や普段の購買活動において『小切手』を利用していたが、自らのサインに価値があることを認識・利用し、通常は店主が銀行へ換金にいくのを行かなかったため、実際には支払いをせずに画家生活を行っていた(市場価値の理解と利用)
これらは著者である山口の以下の文言を引用することで、いかにピカソが賢く、お金という抽象的なものを理解していたのかを理解することができる。そして、これが貨幣というある意味ではいい加減ながらも、我々がお金について深く考えていないことを暗に指摘されているような気持ちになる。
貨幣の本質、すなわち貨幣とはコミュニケーションのための言語であって、その価値はネットワークと信用であるとピカソはわかっていたのです。
本書はお金の歴史から本質、変化、そして未来と『お金』というコミュニケーションツールがどのようにして成立・発展し、現在に至っており、どんな未来に変わっていくのかを時系列に沿いながら、本質について考えていくことになるが、決して難しい言葉で語られるわけではなく、僕のような朴念仁ですら理解できるよう、平易な言葉で語られている。
お金の起源は物々交換ではなく、記帳であった
まず、基礎知識としてお金の歴史に対して踏み込んでいく。ネット界隈ですでに浸透しつつある話題だが、お金の起源は物々交換ではなく、記帳であったとの説明をしてくれる。
我々が習った貨幣の歴史は、そもそも「物々交換があり、その不便さを解消するためのソリューション(解決策)として、貨幣が生まれた」ということだったが、全く異なっている。
これは、ミクロネシアのヤップ島動かせないほど大きなフェイという石で、そこにナマコ三匹とヤシ一個などを記帳していったということだ。これは「お金」というツールが先にあったのではなく、記帳が貨幣の始まりであり、記録のシステムが先に導入されていたのだ。
この貨幣の始まりが記帳ということを踏まえ、山口は貨幣の歴史が一周したと語っている。現在、世界中で24時間取引が行われているビットコインの根幹システムであり、ブロックチェーン技術がある。これについては前回エントリの中でも触れているが、分散台帳システムである。
ちなみに『お金2.0』で、佐藤は中央集権的な資本主義経済から、分散的な価値主義経済への遷移をテクノロジーの進化と評価経済の台頭からお金というツールについての捉え方や、どんな経済システムを選択するのかを問いかけてくる内容だったが、本書については、歴史から未来へ向けての付き合い方、ひいては信用というものについて、深く考察している。
そもそも、我々が日々、増えた減ったということに一喜一憂する『お金』というものはなんなのか。上記した記帳システムがその始発、ということは理解できたが、我々が手にしていることが『円』とは、日本という国の信用を担保にし、日本銀行が国から債権を取得した上で印刷し、払い出している法定通貨だ。
では、きちんと定義した場合、どんなものになるのか。
お金を定義するならば「譲渡可能な信用」あるいは「外部化された信用」ということになります。(略)母体とその信用、そして信用が外部化されて匿名の存在として流通する、そのことによって人々が自由に分業しながら取引を活発化させる、それがお金の役割です。
信用がどこに依存するのか、「円」の信用についていえば「日本政府」がその母体になり、その信用を譲渡可能な/外部化されたメディア(交換媒体)が「法定通貨」、つまり「円」ということになる。
ここで山口は『生物種としての人間の強みは何か』を『個性』と『社会性』の掛け算だと述べているのだが、本書内で人間という生物種が生み出した最高のツールであるお金を考える上で、また未来で扱う上で、不可欠な考え方ではないか。
相反する概念同士はその掛け合わせで総量が代わり、平易な言い方をすれば実力が変わる。例えば、力と速度、量と質は相反的なものであるが、それを掛け合わせることで、一つの解を得る。
そこから山口は一章の結びで“この世にコモディティな人間など一人もいない”としている。その前提として、人生の早いタイミングで自分の個性を見つけ、それを際立たせ、そこから意識のポジションをずらすことなく伸ばしていくことを求める。
はっきり言おう、僕は平易な存在だと自覚しているし、悔しいことに仕事という面で見てもうまくいってない。だけど、この一言でどれだけ救われたことか。一般的、普遍的、日用品化といった意味合いのあるコモディティ化という言葉を人間に当てはめることは、まず僕は怖くて思いつかなかった。しかし、それは変えようのある事実であることを山口は述べてくれている。一生を読み終えただけでもボクは一定の満足感を得ていた。
お金の価値=使っている人の数×発行している母体の信用
普段、お金について『考えている』人はどのぐらいいるだろう?
これをお読みのあなたはいかがだろうか。正直に言えば、僕は考えたことなどあまりない。 下記はtwitterにて山口当人からもらった問いかけに対する僕の答えだ。
お金とは何か?を考えずにお金をひたすら求めてきた時代はなんなんでしょうね(^_^;) https://t.co/ZL0VliL15W
— 山口揚平(「新しい時代のお金の教科書」筑摩書房から出版。amazonにて発売中) (@yamaguchiyohei) 2017年12月20日
僕がそうだったんですけど、勝手に前提条件にしちゃっていて、考える対象から外してたのはあるように思います。ただ、気づいてる人は気づいていたけど、それを発信しなかった、というのもあるんじゃないかと。 https://t.co/sLtmByrG8I
— 遠藤涼介 EN Do Ryosuke (@ryosuke_endo) 2017年12月20日
さて、価値のあるモノというのは、何が根拠になるのか。『使っている人の数×母体の信用』ということなので、日本でいえば、円という法定通貨が世界の中でどれぐらい取引されているのか、ということと、日本という国自体の信用が価値の変数だ。
ここから分かることは、貨幣というのは、人が生み出したコミュニケーションツールとして非常に優秀な存在でありながら、曖昧で不安定な存在ということになる。
というのも、信用というのは、何を持って測るものなのか、が不確定であり、曖昧だ。山口の説明を借りれば、「(理由を)問い詰められないこと」であり、説明が入らない様や関係性のこととしている。
つまり、たった今この瞬間、世界中で取引されている貨幣は幻想であり、イメージという言葉で片付けられるようなちっぽけな存在なのだ。
ビットコインをはじめとした仮想通貨の隆盛は日々の報道やTVCMでも多く流れているため、周知する人も増えていることと思うが、仮想通貨も法定通貨も本質的にはそれほど大きな違いがあるわけではないことになる。
現実、法定通貨と仮想通貨との現金送料/時価総額を並べた表だが、12月5日の記事になった時点で、並み居る法定通貨の中でビットコインは時価総額において6位に食い込んでいる。他の仮想通貨も同様に17位以下に顔を出していることから、取引を行っている人たちの間では、認識の違いはないことを意味しているのではないか。
(参照:https://bittimes.net/news/4161.html)
ここまでの歴史的な流れを、山口は信用母体の変化、もしくは進化としている。
単なる交換から、貸借になり、そのうちみんなが欲しがる財が通貨となり、それに信用が集中していきます。そこから貴金属等に信用母体が変化し、その後王様がお金を定義する、という流れです。
モノ(金: Gold)から国へと信用母体が変化したことにより、規模が一気に拡大することになり、貨幣に量的な変化が生じ、強制的な拡大が可能になった。それと同時に、本質的な問題を抱えることになった。それは“文脈の毀損”だ。
山口は他にも課題をあげているが、最も本質的な問題、課題として文脈の毀損をあげている。文脈というと、文章の合間とか意図とかということではなく、我々の感情や意識、社会における関係性など、数値化・単純化できないものを指す。
つまり、我々の感情や意識、友人や家族関係なども、お金という存在によって毀損されかねないということを物語っている。上でも見てきたように、お金はただの数字である。しかし、そのただの数字が人々の生活を苦しめる要因になっていることも否定できない。
それでは、お金というツールを発行できるのは国だけなのであろうか。そうではない。
個人でも十分、発行する機会には恵まれている。現在、世の中には株式市場というものが存在する。その中では、企業を株式、つまり紙切れを何枚発行するかを決め、それを求める人々に対して配り、その企業の価値によって、株式価格が変動している。
現在では、以下のVALUやTimebankといった、個人の株式化、個人の時間の売買をできるサービスがローンチされ、すでに多くの利用者数を得ている。
VALU | だれでも、かんたんに、あなたの価値をトレード。
信用を得ることができるのであれば、個人で個人規定の『お金』を発行できるのが現状ということになるが、信用を集めるためにはどうしたらいいのだろうか。
お金を構成するのは「信用」と「汎用」
上では、信用について「説明不要なもの」としていたが、もう少し噛み砕いた説明が入る。信用とは、価値の積み上げで形成されるものだ、と。そして、価値、そして汎用について数式化したものが以下である。
- 価値=(専門性+確実性+親和性) / 利己心
- 汎用とは、信用の適応範囲であり、広さ×深さ
なんとも素敵な式だ。
個人的に、お金というものを因数分解し、そのものについて深く考察している本書は手にとって良かったと痛切に感じている。上で見たきたこともさることながら『価値とは?』『汎用とは?』に非常に納得し、溜飲が下がる思いがした。
そして、この数式を利用することで、個人での株式(通貨)発行について、なんら難しいことではなくなる。そして、過去がそうだったように、たった今、信用母体が進化している真っ只中に我々は位置していることになる。
なぜそんなことが言えるのか。決して難しいことはなく、SNSを思い浮かべれば良い。Facebookの世界中のユーザー数はMAU(月間アクティブユーザー数)で20億人*1となっている。
一ヶ月の間に20億人がログインし、何かしらの行動をとっているということだ。
論点としているのは、個人の株式(通貨)発行が可能か、だが、Facebookというプラットフォームの中で活動する人が20億人もいる。日本の人口は1億3000万人だ。ここで一つ言えることは、すでにFacebookは一国の領域を超えてすらいるということだ。
プラットフォームという枠組みの中で、確かにその中で人々は行動しているという点において、日本であろうが、Facebookであろうが違いはない。
人々はその中でコミュニティを作り、金銭のやり取りを行うことも可能だ(日本においては、17/12時点で一部の人間にのみ解放されている)。コミュニティの中で、しっかりと“価値”を提供できるのであれば、その中で自分株式を発行し、そこから金銭を受け取ることもできるのだ。
そこで、大切になるのが、文脈ということになる。その価値には、どんな履歴があり、これからどんな風になっていくのだろうか(それに携わった自分は何が変わるのだろうか)、その提供者であるあなたはどんな人で、受け手とどんな風に関係を築いてきたのか...。
という、文脈で語られ、そこに自らの人生における内的・外的な価値を見出した人が『お金』という形で対価を支払うのだ。これを山口は文脈価値と語り、文脈価値とは時間の連続性と他者との一体性の複合体だとしている。
『人々が求めているのは生きるための機能ではなく、つながりや物語だということです。
このことは、資本主義社会の中だけでは完結できなくなっている。資本経済下では、結果的に大量消費社会を生み出すことになるが、現状、日本を含む先進国ではマネーが動かないことと、消費自体の減少とが相成り、大きな消費を国民に求めることができる状態ではない。
多くの人は生活必需品をはじめとするモノにはすでに満たされており、それを買うためのお金も企業内で止まっており、広い意味での市場に出回っていない状況の中で、人々は何でもかんでも買いたいわけではなく、自分の価値に沿った、自らの文脈に沿う対価を払うことへとシフトしている。
また、山口は文脈価値が広く浸透することによって、稼ぎ手の主体が変化することにも触れており、女性が男性よりも稼ぐ時代になると述べており、理由は、ヨコ社会が訪れることによるパラダイムシフトが起こり、支配と依存×ロジックによる男性的な稼ぎ方が終焉し、(憧れと共感)×感性という女性ならではのヨコ社会型の稼ぎ方が求められるからだとしている。
ロジック、つまり再現可能性を強く求める姿勢はAIに勝てないからだ。ロジックが必要だったのは、あくまでも必需品であり、独自性を求めない衣食住を満たす領域においては有効であったが、承認欲求を根本とする文脈価値には常につながりや物語といった文脈が求められ、それはロジックでは得ることができない。
資本主義経済⇒時間主義経済⇒記帳主義経済⇒信用主義経済
現在、我々は資本主義経済下に身を置きながら、次なる経済主義への変遷期に位置する貴重な時代に生きているのかもしれない。
前回のエントリで、佐藤航陽は資本主義の次に価値主義がくると述べたと紹介している。
そこでも信用というものが厳選となり、その価値を人々が求めていくとしていた。
山口はさらに細かくしており、これから一つひとつ説明していく。
- 時間主義経済
時間が通貨として存在する経済主義のことを指す。この経済主義は、人の欲望が生存⇒社会的欲求(承認欲求)へと変貌していることから発生することが避けられないものであり、貨幣によって購入することが難しくなる。
貨幣は、文脈を毀損するコストを抱えていることは上でも述べたが、それは感情や意識、社会的関係性などを数字という無機質なもので扱うことになることからだ。
そこで、なぜ時間なのか、ということについて山口は、時間は個人が発行できる最大の汎用言語である数字であることによって、最高に有益な通貨としての地位を担保できると述べ、新しい通貨(Time: t)の可能性も示唆する。
- 記帳主義経済とは
ブロックチェーンについては、分散貴重システムだと述べたが、より普及した先には、もの同士を貨幣を介さずに交換していく世界になるだろう、というのだ。
再三、ブロックチェーンについては述べてきたが、ブロックチェーンは個人に付与されるアドレスで台帳へ記帳され管理するシステムだが、これは改ざんが不可能だ。
台帳を改ざんするためには、その大元となる台帳から遡って、追っていく必要があるため、改ざんをしようとするコストよりも、適切に取引した方がコストが掛からない。
生活必需品にはそれほど、価値を感じなくなってきている人たちは、それぞれの文脈に沿った価値を提供してくれそうなコミュニティへと足を踏み入れ、その中でモノ同士を交換するようになっていくだろうというのだ。
- 信用主義経済『みんなが信用を求めていて、それを信用でやり取りする世界』
最後の信用主義経済では、手段と目的が信用で統一されている。つまり、皆が求めるものは全て承認となっており、承認を満たす行為や話題などに対し、承認によって支払いが済まされる世界だということだ。
少しイメージがつきづらいが、この世界では貨幣によるやり取りは一切生じないことが想像できる。
まとめにかえて
まず、随分と長く、そして引用が多くなってしまったことを反省する。しかし、本書は新書でありながら、その内容は決してそこに留まることはなく、深く広いものであった。
シンギュラリティや評価経済*2について、考える上で、貨幣がどうなっていくのかについてモヤモヤしていたのだが、お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)と本書に出会ったことによって、大きく前進した。
これからの時代では、個人の(資本的・資産的な)価値を高めることで信用を手にし、ネットワークを構築することで幸福へと繋がって行くのだと感じた。
もちろん、価値を高め、一定数の人たちから承認を得ることが決して簡単ではないことは理解しているが、それでも試行錯誤を繰り返しながらやり続けることに価値につながり、それが文脈になるのだと信じている。
最後に、著者である山口が読者に伝えたいこと、として3つほど提起しているので、それを記載し、結びとする。
著者が読者に伝えたいこと
- 資本や貨幣を否定することは無価値であること
- 有機物の発見と創造に尽くすこと
- 生活経済において有機・無機の調和を心がけること
*1:https://gaiax-socialmedialab.jp/post-30833/ より
*2:岡田斗司夫が1995年刊行『僕らの洗脳社会』、2011年刊行『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』
【佐藤航陽】『お金2.0』を読み、お金というよりも経済の流れに身を委ねることを決めた?
達観した物見をする著者
前著を読ませてもらった際にも感じたが、イマイチ納得のできる表現が思いつかなかった。しかし、今回、本書を読ませてもらったことにより、明確になったのが、佐藤航陽という人は達観している、ということだ。
書評として、というよりも、本書を少しでも読みたくなってもらえれば、と思い書いて見た。
お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)
- 作者: 佐藤航陽
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2017/11/29
- メディア: Kindle版
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世界中で起こる分散化
まず、断っておかなければならないのは、本書はタイトルこそ「お金2.0」となっているが、お金というツール自体に意味を見出し、「新時代における通貨の説明」をする本ではない。
お金、つまり通貨はあくまでも価値リソースを表現するのにちょうどいいツールだという程度だ。
なので、そこを間違って汲み取るべきではないことと、お金が中心となる社会というのは、今後来ないとかんがえられる、その理由は...という代替論として、ちょうどよい言葉、表現が「お金」だったということ。
大なり小なりすでに起こっている分散化の世界
現在、世界は分散化というキーワードの元に、大きなうねりを作り出している。
英国でのBrexit騒乱、米大統領にドナルド・トランプ氏が就任、スペインのカタルーニャ州の独立運動など、これまでの中央集権的な思考やシステムに対し、反発をする動きが見られる。
その中でも、今年にかけて20倍以上の値動きを見せている仮想通貨Bit Coinについても、お金の分散化という意味で言っても、注目を集めている。
そもそもBit Coinとは、サトシ・ナカモトという(正体不明な)人物が暗号理論のメーリングリスト内*1に電子暗号通貨ビットコインの論文を発表したところから端を発している。
ブロックチェーンという技術を応用して作られており、簡単に言ってしまうと、その技術は記帳システムであり、一定数の取引を1ブロックとして規定し、その取引履歴を個々人のアドレスに記帳していく事になる。つまり、ブロックチェーンは中央で管理する管理者は存在しない。
今後、分散化がドンドンと加速的に増えて来ることによって起こることは、仲介者や代理人という存在が全く不要となることだ。つまり、P2P(直接本人同士)で物事が解決し、流通して行くという流れになるということを意味する。
分散化の先
貨幣的な機能が分散化された先にあるのは、経済の主義における変遷が起こる。
つまり、現在のグローバルな世界で周知の事実である『資本主義経済』が次のステージに移ることになる。佐藤は資本主義経済の次のステージは『価値主義経済』だと述べており、その説明を引用する。
価値主義ではその名の通り価値を最大化しておくことが最も重要です。価値とは非常に曖昧な言葉ですが、経済的には人間の欲望を満たす実世界での実用性(使用価値・利用価値)を指す場合や、倫理的・精神的な観点から真・善・美・愛など人間社会の存続にプラスになるような概念を指す場合もあります。
ここで注意しなければならないことは『既存の資本主義における価値』と『価値主義経済下における価値』とは似て非なるものである、ということだ。
資本主義経済下における価値の中に、人のエモーショナルな部分、つまり、感情を価値とする指標はない。(正確にいえば、それを価値として換算する機能を有していない)
ということは、人の感情を豊かにするもの、精神的に満足するもの、など、一重に評価が個人に委ねられるものの価値が高まっていくことを示している。
再度確認しておくと、あらゆる通貨などを中心とした社会的な機能が分散化し、個人でのコントロールが可能になると時を同じくして、これまでの資本主義では充足できなくなった人類は、次のステージ、価値主義への足を踏み入れることになる。
個人へ価値の判断が委ねられるということは、これまでの評価軸、中央集権的システムではなく、分散化された先にある個々人が評価軸として機能することを意味し、個人の信用が前提となる。
つまり、個人の信用に基づいて価値評価され、その価値観に基づいたグルーピング、つまり経済圏が生まれることになるし、さらにはその経済圏をどう運営していくのか、というKnow-Howを多く持っている人物こそ(あらゆる商圏において)“価値の高い”存在になる。
なんだか難しく書いてきたが、簡単にいえば以下の通りだ。
『資本主義経済が終焉?そんなバカな...』と疑い深くなるのも理解できるが、先進国は過去のエントリで紹介した『人工知能は資本主義を終焉させるか』でも触れているように、資本主義経済下では企業の蓄積資本が多くなっている事に伴い、動くマネーの総量自体に変化がない。
そこに上乗せし、生活するための需要というものが一定度の満足度を得られているため、物欲自体が低下する。つまり『ないものがない』ため、買いたい物が総じて少なくなっている状態という事だ。
先進国が抱える、比較的満足状態に強いられた人々が抱える不足感という現状に対して一石を投じたのがSNSの隆盛における“承認欲求の顕在化”と言える。SNSが明らかにしたのは、実在する人物でも虚構的な存在だとしても、そこに存在するアカウントを個々人の価値観に基づいたフォローやフォロワー関係が構築できるということだ。
これにより、大きな組織を無条件に信用するのではなく、たとえ小さな組織、個人であっても、そこに共感や好意といった個人的な感情に上乗せされた『価値』を認識することが出来れば、その情報を追随し、さらには支援することが可能になった。
あらゆる境界線がなくなって行く世界
これまでは企業同士、もしくは組織同士での間でしか起こすことができなかった『お金』を動かすことが個人にもできるようになってきた。(もちろん、個人で行うことが全く不可能だったとは言わない。)
佐藤はこれを、市場経済と民主政治の定義を確認した上で、市場経済は“人間の欲望を刺激し「より良い生活をしたい」と思う仕組みを支援する仕組み”、民主政治は“全体の不満の声を吸収し、全員が納得できる意思決定を目指す仕組み”とし、以下のように述べている。
「価値」という視点で見ると、明確に区別する理由がなくなります。(略)市場経済が苦手な領域を民主政治が担い、民主政治が苦手な領域を市場経済に委ねる、といった具合です。これを価値という観点から捉え直すと、経済と政治はアプローチが違うだけであり、2つは同じ活動として分類することができます。
この先、経済と政治、営利と非営利など、これまで明確に分けようとしていた(分かれていた)ものの壁が取り払われ、境界線というものがなくなって行くということだ。
これまでは情報の非対称性などを利用し、そこに資産的な価値を見出し、活動していたことが非難され始め、社会的な意義を前提に事業を進めることを求められるようになって行く。
そこには金融資産を転がす事によって名声を得ていた資本家や資産家だけではなく、多くの人を集め、誘導し、経済圏を作ることができるソーシャルキャピタリストの台頭が考えられ、これまでの法定通貨を国が印刷し、配布することと、個人が個人の価値を分散化し、それを譲渡する事に差異がなくなってきた。
これによって次に起こるのはお金のコモディティ化だ。
お金のコモディティ化
コモディティ化というのは、同質化や一般化、普遍化するという意味であり、お金というものの価値に高低がつかなくなって行くという事だ。
ベーシック・インカムという制度がフィンランドをはじめとした、自治体やNGOなど10あまりの国や地域で実証実験を行っている。(ご存知ない方は、以下のリンクをご参照いただきたい。)
汎用型人工知能の登場によるシンギュラリティが多く話題になることが増えているが、労働が駆逐され、仕事が残った時、働くということを選ぶ人と、選ばない人が存在してくる事になる。
その際、それぞれの人(働く人、働かない人全ての人)に一定の金額を配布し、差別をなくした状態を目指すのがベーシックインカムだが、これが実施される事によって、お金の価値が陳腐なものになる。つまり、コモディティ化する。
資本主義経済下であれば、その多寡によって、人生の価値が上下していたが、価値主義経済においては、それぞれがお金以外の価値を多く見出し、そこに対して没頭して行くことが前提になっているため、それほど大きな問題にならないだろう。
繰り返しになるが、以前のエントリーにある『人工知能は資本主義を終焉させるか』の中でエネルギー問題が解決される事によって、ありとあらゆるコストが無くなり、衣食住に関しては0コストに近づく事に触れている。
それでは、我々は何をモノやサービスの対価として支払う形になるのだろうか。
そこで佐藤は『時間』が通過として成立して行くと述べる。
時間が通貨や資本として良いのは、経済の「新陳代謝」という点で優れているからです。経済システムが衰退する原因は、新陳代謝の機能が失われて階層が固定化してよどんで行き、活力を失っていくためです。
もし、お金が時間の経過とともに消えて行くとしたらどうでしょうか?どうせ貯めておけないで消えて行くのであれば、リスクを取ってやりたいことをやろうとすると思います。時間そのものが通貨だった場合には、保存できない上、どうせ使わなければ自然消滅するので、これを使って何をしようと考える人が増えるはずです。
資本ではなく価値に着目する
本書の中で、佐藤は一貫して、現在の資本主義経済下で行われている商取引をある程度肯定しながら、あくまでも『価値』の優位性を語っていた。これは、実際に事業を行なっている中で、常に仮説と検証を繰り返している佐藤が、行き着いた一つの答えだ。
そして、その答えは現実を帯び、僕たちの生活の中で確実に息づいている。
まだ起こってもいないことを心配するのであれば、少しでもワクワクしていた方が個人の価値としての有用性が高い。
今後、脳と脳とを繋いでコミュニケーションを図ることが可能になるだろうし、脳内のデータをクラウドコンピューティングにバックアップを取ることも可能になるかもしれない。
そうなった時、僕が僕であることを誰が証明してくれるのか。それは、そこまでに築いた信用関係であり、信頼関係だろう。
どんどんと機械ができることを増やす一方、僕たちはできることが減って行くのかもしれない。その時、少しでも社会に取って、周囲の人たちにとって、必要な存在であれたら、それは僕の生きる理由になるのではないか。
いつまでも古臭い流れに乗っているのではなく、新しい流れに乗る勇気を出し、踏み出して行くことで、自らをアップデートできるし、それを続けて行くべきだ。
本書を読み、お金というものに対して、というよりも、改めて、今後の主義経済、そして技術などにどうやって乗って行くのかを常に考え、委ねて行くことを決めた。
お金2.0 新しい経済のルールと生き方 (NewsPicks Book)
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【古市憲寿】『保育園義務教育化』を読むと子どもの前に親の幸福感だと感じる
ここ数年、まともにTV番組を見ないのだが、たまたま目にしたTV番組で彼を見かけ、彼の発言を聞いたとき、素直に聞けたのが印象的だったのを覚えている。
たぶん、彼に対して僕は自らの意見を代替的に発言してもらうことを依頼しているようにも感じる。
某番組の中では、まるで「常識のないやつ」といった風潮で扱われていたが、そんなことはなく、彼なりに試行した結果を口にしているだけであり、むしろ危険なのは、その雰囲気に飲み込まれることだろう。
"常識”というものを振りかざす場合には注意が必要であり、それは自らが所属するクラスタ(ある集合体や群れ)内での普遍的な認識とでもいうべきものであり、ほかのクラスタには適用されないこともある。
そんな彼が自らに子どもがいるわけでもないのに出版した本書。
しかし、発想の転換をしてみれば、子どもを育てていない人間が保育園についての本を出版しようと考えることは非常に勇気がいることだ。
たとえば、あなたが、まったく知らないスポーツや演劇について、その情報を求めているコミュニティーに文章を投下することを想像してみてほしい。
圧倒的に敷居が高く感じるはずだ。しかし、その敷居の高さは、古市という人間には関係がない。むしろ、執筆時点において、自らに降りかかっている災難についての共有事項を書き記しているかのような熱量で書いている。
親が人間だって何歳の時に気づくか
これは、“はじめに”の冒頭でくる言葉だ。
皆さんは自らの親が人間だということに何歳のとき、気づいただろうか。ボクは正直、記憶にないのだが、いま、記憶をたどってみたところ、どうやら小学生の低学年だったころに体調を崩して寝ている様子を確認したときに、そうなんだと感じた記憶がある。
そして、「あ、寝ることはできるんだな」と感じた。
一人の女性が「お母さん」になった途端、人間としてのあらゆる権利を社会的に剥奪されます。
割とセンセーショナルな言い方だが、日本の中において、ジェンダー観を見直したほうがよい、というのは以前の記事にも記載した。
つまり、「母親」という一種のレッテルを貼られた人が生まれることを意味している。そのレッテルを貼られてしまうと、ありとあらゆる権利を(事実上)消失してしまいかねないことに対して、古市は上記の言葉で表現している。
『子ども=母親』ではない
一時期、芸人、松本人志が新幹線の中で泣く子どもに対してTwitterを利用し、Tweetした内容が少し話題になったことがあった。
松本がどういう意図を持ち、この文章としたのかはわからないし、現時点では考えも変わっている可能性は否定できないが、このTweet時点において、松本は親に対して厳しい目を向けているのは確かである。
無論、この親がどのような態度を取っていたのかはわからない。もしかしたら、鼻くそでもほじっていたのかも知れないし、くそ笑顔で日本酒のカップでも飲んでいたのかもしれない。
これを題材に古市は「子どもと母親は別人格である」という旨で書いている。
個人的に、これは圧倒的なまでに納得である。
そもそも、我々、保護者たる存在は、子どもに扶養責任や保護責任はある。しかしもって、泣くことを制御する義務までを負っているわけではない。無論、ボク自身が該当場所にいて、同じ状況になったとしたら、泣きやむ策をいろいろと講じることは想像に難くない。
しかし、この“母親と子どもが別人格”、つまり、あくまでも別の人間が起こしていることであり、それが母親に責任があるという態度はいかがなものか、ということだ。
子どもが泣いているのは母親の責任であるのだから(そこまでは言わなくとも同じ態度である)、きちんと責任もってオロオロしろ、というべきなのだろうか。
日本のジェンダー観として、母親は常に笑顔で子どもに接し、泣けば泣きやむ為にあやすことを求めるが、それが当然というのは何故なのか考えたことがあるだろうか。
なぜ、あなたがやらないのか。
もしかしたら、あなたの目の前にいる母親は、育児疲れでヘトヘトな状況なのかもしれないし、やっとのことで部屋から子供を連れ出し、実家への帰路についていたのかもしれない。
ボクは、子ども連れの保護者を街中で見かけることは、交通事故の予防と一緒だと考えている。
たとえば、走行する車と向かいから歩いてくる歩行者がぶつからないようにする為にはどうしたらいいだろうか?
- 歩行者が周囲の状況をよく観察し気をつけながら歩行する
- 車の運転者が歩行者の同行に気を配りながら運転する
事故率が最も低くなるのは、双方がきちんと確認しながら、気を使うことだ。
どちらか一方だけが確認しているだけだと事故の確率は高くなり、特に自動車の運転手側が認識していない状態では危険な状態とも言える。
街中で親子連れ、特に乳幼児を抱えている人となった場合、見るほうも見られるほうも、双方が気を使うことで、イライラは解消されるのかもしれない。
道徳教育?
ただ、これは個人の倫理観や、子どもに対する容認度がかかわってくるため、なかなかに難しいのかもしれない。
本書の中で、古市は「人間性に深く迫る教育を行う必要性がある」ということで、道徳教育が新たな枠組みによって教科化されることに対し、簡単に触れている。
本書の結論的には『非認知能力』の向上を図るような教育が必要であることに帰結するのだが、ここで一つ疑問が生じる。道徳教育を行うことは、果たして有効、必要なのだろうか?
話が逸れてしまうが、ここで個人的な意見を述べさせてもらう。個人的には、義務教育過程の中で、法律を学ぶ機会があったほうが良いと感じている。
道徳教育の場合、教職員の"答え”が前提となるため、“正しいと思われる"回答をすれば良いことになる。また、あくまでも個人の良心呵責に基づくため、個人の中だけで問題を解決させてしまう。
最後のシーンにつけて、「ごんはどんなきもちだったでしょうか?」
まず、昔話である“ごんぎつね”の、しかも狐の気持ちを考えてみたところで、到底理解が及ぶわけがない。それを回答したところで、ごんぎつねの物語からいえば、非常に悲しい報われない話なので、それに沿った気持ちを回答すれば、それなりに高評価につながりそうである。
法教育の場合は、状況に対してセンチメンタルなものではなく、相互理解を促すことが必要となる。
Aという権利とBという権利、二つの権利を持つもの同士が主張に対し、きちんと一定の答えを出すことが求められる。つまり、お互いの権利・主張を踏まえたうえで、お互いに許容・譲歩できるのはどこまでだ、ということを明示する必要があるのだ。
主張相手の権利を踏まえる、というところに道徳教育と異なる点がある。
現在はすでに特別教科として実施されることが決定している道徳であるが、果たして小学生や中学生に対して、行う教育という科目において、どちらかを選択しなければならない、というのであれば、ボクは法科教育を行うべきだ、と考えている。
少子高齢社会への対策として
本書のタイトルにあるように、ボクは保育園の義務教育化をするべきだと考える立場である。ただ、これにはいくつかの条件があることも理解しているつもりだ。
以前、ボク自身、twitter上で『保育の質』について、他のユーザー達と意見を交換する機会があったが、その中では『保育の質』という点においてハード面、ソフト面において、諸外国と比較し、低いことが指摘されている。
しかし、昼食や補食の問題、各施設ごとのハード面の違いなど、一律を整えることは不可能に近いと言えるのではないかと考えている。
そして、何よりも、子どもの保育の質云々を語るのであれば、まずは保護者たる親の幸福度を高めることが優先されるべきなのではないか。
現段階において、日本では、養子縁組の養親となるものの条件は以下の通りである。
- 25歳から45歳までの婚姻届を出している夫婦
- 離婚の可能性がなさそうなこと
- 健康で安定した収入があること
- 育児をするのに十分な広さの家であること
- 共働きの場合、一定期間は夫婦のどちらかが家で育児に専念できること
この条件をご覧になった感想はいかがだろう。ボクは『ひどくハードルの高い注文だな』というのが率直な感想だ。まるで、片親というのは存在すべきではないかのような条件だ。
まるで昭和時代の家族構成を、そう、サザエさん、もしくは、クレヨンしんちゃんの世帯が前提となっているのだ。
ここで言いたいのは、同じ“子ども”だとしても、『片親の子ども』と『両親が揃っている子ども』との間に差別が存在していいわけがない、ということだ。
『片親では子どもが...』という感情的な議論は、この場においては正直どうでもいい。そう、どうでもいい。
ボクが言いたいのは、結果的に片親になってしまった子どもであろうが、そう出ない子どもであろうが、そこに学ぶことや社会性を身に付けること、ひいては生きることに対しての権利はあるはずであり、そこに差があってはならない、ということだ。
しかし、そのためには、保護者たる親の幸福感を高めることが必要であり、そのためには子どもを育てることが社会的生活を営む上で阻害要因となってしまわないような制度設計が必要だろう。
子どもを産んだ後に働くことを望む、働かずに育てることを選ぶ、どちらを選択したとしても、そこに制度的な差別はなくすべきであり、なくすことが前提となるべきだ。
今回、本書を読むことによって、『子どものため』という言葉は、我々のエゴになってないのか、ということを痛感し、考えさせられた。
多くのデータを参照にいていることは間違いないが、それをひけらかしにしない文章構成は、流石だと感じたし、保育等の子どもの生活環境を考える際の入門書としては、非常に優れているのではないだろうか。
子どもに関わる人であれば、一読をお勧めする。