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ドイツはライプツィヒからの帰国 その4

今回は、ライプツィヒ大学の歴史についてお話したいと思います。

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1409年に開学したライプツィヒ大学は、ドイツ国内でハイデルベルク大学、ケルン大学に次いで3番目の歴史を持つ大学です。

スポーツ科学に関してはおいつ最古の歴史を持ち、1845年から医師が行ってきたスポーツ科学に1920年、ライプツィヒ大額が初めてメスを入れました。

ドイツは州別に主要となる学問を決めているのですが、ザクセン州はスポーツ科学に焦点を当てるべきだという機運が高まり、1920年に身体教練学科を立ち上げ、ライプツィヒ大学に1925年、成立しました。





第二次世界大戦後、ドイツは東西に分かれ(1949年)、東独にライプツィヒ体育大学(1950年、略称:DHfK(デー・ハー・エフ・カー))が創立され、運動学のマイネル、機能回お舞楽のティテル、バイオメカニクスのホーホムート、トレーニング学のハレ、などそれぞれの分野において世界に先駆けた研究を行い、今現在のスポーツ科学の基準書としての地位を保っています。





この写真は講義室。ここでマイネル教授が授業を行っていました!

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下の写真は、それらの文献の原本です。(これは非常に貴重!!)

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旧東独時代、ライプツィヒ体育研究所(FKS(エフ・カー・エス),現IAT(イー・アー・テー))がトップスポーツの科学研究を担い、一方、DHfKはJr.スポーツの科学研究を中核であり、1960年代から創始した「コオーディネーション理論」の研究に膨大な時間と人材が投入されました。これは人数的に申し上げますと、当時、DHfKの職員は1000名、研究員は600名ほどおり、実証実験を繰り返し行う事で、コオーディネーショントレーニングの精度と理論構築を確かなものとして確立していきました。それが現在では、「ライプツィヒ学派」と称される所以となっています。

しかし、1990年、ドイツの統一後に、当時の文科大臣がDHfKの閉鎖を宣言し、ライプツィヒ大学所属の一学部として再スタートを切りまして、現在に至ります。



この写真はIATの玄関にある案内。

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日本人としては、森鴎外がドイツ留学の初めの一年間(1884年11月22日‐1885年10月11日まで)をライプツィヒ大学で学び、ホフマンなど良き師と同僚に恵まれた、という記録があります。

そして、昨年、泉原嘉郎氏が日本人として初めてライプツィヒ大学にてコオーディネーショントレーニングの博士号を取得され、今年から日本での活動を始められます。泉原博士にはぜひ、僕個人として勝手に考える事ですが、日本のスポーツ界に波を与えていただきたいと思って期待しております!!

写真は、泉原博士との2ショットです。

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次回は、今回の講座の講師陣について、写真を加えながら紹介させていただきます。