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dolog=blogにdo、動詞をつけた造語です。 情報選択行動のlog(記録)として書いていきます。

{DE}dolog 技術って何ですか?

全国高校サッカー選手権大会閉幕


1/19(土) 全国高校サッカー選手権大会は宮崎の鵬翔が京都の京都橘高校を2-2 (PK5-3)の末、打ち破り、見事に栄冠を手中におさめました。


大会の決勝を闘うチーム同士が堅い守備を誇るチーム同士だっただけに、硬い試合になるのかと思いきや、点の取り合いになり、その点の取り方も常に京都橘が先行し、それを鵬翔が追い付く、という展開で見ている人間からしたら楽しいゲームが見れました。


さて、ここで、ですね、この大会は育成年代の大会、とされるわけですが、そう言われる年代において、“技術”の指導というのが重要だとか、戦術の理解度が重要だとか、体力面の向上が不可欠だとか…


色々な事を聞きますよね。


正直、僕自身、そういう現場に携わる身として、意見を持って臨まなければならないのですが、簡単な問題ものでは無いことは勿論なのですが、「どれ」と限定する事が出来ません。


年代によって育まれやすい能力が異なるのですが、では、それだけをトレーニングすればいいか、といえばそんなわけ無いし、そんな風にする事は時間がもったいない。


(サッカーの)技術ってなんだ


競技ごとに“技術”は異なります。

野球の技術とサッカーの技術とバレーボールの技術とバスケットボールの技術って絶対的に異なります。


それは競技が異なるがために、ルールがあるからに他ならないのですが、“求められる結果が異なる”からで、求められる結果が異なるということは、“結果に至るまでの過程が異なる”からです。


だから、サッカーの技術であるインサイドキックは野球の中で求められない。

野球の技術であるバントの正確さは、バスケットボールの中に必要ない。

バレーボールのレシーブはサッカーの中では活きない。


といった具合に、競技が異なるということは、発現する/される事象が異なることを意味します。


勿論、野球のバントが上手い選手とバレーボールのレシーブがうまい選手には“共通する”ものがあるかも知れませんが、だからといって、野球の選手がバレーボールを使ってレシーブ練習する事は考えられません。


しかし、そういった事を意図的に取り組んでいる方は、全国や世界中を探せばいると思います。現状はそれが異端的なものの見方をされている部分もあり、一般的な環境ではなかなか取り組まれていないのが実情では無いでしょうか。


技術に話を戻しますと、先ほども少し触れたのですが、技術ってサッカーでいえば、インサイドキックやインステップキック、ヘディングやトラップなど、その競技の中で行われる“行為様式”とでも言えばいいのでしょうか。


野球でいえば打ち方とか投げ方になるでしょうし、バスケットでいえばドリブルの仕方やパス・シュートの打ち方、バレーボールでいえばレシーブやトスの仕方、アタックの打ち方、といったところです。


その競技をいっさい見た事が無い人


その競技を見たことがある方は、上に書いてある行為を見れば「あ、野球だな」とか「バレーだな」ってわかると思うんですが、一切見たことのない人がそれを見た場合はどうでしょう。


そして、それを説明する人はそれを何と説明しますか?


もし、キャッチボールをしている人たちを前に、一切野球に関して知らない人に対して、それを「野球だよ」とは言いません。だってそれは野球の一部分でありながらも、野球ではないから。


インサイドキックをしている二人組を見て、トスをし合っている三人組を見て、対面に立ち、手で持ったボールを様々な形でパスをしている二人組を見ながら、「あれはサッカーだよ」「バレーボールだよ」「バスケットだよ」とは言わないはずです。


それは上にも書いたように、その競技ごとに存在する“技術”なだけであり、その“競技”では無いからです。


そうなると、サッカーを説明するにはスタジアムや河川敷で行われている“試合”を見なければなりませんし、野球なら球場やドームで実際に試合が行われている様を見ながら「これが○○という競技だよ…」と言わなければならない訳です。


「だから何?」


なんて言われそうですが、これは僕の中で競技の技術を語る上では外せない部分であり、技術だけを向上させることは競技パフォーマンスの向上には必ずしも直結しない、と実感しているからです。


つまり、そのパス交換だけを見て、知らない人にその競技を説明できないように、それだけを取り組んだところで競技に結びつけることができない、のではないか、というのが今回の主張です。


サッカーでいえば、ボールを精確に止めて、精確に蹴れる事が大切だ、とホントに耳がタコになるぐらいに聞こえてきます。俗にいう「パス&コントロール」です。


相手にボールを蹴って貰って、それをピタッと止めて、また相手に蹴り返すことを繰り返すことで、“それ”は上達するでしょう。


けど、それはサッカーの本質では無い筈で、点を取ることがサッカーの本質です。

調べてみるとパスは「通す」や「通過すること」とあります。


つまり、“シュートする権限を通過させる”


鳴門教育大学の綿引勝美先生がこれ、球技の中で使われるパスの語源は、トランプゲームのパスと同義のようです。例えばサッカーのパスは、シュートの権限をパスする。」と語っていました。


そう、つまりボールをゴールに直接ぶちこめる環境にあるのであれば、パスは必要ないものであり、それが出来ない(と判断した)からパスをして、空いているところを探して、確実にシュートが入りそうな所を探る、という意味でいえばパスが必要となります。


それを個々で判断し、適切なタイミングと時間を見計らってゴールを奪いに行く。


以上のことを考えると、パスをしてコントロールすべき“時”は、あくまでもシュートから逆算的に考えて行われるべきであり、「パスのためのパスであってはならない」訳です。


状況設定を行った上での解決を繰り返す


ショーンボーンが自身の著書である「ショーンボーンのテニストレーニングBOOK」の中で、「6指針:試合を想定したテクニックの上達」の項で、こう述べています。



「しかし、テクニックの上達の手始めは、最近の運動論やトレーニング論から、現実に即したものであるべき」。




これは、人の行動様式からテニスのテクニックの学習過程を踏まえた中で語られた事で、読み進めていくと、以下のようにも書かれています。


「テクニックのみを教えたりトレーニングしたりするのではなく、最初から状況に応じたテクニックおよびテクニック的解決手法を、それを要する状況内で、実際に教えたりトレーニングする事です。それによって最初から状況に応じた戦略上の必要性に応じたテクニック的解決法が次第に記憶されていきます。」


これは、旧ソ連の科学者であるN.A.ベルンシュタインの考えを参照にされており、そのベルンシュタインは1967年に反復に関する問題について下記の様に記しています。



「反復の反復。練習とは決められた課題を常に同じように解決して反復する事では無く、課題の解決プロセスを何回も繰り返すことを意味する。」


これは反復練習の意味を説いた手引きなのですが、それを「デクステリティ 巧みさとその発達」の訳者である工藤和俊氏はあとがきの中でこう書いています。



「ベルンシュタインはまた、運動学習における反復練習の意味を見抜いていた。すなわち、繰り返しは、機械のように同じ動きを再現するために行うのでは無い。繰り返しの目的は、課題解決プロセスを反復する事により、よりより解決策を編み出す能力を獲得する事に他ならない。学習の目的は、過ぎ去りし過去の再現では無く、来るべき未来への準備だ。このことは同時に、多様な解決プロセスを含まない反復練習は適切な運動の学習につながらないことを意味している。」



以上の事を踏まえて技術の習得トレーニングをどのようにオーガナイズするのか。


例えばサッカーの中でパス&コントロールのトレーニングをするには、“出した”パスによって“状況が変わるような状況”を作ったうえで行われるべきで、その準備段階としてなら、向かい合った状態での蹴り合いも考えられなくはない。


それはあくまでも準備としての話。


なぜか。


いくら個別に技術の保存を試みたところで、それを使いこなせるだけの状況適応能力が不可欠であり、その“はめ込み型”の技術習得では、様々な条件・状況下での解決プロセスの獲得にはならない、ということです。


だから、ドリル形式で何度も同じ状況、同じ条件下で繰り返し行われる事は、本質的な意味での技術習得にはならず、特異的な条件付きの“再現能力”を高めていく事になりますが、先ほどのベルンシュタインの言葉を借りれば、二度と同じ動作は出来ません


だから、指導する立場に立つ身として自戒をこめて記すとすれば、どれだけのオリジナルなトレーニングを考案し、目的とする場所へ到達するための手助けができるかどうか


個人的に、指導者は選手をうまくする事なんて出来ないと思っています。

それは選手が上手く“なった”のであって、その環境を準備する事が出来たり、アドバイスを送って本人が上手くなる事を手助けできることはあっても、上手くすることはできない。


たとえ、その場で選手が上達したとしても、それは選手自らが思案し、実践した中で得た貴重で尊重すべき“経験”であり、それを指導者の枠の中で納める事が出来るわけがない。


選手がその競技をうまくなるように手伝うことができる環境にいるのであれば、如何に柔軟な姿勢でいることを前提としながら、バラエティ豊かに提示できるかどうか、が技術スキルを高めるうえでは不可欠であり、指導者側に求められることだと考えます。


以上、何だか技術が大事だ、と言う言葉だけが一人歩きして、それを如何に発現するのかがないがしろにされて来てるなぁ、と感じた一トレーニング従事者の戯れ言でした。


ENDO,Ryosuke



参考文献・資料